散りゆく乙女じゃいられない!〜運命なんてどうでもいいです〜   作:eternal17

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本作は『エストポリス伝記』の二次創作です。
マキシムたちが虚空島で四神に挑んだ戦いから、約九十年後。
原作では短く描かれた「ルフィアが赤髪の少年(原作主人公)に現れる場面」を、
膨らませて書いています。
原作と異なる解釈や独自設定を含みます。


また明日、と言われた日

【海辺に現れた少女】

潮の匂いが、鼻の奥をくすぐった。

まぶたの向こうが明るい。

目を開けると、青があった。

空と海が、遠くでひとつに溶けている。

足元で水が寄せては返し、小石がからからと鳴る。

引いていく泡が砂を濡らし、昼前の光を受けて細かく瞬いた。

頬を撫でる風は冷たい。陽射しだけがじんわりと暖かい。

藍色の長い髪が風にあおられ、視界を横切った。

少女は、濡れた砂の上に立っていた。

口を開く。喉が動く。出てきたのは、かすれた息だけだった。

もう一度。やはり息だけが漏れる。

声という形になる前に、どこかへ消えてしまう。

少女は喉に手を当てた。指先に、とくとくと脈が触れる。

辺りを見回す。

草に覆われた丘。木立の間を抜けていく細い道。

石造りの橋の先には小さな島があり、古びた祠のようなものがひっそりと建っている。

岸辺には小舟が数隻、波に揺られていた。

そしてずっと北、丘の向こうには、いくつもの塔を持つ城。その足元に、赤や茶色の屋根が寄り集まっている。

どれも、ただ目に映るだけだった。

服を見下ろす。裾は土で汚れ、あちこちがほつれていた。

靴の中で、片方のつま先がじくじくと痛む。

そのとき、お腹がぐうと鳴った。

少女は腹に手を当てた。きゅう、と縮む。

視線が、北の屋根の群れへ吸い寄せられた。

砂浜から、草の道へ。

道の脇では、白や黄色の小さな花が風に揺れていた。

丸い石が靴の裏でころりと滑る。そのたびに足が止まる。

つま先の痛みをかばいながら、一歩、また一歩と進んでいく。

遠くから、音が届いた。

からん、からん。

少女は立ち止まり、音のする方へ顔を向けた。

肩から、少しだけ力が抜けた。

太陽がすっかり高く昇った頃、町の入口にたどり着いた。

喉はからからで、足は棒のようだった。

門のそばでは、男たちが荷を運びながら掛け声を上げている。どこかで子供の笑い声がはじけた。

 

【少女が訪ねた街】

アレキア。

少女は、この町の名前すらも知らない。

町はずれに、花畑のようなものが見えた。

少女の目はそこで一瞬だけ止まり、すぐに通りの賑わいへ引き戻された。

石畳の通りは、外から見たよりずっと賑やかだった。

野菜を山盛りにした籠、色とりどりの布、飛び交う呼び声。

そこへ焼きたてのパンの匂いがふわりと流れてきて、少女の足が止まった。

店先には、丸いパンや細長いパンがずらりと並んでいる。

少女の目は、その中の、いちばん端の丸いパンで止まった。

他より少し白っぽくて、指で押したらそのまま沈みそうに見える。

近づく。棚の縁の手前で、手を止めた。

指先が、パンの数センチ手前で宙に浮いている。

「どうした、嬢ちゃん。欲しいのか?」

恰幅のいい店主が、頭の上から声をかけてきた。

少女は顔を上げた。

口を開く。喉が動く。——また、息だけが漏れた。

「……ん? どうした。喋れないのか?」

店主は眉を寄せて、少女を見下ろした。汚れた服。すり減った靴。

「一人かい? 親は?」

少女は、ただ店主の顔を見上げた。

返す言葉を探すように唇が震え、何も形にならなかった。

店主が困ったように頭をかいたとき、奥から別の客の呼ぶ声がした。

体が勝手に、小さく頭を下げる。少女は、逃げるようにその場を離れた。

頭を下げた拍子に、指先が冷えているのに気づいた。

通りの人々は、誰もがどこかへ向かっている。声を交わし、笑い、すれ違っていく。

少女だけが、その流れの外にいた。

道の端にしゃがみ込み、膝を抱える。

屋根の上で小鳥が鳴いている。陽だまりの中なのに、抱えた腕の内側だけが冷たかった。

影が、ふっと落ちた。

「おや、どうしたんだい、こんなところで」

見上げると、籠を抱えた女性が立っていた。

四十を過ぎたくらいだろうか。腕には野菜や果物がどっさり入った籠、エプロンには土と果汁の染み。

市場の人らしい、日に焼けた顔をしている。

女性は少女の汚れた服と、すり減った靴にちらりと目をやり、ふうと息をついた。

「……あんた、迷子かい」

少女は何も答えられない。唇だけが、小さく動いた。

「おうちは? 名前は?」

少女は答えるかわりに、ぱちりとまばたきをした。

「……そうかい。声が出ないのかね」

女性は籠を抱え直し、しゃがんで少女の目線に合わせた。

「ちょいとおいで。すぐそこに宿屋があるよ。あそこの主人なら、悪いようにはしないさ」

差し出された手は、荒れていて、あたたかそうだった。

少女は、差し出された手と女性の顔を、順に見た。

それから、おそるおそる、自分の手を重ねた。

ぎゅっと、握り返される。

宿屋は大通りから一本入った、静かな場所にあった。

石積みの一階に木組みの二階。軒先の木の看板は少し色褪せているが、窓枠はきれいに塗られ、入口脇の鉢植えには小さな花が揺れている。

「ローマン! いるかい?」

扉を開けたとたん、暖かな空気と、何かを煮込む匂いが少女を包んだ。

磨かれた床板、使い込まれた丸テーブル、壁に掛かった古い絵。

お腹が、また鳴りそうになった。

「おう、どうしたね」

奥から出てきたのは、小柄な男だった。

年のころは五十ほど。白髪の混じった髪を後ろへなでつけ、痩せた体つきをしている。けれど背筋はしゃんと伸びていて、声は落ち着いた、ゆったりとした響きがあった。

「町で座り込んでてね。迷子らしいんだよ。どうも、口もきけないみたいでね」

「ほう、迷子かね」

ローマンと呼ばれた男は、少女を上から下までゆっくりと眺めた。それから、少しだけ目尻を下げた。

少女の目が、声のするほうへ動く。

「わしはローマン。ここの宿屋の主人じゃ。……ふむ。話せんでも、聞こえてはおるようじゃな」

「まあよい。話は後じゃ。腹は空いとるかね」

少女が何かをするより先に、お腹がぐうと鳴った。

「ほっほ。正直な腹じゃのう。座って待っとりなさい」

ローマンは奥へ引っ込んでいった。

女性が肩をすくめる。

「あの人はいつもああなんだよ。腹が減っちゃ話もできん、ってね」

椅子に腰かけて待っていると、やがて湯気の立つ皿が運ばれてきた。

野菜のスープと、焼きたてのパン。

少女は両手を伸ばしかけて、途中で止めた。

皿とローマンの顔を、交互に見る。

「ほっほ。子供が遠慮するもんじゃない。冷めるぞ、食べなさい」

ローマンは自分の手で、パンをちぎってみせた。

少女の手が、ゆっくりと動いた。

パンをちぎると、ふわりと湯気が上がる。かじれば、外はさくっと、中はもちもち。

続けてスープを口に含むと、澄んだ塩気が舌に広がった。一口で、体がこれを欲しがっていたのだと分かった。喉を通った熱が、腹の底まで落ちていく。

指先まで、血が戻ってくるようだった。

目の奥が、熱くなった。

ぽとり、と一粒、涙がスープに落ちた。

少女は、それでも手を止めなかった。

夢中で食べる少女を、ローマンと女性は黙って見守っていた。

皿が空になる頃、女性は「それじゃ、あたしは店に戻るよ」と籠を抱え、去り際に少女の頭をぽんと撫でた。

少女は、小さく頭を下げた。

「いいんだよ。ちゃんと食べな」

女性は笑って、扉の向こうへ消えた。

ローマンが空の皿を下げながら言った。

「よろしい。今日はもう休みなさい。空いている部屋がある」

少女は、椅子に座ったまま動かなかった。

ローマンは、ふっと目を細めた。

「ここにいてよいのじゃよ。……それより足じゃ。ずいぶん歩いたのじゃろう、見せてごらん」

靴を脱ぐと、つま先は赤く腫れ、皮がむけていた。

ローマンは「こりゃ痛かったろうに」と眉を寄せ、井戸水で冷やした布を当て、ゆっくりと、けれど手際よく包帯を巻いてくれた。

ひんやりした感触が、痛みをすうっと引かせていく。

食堂の窓際の椅子で、少女は足を休めていた。

午後の光が、舞い上がるほこりを金色に染めている。

包帯の巻かれた足先を眺めていると、裏口のほうでごとりと音がした。

少女は顔を上げた。

 

 

【少女の声】

戸口に、少年が立っていた。

同じ年頃の、七つくらいの男の子だ。

燃えるような赤い髪が、午後の光を受けて揺れている。赤茶色の瞳は、好奇心できらきらしていた。動きやすそうな服を着て、いかにも元気そうだ。

「ねえ、きみ、見ない顔だね。だあれ?」

少女は少年を見つめた。

口を開く。——息だけが、漏れた。

少年は首をかしげて、待っている。急かすでもなく、にこにこと、じっと。

「ええと、名前は?」

名前。

その音が、耳から入って、舌の付け根にこつんと触れた。

喉が、震える。

舌が動く。唇が、ゆっくりと形をつくる。

「……る」

小さな、小さな音だった。

「……ル、フィ……ア」

かすれた声が、空気を震わせた。

少女は、はっと自分の口を両手で覆った。

喉の奥が、まだじんじんと震えている。

少年が、目をまんまるにした。

「ルフィア? ルフィアっていうの?」

ルフィアは、こくりとうなずいた。

「ルフィアちゃんか。いい名前だね」

少年は嬉しそうに笑った。

その笑顔に、強ばっていた頬がゆるんだ。

「ルフィアちゃん、遊ぼうよ。鬼ごっこ!」

「お……に……?」

「そう、鬼ごっこ。知らない?」

「お、に、ご……っ、こ」

唇の上で、その言葉を転がす。

ふくらはぎが、ぴくりと跳ねた。覚えのある何かが、指の先まで駆け抜ける。

「じゃあ決まり。最初はルフィアちゃんが鬼ね!」

言うが早いか、少年は裏口から駆け出した。

「ま……」

ルフィアの口から、音がこぼれた。

「ま、て……!」

ルフィアは靴をつっかけて、後を追った。

足の痛みが、不思議なほど遠かった。

裏庭の洗濯物の間をすり抜けると、シーツがはためき、石けんの匂いが頬をかすめる。

低い石垣を、赤い髪の少年がひょいと越えた。

少年の肩が、右へ沈むのが見えた。

体が、先に動いた。

壁際へ回り込み、体を低くして、物陰から飛び出す。指先が、少年の背にかすった。

「わっ、あぶないなあ!」

少年が目を丸くして振り返る。

ルフィアの心臓が、どくんと鳴った。

石畳の小路へ飛び出す。靴底が硬い石を打つ音が響く。洗濯物を取り込んでいた女の人が「こらこら、転ぶんじゃないよ!」と笑った。

ルフィアは、その声に向かって、ぶんぶんと手を振った。

「ルフィアちゃん、こっちだよ!」

少年が角の向こうから叫ぶ。

呼ばれた名前が、風に乗って耳元を過ぎていった。

「まって!」

今度は、ちゃんと声になった。

心臓がどくどくと鳴る。息は弾み、笑いが喉までせり上がってくる。

小さな広場の噴水の縁で、少年はとうとう追いつめられた。

「つ……か、まえ……た!」

ルフィアの手が、少年の肩をぎゅっと掴む。

「あーあ、つかまっちゃった。ルフィアちゃん、速いねえ」

肩で息をしながら、ルフィアは笑った。声を立てて、笑った。

少年も笑った。額に汗が光り、赤い髪はぼさぼさだった。

「ねえ、もう一回やろうよ。今度はぼくが鬼ね!」

ルフィアは、大きくうなずいた。

夕暮れまで、二人は町じゅうを走り回った。

 

【またあした】

「おーい、ルフィア! ご飯じゃぞ!」

宿屋の入口で、ローマンが細い手を口に当てて呼んでいた。

名前を、呼ばれた。

広場で何度も呼ばれた名前を、ローマンも耳にしていたのだ。

「は、あい!」

大きく手を振ると、少年が「じゃあね、また明日!」と言って背を向けた。

その袖を、ルフィアはつかんだ。

「ルフィアちゃん?」

指が開かない。少年が困ったように笑っても、握った布を放せなかった。

少年はしばらく待ってくれた。それから、そっと袖を引き抜いて、「また明日ね」と言い直し、夕焼けの通りを駆けていった。

ルフィアは、その赤い髪が角を曲がって見えなくなるまで見送った。

「……あ」

唇が動いた。けれど、続きは声にならなかった。

袖を握っていた指が、まだ少し熱かった。

夕食は魚の入ったシチューだった。

ルフィアは匙を握り、ふうふうと息を吹きかけてから、口に運んだ。ローマンは、その手つきを見て、目を細めた。

二階の小さな部屋に案内される。

窓の向こうでは、アレキアの屋根の向こうにそびえる城の塔が夕闇に溶けかけ、鐘の音がひとつ、遠くで響いて消えた。

寝台のシーツは清潔で、毛布からはお日様の匂いがした。

ルフィアは横になり、天井の木目を見つめた。

まぶたの裏に、赤い色が揺れる。

走り出した背中。振り返った笑顔。肩に触れた手の熱。広場の噴水の水音。

部屋は静かだった。

ルフィアの唇が、ゆっくりと動いた。

喉の奥から、息が、声になって出ていく。

「……ま、た……あ、した」

小さな声は、暗い部屋の中にふわりと溶けた。

毛布を引き寄せる。足の痛みは、もうほとんどなかった。

答えるものはいない。

けれど、その静けさには、明日があった。

ルフィアは目を閉じる。

まぶたの裏には、赤い髪の少年の笑顔が、いつまでも残っていた。




原作では、オープニングの文字スクロールの後で、唐突に街のシーンが出てきて
少女は気づけば宿屋にいた、くらいの場面でした。
英雄の戦いから九十年。赤毛の少年と、名前だけを持つ少女の日々は、ここからゆっくり動き出します。
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