Romancing SaGa 2: Revenge of the Seven   作:そらひかる

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子猫との再会

 

 夜風が吹き抜けるアバロン城の上層屋根に、季節外れの静寂が落ちた。

 眼下の大広間から漏れ聞こえてくる戦勝祝賀会の華やかな弦楽器の調べも、遠くの街路で上がる民衆の歓声も、この瞬間だけは嘘のように遠くへと退いていく。

 月明かりを浴びて白く輝く屋根瓦の上で、キャットは大きなエメラルドグリーンの瞳を丸く見開いたまま、息を呑んで立ち尽くしていた。

 頭の上でピンと立ったオレンジ色の大きなリボンと、外ハネした鮮やかな金髪のショートヘアが、夜風にさらさらと揺れている。

 その視線のすぐ先――屋根の一段下に張り出した空中庭園のバルコニーでは、金糸の刺繍が施された濃紺の礼装を纏ったバレンヌ帝国皇帝ジェラールが、手すりに置いていた手を離し、信じられないものを見るような表情でこちらを見上げていた。

 

「…皇帝!? どうしてこんなところに!?」

 

 静まり返った夜の空気に、キャットの思わず漏らした声が響く。

 それはかつて、城下町のよろず屋の暖炉から煙突を登り、屋根伝いに城の自室へと侵入して彼と鉢合わせたあの夜と、寸分違わぬ言葉だった。

 一瞬の沈黙のあと、先に我に返ったのはジェラールの方だった。

 彼の端正な顔立ちに宿る澄んだ碧眼から、張り詰めていた険しさがすっと消え、代わりに悪戯を見つけた少年のような、どうしようもなく優しく穏やかな光が灯る。

 

「……どうしてこんなところに、か。ふふっ、それはこっちの台詞だよ、キャット。今夜は城中の衛兵が厳重に警備を固めているはずなんだがな」

 

 ジェラールは衛兵を呼ぶどころか、どこか嬉しそうに口元を緩めてバルコニーの端へと歩み寄ってきた。

 その柔らかな声を聞いた瞬間、キャットの胸の奥がトクンと大きく跳ね上がる。

 顔を見られた恥ずかしさと、無断で忍び込んだ気まずさが一気に押し寄せ、彼女の白い頬がみるみるうちに林檎のように赤く染まっていった。

 

「な、なによ! 私はただ、運河要塞から戻ったあんたが……じゃなくて、皇帝さんがちゃんと五体満足で生きてるかどうか、ついでに確認してあげただけよ! こんなところで油断して夜風に当たってるなんて、相変わらずお人好しで隙だらけなんだから!」

 

 キャットは早口でまくし立てると、右手の人差し指にはめた黒い指輪と手首のブレスレットを鳴らしながら、ぷいっと顔を背けた。

 これ以上ここにいたら、自分の心臓の音が夜の静けさの中で彼にまで聞こえてしまいそうだった。

 

「と、とにかく! 元気そうな顔は見れたし、私の用事はこれで終わり! じゃあね、皇帝さん。……バイバイ。」

 

 あの日、赤いカーテンが揺れる窓枠に手をかけて夜の闇へと飛び降りた時と同じように、キャットは悪戯っぽく振り返って別れを告げると、背中の赤とピンクの縞模様のマフラーを翻して屋根の端から飛び降りようとした。

 だが、彼女のブーツの爪先が瓦を蹴るよりも早く、下から鋭くも切実な声が飛んできた。

 

「待ってくれ、キャット! 頼む、行かないでくれ!」

 

 それは皇帝としての威圧的な命令ではなく、大切な人に去られることを恐れるひとりの青年の、あまりにも真っ直ぐな声だった。

 キャットが思わず足を止めて振り返ると、なんとジェラールは皇族の礼装を着たままバルコニーの大理石の手すりに片足をかけ、屋根を支える白亜の化粧柱へと手を伸ばしていたのである。

 

「ちょ、ちょっとあんた、なにやってんのよ!? そこはバルコニーの縁よ、足を滑らせたら下まで真っ逆さまじゃない!」

 

 慌てて屋根の縁へと駆け寄るキャットの目の前で、ジェラールは剣の鍛錬で鍛え上げられたしなやかな腕力を活かし、柱の装飾と屋根の軒先を掴んでぐっと身体を引き上げた。

 しかし、戦いやすい黄金の鎧や軽装とは勝手が違うのか、礼装の長い裾がブーツの踵に引っかかり、屋根の瓦へ手をかけた瞬間に彼の身体がぐらりと危うく傾いた。

 

「あっ……!」

 

「もうっ、危ないって言ってるでしょ!」

 

 キャットは反射的にその場に膝をつき、白い付け袖から伸びる華奢な両手を伸ばして、ジェラールの腕と肩をしっかりと掴んだ。

 そのままシティシーフならではの軽やかな重心移動でぐっと彼の上半身を引き上げると、ジェラールは瓦の上に転がり込むようにして、無事に屋根の上へと登りきった。

 すぐ目の前で荒い息をつくジェラールのブロンドの髪が、キャットの鼻先をかすめる。

 あまりにも近い距離に、キャットは掴んでいた彼の手を慌てて離し、一歩後ろへと飛び退いた。

 

「はぁ、はぁ……た、助かったよ、キャット。礼装の裾が思ったよりも邪魔をしてしまってね」

 

「まったく、信じらんない! 一国の皇帝が自分から城の屋根によじ登ってくるなんて、前代未聞よ! もし落ちて怪我でもしたら、あのベアっていう堅物の騎士に私が八つ裂きにされるところだったわ!」

 

 胸をなでおろしながらプリプリと怒ってみせるキャットだったが、ジェラールは瓦の上で膝に手をついたまま、困ったように眉を下げて微笑んだ。

 

「すまない。だが、あそこで君を呼び止めなければ、また煙のように消えてしまうと思ったんだ。運河要塞の小屋で『ご無事で』と声をかけてもらって以来、ずっと君を探していたんだからな」

 

「え……? わ、私を……?」

 

「ああ。大広間の祝賀会でも、君がどこかに来ていないかとずっと探していた。……まさかお礼を言いたい相手が、あの夜と同じように空から会いに来てくれるとは思わなかったよ」

 

 ジェラールはゆっくりと立ち上がると、礼装の埃を軽く払い、月明かりの下でキャットの姿を真っ直ぐに見つめた。

 澄んだ碧眼に映り込む自分の姿に、キャットは居心地が悪くなって視線を泳がせる。

 首元に巻いた黒いリボンチョーカーが、なんだか急にきつく感じられた。

 

 

………。

……。

…。

 

 

 夜風が再び二人の間を通り抜け、キャットの左耳で揺れる赤い小花のイヤリングを小さく揺らした。

 ジェラールは屋根の棟の近く、街の景色が一望できる緩やかな瓦の斜面へと歩み寄ると、高価な礼装が汚れるのも構わずにそのまま腰を下ろした。そして、自分のすぐ隣のスペースを軽く手で叩いてみせる。

 

「立ち話もなんだし、少しそこに座らないか? 君がわざわざ登ってきてくれたんだ、すぐに追い返すわけにはいかないからな」

 

「……そこまで言うなら、ほんの少しだけ付き合ってあげるわよ。ただし、私がそばにいるときはお財布に気を付けてくださいね、陛下?」

 

 キャットは片目を閉じて愛らしくウインクをしてみせると、ジェラールの隣――手が触れ合いそうで触れ合わない絶妙な距離に、濃紺のショートパンツの裾を整えながらちょこんと腰を下ろした。

 その茶目っ気たっぷりの軽口に、ジェラールは目を瞬かせ、やがて堪えきれないように声を上げて笑った。

 

「はははっ! ああ、気をつけよう。だが、城の金庫の鍵なら大広間の大臣が持っているぞ。今の私の懐にあるのは、せいぜいハンカチくらいのものだ」

 

「なぁんだ、つまんないの。ダークエンジェルとしたことが、獲物の選定を間違えちゃったわね」

 

 ケラケラと笑うキャットの横顔を眺めながら、ジェラールはふっと息をつき、改めて彼女の方へと身体の向きを変えた。

 笑みが収まった彼の顔には、一点の曇りもない誠実な色が浮かんでいる。

 

「キャット。遅くなってしまったが、まずはどうしてもこれを言わせてくれ」

 

 ジェラールは背筋を正すと、屋根の上でキャットに向かって深々と頭を下げた。

 

「君が命懸けで運河要塞の秘密を探り、私たちを中へと手引きしてくれたおかげで、最小限の犠牲でヴァイカーを討ち破ることができた。長らく閉ざされていた南バレンヌの航路が開が開かれ、今夜こうして街の人々が笑っていられるのは、間違いなく君の力のおかげだ。バレンヌ帝国を代表して……いや、私個人として、心から礼を言う。本当にありがとう、キャット」

 

 静かな夜空の下に響いた、真っ直ぐで温かな感謝の言葉。

 一国の頂点に立つ皇帝が、地下水道に暮らす名もなき盗賊の娘に頭を下げている。その事実に、キャットは目を白黒させて大慌てで両手を振った。

 

「ちょ、ちょっとやめてよ! 皇帝のあんたが私なんかに頭を下げないでってば! バチが当たって明日からスリが失敗しちゃうじゃない!」

 

「いや、君はそれだけのことをしてくれたんだ。本来なら今夜の祝賀会の主賓として招き、望むだけの褒美と勲章を授けたいくらいだったんだよ」

 

「よしてよ、そんなの! さっきスパローにも言われたけど、私はお城のキラキラした宴会なんて柄じゃないし、金貨が目当てだったわけでもないわ!」

 

 キャットは照れ隠しにぷいっとそっぽを向き、首元の四つ葉のクローバーのブローチと、赤とピンクの縞模様のマフラーの端を指先で所在なげにいじった。

 夜目にも鮮やかな金髪の毛先が揺れ、耳の先端までほんのりと赤く染まっているのが月明かりの下でもはっきりと分かる。

 

「私はただ……あの日、あんたに助けてもらった借りを返しただけだってば。お城の部屋に忍び込んだ私を見逃してくれて、モンスターから守ってくれて、おまけに墓場の下のアジトまで来て地下水路の魔物まで退治してくれたでしょ? 借りは返す主義、それが私の流儀なの。だから、そんな改まったお礼なんて言われる筋合いはないわよ」

 

「ふふ、君は本当に義理堅いな。……だが、君がそういう態度でいてくれるからこそ、私はこうして息ができるのかもしれない」

 

 ジェラールは優しく目を細めると、自らの両手を持ち上げ、額に嵌めていた黄金のサークレット――バレンヌ帝国皇帝の象徴である冠に指をかけた。

 そして、カチャリと小さな金属音を立ててそれを額から外し、無造作に自らの膝の上へと置いたのだ。

 サークレットの束縛から解放された美しいブロンドの前髪が、さらりと夜風に流れて彼の碧眼をわずかに隠す。

 同時に、ジェラールは礼装の首元の窮屈な留め具をひとつ外し、ふぅっと深く長い吐息を夜の空へと吐き出した。

 ただそれだけの仕草だった。

 それなのに、キャットの目には、隣の青年から「偉大なる英雄皇帝」という重々しい鎧が剥がれ落ち、ひとりの繊細で心優しい青年の素顔が浮かび上がったように見えた。

 

 

………。

……。

…。

 

 

「……ねえ、皇帝さん。どうして祝賀会なんか抜け出して、ひとりでこんなところにいたの? 下の大広間、あんなに楽しそうに盛り上がってるのに」

 

 キャットが普段よりも少しだけトーンを落とした声で尋ねると、ジェラールは膝の上の金のサークレットを指先でゆっくりとなぞりながら、眼下に広がるアバロンの街明かりへと視線を向けた。

 

「正直に言えば……少し、息が詰まってしまったんだ。大広間にいる貴族たちも、諸外国の使者たちも、さらには城の兵士たちでさえも、私を見ていながら私を見ていないような気がしてね」

 

「あんたを見てないって……どういうことよ?」

 

「皆、私の中に『偉大な父皇帝レオン』と『勇敢な兄ヴィクトール』の幻影を見ているんだよ」

 

 ジェラールの声には、これまで誰にも見せたことのない深い孤独の色が滲んでいた。

 彼は遠くの夜空を見上げ、自らの胸の奥に渦巻く記憶を確かめるように言葉を紡ぐ。

 

「キャットは、我がバレンヌ帝国の皇族に伝わる『伝承法』という秘術を知っているかい? 先代の皇帝が命を落とす際、その記憶、知識、剣の技、そして魔術のすべてを、次の皇帝の魂へと引き継ぐ秘法だ。私は父レオンからそれを受け継いだ」

 

「……噂には聞いたことがあるわ。急にパジャマ皇子が剣の達人になって、七英雄のクジンシーを倒したって、街でも大騒ぎだったもの」

 

「パジャマ皇子、か。……ああ、まさにその通りだ。伝承法を受け継ぐ前の私は、剣を握るよりも書物を開いている方が好きな、気弱で頼りない第2皇子に過ぎなかった。剣の構えひとつ満足にできず、父上の指導にも『はい、はい』と曖昧に頷くことしかできなかったんだ」

 

 ジェラールは自らの右手を持ち上げ、月明かりの下でゆっくりと握りしめた。

 その手には今、クジンシーの「ソウルスティール」を見切り、大剣の「流し斬り」と剣技の「パリイ」で強敵を打ち破った確かなタコと力強さが宿っている。

 

「だが、父上の記憶と技術が私の中に流れ込んできた瞬間から、すべてが変わった。どうすれば敵の斬撃を受け流せるか、どうすれば陣形インペリアルクロスで仲間を導けるか、頭と身体が勝手に理解しているんだ。……けれど、戦いに勝てば勝つほど、皆が私を英雄として称えれば称えるほど、胸の奥が冷たくなることがある」

 

「ジェラール……」

 

「今、剣を振るっているのは本当に私なのだろうか。大広間で貴族たちに微笑みかけているのは、レオンの記憶に操られた抜け殻なのではないか……そんな恐怖に、時々押し潰されそうになるんだ。ベアも、ジェイムズも、テレーズも、エメラルドも、皆本当に頼もしい最高の仲間だ。だが、彼らに対しても、私は常に『完璧な皇帝陛下』であり続けなければならない。弱音を吐くことなど、決して許されないからな」

 

 そこまで語って、ジェラールは自嘲するように小さく笑い、隣に座るキャットへと視線を戻した。

 月光を映す澄んだ碧眼が、キャットのエメラルドグリーンの瞳を深く見つめる。

 

「そんな時、いつも思い出すのは君のことだったよ、キャット。あの日、よろず屋の屋根から私の部屋へ忍び込んできた君と鉢合わせた時のことをね」

 

「なっ……! だ、だからあれは、事故みたいなものだったって言ってるでしょ!」

 

「ふふ、君はあの時、私の顔を見るなり『…皇帝!? どうしてこんなところに!?』と目を丸くして叫んだだろう? そして私が泥棒はするなよと言うと、少しも怯えることなく『バイバイ。』と笑って窓から飛び降りていった。モンスターから助けた時も、君は私を偉大な英雄としてではなく、『お人好しね、皇帝さん』と呆れたように笑ってくれた」

 

 ジェラールの表情が、驚くほど柔らかく、年相応の青年の無垢な笑顔へと変わっていく。

 

「墓場の下のシーフギルドを訪ねた時も、運河要塞の小屋で落ち合った時も、君だけは私の背後にいる父上の幻影など見なかった。黄金の鎧や皇帝の冠ではなく、ただの『お人好しな男』として、私と対等に話してくれたんだ。……不思議だよ、キャット。君が隣でそうやって勝気に笑ってくれる時だけ、私は伝承法の重圧を忘れて、ただのジェラールというひとりの青年に戻れる気がするんだ」

 

 静かな告白だった。

 夜風に揺れるジェラールの金髪と、どこか儚げで、それでいて自分を心から頼りにしてくれている青い瞳。

 キャットは息をするのも忘れ、胸の奥が熱い湯を満たしたようにじんわりと疼くのを感じていた。

 濃紺のビスチェに包まれた豊かな胸元が、早鐘を打つ鼓動に合わせて大きく上下する。

 地下水道で生まれ育ち、スリや盗みを生業としてきた「アバロンのダークエンジェル」。そんな自分が、一国の皇帝からこんなにも深い信頼と特別な感情を向けられるなんて、想像したこともなかった。

 

 

………。

……。

…。

 

 

「……ほんっとに、救いようのないお人好しね、あんたは」

 

 キャットは小さく呟くと、瓦の上に置いていた自らの右手をそっと持ち上げた。

 黒い指輪が光る細い指先が、ためらいがちに伸びていき、夜風に冷えたジェラールの頬へとそっと触れる。

 ジェラールがハッとして息を呑むが、キャットは手を引っ込めなかった。そのまま彼の柔らかな金髪をかすめるように指を滑らせ、エメラルドグリーンの瞳で真っ直ぐに彼の碧眼を見つめ返した。

 

「いいこと、よく聞きなさいよ、陛下。私は下水道のネズミや夜の屋根の上しか知らないシティシーフよ。陛下のお父上のレオン様がどれだけ偉大だったかも、お兄様のヴィクトール様がどれだけ強かったかも、私にはちっとも分からないわ」

 

「キャット……」

 

「でもね、これだけははっきり言えるわ。私が運河要塞の秘密を探って『運河要塞で待ってるわ。』って約束したのは、陛下の中に昔の英雄の記憶が入ってたからじゃない! あの日、部屋に忍び込んだ泥棒の私を『アバロンのダニ』って呼ぶのをためらって、優しく見逃してくれたのが陛下……、あんただったからよ!」

 

 キャットの声に、17歳の少女らしい真っ直ぐな情熱が宿る。

 頬に触れる彼女の掌の温もりが、ジェラールの冷え切っていた心の奥底までじんわりと溶かしていくようだった。

 

「モンスターに襲われてた私を『仕方がない、助けよう』って迷わず助けに来てくれて、おまけに約束を守って墓場の下の薄暗いアジトまで本当に会いに来てくれた……そんな、あきれるくらい真っ直ぐでお人好しな『ジェラール』だったから、私は力を貸したの! 今夜だって、あんたの顔を見にここまで登ってきたのは、皇帝陛下にご挨拶するためじゃないわ。……私が気になってしかたなかったのは、他の誰でもなく、目の前にいるあんた自身なのよ!」

 

 一気に言い切ったあと、キャットは自分が少し恥ずかしいことを口走ってしまったことに気づき、ボッと音を立てて耳の先まで真っ赤に染め上げた。

 慌てて頬から手を引っ込めようとした、その瞬間だった。

 

「……ありがとう、キャット」

 

 ジェラールの大きな右手が持ち上がり、自分の頬から離れかけたキャットの華奢な手を、その上からそっと包み込んだ。

 剣ダコのある少しごつごつとした、けれど驚くほど温かい青年の手。

 キャットの指先がピクリと震え、大きなオレンジ色のリボンが頭の上で小さく揺れる。

 

「あ、あの……陛下……?」

 

「ああ。……もう少しだけ、こうしていてくれないか。君の手は、とても温かいな」

 

 ジェラールはキャットの手を自らの頬に添えさせたまま、優しく微笑んだ。

 銀貨のように輝く満月の下、アバロン城の屋根の上で、二人は言葉もなく互いの温もりを感じ合っていた

――まさに、その刹那だった。

 

 

………。

……。

…。

 

 

 ヒュンッ! と、夜の空気を鋭く切り裂く異音が頭上から響いた。

「――っ! ……イヤーな予感!」

 

 キャットのシティシーフとしての本能と、アビリティ【抜け目ない】の天性の危機察知能力が、静かな空気を瞬時に打ち破った。

 彼女はジェラールの腕を引っ張って身を伏せさせると、同時に自らの腰の鞘から銀色の小剣を抜き放ち、頭上から飛来した黒い凶器を刃の腹でカンッ! と弾き飛ばした。

 火花を散らして屋根瓦に突き刺さったのは、禍々しい毒が塗られた暗殺用の黒き投げナイフだった。

 

「なっ……! キャット、怪我はないか!?」

 

「私は平気よ! それより上を見て、皇帝さん! 不意討ち!? 信じらんない!」

 

 ジェラールが膝の上の金のサークレットを素早く額へと戻し、腰の剣を抜き放って立ち上がる。

 二人が見上げた尖塔の屋根の上には、いつの間にか闇に溶け込むような漆黒の装束を纏った二体の暗殺者――『シャドウサーヴァント』と、その両脇に控える獰猛な『ガーゴイル』二体が、赤い双眸をギラつかせて見下ろしていた。

 

「ククク……運河要塞のヴァイカー様を討ち破ったバレンヌの若き皇帝が、まさか護衛も連れずに屋根の上で小娘と戯れているとはな。要塞の怨念、その首で贖ってもらうぞ!」

 

 シャドウサーヴァントの低い呪詛のような声が夜風に響く。

 運河要塞陥落の際に逃げ延びていた精鋭の残党たちが、戦勝祝賀会で城内の警備が大広間に集中している隙を突き、空からジェラールの命を狙って奇襲を仕掛けてきたのだ。

 

「運河要塞の残党か……! 祝祭の夜を血で汚すつもりなら、私が相手になる! キャット、危険だ、君はバルコニーから城内へ下がれ!」

 

 ジェラールがキャットを背後に庇うように剣を構えるが、キャットは不敵な笑みを浮かべて彼のすぐ隣へと並び立った。

 赤とピンクの縞模様のマフラーを夜風になびかせ、逆手に構えた小剣の切っ先を敵へと向ける。

 

「冗談じゃないわよ! せっかくのいいムードをぶち壊してくれたお礼、きっちり返してやらないと気が済まないわ! それに……私の大切なジェラールに、指一本触れさせないわよ!」

 

「……キャット! よし、分かった。私の背後は君に預ける! 一気に蹴散らす。行くぞ!」

 

「さあ、始めましょ! 任せて!」

 

 月明かりの大屋根を舞台に、黄金の皇帝と「アバロンのダークエンジェル」の共闘が幕を開けた。

 真っ直ぐに突進してきたのは、空から急降下してきた二体のガーゴイルだった。

 石像のように硬い皮膚を持つ魔物が、鋭い鉤爪を振りかざし、左右から同時にジェラールへと襲いかかる。

 

「隙は見せん! はあっ!」

 

 ジェラールは一切の動揺を見せず、右から迫るガーゴイルの鉤爪を、剣技【パリイ】によって剣の腹で鮮やかに受け流した。

 ガキィン! と激しい金属音が夜の城に響き渡り、ガーゴイルの体勢が大きく崩れる。

 さらに左から襲いかかってきたもう一体に対し、ジェラールは左手を翳して火術【セルフバーニング】を展開した。

 

「グギャアアッ!?」

 

 ジェラールの周囲に渦巻いた灼熱の炎の障壁が、接近したガーゴイルの腕を激しく焼き焦がす。

 そのわずかな隙を、キャットの素早い身のこなしが見逃すはずもなかった。

 

「チャーンス! 逃がさないわよ!」

 

 キャットは軽やかな跳躍で炎に怯んだガーゴイルの懐へと滑り込み、小剣技【切り落とし】で相手の攻撃を受け流しつつ鋭く斬り返す。

 さらに着地と同時にクルリと回転し、毒蛇のような軌道で死角から急所を穿つ【サイドワインダー】をもう一体のガーゴイルの胸元へと突き刺した。

 

「まだまだっ! これでどう!?」

 

 小剣を鞘に収め、今度は体術へと移行するキャット。

 猫のようにしなやかな跳躍から相手の顔面を驚かせて隙を作る【ネコだまし】でガーゴイルの動きを止め、華麗な回転から繰り出す鋭い後ろ回し蹴り【ソバット】と、逆立ちするようなアクロバティックな体勢からの連続回転蹴り【カポエラキック】を続けざまに叩き込む。

 ドゴォッ! と重たい衝撃音が響き、小柄な少女の放った鋭い打撃に、二体のガーゴイルは瓦を砕きながら後方へとよろめいた。

 

「見事だ、キャット! そこへまとめて焼き払う!」

 

 ジェラールが剣を構え、天術【ライトボール】と火術【ファイアーボール】を放つ。

 眩い閃光が敵の視界を奪い、直後に着弾した紅蓮の火球が二体のガーゴイルを包み込んで地面へと叩き落とした。

 しかし、本当の脅威はそこからだった。

 ガーゴイルが倒されるのを冷酷に見下ろしていた二体のシャドウサーヴァントが、影そのものとなって屋根の瓦を滑り、音もなくジェラールとキャットの背後へと回り込んだのだ。

 

「死ね、バレンヌの皇帝……!」

 

 闇から浮かび上がった漆黒の刃が、ジェラールの首筋とキャットの背中を同時に狙う。

 だが、二人は背中合わせのまま、息を合わせて同時に動いた。

 

「当たらないよっ!」

「見切ったぞ!」

 

 キャットは闘牛士のように紙一重で刃をかわして背後を突く【マタドール】で一体目のシャドウサーヴァントをいなし、ジェラールは振り向きざまに足元を鋭く薙ぎ払う剣技【なぎ払い】で二体目の体勢を崩してスタンさせる。

 

「キャット、合わせるぞ! ここで決める!」

 

「ええ、いっちょあがりにしてやるわ! そうだっ……閃いちゃった♪」

 

 二人の頭上に、剣技をひらめく眩い光が弾ける。

 ジェラールは剣を鋭く振るって真空の刃を飛ばす【空圧波】を放ち、さらに縦横に交差する聖なる斬撃【十文字斬り】を叩き込んでシャドウサーヴァントの一体を追い詰める。

 そこへキャットが、巧みな足さばきと予備動作で敵の虚を突く小剣技【フェイント】を挟み、高圧の雷撃を刃に纏わせた【感電衝】で一直線に突撃した。

「「これで終わりよ!!」」

 二人の声が夜の空に重なった。

 ジェラールが渾身の力を込めて縦に鋭く斬り下ろす【二段斬り】を放ち、シャドウサーヴァントの影を大きく切り裂く。

 そこへキャットが、敵の動きを止めた隙をついて小剣で急所を正確に突く連続突きを浴びせ、完全に動きを封じ込めた。

 断末魔の叫びすら上げる暇もなく、二体のシャドウサーヴァントは黒い霧となって夜の風の中へと完全に消滅した。

 

 

………。

……。

…。

 

 

 激しい戦闘の余韻が冷めやらぬ中、屋根の下の回廊から、慌ただしい複数の足音と甲冑の擦れる音が近づいてきた。

 

「陛下! 今、上の屋根で激しい剣戟と火術の音が……! ご無事ですか、陛下!」

 

 バルコニーの扉を勢いよく押し開けて飛び出してきたのは、重装歩兵のベアを先頭にしたジェイムズ、テレーズ、エメラルドの親衛隊の面々だった。

 

 彼らが屋根の上を見上げると、そこには剣を収めるジェラールと、その隣で小剣をくるりと回して鞘へと戻す金髪の少女――キャットの姿があった。

 

「なっ……! き、貴様はあの時のシティシーフの娘! なぜ城の屋根の上にいる! まさか陛下に危害を……!」

 

「待て、ベア。早まるな。彼女は今、運河要塞の残党である刺客から私を守り、共に戦ってくれたんだ」

 

 今にも屋根へ飛び乗らんばかりに剣を抜こうとしたベアを、ジェラールが威厳ある声で制した。

 ジェイムズが周囲に散らばる黒い投げナイフや焦げた瓦の跡を見て口笛を吹き、テレーズとエメラルドが感嘆したように目を細める。

 

「へえ、シャドウサーヴァントの奇襲を二人だけで片付けちまったのか。やるじゃねえか、お嬢ちゃん」

 

「ふふ、運河要塞の時といい今夜といい、陛下のピンチにはいつもあなたが駆けつけてくださいますのね、キャットさん」

 

 親衛隊たちの視線が一斉に自分に集まったのを見て、キャットは急に気恥ずかしくなり、赤とピンクの縞模様のマフラーに顔を埋めるようにして一歩後ろへと下がった。

 

「あ、あーっ、もう! すっかり大騒ぎになっちゃったじゃない! お堅い騎士様たちに囲まれるのはごめんだから、今度こそ私は帰るわよ!」

 

 キャットは屋根の端へと駆け寄ると、夜風にオレンジ色の大きなリボンを揺らしながら、ジェラールに向かって振り返った。

 しかし、今度はジェラールも素早くその手首を優しく掴み、逃がさないように引き止めた。

 

「あっ……! ちょ、ちょっと皇帝さん、みんな見てるでしょ!?」

 

「あぁ。……だが、今夜はもう君をひとりで帰すわけにはいかないな」

 

 ジェラールは柔らかく微笑むと、驚くキャットの手をそっと握りしめた。

 バルコニーの下でベアたちが目を丸くして見守る中、ジェラールは真っ直ぐにキャットを見つめて告げる。

 

「今夜の礼も兼ねて……近いうち、また城下町へ降りておいで。その時は、私が街の美味しい店へ案内するよ」

 

「……っ! な、なに言ってるのよ、急に……!」

 

「約束だ。待っているからな、キャット」

 

 ジェラールの優しい瞳と言葉に、キャットは顔を真っ赤に染め上げながらも、胸の奥からこみ上げてくる甘い温もりに小さく頷いた。

 

「……しょうがないわね。気が向いたら、顔くらい見に来てあげてもいいけど……!」

 

 悪戯っぽくウインクを返すと、キャットは夜の闇へと軽やかに身を翻し、音もなく屋根の上から姿を消した。

 後に残されたジェラールは、彼女が去っていった夜空を見上げながら、膝の上に置いた金のサークレットを手に取り、穏やかな笑みを浮かべてそっと息をついたのだった。

 

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