第22層
街の一角にある、落ち着いた雰囲気の飲食店。
レイとアスナは、窓際の席に向かい合って座っていた。
ここは以前、二人で話していたときに、いつか一緒に来ようと約束していた店だった。
そして今日、ようやくその約束を果たすことができた。
「……このお店、雰囲気がいいわね」
アスナは店内を見回しながら、嬉しそうに微笑んだ。
木目を基調とした内装に、柔らかな照明。
窓の外には、第22層の穏やかな街並みが広がっている。
騒がしすぎず、かといって静かすぎるわけでもない。
二人でゆっくり話すには、ちょうどいい場所だった。
「ああ。悪くないな」
レイも店内を見回し、短く答えた。
「でしょう? 実は前に通りかかったときから、気になっていたの」
「そうだったのか」
「うん。それで、レイ君と一緒に来られたらいいなって思っていたのよ」
「……そうか」
レイは、それ以上特に何も言わなかった。
けれど、アスナは気にしなかった。
今の二人には、無理に会話を続けようとしなくてもいい時間がある。
沈黙が訪れても、気まずくならない。
それが、アスナにはとても嬉しかった。
やがて注文した料理が運ばれてくると、二人は食事を楽しみながら、ゆっくりと言葉を交わし始めた。
◇
「そういえば、最近は攻略の方も忙しいの?」
アスナが尋ねた。
「いつも通りだ」
「……レイ君らしい答えね」
「そうか?」
「そうよ。もう少し詳しく教えてくれてもいいのに」
「特に話すこともない」
「もう……」
アスナは小さく頬を膨らませた。
もっとも、本気で怒っているわけではない。
レイが必要以上に自分のことを話さないのは、今に始まったことではなかった。
それでも、以前よりは会話が増えたと思う。
こちらから尋ねれば、短くても答えてくれる。
時にはレイの方から話題を振ってくれることもある。
それだけで、少しずつ距離が縮まっているように感じられた。
「じゃあ、攻略以外では何をしているの?」
「装備の手入れ。あとは、街を歩いたりだな」
「街を歩くの?」
「ああ」
「……それって、私と会うために歩いていることもある?」
尋ねた直後、アスナはしまったと思った。
少し踏み込みすぎただろうか。
しかし、レイは特に動揺することもなく答えた。
「……あるな」
「えっ?」
思わず聞き返してしまった。
レイは手元の飲み物に視線を落としたまま、淡々と続ける。
「ここで会う約束をしているだろ」
「そ、そうだけど……!」
アスナの頬が、みるみる赤くなっていく。
そういう意味で聞いたのではない。
いや、そういう意味も含めて聞いたのだけれど。
まさか、こんなにあっさり肯定されるとは思っていなかった。
「……レイ君は、私と会うのが嫌じゃないの?」
「嫌なら来ない」
「…………」
その言葉に、アスナは思わず黙り込んだ。
飾り気のない言葉。
けれど、だからこそ嘘がないように感じられた。
レイは、自分が思っていることを必要以上に口にしない。
だからこそ、こうして時折見せてくれる本音が、何よりも嬉しい。
「……そっか」
アスナは俯きながら、小さく微笑んだ。
「よかった」
「……何がだ?」
「何でもない!」
慌てて顔を上げる。
これ以上は駄目だ。
このまま話していたら、嬉しさが顔に出すぎてしまう。
……いや。
そもそも、さっきからずっと顔に出ているのではないだろうか。
そんな考えが頭をよぎったものの、アスナはひとまず食事に集中することにした。
◇
食事を終えたあとも、二人の時間は穏やかに続いた。
攻略の話。
街で見つけた店の話。
最近、広場で見かけたプレイヤーの話。
取り留めのない話題ばかりだったが、アスナにとってはどれも楽しいものだった。
レイは相変わらず口数が少ない。
けれど、話を聞いていないわけではなかった。
アスナが話している途中で、時折短い質問を挟むこともある。
「それで、その店には何が売っていたんだ?」
「えっとね、家具が中心だったわ。小さなテーブルとか、食器棚とか……。あ、可愛いランプもあったの!」
「……家具か」
「そう。レイ君の家にも、もう少し家具を置いたらどう?」
「今ので足りている」
「そう言うと思った……」
アスナは苦笑した。
レイのログハウスは、必要最低限の家具しか置かれていない。
本人が不便を感じていないのなら、余計なお世話なのかもしれない。
それでも、いつか二人で家具を見に行けたら楽しそうだと思った。
「でも、気が向いたら一緒に見に行きましょう?」
「……考えておく」
「ふふっ。約束ね?」
「……まだ約束はしていないだろ」
「じゃあ、今から約束!」
「……強引だな」
「いいでしょう? たまには!」
アスナは悪戯っぽく笑った。
レイは呆れたように息を吐いたが、断ることはなかった。
その反応だけで、アスナは満足だった。
こうして一緒に過ごしていると、時々、不思議な気持ちになる。
まるで普通の恋人同士のようだ、と。
もちろん、二人は恋人ではない。
アスナは自分の気持ちを伝えたけれど、レイは恋人になることを断った。
その事実は、今も変わっていない。
それでも、こうして一緒に食事をして、他愛のない話をして、笑い合う時間は、アスナにとってかけがえのないものだった。
今は、これでいい。
無理に答えを求めなくてもいい。
レイが自分との時間を楽しんでくれているのなら、それだけで十分だった。
「……アスナ」
「ん? 何、レイ君?」
「そろそろ出るか」
「あっ、もうそんな時間?」
アスナは時計を確認した。
思っていたよりも時間が経っていた。
けれど、以前のように時間を忘れてしまったわけではない。
第22層での待ち合わせに遅刻してしまった、あの日。
あれ以来、アスナは時間に余裕を持って行動するようになっていた。
……笑顔の確認は、相変わらず続いているのだが。
「そうね。そろそろ行きましょうか」
「ああ」
二人は席を立ち、店を出た。
◇
店の外
夕暮れの光が、街並みを柔らかく照らしていた。
「今日は楽しかったわ。誘ってくれてありがとう、レイ君」
「……ああ。俺も楽しかった」
「……っ」
アスナは一瞬、言葉を失った。
レイが楽しかったと。
そう言ってくれた。
もちろん、以前にも似たようなことはあった。
けれど、何度聞いても嬉しいものは嬉しい。
「……うん。私も!」
満面の笑みで答えるアスナ。
レイはそんな彼女を見て、静かに頷いた。
そして、歩き出そうとしたところで、ふと足を止める。
「……アスナ」
「え? 何、レイ君?」
呼ばれて顔を上げた、その瞬間。
レイの手が、アスナの頭にそっと触れた。
「……今日は、楽しそうだったな」
ぽん、と軽く頭を撫でられる。
「――っ!?」
アスナの思考が、一瞬で止まった。
な、な、な……!?
今、何をされたの?
頭を撫でられた?
レイ君に?
自然な動作だった。
まるで、何でもないことのように。
けれど、アスナにとっては、とても何でもないことではなかった。
「……レ、レイ君……?」
「……何だ?」
本人はいつも通りだった。
それが余計に困る。
自分だけが、こんなにもドキドキしている。
「い、今の……」
「……嫌だったか?」
「ち、違う! 嫌じゃないわ! 全然、嫌じゃないけど……!」
慌てて否定してから、アスナは自分の言葉に気づいた。
嫌じゃない。
むしろ、嬉しい。
嬉しすぎて、心臓がどうにかなりそうなのだ。
「……そうか」
レイは短く答えると、何事もなかったかのように手を下ろした。
「じゃあ、また明日な。アスナ」
「……っ、う、うん! また明日、レイ君!」
レイはそのまま歩き出した。
アスナも慌てて手を振り、彼を見送る。
姿が見えなくなってからも、しばらくその場を動けなかった。
「…………」
ゆっくりと、自分の頭に手を伸ばす。
ついさっき、レイの手が触れた場所。
もちろん、もう何も感じない。
それなのに、触れられた感触が残っているような気がした。
「……な、何なのよ、もう……!」
アスナは両手で顔を覆った。
「そんなことされたら……明日、どんな顔で会えばいいのよ……!」
小さく呟いた声は、夕暮れの街に溶けていった。
◇
ログハウスに戻ったアスナは、荷物を置いて一息ついた。
「……今日も楽しかったな」
自然と笑みがこぼれる。
レイと過ごした時間を思い返すと、胸の奥が温かくなる。
そして、ふと気づいた。
「……そういえば」
アスナは鏡の前へ歩いていった。
そこに映っているのは、少し頬を赤くした自分の顔。
「……今日も、ちゃんと笑えていたわよね」
にっこりと微笑んでみる。
うん。
いい笑顔だ。
アスナは満足げに頷いた。
実は、あれ以来、待ち合わせの時間を忘れてしまうことはなくなっていた。
以前のように鏡の前で長時間悩み続けることもない。
ちゃんと時間を確認して、余裕を持って家を出る。
その点については、しっかり改善されている。
ただし――。
笑顔の確認だけは、すっかり出掛ける前の習慣になっていた。
理由は、もちろん。
『笑顔の確認、可愛いな』
あのメッセージだ。
「…………」
アスナは鏡に映る自分を見つめた。
そして、頬を押さえる。
「……だって、レイ君が可愛いって言ったんだもの」
小さな声で呟いた。
誰もいない部屋。
だからこそ、素直な本音が口からこぼれる。
レイに可愛いと言われた。
それが、どれほど嬉しかったことか。
思い出すだけで、顔が熱くなってしまう。
しかも、今日は頭まで撫でられてしまった。
「~~~~っ!」
思い出した瞬間、アスナは再び顔を覆った。
「……あんなの、反則よ……」
頭を撫でられたときのことを思い出すだけで、胸が落ち着かなくなる。
レイは、きっと深く考えていない。
いつも通りの、何気ない行動だったのだろう。
けれど、アスナにとっては違う。
好きな人に頭を撫でられて、平気でいられるわけがない。
「……だから、笑顔の確認くらいはいいわよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
もちろん、本人には秘密だ。
絶対に秘密。
もしレイに知られたら、恥ずかしくて顔を合わせられなくなるかもしれない。
「……うん。これは私だけの秘密!」
アスナは鏡に向かって、もう一度笑顔を作った。
「明日も、ちゃんと確認してから出掛けようっと」
そう呟いた直後
「……って、明日も確認するつもりなの、私!?」
自分の言葉に気づき、アスナは真っ赤になった。
「も、もうっ! レイ君のせいなんだからぁ……!」
もちろん、レイに責任はない。
ただ一言、可愛いと言っただけ。
そして今日は、少し頭を撫でただけなのだから。
……少なくとも、本人にとっては。
それでも、アスナにとっては大事件だった。
そして明日もまた。
彼女は待ち合わせ場所へ向かう前に、鏡の前で笑顔を確認するのだろう。
大好きな少年には、絶対に秘密のまま。
◇
その頃、レイは街の中を歩いていた。
「……ふっ」
不意に、口元がわずかに緩む。
今日の出来事を思い返していたのだ。
アスナの頭を撫でたときのこと。
あのとき、彼女は驚いたように固まり、顔を真っ赤にして慌てていた。
普段はあれだけ積極的に話しかけてくるくせに、いざ自分が少し踏み込むと、途端にああなる。
……面白いものだ。
もちろん、何の考えもなく頭を撫でたわけではない。
きっかけは、腹痛の時の出来事だった。
あの日、腹痛で苦しんでいたレイに、アスナは何度も偶然を装って触れてきた。
肩が触れたり、手が触れたり。
そのたびに、レイは困らされていた。
原因は、自分にもある。
以前、アスナに触れられたとき、意識すると伝えてしまったのだ。
それを知ったアスナが、ここぞとばかりに距離を詰めてきたことも分かっていた。
だからこそ、いつか少しくらい仕返しをしてもいいだろうと思っていた。
そして今日。
頭を撫でるという、ささやかな意趣返しを実行したわけだ。
結果は上々だった。
アスナは見事なまでに動揺していた。
「……まあ、これで少しはお互い様だろ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
レイは満足げに小さく頷いた。
――そのときだった。
隣に、ふわりと人影が並んだ。
視界の端に映ったのは、見慣れた色の長い髪。
アスナと同じ髪色だった。
「……そういえば、明日は何時に会う?」
レイは相手の顔を確かめることなく、何気なく尋ねた。
返事はない。
「……聞いているのか?」
それでも、反応はなかった。
レイは特に気にすることなく、話を続ける。
「まあ、時間はそっちに合わせてもいい。行きたい店があるなら、そこでも構わないが」
沈黙
隣の人物は、何も答えなかった。
……さすがに、おかしい。
いつもなら、すぐに何かしら返事が返ってくるはずだ。
レイはようやく違和感を覚え、隣へ顔を向けた。
「……アスナ、どうし…」
最後まで言い切ることはできなかった。
そこにいたのは、見覚えのない女性だった。
「…………」
「…………」
二人の間に、気まずい沈黙が流れる。
レイは相手を見つめたまま、動かなかった。
女性もまた、何とも言えない表情でレイを見返している。
どうやら、彼女は最初から人違いだと気づいていたらしい。
それなのに、レイが一向に気づかず話し続けたため、声をかけるタイミングを完全に失ってしまったようだった。
「…………」
「…………」
気まずい。
とにかく、気まずい。
やがてレイは、ゆっくりと視線を逸らした。
「……悪い。人違いだ」
「……いえ」
女性もまた、短く答えた。
それ以上、言葉は続かなかった。
レイはその場を離れながら、小さく息を吐いた。
……最悪だ。
アスナへの意趣返しには成功した。
だが、その直後にこんな失敗をするとは思わなかった。
こうして、アスナへの小さな意趣返しに成功したレイだったが――
その代償は、思いのほか大きかった。
人をからかえば、いつか報いを受ける。
どうやら、アインクラッドの世界でも、その法則は変わらないらしい。
ほんと気まずくて恥ずかしい…思い出す