第一層の迷宮区
薄暗い石造りの通路に、剣戟の音が響いていた。
「はっ!」
アスナの細剣が鋭く閃き、目の前のモンスターを貫く。そのまま素早く踏み込み、二撃目を放った。最後の一突きが急所を捉えると、モンスターの身体は青白いポリゴンとなって砕け散った。
「……ふぅ」
アスナは細く息を吐き、剣を下ろした。
デスゲームが始まってから、どれほどの日々が過ぎただろう。
この世界で生き残るため、アスナはひたすら戦い続けてきた。少しでも早く強くなり、一日でも早くこの世界から脱出する。
その目標だけを考えて、余計なことには目を向けないようにしていた。
けれど、最近は少しだけ変わっていた。
「……そろそろ、休憩しようかな」
そう呟いたときだった。
通路の向こうから、一人のプレイヤーが歩いてきた。黒い装備に身を包み、腰には剣を携えている。
見慣れた姿
何度も目にしてきた、そして最近では姿を見かけるだけで自然と意識してしまう相手だった。
「……あっ」
思わず声が漏れた
「レイ君!」
呼びかけると、彼は足を止めてこちらを見た。
「アスナか」
いつもと変わらない、落ち着いた声。それだけなのに、アスナの胸がふわりと弾んだ。
(……会えた)
たったそれだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
昨日も街で会った。その前の日も、迷宮区へ向かう道で偶然顔を合わせた。さらにその前には、道具屋の前でばったり出会っている。
こうも頻繁に会うのだから、そろそろ驚かなくなってもよさそうなものなのに、レイの姿を見つけるたび、アスナの心は不思議なくらい高ぶった。
「レイ君も、ここで狩りをしていたの?」
「ああ。奥の通路を回ってきた」
「そうなんだ。私はこの辺りで狩っていたところ」
「見れば分かる」
「もう……。そういう言い方しなくてもいいでしょ?」
少しだけ頬を膨らませる。けれど、声は自分でも驚くほど柔らかかった。
レイはアスナの顔を一瞥し、短く答えた。
「悪い」
「えっ……」
アスナは目を瞬かせた。まさか、素直に謝られるとは思っていなかったのだ。
「……べ、別に謝らなくてもいいけど」
「そうか」
「うん」
そこで会話が途切れた。
以前なら、こうした沈黙をどう扱えばいいのか分からず、アスナはすぐにその場を離れていたかもしれない。
けれど、今は違った。
レイと一緒にいると、無理に話題を探さなくてもよかった。黙っていても落ち着く。それでも、もう少し話したいと思う。
「……ねえ、レイ君」
「何だ?」
「この先も狩りを続けるの?」
「そのつもりだ」
「じゃあ……よかったら、一緒に行かない?」
口にした瞬間、アスナはほんの少しだけ緊張した。
普段はソロで行動するレイが、誘いを受けてくれるだろうか。
彼はしばらくアスナを見つめていたが、やがて頷いた。
「構わない」
「本当?」
「ああ」
「……そっか!」
思わず笑顔になる。
その反応を見たレイが、わずかに首を傾げた。
「嬉しそうだな」
「そ、そんなことないわよ!」
「そうか?」
「そうよ!」
つい声が大きくなった。けれど、すぐに自分でもおかしくなって、小さく笑ってしまう。
レイは理由を尋ねなかった。ただ、いつものようにアスナの少し前に立ち、迷宮区の奥へと歩き出した。
アスナはその隣に並ぶ。
その日、二人はしばらく一緒に狩りを続けた。
レイの戦い方は、何度見ても不思議だった。
無駄な動きがほとんどない。敵の攻撃を必要最小限の動きで避け、隙が生じた瞬間に剣を振るう。まるで、モンスターが次に何をするのか、あらかじめ分かっているかのようだった。
アスナも決して弱くはない。細剣の扱いには自信があるし、敵の動きを見極めることにも慣れている。
それでも、レイの戦闘を見ていると、自分がまだ知らない世界があるのだと思わされる。
「……相変わらず、すごいわね」
戦闘が終わったあと、アスナは率直に言った。
「何がだ?」
「戦い方。ほとんど攻撃を受けないじゃない」
「受ける必要がないからな」
「……本当に、レイ君らしい答え」
呆れたように言いながら、アスナは微笑んだ。
以前なら、彼のこうした返答を冷たいと感じていたかもしれない。けれど、今は違う。
レイは自分の強さを自慢したいわけではない。ただ、そうするのが当然だと思っているだけなのだ。
そんな彼のことが、少しずつ分かってきた気がした。そして、自分がそのことを嬉しく感じているのにも気づいていた。
(……私、レイ君のことを知るのが楽しいんだ)
戦い方だけではない。
好きな食べ物はあるのか。普段は何を考えているのか。どうして、いつも一人で行動しているのか。
聞いてみたいことは、いくらでもあった。
もちろん、いきなり何もかも尋ねるつもりはない。レイが自分から話したいと思ったときに、少しずつ聞ければいい。
そんなふうに思えること自体が、アスナにとっては新鮮だった。
◇
迷宮区を出る頃には、街の空が夕暮れ色に染まっていた。
二人は主街区へ戻る道を並んで歩いていた。
「今日は、思ったより狩れたわね」
「ああ」
「レイ君が一緒だったからかな」
何気なく口にしたあと、アスナははっとした。
(……い、今の言い方!)
まるで、レイと一緒にいたかったから誘ったようではないか。
いや、実際にそうだったのかもしれない。
そう考えると、急に恥ずかしくなった。
「……ま、まあ、レイ君が強いのは確かだし。効率がよかったってことよ!」
慌てて付け加える。
レイは特に気にした様子もなく答えた。
「アスナも十分強いだろ」
「……え?」
「動きに無駄が少ない。判断も速い」
アスナは、思わず彼の横顔を見つめた。
褒められた
レイ君に。
しかも、ただ強いと言っただけではない。自分の戦いをちゃんと見て、具体的に評価してくれたのだ。
「……そ、そう?」
「ああ」
「……ふふっ」
「何がおかしい?」
「ううん。何でもない」
アスナは笑顔を隠すように、そっと前を向いた。
嬉しかった。
誰かに褒められること自体は、これまでにもあった。けれど、レイからの言葉は、どうしてこんなにも胸に響くのだろう。
(……もっと、話していたいな)
そう思った。
街に戻っても、夕食を食べても、今日のように一緒に歩いて、たわいもない話をしていたい。
そんな願いが、胸の中に自然と浮かんでくる。
やがて、二人は主街区の広場に到着した。
見慣れた噴水のそばで、レイが足を止める。
「俺は道具屋に寄ってから宿に戻る」
「あ……そっか」
アスナも立ち止まった。
「じゃあ、ここでお別れね」
「ああ」
短い返事。
それだけで、今日の時間が終わろうとしていた。
アスナは何か言おうとした。
また一緒に狩りに行こう、と。
明日も会えたらいいね、と。
あるいは、今日は楽しかった、と。
言いたいことは、いくつもあった。けれど、どれを口にすればいいのか分からず、少しだけ迷ってしまう。
そんなアスナに、レイが声をかけた。
「じゃあな、アスナ」
「……うん」
レイは軽く手を上げると、道具屋のある通りへ歩いていった。
アスナは、その背中を見送った。
黒い装備が人混みに紛れ、やがて見えなくなる。
――その瞬間だった。
胸の中に、すうっと何かが抜け落ちるような感覚が広がった。
「…………」
アスナは、その場に立ち尽くした。
さっきまで、あんなに楽しかったのに。
一緒に歩いて、話して、狩りをして、何でもない会話に笑って、少し褒められただけで嬉しくなって。
時間が過ぎるのが、あっという間だった。
それなのに、別れた途端、急に街が広く感じられた。
周囲には大勢のプレイヤーがいる。誰もがそれぞれの目的を持ち、賑やかに行き交っている。
それなのに。
(……寂しい)
ふと、そんな気持ちが浮かんだ。
アスナは自分の胸元に手を当てた。
(……え? 私、今……寂しいって思った?)
レイと別れただけなのに。
ほんの数時間、一緒にいただけなのに。
どうして、こんな気持ちになるのだろう。
今までは、誰かと別れたあとに寂しいと思うことなんて、ほとんどなかった。一人でいるのが当たり前だった。
自分の力で生き残り、誰にも頼らずに進んでいく。
そう決めていたはずなのに。
(……レイ君といると、楽しい)
心の中で、そっと呟いた。
一緒にいると、気持ちが弾む。顔を見れば嬉しくなる。少し話せただけでも、その日一日が特別なものになった気がする。
そして、別れると寂しくなる。
(……どうして、レイ君なんだろう)
答えはまだ分からなかった。
けれど、もう一度会いたいと思った。
明日も。
できれば、その次の日も。
ダンジョンで偶然出会えたら、きっと嬉しい。街中で姿を見つけたら、今度は自分から声をかけよう。
一緒に歩けたら、今日みたいにたくさん話ができるかもしれない。
そう考えるだけで、沈んでいた気持ちが少しずつ明るくなっていく。
「……ふふっ」
アスナは小さく笑った。
「……また会えるといいな、レイ君」
その声は、街の喧騒に紛れて消えていった。
◇
道具屋で必要なアイテムを購入したレイは、宿へ向かう道を歩いていた。
今日の狩りは順調だった。アスナの戦闘技術も確認できたし、予定していたアイテムも手に入った。
特に問題はない。
そう考えながら歩いていたレイは、ふと、迷宮区でのやり取りを思い出した。
『よかったら、一緒に行かない?』
そう言ったときのアスナは、いつもより少し嬉しそうだった。戦闘中も、普段よりよく話していた気がする。
(……よく笑うようになったな)
レイは、そんなことを考えた。
初めて会った頃のアスナは、もっと人を寄せつけない雰囲気をまとっていた。
それが最近では、会えば自然に話しかけてくる。
時には、少し照れたような顔をすることもある。
理由は分からない。
レイは他人の感情を細かく読み取ることに長けているわけではなかったし、そもそも、そうしたことにあまり関心を持ってこなかった。
けれど
「……また会うだろうな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
街でも、迷宮区でも、不思議なくらいアスナとはよく顔を合わせる。
そして、次に会ったときも、きっと彼女は声をかけてくるだろう。
レイはそれを、特に嫌だとは思わなかった。
むしろ、少しだけ。
次に会ったとき、彼女がどんな話をするのか。
そんなことを考えながら、静かな足取りで宿へと向かった。
二人の心には、まだ名前のついていない感情が芽生え始めていた。
会えれば嬉しい。
一緒にいれば楽しい。
そして、別れれば少し寂しい。
その小さな気持ちが、やがて二人の関係を大きく変えていくことを――このときの二人は、まだ知らなかった。
まだ第一層も攻略してないな…