<Infinite Apocrypha:補遺> 作:N.O.
■西暦1万1500年代 曳航連邦建国よりおよそ百年前
父が死んだ。
齢も齢だったから、仕方なかったのだろう。
傍らでは兄たちが憤り、取り乱し、なにかさかんに喚いていた。イザールの長が亡くなったのだ。考えるべきことはたくさんあるのだった。だが、
父の手は寝床で静かに横たわっていた。それはもう肉のかたまり、皮のふくろだった。優しく頬を撫でてくれるあの骨ばった力強さも、ごつごつしたあたたかさももうそこにはないのだ。
「――とにかく、誰が後を引き継ぐかということだ」
一番上の兄が言った。
「北の国々に不穏な動きもある。地盤が固まるまで父王様の死は触れ回るな。いいな」
兄たちは不承不承うなずきあっていた。年嵩だというだけで舵取りをしようとするこの兄が好かないのだろう。
「
兄の一人が優しげに肩を叩いた。
「おまえ、疲れたろう。部屋に戻って休んでいなさい。後のことは、おれたちがやっておくから」
「兄様。私も、父様の子だよ」
「だが、
一番上の兄が言った。
「我らの末の妹よ、おれたちが護ってやる。だから無理はするな」
無理をしている。
それは確かに当たっているかもしれない。
母親の顔は知らない。自分を産んですぐ亡くなったのだと聞いている。そんなのは珍しいことでも何でもなかった。だから悲しんではいけないと思っていたが、こうして父までも亡くしてみると、地面をなくしたような頼りない気持ちになる。
あとにする部屋の扉はいつもより重たかった。それを閉めたとき、兄たちの世界から切離されている感じがあった。
おのれは力のない兵、目の見えぬ斥候、無知な軍師なのだと。
「お嬢様。どちらへ行かれるのですか?」
外にいたしもべの一人が、そう声をかけてきた。
「もうすぐお夕飯のご準備が整います。お部屋にお持ちしますか。それとも広間で召し上がられますか?」
しもべは東の民だった。その訛りのあるシャーン語がどうにも耳障りで、
「いいわ。部屋に運んでおいて。私はしばらく戻らないから」
「お嬢様」
しもべは顔を歪めて言った。
「お気を落とさぬよう。このようなときこそ食べることです。悲しみはどんな病よりも恐ろしい――」
「――卑しい異国民のくせに、私に差し出口をきくのか!」
「申し訳ございません。取り計らいます」
城の地下は、都市船の古層に片足を突っ込んでいる。
「《
掌を充てがって解言を呟くと、黒い大扉がずるずると
「お父様。ねえ、私はどうしたらいいのかな」
「お父様が身罷られたというのに、私にはなんにもできないの。悲しんでいるだけ。そんなのは何かしているって言えないよね。兄様たちの役に立つこともできない」
そこには、一体の<
翼を立て、膝を突き、項垂れるようにじっとしている。その身体は灰色の石に戻っていた。
かつて、
戦場から帰ってきた父が、軍船より先んじて舞い降りた、あの勝鬨の光景を。<天使>の胸からこぼれ落ちた光が、雄々しくも凛々しい父の戦装束を象っていくさまを。
「なんで死んじゃったの」
「ずっといてよ。私たちのそばにいてよ!」
彼女はそう叫びながら、ざらつく<天使>の岩肌に指をすべらせた。つっ、と引っかかる感覚があって、指先が切れた。赤い血の粒が薄暗がりのなかで黒っぽく盛り上がるのを見ながら、
子供っぽいにも程がある。
自らの幼さに吐き気がした。自分は大人になれていない。価値のある一人の人間に。もう二十歳をすら過ぎているというのに。
――いいじゃないか。
そう、父の声が聞こえた気がして、
――いいじゃないか、少しくらい泣いても。
それは記憶の中の幻だった。あたりは静かで、埃っぽい暗がりに覆われていた。だが、その中心に光の粒のようなものを、
それだけは幻ではなかった。
合奏。あるいは人の声。もしくは色とりどりの光の奔流。
そんなようなものが脳裡を駆け巡っていった。
そして、頬が熱くなった。
父の掌が触れたような気がした。また、かつてのように優しく。
背後でごとりと音がした。
兄たちのひとりが、鳶色の目を見開いて、
◆◆
「契約者は<天使>が選ぶもの」
長兄が言った。
「誰が契約するかはわからない。ああ、そうだ。そういうものだ。しかし、
城の一番高いところ、都市の塔を望むバルコニーで、彼らは顔を突き合わせていた。誰もが落ち着きをなくしていた。
「まだお父様の葬祭も執り行えていないというのに」
「だが、これではっきりしたではないですか」
兄たちのなかで一番年若い、小柄な弟が口を開いた。
「彼女を<天使>が選んだ。
「それはどうかな」
次兄が言った。彼は陰険そうな男だった。脂っぽい髪を撫でつけ、口元をみにくく歪めていた。
「ここにいる皆がわかっているはずだ。いや、はっきり言ってやろう。俺たちはイザールの王権が欲しい。<天使>が選んだからといってそれを末の妹にみすみすくれてやることはないだろう?」
長兄は唸った。
「しきたりだ」
「ええ。だが定められていはしない。不文律というやつだよ、兄上」
次兄はバルコニーの手摺を撫でながら眼下に目をやった。
広大な農場、肥沃な土地、本物の陸と土と作物。そびえる都市塔。その向こうを取り巻く民草のちっぽけな街並み。
「父上は俺たちを平等に扱ってきた。それは美徳だろうが、俺は常々不満だったよ。次代の“イザール”となればこの都市を理想通りにできるだろう。今度こそ特別になれる。みなそう思っているはずだ。違うか」
「ではどうすると?」
末弟が言った。
「
「王とは軍を率いる者のことだ。父上は<
次兄はやや苛立ったように言った。
「女は城にいて護られていればよい。あの<天使>もいずれ次代に渡る。その日まで護っていけばいいだけのことだ。血なまぐさい戦場、あの甘い毒の海に出るのは俺たちの役だ。違うか」
幾人かが頷いた。長兄もその一人だった。
「戦場の契約者は真っ先に狙われる。
「そうともよ。<天使>を継ぐものが“イザール”である必要はない。とにかく、後継ぎを定めねばならんでしょう」
次兄は長兄のほうを見やった。
「ことを急ぐ必要はない。まずは父君の葬礼だ。内々に執り行う。次代イザールを決めるのはその後でもよかろう」
その後でもいい、だなどとは間違いなく思っていないだろう顔つきで、長兄は言った。兄たちのどれも同じようなものだった。
◆◆
「
末弟は軽く拳を作り、彫刻のある扉を叩いた。
「やあ。元気かい?」
末の妹のその部屋は、彼女のそれらしい素朴な趣味に満ちていた。飾り気はないが特有の気品がある。
「何をおしに来たの、兄様?」
「顔色が悪いと思ったのさ」
末弟はいつになくにこやかに笑いかけると、書き物机に腰掛けて足を組んだ。
「どうだい?<
「――兄様もそれなんだ」
「さっき、上の兄様も同じことを言ったよ。そんなに気になるんだ」
葡萄の粒が寄り集まり、蔓をのばしている。その尖った葉が頬の曲面に従って緩やかにカーヴしている。それはどこか仮面のようだった。半分限りの
あどけないようだった彼女の印象に、その輪郭が、底しれぬ凄みをひとつまみ、加えているようだった。そちら側の瞳がぐいっと動いて、末弟を見つめた。
「
末弟は咳払いをした。おのれのリズムを取り戻そうとして。
「それはもちろん。父上の奇跡だからね。だが、力というのは使い方を間違えると危険だ。身を滅ぼすことになる」
彼は肩をすくめた。
「書庫から天使学の本を持ってきたんだ。おまえが知っておいたほうがいいことは多い。これからは<人間イカリ>として生きねばならないんだぞ」
「<天使>の力は水のようなものだ。研ぎ澄ませばその勢いを増す。無造作に垂れ流していてはいけないよ」
鯨皮紙の分厚い頁を一枚、ゆっくりと持ち上げる。
「術にはいくつかの類型がある。たとえば具現術、眷属術とね。だが父上の<
「兄様ったら」
そこで初めて、
「ご自分は契約者でもないくせに」
末弟は言葉に詰まった。ぱっと頬が紅潮した。
そのとき、扉が硬い音を立てて動いた。
「誰だ」
末弟はさっきまでの気まずいものを吹き散らそうとでもいうように、大きな声で叫んだ。
「呼ばいもせずいきなり。失敬な従僕もいたものだ」
だが、入ってきたのは従僕でも何でもなかった。
「なんだ、その姿は!」
そのものは、灰色の鎧に身を包んでいた。
本当の鉄と鉛で造られた鎧だ。甲冑に隠されて顔は見えぬ。
片手には剣を持っていた。イザール家の紋章、腰布をはためかせる牧人が柄に彫り込んであった。
「答もないのか。どうやって城の中に入った、慮外者めが」
末弟は一見してその不審を見て取った。椅子を蹴立てて立ちあがる。だが、彼が自分の剣を抜くよりも早く、鎧の誰かは末弟の胸に剣を突き立てた。
皮膚と、肋骨と、心臓を突き抜いて、白い切っ先が背中から飛び出した。末弟は最期にひゅうっと息を吸込むと、末の妹に目をやって、いった。
――
そして末弟は事切れた。
鎧は剣を勢いよく引き抜くと、末弟の身体を無造作に押しのけた。倒れ込んだ仰向けの死に顔が、
金切り声さえ上げられなかった。腹の底で奇跡がどろどろと渦巻き、紋章がかっと熱くなったが、力の肝心の使い方は分からなかった。
鎧は
思わず、後ろ手に彼女は文机の上を探った。小さなペンダントの中に飾られた、指環のかたちが指先に触れた。
「《
かろうじて覚えていた力あることばを叫ぶと、真っ白な煙が部屋の中を埋め尽くした。
その渦中で、甲冑姿ではものが見えるはずもなかった。
息がうまく吸えない。
心臓が破裂しそうなほど鼓動している。
父から教わった言葉と聖異物がなければ殺されていた。
背後で足音がした。
振り向く勇気はなかった。
行く先は決まっていた。他に選べるはずもなかった。彼女の頼りは、<
<天使>が安置されているそこは、考えてみると、墓所のようなものだ。
石で造られた地下、静けさに埋ずもれた檻。普段なら近寄りたくもない恐ろしい場所、不気味な世界だった。だがいまの彼女にとってみれば、それは父のわずかな縁だった。
父の寝室ではだめだ。
あんなものが父であるはずがない。動きもせず、立ち上がれもしない、温もりも柔らかさもない。
“死”はなにも慰めてはくれない。
助けてはくれない。
だが、後ろからはもうひとつの“死”が迫っていた。
そう思っていた。けれども、灰色の甲冑はいとも容易く黒い扉を潜り抜けて頭をのぞかせた。
「まさか」
彼女はさけんだ。
「そんな。兄様!」
兜を外した顔は、次兄のものだった。
城の中にならず者は入れない。この墓所も、鍵となる言葉を知っているのは家族だけだ。だとすれば、逆説的に賊の素性など明らかだった。けれど、信じたくなかったのだ、そんなこと。
「どうして?私が何をしたっていうの?」
「――すべては<天使>がいけないのだよ」
次兄は血に濡れた剣を拭きながら笑った。
「今少し、時があれば良かったのだ。おれが地固めをするまでの時間がね。そうすれば誰が契約しようとどうにでもなっただろう。だがこの<天使>ときたら、父君が身罷られるやいなや早々とおまえを次代に選んでしまった。まったく、薄情なものだ。人の心がない」
「<天使>に心なんてない」
「そうだったな。まあ、とにかく、おまえにはなんの罪もないさ。かわいい末の妹よ。正直なところ、飼い殺しにするという手も無くはなかった。しかしあれがおまえをいち早く懐柔しようとしたのではね。いや、あれだけではない、他の兄弟たちもわかっているはずだ。次代イザールの継承において、おまえという<人間イカリ>がいずれ強い意味を持ってくるはずだと。邪魔なのだよ」
次兄は目をぎらつかせて剣を構えた。
「まだ力は使えまい。しかしこれから、おまえはどんどんと殺しにくくなる。<天使>の奇跡を使いこなすにつれ――おれたちがあの父上をいかに疎んじていたか、わかるか?」
誰か、助けて!
次兄はいよいよ上段に剣を持ち上げ、切り捨てる格好をとった。
「お前を弑すれば、おれにも契約の目があろうというもの!」
だが、いつまで経ってもその剣は振り下ろされなかった。
次兄は事切れていた。その首は胸と泣き別れになり、赤すぎる血がどくどくと噴き出している。むせ返るほどの鉄の匂いが空間を我が物顔で塗りつぶしていく。
「――やあ、
長兄はそう言うと、その手の中にある指環をしまった。
「悲鳴が聞こえたから飛んできたのだよ。さあ、ここから出よう。温かいものでも飲んで落ち着こうじゃないか」
◆◆
長兄は前庭に出ると、召使いが運んできた
「《
指環が赤く光った。
乳が音を立てて沸いた。満足気にそれを眺めると、長兄は優しい声音で杯を
「飲みなさい。心が落ち着く」
「いい星空だね」
光を砕いてばら撒いたような星々を、レイラインの冷たい直線がするどく貫いていた。それは天を走り、東西に沿って月の軌道を教えている。
「愚かなことをしたものだ」
それを見上げたまま、長兄は言った。拭いきれぬ血の匂いがした。
「契約者は<天使>が選ぶもの。だが人間にも経験則はある。<人間イカリ>を殺したものを<
長兄はため息をつくと、自分も蜂蜜入りの乳を飲み干した。
「恐ろしかったかね、
長兄はそこでちょっと言い淀んだ。
「しかし権力欲というのは兄弟の仲さえ惑わせるものだ」
「私だって、ただ護られるだけのつもりなんかない」
「兄様、私に剣を教えてよ。私だって戦う。戦えるようにならなくちゃいけないんだよ、<
「ああ、そんな悲しいことを言わないでお呉れ」
だが、長兄は横に首を振った。
「妹を
「でも」
「いいかい、おのれで何もかもやってしまおうというのは危険だよ。力というのは他人に使わせるものだ。おのれで使うべきものではないんだ。特にお前は女なのだから。女の幸せとは男に護られていることだ。自ら力を得ようなどとすれば不幸にしかならぬ」
「でも、私は強くなりたいんだよ」
「なってどうする?戦場で<天使>の力を振るおうというのか。イザールを守ろうというのか。それは我ら男の役目だ。ものにはあるべき姿、おかれるべき場所がある。魚は水に、鳥は空に、草木は地のうえに。いっときの気の迷いに従えば、間違ったものになってしまうだけだ。陸に上がった魚よ」
「では、戦う女は間違っているというの?」
「もちろんさ、お前にそんなことをさせたくはない。今までどおり城にいればよい。私たちはお前のために喜んで傷を負うだろう。お前はだから、安寧に生き、いつか子を産んで血をつなぐことが役目なのだ。花と同じだよ」
長兄は前庭の植木を撫ぜた。
「そう、まさに花と同じだよ。花は実をつけるためのものだ。花弁で人は殺せない」
「でも、どこへも行けやしない」
長兄は黙って末の妹を見つめていた。妹もまっすぐにそれを見つめ返した。
「――やはりお前は父君と似ているね」
長兄はため息をついた。
「頑迷で人の話を聞かない。私は真剣にこの国の行く末の話をしているというのに」
彼は疲れ果てたようにおのれの顔を掌で撫でると、そのまま自分の顎を握りしめた。
「あるいは、そういう気質だから<人間イカリ>として選ばれるのかもしれないがね。しかしイザールの王としては――南方の蛮族や、東の鬼どもに挟まれた我々が波間に消えずあり続けるためにはもっと広い眼差しで国の舵取りをしていかねばならない」
「兄様も、私が<天使>と契約したのが気に入らないのね」
「いいや。確かに私も人の子、欲しくなかったといえば嘘になる。しかし聖異物があれば、力は手に入る。なにも契約者が私でなければならん必要はあるまい。だが――」
長兄は
「<
「兄様は王様になりたかったの?」
「そうとも」
彼は肩をすくめた。
「分かりきっているだろう。この国はこのままでは滅ぶと。まだ今はいい。しかし、見ろ、あれを!」
長兄はさっと庭園の向こう、くだりゆく国土を指した。
「荒れはじめている町を。人が減っているのだ。民の中に子はなく、生まれても産声をあげない。我が十人の弟もそのうち四人は死産だった。百年前にはもっと栄えていたイザールの街並みも、端から少しずつ腐り落ちていっているのだ」
長兄は拳を握った。
「人を増やさねばならんのだよ。だから私は父上に言った。戦争で人狩りをするべきだと。鉄よりも土よりも塩よりも、人こそが大事なのだと。奴隷を狩り、南方海域との貿易を増やし、もっともっとイザールを栄えさせねば!だが父上は頷かなかった。変革の痛みを恐れ、現在の維持に腐心されていた――だから、死んでいただく他なかったのだ」
「兄様が?そんな――」
「――殺せるはずはないと?」
「確かに刃では難しかろう。しかし<人間イカリ>とて人の子だ。人並みに眠り、人並みに病む。たとえば
父が死んでからというもの、世界が壊れてしまったようだった。
優しかった兄たち、柔らかく調和していたすべて。身の回りの物事が
世界は酷薄で冷徹な顔をあらわにしていた。
悲しくてたまらなかった。
だが、涙は出なかった。もう二度と泣けないのだ。それは<
目の前にいる恐ろしい男は、両の
「ではどうする」
長兄は言った。
「おまえの<天使>で私を罰してみるか。親殺しの私を。できるものならばやってみるがいい。だがそれをやったとたん、私もおまえを敵とみなす」
彼は身体中の身につけた装身具を煌めかせた。
聖異物だ。鎖が、腕環が、首飾りが、耳飾りが、靴が。<天使>に選ばれなかったその身を代償するかのように長兄はざらざらと聖なる奇跡の品を纏っていた。
「【醸造奇跡 ヤイン】――“酒”の<天使>のちからは私もよく知っている。傍らでずっとそれを、我が父君を見上げてきたのだから。もしも契約したばかりのおまえの力で勝てると思うなら、いいだろう、私の敵になるがよかろう。それもおまえのいう自由だ。
だが、仮に、少しでも恐れるなら、私に降れ。護られているがいい。城でやすらかに過ごすことが幸せなのだと、私が定めた幸せを受け入れながらな」
だが、それをどう使えばいいのかは分からなかった。奇跡は純粋な力でしかない。鍛えられた手わざがなければそれは意味を持てない。
「いつまでも我らの内側にいるがいい」
長兄はその頬を撫でた。
「愛しき末の妹よ」
憎悪と嫌悪が腹を満たした。
目の前にいるのは父の仇だった。それだけは確かなのだ。そうやって憎しみに理由をつけたとき、
名前は知っていた。それが、天上の奇跡を地に喚び下ろすよすがになるということも。
「――ヤイン」
そして、庭園の空に風穴が開いた。
《円環》が天をこじ開け、酒の<天使>が落ちてくる。長兄はあっけにとられたが、すぐに我を持ち直して腰の剣を抜いた。房飾りには、牙の印があった。
「いいだろう。敵ということだな。“同化”で我が聖異物に抗おうと言うわけか」
<
長兄は高々と叫んだ。
「われはイザールが長子、“富”の
<
悲しげな雄たけびだった。それは悲哀の歌であった。契約者の激しい悲しみが電流のように、<天使>の身体を満たしているのだ。
そして、光の《円環》が砕け散った。
翼が燃え上がる。白色光の双翼をまるで両手のように広げて、<天使>は空を掴んだ。
長兄は剣を突き上げたまま凍りついたように固まった。
「我を、失ったのか」
哀しみに我を忘れた“
「待て!」
長兄は血相を変えて追いすがった。
「だめだ、
だが、人の子の矮小な歩みなど、<天使>の翼にとっては取るに足らぬ尺度であった。
長兄が解言を叫ぶよりも早く、その後ろ姿は北の空へと溶け合い、小さく瞬いて消えていった。もはや星々のどれが
だから今でも、イザールの家系に<
End