異世界でオフラインFPS【銃が強くても無双できない紙装甲のぼくは頭をフル回転させて脅威を嵌め殺し生き残る】 作:PUKIKA
真夏日になった三〇日めの昼、アキラはトイレで襲われかける。
この世界のトイレ事情はお寒い限り。選択肢の一つは、中庭の隅にあるトイレ小屋だ。小屋の中には成人男性五人が並んでかけられる木製の長いベンチがあり、そこに五つの穴が開いている。仕切りも何もないベンチに下半身丸出しの成人男性五人が並んで座っているのを目撃して以来、アキラは選択肢その二を選ぶようになっていた。より開放感のある、しかしいくらかプライバシーを確保できる、野外トイレだ。土木工事の現場からほど近い川辺の茂みがそれで、大きいほうは、四方をほぼ藪で囲まれた穴に向けてする。小さいほうは立ち木の栄養にしてやるか、川に向けてする。中には、大きいほうを魚の餌にする者もいる。
その日の昼休憩で、アキラはいつもの木に栄養を与えてやる。そして振り向くと、首輪の男の一人がすぐ目の前に立っている。初日にアキラを〝チェーシェン〟と呼んだ中年の男だ。それ以来、敵意のこもった目を向けてくるだけで、特に実害はなかったのだが、どうやらここにきて、関係を一段階進める気になったらしい。
男が刺々しい口調で言葉を吐き出す。知らない表現がふんだんに盛り込まれているものの、脅し文句なのは明らかで、脅しだけで済ませる気がないのも明らか。相手の堅く握られた拳と澱んだ瞳が、今ここでケリをつけてやる、と告げている。
暗く澱んだ茶色の瞳を見つめ返しているうちに、アキラの胸中に感情がむらむら込み上げてくる。
頭が沸騰しそうなほどの憤怒。
アキラは、自分が何に向けて激怒しているのかわからない。クソまみれの異世界、篠原の死、現在の境遇、目の前の悪意の塊――どれでもあり得える。たぶんきっと、積もり積もったすべてに対してだろう。
あらゆる不満が絶叫している。何かを思い切り殴りたい。めちゃめちゃに壊してやりたい。
例えば、こいつを。
勝てるとは思えないが、一発かますくらいのことはできそうだ。この世界の人間の例に漏れず、こいつも背が高い。首輪の男たちにしろ、警備兵にしろ、そして早朝や日暮れ時にすれ違う市民にしろ、現代日本の若者並みの体格の者が多い。警備隊長の一人のように小柄な者もいるが、少数派だ。たいていの者は、身長一七〇センチ足らずのアキラよりも上背がある。このレイシスト野郎など、一〇センチほど高い。その上、体重も向こうのほうがある。でも、一発くらいなら……
アキラの怒りに気づき、男が歪んだ笑いを浮かべる。目が小馬鹿にしている。
それが試合開始のゴング。
そして始まりもしないうちに終了する。
とりわけ背の高い人影が、アキラとレイシスト野郎のあいだに立ち塞がったのだ。白に近い金髪――同房のミハイ。感謝より欲求不満が先に立つ。アキラは勝負に水を注されたことに不満を覚え、不満を覚えている自分自身に不満を覚える。おい、頭を冷やせ。おまえはテストステロン過多のエテ公か?
対戦相手の不満はアキラの比ではなく、ミハイに食ってかかる。そこへ今度は、警備兵が登場して事態に介入し、簡単な事情聴取ののち、レイシスト野郎を連れ去る。
「ザンシャン」アキラはかすれ声で言う。
「ネイセシス」とミハイ。大したこっちゃない。
この一幕を除くと、日々は平穏だ。訓練だか戦争準備だかで駆け回る騎兵や歩兵の一団を度々目にするが、周囲の空気はむしろ弛緩している。警備兵たちにも緊張の色は認められない。トイレ事件の日の夕飯時、いくらか語彙の増えたアキラは、この点をリランに確認する。
「パサスシ ルータンダス ハイア。フヴオ フュイ ヴァラン……あー、キカネイン? ドゥ アンテ?」この辺り、平和。戦争はどうなってるんだ? 終わった?
「ネー、エ ヴァラン エズド ユウバー」いや、戦争は終わっていない。
リランが木の枝で地面に地図を描き、現在の戦況を簡潔に説明する。ユーエリカ大陸北部の一大国家エクサリオが、周辺諸国と事を構えて多方面に進軍している。しかしここロフト王国では、ハルドガルダ市の北東一三タンネ――約二〇キロ――の要所において、難攻不落を誇るロフト軍の砦がその侵攻を阻んでいるらしい。難民の原因だ。それからリランは、アキラの語彙に合わせて一つの概念を教えようとする。
「アルマスタティム」
肉入り根菜スープ二杯ぶんの時間をかけて、アキラはようやく理解する。
アルマスタティム――休戦または停戦。
リランは一旦脇に逸れて、アキラにヴェーカントラムとマウザを教える。
前者は地球の暦の週にあたり、一二日で一単位。後者は暦の月にあたり、三ヴェーカントラムで一単位。うるう年と夏と冬にプラス・マイナス数日の変動あり。各月と各曜日は、自然物にちなむ名称。一年が平均して三六五日であるのを認めたアキラの横で、リランが話を戻す。
休戦協定が結ばれたのは、約二週間前の、嵐の月の初頭。とはいえ、リランによると、エクサリオ軍とロフト軍は前線を挟んで未だ睨み合っている。いつまでも田畑を放ってはおけない、とハルドガルダ市周辺の村落や町に帰った元避難民たちは、緊張を強いられ続けている。戦場の付近一帯から逃れてきた難民に至っては、その多くが帰りたくとも帰れずにいる。つまり、平穏に見えて平穏ではない。
リランが言う。
「ザウグ ロフテニア アーマタ エスト ポウテレプネナス、ディー エズド バイカナン フヴオ エン ヴァラン ヴァリィ エスト ハイオータ」ロフト軍は精強とはいえ、戦争がどうなるかは、ぼくにはわからないよ。
アキラは胸の中でロフト軍にエールを送る。
次話は本日21時05分に投下いたします。