第一層の主街区
夕暮れを過ぎ、街のあちこちに明かりが灯り始めていた。
露店を片づけるプレイヤーや、狩りを終えて宿へ戻るプレイヤーたちが行き交う大通り。
その中を、レイとアスナは並んで歩いていた。
「今日も、結構な数を狩れたわね」
「ああ。予定より多かった」
「レイ君と一緒だったからじゃない?」
「アスナも十分戦えてただろ」
「……そ、そういうことをさらっと言わないでよ」
「事実だろ」
レイはいつも通りの口調で答えた。
アスナは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
(……もう。レイ君って、どうしてそうなのよ)
褒めるときは、何のためらいもなく褒める。
こっちがどんな気持ちになるのか、まるで考えていないように。
もちろん、悪い気はしなかった。
むしろ、嬉しい。
レイに認めてもらえることが、アスナにとっては以前よりずっと特別なことになっていた。
だからこそ、困るのだ。
最近の自分は、どうにも調子がおかしい。
レイと会えると嬉しくなる。
一緒にいると楽しくなる。
別れたあとには、また会いたいと思ってしまう。
そして、こうして隣を歩いているだけなのに、彼のちょっとした言葉や仕草が気になって仕方がない。
(……私、どうしちゃったんだろう)
そんなことを考えながら歩いていた、そのときだった。
ふと、アスナの手が何かに触れた。
「あ……」
指先に伝わった、ほんのわずかな感触。
レイの手だった。
歩くたびに揺れる腕が、偶然触れ合ったのだろう。
たったそれだけのこと。
普段なら、気にも留めなかったかもしれない。
けれど、今のアスナには違った。
(…………え?)
意識した瞬間、アスナの足取りがわずかにぎこちなくなった。
もう一度、手が触れた。
今度は指先だけではない。
互いの手の甲が、軽く擦れ合う。
アスナは、そっと隣を見た。
レイは前を向いている。
いつも通りの落ち着いた横顔。
表情もほとんど変わっていない。
……変わっていない、ように見える。
けれど。
(……あれ?)
レイの腕が、ほんの少しだけ不自然に動いた。
一度、手が触れたあと、わずかに距離を取るように動き――それから、何事もなかったかのように元の位置へ戻った。
その動きが、いつものレイらしくない気がした。
(もしかして……レイ君も、気にしてる?)
そう思った途端、胸が大きく跳ねた。
いや、待って。
そもそも、どうしてこんなに手が触れるのだろう。
アスナは、そこで初めて二人の距離を意識した。
近い。
思っていた以上に、近かった。
肩と肩が触れそうなほどではない。
けれど、腕を少し動かせば、自然に手が触れ合ってしまう程度には近い。
いつから、こんな距離で歩くようになったのだろう。
以前は、レイが少し前を歩き、アスナがその隣を追いかけるように歩いていた。
それがいつの間にか、並んで歩くことが当たり前になっていた。
二人で街を歩くことも。
一緒に狩りをすることも。
こうして、何でもない話をすることも。
いつの間にか、自然なことになっていた。
そして、その距離が。
今になって、急に意味を持ち始めた。
◇
(お、落ち着いて……!)
アスナは、必死に自分へ言い聞かせていた。
(別に、手が触れただけでしょ? 偶然よ、偶然!)
そう。
偶然だ。
人通りのある街を二人で歩いていれば、腕が触れることくらいある。
それだけのこと。
何もおかしくない。
何も恥ずかしくない。
何も――。
「……アスナ」
「ひゃっ!?」
レイに名前を呼ばれ、アスナは思わず肩を跳ねさせた。
「……どうした?」
「な、何が?」
「さっきから、変だぞ」
「へ、変じゃないわよ!」
勢いよく否定してから、アスナはしまったと思った。
声が大きすぎた。
周囲を歩くプレイヤーが、ちらりとこちらを見る。
「……ご、ごめん。ちょっと考え事をしてただけ」
「そうか」
レイは、それ以上追及しなかった。
けれど、アスナは彼の横顔から目を離せなかった。
(……レイ君だって、少し変じゃない)
さっきから、いつもより口数が少ない気がする。
いや、レイはもともと口数が少ない。
それは分かっている。
けれど、先ほど手が触れたあと、ほんの一瞬だけ彼の動きがぎこちなくなったのを、アスナは見逃していなかった。
(……まさか、本当に意識してるの?)
そこまで考えて、アスナは顔が熱くなるのを感じた。
もし、そうだったら。
もし、レイも自分と同じように、手が触れたことを気にしているのだとしたら。
(…………っ!)
心臓が、ますますうるさくなった。
ドクン、ドクン、と胸の奥で大きな音が鳴っている。
まるで、すぐ隣を歩いているレイにまで聞こえてしまいそうだった。
(静まって、静まって……!)
アスナは内心で必死に念じた。
(お願いだから、静かにして……! レイ君に聞こえちゃう……!)
もちろん、実際に心音が聞こえるはずなどない。
そんなことは分かっている。
それでも、そう思わずにはいられなかった。
顔が赤くなっているのも、自分では分かっていた。
こんな顔を見られたら、何を考えているのか悟られてしまうかもしれない。
そう考えると、余計に平静を装わなければならなかった。
「……アスナ」
「な、何?」
「顔、赤いぞ」
「~~っ!」
アスナは、危うくその場で立ち止まりそうになった。
「こ、これは……! ちょっと暑いだけ!」
「……そうか?」
「そうよ! 今日は歩いたし、狩りもしたし! それだけ!」
自分でも苦しい言い訳だと思った。
けれど、ほかに何も思いつかなかった。
レイは少しだけアスナを見つめたあと、短く言った。
「無理するなよ」
「……え?」
「疲れてるなら、休んでもいい」
その言葉に、アスナは一瞬、返事を忘れた。
からかわれたわけではなかった。
彼はただ、いつも通りに気遣ってくれただけなのだ。
そのことが分かると、胸の奥がふわりと温かくなった。
「……ありがとう、レイ君」
さっきまでの慌てた声とは違う、自然な声が出た。
レイは小さく頷いた。
「別に」
そして、二人は再び歩き始めた。
今度は、さっきより少しだけ距離を意識してしまう。
手が触れそうになるたびに、アスナの心臓が跳ねた。
けれど、わざと離れようとは思わなかった。
むしろ。
(……もう少しだけ、このままでもいいかな)
そんな考えが浮かんでしまった自分に、アスナは驚いた。
◇
「そういえば、レイ君」
少しして、アスナは話題を変えるように口を開いた。
「明日って、予定ある?」
「明日?」
「うん」
レイは少し考えてから答えた。
「特にはない」
「そっか……」
アスナは、何気ないふうを装って頷いた。
けれど、内心では少しだけ期待していた。
明日は、第一層攻略に向けたプレイヤーたちの集まりがあると聞いていた。
攻略を進めるために、情報を共有し、協力体制を整えようという話らしい。
アスナは参加するつもりだった。
一人で戦い続けることにも限界はある。
この世界から脱出するためには、誰かと協力することも必要になる。
それは理解していた。
ただ――。
(……レイ君も来るのかな)
聞いてみたい。
けれど、参加するかどうかを直接尋ねるのは、少しだけ勇気が必要だった。
「……明日、第一層攻略の集まりがあるらしいわよ」
「ああ。聞いた」
「レイ君は行くの?」
尋ねてから、アスナは彼の返事を待った。
レイはすぐには答えなかった。
「……まだ決めてない」
「そ、そうなんだ」
期待していた答えではなかった。
けれど、落胆したことを悟られたくなくて、アスナは何でもないように続けた。
「私は行くつもり。攻略を進めるなら、情報交換も必要だし」
「そうだな」
「……レイ君も来たらいいのに」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
言ってから、アスナは目を見開いた。
(……あっ!)
今のは。
まるで、来てほしいと言っているようではないか。
いや、実際にそう思っていた。
でも、そんなことを素直に口にするつもりはなかったのに。
「……いや、その……」
アスナは慌てて言い直そうとした。
「レイ君は強いし、参加すれば役に立つと思うから! ほら、そういう意味よ!」
レイは、しばらく彼女を見ていた。
それから、いつもと変わらない調子で答えた。
「……考えておく」
「……うん」
それだけの返事だった。
参加すると約束してくれたわけではない。
来るかどうかも分からない。
それでも、アスナは少しだけ嬉しかった。
レイが考えてくれる。
それだけで、明日への期待が膨らんでしまう。
(……来てくれたらいいな)
集まりの場にレイがいたら。
人の多い場所でも、あの落ち着いた姿を見つけられたら。
きっと、自分はほっとするだろう。
そして、話しかけられたら嬉しい。
今日みたいに、一緒に帰ることができたら。
……また、手が触れたりするのだろうか。
「…………っ」
そこまで考えて、アスナは慌てて思考を打ち切った。
(何を考えてるの、私!)
ただ手が触れただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、胸の奥の高鳴りは、なかなか静まってくれなかった。
◇
やがて、二人は宿屋が並ぶ通りにたどり着いた。
アスナが泊まっている宿は、すぐ近くだった。
「……私は、ここだから」
「ああ」
レイが足を止める。
アスナも立ち止まり、彼を見上げた。
「今日は、一緒に狩りができて楽しかったわ。ありがとう、レイ君」
今度は、素直に言えた。
レイは少しだけ目を細めた。
「俺も、悪くなかった」
「……ふふっ。何よ、それ」
「何か変か?」
「ううん。レイ君らしいなって思っただけ」
アスナは笑った。
レイも、ほんのわずかに表情を緩めたように見えた。
「じゃあ、またな」
「うん。またね、レイ君」
レイが歩き出す。
アスナは、その背中を見送った。
そして、彼の姿が通りの角に消えるまで、そこに立っていた。
やがて、ゆっくりと宿の中へ入る。
自室に戻り、扉を閉める。
それから。
「…………はぁぁぁ……」
アスナは大きく息を吐き、扉に背中を預けた。
「……もう、何なのよ……」
胸に手を当てる。
まだ、心臓が速い。
さっき手が触れたこと。
レイが少し慌てたように見えたこと。
顔が赤いと指摘されたこと。
そして、明日の集まりの話。
思い返すたびに、胸の奥が熱くなった。
「……レイ君……」
小さく名前を呼ぶ。
誰も聞いていない部屋の中だからこそ、自然に口にできた。
「……私、どうしたらいいのかな……」
答えてくれる人はいない。
自分でも、答えが分からない。
ただ、レイと一緒にいる時間が好きだった。
彼と話すことが楽しかった。
そして、手が触れただけで、あんなにも胸が高鳴った。
(……明日も、会えたらいいな)
アスナはベッドに腰掛け、窓の外を見た。
明日は第一層攻略の集まり。
多くのプレイヤーが集まり、攻略について話し合うことになるだろう。
緊張もする。
どんな人たちが来るのか、どんな話になるのか、不安もある。
けれど、今のアスナには、それ以上に気になっていることがあった。
(……レイ君、来てくれるかな)
もし来てくれたら。
人混みの中で彼を見つけたら、きっと嬉しくなる。
そして、また少し話せたら。
今日みたいに、並んで歩けたら。
そんなことを考えるだけで、自然と口元が緩んだ。
「……来てくれるといいな」
その呟きは、誰にも届かない。
けれど、アスナの心の中では、明日への小さな期待が確かに膨らんでいた。
まだ恋だとは認められない。
自分がどうしてレイを意識してしまうのか、はっきりとは分からない。
それでも。
明日、彼に会えるかもしれない。
そう思うだけで、今日の夜はいつもより少しだけ楽しみだった。
改行解決!
※第6話の一部の隣を前と後ろに変更