アスナは、朝から鏡の前に立っていた。
「…………」
鏡に映る自分の顔を、じっと見つめる。
昨日の失敗は、忘れようにも忘れられない。
待ち合わせの時間を一時間以上も過ぎてしまい、レイ君から心配するメッセージが届いた。
しかも、遅刻の理由が笑顔の確認だったなんて……。
思い出しただけで、顔が熱くなる。
「今日は絶対に遅刻しない!」
アスナは鏡に向かって力強く宣言した。
「昨日みたいな失敗は二度と繰り返さない。レイ君を待たせるなんて、友達としても失格よ!」
うん。
その通りだ。
今日は約束の時間よりも早く待ち合わせ場所へ行く。
レイ君が来る前に到着して、余裕を持って待っていればいい。
簡単な話である。
「よし、出発!」
アスナは勢いよく振り返った。
そして、扉へ向かって歩き出そうとした――その瞬間。
ピタリ
足が止まった。
「…………」
ゆっくりと鏡へ視線を戻す。
「……待って」
何かを思いついたように、真剣な顔になる。
「今日の笑顔、確認してないわよね?」
沈黙
「…………いや、昨日あれだけ確認したんだから、今日はもう必要ないでしょ!」
自分で自分にツッコミを入れた。
そうだ。
今日は遅刻しないことが最優先。
笑顔の確認など、必要ない。
必要ないのだ。
「……でも」
アスナは鏡の前へ戻った。
「一応、確認するくらいなら……」
鏡に映る自分へ、にっこりと微笑みかける。
「…………」
少しだけ首を傾げた。
「うん。大丈夫」
そこで終わればよかった。
本当に、そこで終わればよかったのだ。
「……もう一回だけ」
にこっ
「…………」
「うん、いい笑顔!」
満足げに頷く。
そして、ハッと我に返った。
「って、何をしてるのよ、私はっ!」
アスナは両手で頬を押さえた。
「昨日の反省はどこへ行ったの!? 今日は遅刻しないって決めたでしょう!?」
もちろん、昨日の反省はちゃんと覚えている。
だからこそ、今日はすぐに出発するつもりだった。
ただし、笑顔の確認だけは別腹だったのである。
……何が別腹なのかは、本人にも分からない。
「もういい! 今度こそ出発!」
アスナは今度こそ扉を開け、外へ飛び出した。
◇
第二十二層の街
待ち合わせ場所へ向かうアスナの足取りは、いつになく軽かった。
「よし。まだ時間はあるわ」
現在時刻を確認する。
約束の時間まで、十分以上の余裕がある。
昨日のような失敗はない。
これならレイ君を待たせる心配もないだろう。
「ふふっ……」
自然と頬が緩む。
今日もレイ君に会える。
それだけで、こんなにも気分が明るくなるのだから不思議だ。
昨日は少し落ち込んだ。
せっかく会えるはずだったのに、自分のくだらない行動で約束を台無しにしてしまったのだから。
けれど、レイ君から届いた最後のメッセージを思い出す。
『笑顔の確認、可愛いな』
「~~~~っ!」
アスナは思わず顔を覆った。
「だ、だから! そういうことを急に言わないでほしいのよ、レイ君は……!」
もちろん、本人はここにいない。
周囲の通行人が不思議そうに見ていることにも気づかず、アスナは一人で悶えていた。
「……でも」
手の隙間から、そっと周囲を確認する。
誰もこちらを気にしていない。
そう判断すると、アスナは小さく微笑んだ。
「……嬉しかったな」
たった一通のメッセージ。
それだけで、昨日の恥ずかしさも、落ち込んだ気持ちも、吹き飛んでしまった。
レイ君は、ずるい。
普段はあんなに無口なのに。
何を考えているのか分かりにくいのに。
時々、こちらの心臓に悪いことを平然と言ってくる。
「……今日も、言ってくれたりしないかな」
そこまで考えたところで、アスナは勢いよく首を振った。
「だ、駄目よ! 期待しちゃ駄目! 昨日のメッセージだって、レイ君が気を遣ってくれただけかもしれないんだから!」
そう。
期待してはいけない。
レイ君は、自分の告白を断った。
今は恋人になるつもりはないと、はっきり伝えてくれた。
それでも、友達として一緒に過ごす時間を大切にしてくれている。
だから、今はそれでいい。
焦る必要はない。
ゆっくり、少しずつ距離を縮めていけばいいのだ。
「……うん」
アスナは自分に言い聞かせるように頷いた。
そして、待ち合わせ場所が見えてきた。
広場の時計を確認する。
約束の時間まで、まだ5分ある。
「間に合った……!」
アスナは心の底から安堵した。
昨日の自分を思えば、これは大きな進歩である。
いや、そもそも遅刻しないのが普通なのだが。
ともかく、今日のアスナは時間を守った。
笑顔の確認に少々時間を使ったものの、結果的には問題なかったのだから、よしとしよう。
……よくはない。
◇
「……早いな」
不意に、背後から聞き慣れた声がした。
「ひゃっ!?」
アスナの肩が跳ねた。
振り返ると、そこには黒い装備を身につけた少年が立っていた。
レイ。
いつも通りの落ち着いた表情。
いつも通りの静かな佇まい。
そして、いつも通りの黒髪。
「レ、レイ君!」
「……ああ」
レイはアスナを見て、わずかに目を細めた。
「今日は早いな」
「そ、そうでしょ? 昨日は遅れてしまったから、今日は絶対に遅刻しないって決めていたの!」
「そうか」
「うん!」
アスナは元気よく頷いた。
そして、心の中で小さくガッツポーズをする。
間に合った。
ちゃんと間に合った。
レイ君を待たせずに済んだ。
これで昨日の失敗を少しは取り返せたはずだ。
「……何かいいことでもあったのか?」
「えっ?」
「ずいぶん嬉しそうだ」
「そ、それは……!」
アスナは言葉に詰まった。
あなたに会えたから。
そんなことを口にできるわけがない。
いや、言おうと思えば言える。
以前なら、もっと素直に言えたかもしれない。
けれど、今は少し違う。
レイ君が自分の気持ちを知っているからこそ、余計に恥ずかしいのだ。
「……ちゃんと時間に間に合ったからよ!」
結局、アスナはそう答えた。
「……そうか」
レイは特に疑うこともなく頷いた。
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「よかったな、アスナ」
「――っ!」
名前を呼ばれた。
たったそれだけ。
もう、何度も呼ばれている。
最近では、レイ君が自分を名前で呼ぶことも、すっかり自然になってきた。
それなのに。
「……う、うん!」
アスナは顔を赤くしながら頷いた。
レイはそんな彼女を不思議そうに見つめたものの、特に追及はしなかった。
「今日はどこへ行く?」
「えっ? あ、そうね……」
アスナは慌てて気持ちを切り替えた。
今日も一緒に過ごせる。
それだけで十分だ。
「今日は、少しお店を見て回らない? この前、気になるお店を見つけたの」
「構わない」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、行きましょう!」
アスナは嬉しそうに歩き出した。
レイもその隣を歩く。
二人の歩幅は、いつの間にか自然と揃っていた。
◇
しばらく歩いたところで、レイがふと口を開いた。
「……そういえば」
「何?」
「昨日のことだが」
「っ!?」
アスナの身体が硬直した。
まさか。
昨日の笑顔の確認について、まだ何かあるのだろうか。
「き、昨日のことって……?」
「笑顔の確認」
「~~~~っ!」
やっぱり、それだった。
アスナは今すぐ地面に潜りたくなった。
「レ、レイ君! お願いだから、その話は忘れて!」
「別に構わないが」
「本当に!?」
「ああ」
レイは淡々と答えた。
しかし、次の言葉が問題だった。
「……今日も確認してきたのか?」
「…………」
アスナは固まった。
沈黙
数秒
さらに数秒
「…………はい」
消え入りそうな声で答えた。
レイはアスナを見た。
アスナは顔を真っ赤にしながら、視線を地面へ落としている。
「……そうか」
「……笑わないの?」
「何を?」
「だ、だから……私が、また笑顔の確認をしていたこと……」
レイは少し考えるように黙った。
そして。
「別に、悪いことじゃないだろ」
「……え?」
「アスナが気に入ってるなら、それでいい」
アスナは目を見開いた。
予想していた反応とは、まるで違った。
呆れられるかもしれない。
またか、と笑われるかもしれない。
そう思っていたのに。
レイは、いつも通りだった。
彼女の行動を否定することもなく、ただ自然に受け入れてくれた。
「……レイ君って」
「何だ?」
「……本当に、ずるい」
「……意味が分からないが」
「ううん、何でもない!」
アスナは慌てて首を振った。
これ以上話していたら、また顔が熱くなってしまう。
だから、今は前を向いて歩こう。
隣にレイ君がいる。
それだけで、今日は十分幸せなのだから。
――ただし。
アスナは、ふと気づいた。
「……あれ?」
「どうした?」
「今日、私……待ち合わせに遅刻しなかったわよね?」
「……ああ」
「それで、ちゃんと笑顔の確認もしたのよね?」
「……そうらしいな」
「……つまり」
アスナは真剣な顔で考え込んだ。
「笑顔の確認をしても、早めに準備すれば遅刻しない……?」
レイは足を止めた。
アスナも足を止める。
二人の間に、微妙な沈黙が流れた。
「……アスナ」
「な、何?」
「そこは、確認しなくてもいいと思うぞ」
「……あっ」
アスナはようやく、自分が何を言っているのか理解した。
そして――。
「わ、分かってるわよっ!」
真っ赤な顔で叫んだ。
レイは小さく息を吐く。
けれど、その表情には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
アスナはそれを見逃さなかった。
「……レイ君、今、笑った?」
「気のせいだ」
「絶対に笑ったわ!」
「……そうか」
「もうっ!」
アスナは頬を膨らませた。
けれど、怒っているわけではない。
むしろ、嬉しかった。
レイ君が自分と一緒にいて、少しでも楽しそうにしてくれることが。
そして、そんな彼の表情を、自分だけが見られたような気がしたことが。
アスナはそっと微笑んだ。
今度は鏡など見なくても、自然に笑えた。
「……ねえ、レイ君」
「何だ?」
「今日は、いっぱい楽しもうね」
レイは一瞬だけアスナを見た。
それから、静かに頷いた。
「ああ」
短い返事。
けれど、アスナにとっては、それで十分だった。
二人は再び歩き出す。
今日もまた、二人だけの穏やかな時間が始まった。
◇
その日の夜
アスナはログハウスへ戻るなり、鏡の前に立っていた。
「……今日は自然に笑えたわよね」
鏡の中の自分に、にっこりと微笑みかける。
「うん。いい笑顔!」
満足げに頷く。
そして、ふと考えた。
「……明日は、確認しなくても大丈夫かしら?」
数秒後。
「……いや、でも、念のために確認した方が……」
さらに数秒後。
「って、だから何をやってるのよ、私はぁぁぁっ!」
今日もまた、第22層にアスナの叫び声が響き渡った。
※確認・主人公はレイ