アインクラッド第一層、始まりの街
午後の日差しが石畳を照らす中、アスナは道具屋で買い物を済ませ、宿屋へ戻る途中だった。
「回復結晶はこれで十分ね。あとは、武器の耐久値を確認して……」
メニュー画面を操作しながら、明日の狩りの予定を考える。
最近は、一人での戦闘にも余裕が出てきた。
もちろん、油断は禁物だ。ここはゲームの世界でありながら、死ねば本当に命を失う場所なのだから。
だからこそ、アスナは毎日欠かさず準備をしていた。
そんな彼女が大通りに差しかかったときだった。
「……あれ?」
見覚えのある黒髪が、人混みの向こうに見えた。
すらりとした体格に、腰に差した剣。
見間違えるはずもない。
「レイ君……?」
思わず足を止める。
レイは、いつものように一人で歩いている――わけではなかった。
その隣には、見知らぬ女性プレイヤーがいた。
年齢は二十歳前後だろうか。長い金髪を後ろで束ね、軽装の装備を身につけている。
女性はレイに何かを話しかけていた。
レイは普段と変わらない無表情で、それに答えている。
二人は並んで歩いていた。
「…………」
アスナは、なぜかその場から動けなかった。
(……誰、あの人)
レイが女性と一緒にいる。
ただ、それだけのことだ。
レイだって、誰かと話すことくらいあるだろう。
そもそも、彼が誰と行動しようと、アスナには関係のないことだ。
頭では分かっていた。
それなのに。
「……何よ」
知らず知らずのうちに、眉間にしわが寄っていた。
女性は楽しそうに話している。
時折、レイの顔を覗き込むようにして笑っていた。
対するレイは、いつも通り淡々とした様子だった。
けれど、会話を拒絶しているわけでもない。
ちゃんと女性の話を聞き、返事をしている。
(……ふうん。女の人とは普通に話すんだ)
自分と話すときは、あんなにそっけないくせに。
そんな考えが浮かび、アスナはハッとした。
(……って、何を考えてるの、私!)
別に、レイが誰と話そうが自由だ。
自分だって、彼と特別な関係にあるわけではない。
偶然何度か顔を合わせて、一緒に歩くことがある。
それだけだ。
なのに、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残っていた。
アスナは唇を結び、二人から視線を逸らそうとした。
そのとき、女性がレイの手元を指さした。
何かのアイテムについて尋ねているらしい。
レイは立ち止まり、メニューを操作して説明を始めた。
女性は感心したように頷いている。
(……ああ、そういうことか)
アスナは、ようやく一つの可能性に思い至った。
護衛クエスト。
あるいは、何らかの依頼を受けているのかもしれない。
レイほどの実力があれば、護衛を頼まれても不思議ではない。
ソロプレイヤーとして活動している彼なら、依頼を受けて報酬を得ることもあるだろう。
(うん。きっとそうね)
そう考えると、少しだけ納得できた。
あの女性と特別な関係というわけではない。
ただの依頼人。
レイは仕事として、彼女と一緒にいるだけ。
そう思えば、先ほどまでの嫌な気持ちも消えるはずだった。
……なのに。
(……あれ?)
アスナは、ふと違和感を覚えた。
レイと女性の位置関係。
二人は並んで歩いている。
正確には、女性がレイの少し前にいて、レイも彼女と同じ歩調で進んでいた。
周囲から人が近づいてきても、レイは特に位置を変えない。
女性が道の端に寄れば、そのまま少し後ろを歩く。
狭い道に入っても、二人の位置は変わらなかった。
「…………」
アスナは、その光景をじっと見つめた。
そして、思い出した。
以前、レイと一緒に街を歩いたときのこと。
人通りの多い大通り。
露店の荷物が道にはみ出していた場所。
狭い路地。
そのたびに、レイはさりげなく位置を変えていた。
いつも、ほんの少しだけ自分の前を歩く。
何かあれば、すぐに動けるように。
自分が人とぶつからないように。
危険があれば、自分が先に対処できるように。
最初は、偶然だと思っていた。
それにレイは誰に対しても、そうするのだろうと。
けれど。
(……あれ? レイ君、あの人には……)
目の前の光景を、もう一度見る。
女性はレイの少し前で、楽しそうに話している。
レイは相変わらず無表情だった。
彼女の歩く位置を気にする様子も、少し前に出て守るような素振りもない。
少なくとも、アスナと歩いていたときとは違っていた。
「…………」
アスナの胸が、どくんと鳴った。
(……私のときだけ?)
その考えが浮かんだ瞬間、頬が熱くなった。
いや、まだ分からない。
たまたまかもしれない。
道幅の違いかもしれないし、女性がレイと同じくらい戦えるプレイヤーなのかもしれない。
そもそも、本当に護衛クエストなのかどうかだって分からない。
それでも。
なぜか嬉しかった。
自分と一緒に歩くとき、レイは少しだけ前に出る。
自分が気づかないところで、さりげなく守ろうとしてくれていたのかもしれない。
それを思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
(……何よ、もう)
アスナは、慌てて頬に手を当てた。
嬉しい。
どうして、こんなに嬉しいのだろう。
ただ少し前を歩いてくれる。
それだけのことなのに。
自分のことを気にかけてくれているように感じられる。
レイは、優しい言葉をかけてくれるわけではない。
大丈夫かと何度も尋ねることもない。
守ってやると宣言することもない。
それなのに、行動の端々に、言葉にしない気遣いがある。
アスナは、いつの間にかそれを見つけるようになっていた。
そして今、自分にだけ向けられていたのかもしれない、その小さな違いに気づいた。
「……ふふっ」
思わず、笑みがこぼれた。
「……そっか」
小さく呟く。
その声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
◇
やがて、レイと女性は大通りの角を曲がり、アスナの視界から消えていった。
アスナはしばらく、その方向を見つめていた。
先ほどまで胸に引っかかっていた嫌な気持ちは、いつの間にか薄れていた。
代わりに残っているのは、少し気恥ずかしくて、くすぐったい感情。
(……私、何を喜んでるんだろう)
自分でも分からなかった。
レイが誰と一緒にいようと、関係ないはずだ。
あの女性が依頼人だったとしても、友人だったとしても、それはレイの自由だ。
自分には、彼を独占する権利なんてない。
それなのに、さっきは嫌な気持ちになった。
そして、自分と一緒にいるときだけ違うのかもしれないと気づいたら、今度は嬉しくなった。
「…………」
アスナは両手で頬を軽く押さえた。
(……まさか、ね)
何かを認めてしまいそうになり、慌てて首を振る。
違う。
別に、そういうことではない。
レイとは、ただ何度も偶然会っているだけ。
一緒に歩くのだって、たまたま帰る方向が同じだから。
それ以上でも、それ以下でもない。
……そう思っているのに。
「……また会えるといいな」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
言ってから、アスナは目を見開いた。
誰に聞かせるつもりもなかった。
ただ、自然に口から出てしまったのだ。
彼と、また会いたい。
また他愛のない話をしたい。
隣を歩きながら、くだらないことで言い合いをしたい。
そして、できることなら。
あの少しだけ前を歩く背中を、もう一度見たい。
「…………」
アスナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「……本当に、変な人」
いつもの言葉。
けれど、今までとは少しだけ違う響きだった。
◇
レイは、依頼人の女性と街の出口へ向かっていた。
「本当に助かりました。レイさんほど強い方が護衛してくださるなんて、安心です」
「そうか」
「依頼が終わったら、またお願いしてもいいですか?」
「内容次第だな」
レイは淡々と答えた。
彼女の依頼は、街の外にある採取ポイントまでの護衛だった。
特に難しい仕事ではない。
レイにとっては、普段の狩りのついでに引き受けられる程度のものだった。
女性は、まだ何か話していた。
レイは必要な返事をしながら、目的地へ向かう。
先ほど街中で誰かに見られていたことなど、まったく気づいていなかった。
ましてや、その誰かがアスナだったことも。
そして、彼女が自分の何気ない行動に気づき、嬉しそうに笑っていたことも。
知るはずがなかった。
ただ一つ。
次にアスナと街で顔を合わせたとき。
いつものように彼女が隣に並んできても、レイはきっと、何も言わずに少しだけ前を歩くのだろう。
それが彼にとって、いつの間にか自然なことになっていたから。
そしてアスナは、その小さな優しさに気づくたびに、また少しだけ嬉しくなるのだろう。
いつからか出来る気遣い
いつからか出来なくなる気遣い
離婚ですね
※一部の隣を前と後ろに変更