アインクラッド第一層、始まりの街
夕暮れ時の街路は、買い物を終えたプレイヤーたちで賑わっていた。
道具屋から出てくる者。露店で装備を見比べる者。明日の狩りに備えて、仲間と情報交換をしている者。
誰もが、この世界で生き延びるために日々を過ごしていた。
そんな街の大通りを、一人の少女が歩いていた。
アスナである。
「回復アイテムは十分……武器の耐久値も問題なし。明日はもう少し奥まで行けそうね」
メニュー画面を閉じ、彼女は小さく頷いた。
デスゲームが始まった当初に比べれば、戦闘にもずいぶん慣れてきた。
それでも、油断するつもりはない。
ここでは、ほんの少しの判断ミスが命取りになる。
だからこそ、装備やアイテムの管理は欠かさなかった。
「……さて、宿に戻ろうかな」
そう呟いて歩き出した、そのときだった。
「……あれ?」
前方の道を歩く黒髪の少年が、アスナの目に留まった。
見慣れた後ろ姿。
無駄のない歩き方。
腰には剣を携えている。
「……レイ君?」
声をかけると、少年は足を止めて振り返った。
「アスナか」
「うん。何してるの?」
「買い物」
レイの手には、いくつかのアイテムが入った袋があった。
「へえ。レイ君も街で買い物するんだ」
「当たり前だろ」
「……それもそうね」
アスナは思わず苦笑した。
レイは相変わらずだった。
会話は必要最低限。愛想もない。こちらが話しかけなければ、黙って歩いているだけ。
けれど、最近はその態度にも少しずつ慣れてきていた。
「これから宿に戻るの?」
「ああ」
「私も。……途中まで一緒に行ってもいい?」
口にしてから、アスナはほんの少しだけ不思議に思った。
以前なら、こんなことを自分から尋ねたりはしなかっただろう。
誰かと一緒に行動することには、どうしても抵抗があった。
それなのに、レイに対しては、あまりそう感じない。
レイは特に気にした様子もなく頷いた。
「別にいいぞ」
「……じゃあ、一緒に行きましょう」
二人は並んで歩き始めた。
◇
最初のうちは、他愛のない話をしていた。
「今日の狩りはどうだった?」
アスナが尋ねる。
「いつも通りだ」
「……またそれ?」
「何か問題あるか?」
「あるわよ。もう少し詳しく話してくれたっていいでしょう?」
「モンスターを倒した。それで経験値が増えた」
「そういうことじゃないの!」
アスナは思わず声を上げた。
レイは不思議そうに彼女を見た。
「難しいな」
「何がよ?」
「会話」
「…………」
アスナは一瞬、言葉を失った。
そして、とうとう我慢できずに笑ってしまった。
「ふふっ……もう、レイ君って本当に変な人!」
「そうか?」
「そうよ!」
笑いながら答えると、レイはそれ以上追及しなかった。
二人の間に、穏やかな空気が流れる。
街の雑踏
夕日に染まる石畳
露店から漂う料理の香り
デスゲームの中だということを、ほんの少しだけ忘れてしまいそうな時間だった。
そのとき
アスナは、ふと気づいた。
レイが、自分より少しだけ前を歩いている。
最初は、歩く速度の違いだと思った。
けれど、よく見ると違った。
彼は人通りの多い場所では、アスナが歩きやすいように少しだけ進路を変えていた。
前方から人が来れば、さりげなく自分が先に避ける。
露店の荷物が道にはみ出していれば、その側を自分が通る。
狭い路地へ差しかかると、自然にアスナより半歩ほど前へ出る。
まるで――。
(……私の前を歩いてる?)
アスナは、彼の背中を見つめた。
完全に前を歩いているわけではない。
少し振り返れば、すぐに顔が見える程度の距離。
けれど、彼はいつでも自分の前に立てる位置を保っているようだった。
偶然かもしれない。
レイはただ、歩きやすい場所を選んでいるだけなのかもしれない。
そう考えようとした。
しかし、これまで何度か一緒に歩いたときも、似たようなことがあった気がする。
狩り場でモンスターに遭遇したとき。
危険な場所を通るとき。
レイは、いつも自分が先に動ける位置にいた。
以前、アスナがモンスターに囲まれたときもそうだった。
迷うことなく割って入り、彼女を守るように敵の前へ立った。
そして、戦闘が終われば何事もなかったような顔をしていた。
『モンスターを狩ってたら、たまたまお前がいた。それだけだ』
あの言葉を思い出す。
「…………」
アスナは、少しだけ頬が緩むのを感じた。
(……もしかして、今も?)
自分を守ろうとしているのだろうか。
いや、そんなはずはない。
レイは自分に興味がないような態度を取るし、本人だって余計なことはしないと言っていた。
それでも。
彼の背中を見ていると、そんな考えが頭から離れなかった。
自分より少しだけ前を歩き、周囲に気を配る。
何かあれば、すぐに動けるように。
それは、誰かに言われてするようなことではなかった。
彼自身が、自然にそうしているように見えた。
(……なんだろう)
胸の奥が、ほんのりと温かくなった。
嬉しい。
そう感じてしまった自分に、アスナは少し驚いた。
誰かに守られることが嬉しいなんて、以前の自分なら考えもしなかった。
自分のことは自分で守る。
誰かに頼れば、その人を危険に巻き込むかもしれない。
だから、一人で強くなろうと決めた。
その気持ちは、今だって変わっていない。
けれど、レイが相手だと、ほんの少しだけ違った。
無理に守ると言い張るわけでもない。
自分の実力を馬鹿にするわけでもない。
ただ、何も言わずに、少しだけ前を歩いてくれる。
それが、思いのほか心地よかった。
(……レイ君って、こういうところがあるんだ)
アスナは小さく笑った。
◇
「……何だ?」
不意にレイが振り返った。
アスナは慌てて顔を上げる。
「えっ?」
「さっきから静かだな」
「べ、別に! 何でもないわよ」
「そうか」
レイは再び前を向いた。
アスナは、ほっと胸を撫で下ろした。
危ない。
まさか、見とれていたなんて言えるわけがない。
そもそも、見とれていたというのも少し違う。
ただ、その背中を見ていたかった。
それだけだ。
(……何考えてるのよ、私)
自分に呆れながら、アスナは歩調を少しだけ速めた。
レイの隣に並ぶ。
「……ねえ、レイ君」
「何だ?」
「いつも、そんなに周りを警戒してるの?」
「まあな」
「街の中でも?」
「どこでも同じだろ」
「……それはそうだけど」
アスナは少し考えてから、何気ない口調を装って尋ねた。
「もしかして、私がいるから?」
レイが彼女を見る。
「何でそうなる?」
「……何でもない!」
アスナはすぐに顔を背けた。
聞かなければよかった。
自分で尋ねておいて、返事を聞くのが怖くなった。
もし、違うと言われたら。
いや、違うに決まっている。
レイは誰に対しても同じように警戒しているのだろう。
そう思っていたのに。
「……人通りが多いからな」
レイは前を向いたまま答えた。
「ぶつかったり、何か落ちてきたりすることもある」
「…………」
「気をつけて歩けばいいだけだ」
アスナは、しばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「……そう」
やっぱり、そういうことなのだろう。
少しだけ期待してしまった自分が、恥ずかしかった。
けれど。
「でも、ありがと」
「何が?」
「……何でもないわよ」
アスナは、ほんの少しだけ笑った。
理由は違ったとしても、彼が自分の歩きやすいように気を配ってくれていることは変わらない。
それだけで、今は十分だった。
◇
宿屋へ続く道の途中
大通りから一本外れた路地は、夕暮れの影に包まれていた。
前方から、数人のプレイヤーが談笑しながら歩いてくる。
道幅は狭い。
レイは自然に歩く位置を変え、アスナを内側に通した。
何気ない動作だった。
あまりにも自然で、本人は意識すらしていないようだった。
しかし、アスナは気づいていた。
自分が人とぶつからないように。
歩きにくくならないように。
彼はいつも、ほんの少しだけ前を歩いている。
「…………」
アスナは、その横顔を見上げた。
「……ねえ、レイ君」
「今度は何だ?」
「レイ君って、優しいのね」
言ってから、アスナは自分の言葉に驚いた。
何を言っているのだろう。
こんなことを、本人に直接言うつもりなんてなかった。
レイは足を止めた。
「……そうか?」
「え?」
「別に、普通だろ」
本気で分かっていないような顔だった。
アスナは思わず笑ってしまった。
「……ふふっ。そういうところよ」
「よく分からないな」
「分からなくていいわよ」
アスナは前を向いた。
頬が少しだけ熱い。
けれど、嫌な気持ちはしなかった。
レイは再び歩き始める。
アスナも、その隣を歩いた。
今度は、さっきより少しだけ近い距離で。
二人の間に会話はなかった。
それでも、アスナは先ほどよりもずっと穏やかな気持ちだった。
誰かと一緒に歩くこと。
隣に人がいること。
それだけのことが、こんなにも心を落ち着かせるなんて。
デスゲームが始まってから、アスナはずっと張り詰めていた。
生き残るために。
強くなるために。
弱さを見せないために。
けれど、レイといるときだけは、ほんの少しだけ肩の力を抜くことができた。
それがなぜなのか、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
(……また、一緒に歩けたらいいな)
そう思った自分を、アスナは否定しなかった。
「……レイ君」
「何だ?」
「また街で会ったら、一緒に歩いてもいい?」
レイは、少しだけ彼女を見た。
「別に構わないぞ」
あっさりとした返事だった。
アスナは、思わず笑みを浮かべた。
「……そう。なら、そうするわ」
そして、すぐにいつもの調子を取り戻す。
「でも、変なところに連れていかないでよね。レイ君、道を間違えそうだし」
「間違えない」
「この前、間違えたじゃない」
「あれは近道だ」嘘である
「絶対、嘘でしょ!」バレた
アスナの声が、夕暮れの街に響いた。
レイは否定も肯定もせず、静かに歩き続ける。
その少し前を歩く背中を見ながら、アスナはまた小さく笑った。
相変わらず、態度は素っ気ない。
相変わらず、会話もどこか噛み合わない。
それでも。
レイと過ごす時間は、悪くなかった。
むしろ、少しだけ楽しみになり始めていた。
そしてレイもまた、アスナが隣にいることを、特に不自然だとは感じなくなっていた。
彼女が歩きやすいように、少しだけ前を歩く。
何かあれば、すぐに動けるように。
それが彼にとって特別な行動なのかどうか、本人にも分かっていなかった。
ただ、気づけばそうしていた。
二人とも、まだ知らない。
何気なく繰り返すこうした時間が、いつか互いにとって、かけがえのないものになっていくことを。
改行入れる→改行消える→再び改行する→成功
え?50話まで、これが続くの…