<Infinite Apocrypha:補遺> 作:N.O.
約束の地へ(1)
■119世紀初頭 曳航連邦建国より数百年後
叩こうとした扉は、薄汚く古びていた。
植物を象ったノッカーには
「
男は敬称を叫んだ。
「お師よ、いらっしゃらないのですか?」
その家は沈黙していた。
男はため息をつくと、蝋と石膏で造られた偽物の生垣を回り、裏庭の方へ足を踏み入れた。
「師よ!」
そこには落ち葉があり、下草があり、立木があったが、どれも石細工の作り物だった。色とりどりの花が咲いているように見えたが、近づいてみると、それは石壁に描かれた超リアリズム的な――百年前に首都テーバで流行っていたような――絵の具の飛び散りに過ぎなかった。
屋敷の主人がこれらに注意を払っていないことは明らかだった。どれもこれも薄黒く煤蟲の害を被っている。埃がうっすらと積もっていた。それでも、繊細な細工物を壊さぬよう、男は心を砕きながら石畳をおずおずと踏んでいった。
「高名なる
観念したように、作り物の庭の陰から、白い髪の老人が顔を出した。男は安堵して歩み寄った。
「ああ、お師よ。お初にお目にかかります。私は――」
「――招かれざる客だろう」
老人はそう言うと、石に腰を下ろした。
「誰だ。挨拶もなしにずかずかと」
「申し訳ありません。戸口でお声はかけたのですが」
男にはあまり恥じ入っている様子もなかった。
「高名なる
老人はじろじろとそのなりを見回した。みすぼらしい格好をしている。黒い外套は船乗りのものだ。だが、胸元に輝いている金のブローチだけは異彩を放っていた。どこか、家系を示すのだろう紋章が彫り込んである。
「私は君の先生ではない。名前は?」
老人はつっけんどんに尋ねた。
男は朗らかに答えた。
「
彼は恭しく
「トグラスか」
老人は笑った。
「私をそう呼ぶ客は久しぶりだ。すでに捨てた名前だが」
「何をおっしゃいます。偉大なる天使学者トグラス様の名前は、私ごときでも存じているのですから」
「世辞はよしたまえ」
天使学者は電気蝋燭を切るみたいに、ふっと笑みを消すと、男を睨みつけた。誰も信用などしていないというふうな眼差しだった。こんな老人がこの細工物にまみれた館に住んでいるということ自体、ちぐはぐだった。自身の趣味ではあるまい。
「それで、何の用かね。先の手紙を寄越したのは君だな、それも二通も。悪いが読まずに焼き捨てたよ。しかしここまで折角足を運んでもらったのだ、用件くらいは聞いてやろうじゃないか。え?」
老人は聞く気のない口調で尋ねた。冷やかし、悪戯、或いはまた学者だから裕福なのだろうと当て込んだ粗忽者が詐欺まがいの行為でも働こうというのか。まなざしからはそう思っているのが透けていた。
「先生に頼みがあって参りました」
「私は船乗りです。いま、また航海に出ようとしておりまして。そしてこれが、ほかでもない、西の海を探索する探査船なのです」
西の海――
曳航連邦にとって、それは一種特別なものだった。
北の海には怪物がいる。東の海には異教徒がいる。南の海には蛮人がいる。だが、西の海には何もない。西は<キボートス海底大山嶺>に塞がれている。西に向かえば向かうほどその山並みはみなもへと近づき、船底を傷つけ、また波を荒立てるのだった。
「それは禁忌だろう」
老人トグラスは言った。
「皇帝の名のもとに禁じられているはずだ。最西海域への航海は許されない。海図さえご禁制の品だというのに、なぜ?」
「いけませんか」
「禁じられた海へ行きたい。そこに何があるのか知りたい。そう思ってはいけませんか?」
「少なくとも連邦ではいけないと思っているから禁じられているのだろう」
トグラスは言った。
「西の果てには清浄の地があると聞かれます。毒の海が終わり、キボートス大山嶺が顔を出す場所があると。もう海に怯えなくてもいい、土を踏みしめて立っていられる地があると。私はそれを探したいのです」
確かに、そういう噂はあった。
もっともそれはおとぎ話程度のものに過ぎなかった。誰もそんなところへ行ったものはいないからだ。人々ははるか西の果のことより、日々住んでいる暮らしのこと、そこに押し寄せる海の恐怖のことを考えるのに忙しかった。だが、目の前の青年はそれを求めて出航したいのだという。
自殺志願者でも見るような目でトグラスは黙り込んだ。
「しかし、私は一介の船乗りにすぎない。御力をお借りしたいのです。私とともに禁じられた海へと向かってはくれませんか」
「それが何を意味するか分かっているのか?」
トグラスは穏やかに言った。
「わかっております、師よ。連邦に叛くことになります」
「わかっていて、君は私をその旅に
しばしの沈黙があった。
「ご興味はありませんか」
「なくはない。だが禁忌を侵すほどではない。それに、人にものを頼むときはまず前金の話からするものだ」
老人は言った。
「私は俗物でね。そのゼータ如何によっては考えてやらなくもない」
「そうですね」
「しかし偉大なる師よ、この世の希なる碩学ともあろう御方がそれではあまりに俗でしょう。もっと聖なるものを代価にされては如何ですか。たとえば――」
「――【偽リベリウス記】。その断篇をお支払いしましょう。はるか西の果てへと辿り着いた暁には」
◆
■西海域
天使学者トグラスはゆっくりと、その船の回廊を歩いていた。
ああ、それにしてもなんという船だろう!
見てくれも美しかったが、内側を歩いているとなお一層この船の格別さが分かった。流麗なフレームが波打つようにして船体をささえ、あらゆるパーツには継ぎ目一つない。やや小型だがせせこましさなど微塵も感じさせない。
そして何より、この大窓だ。
回廊の端には水晶のような、硝子のような不可思議な構造体が嵌め込まれていて、外を見て取ることができた。波間の下、海の透き通った暗がりを。時折、銀の腹を光らせた魚の群れが通りがかり、またあるときは点滅し発光するひどろ虫がつうっと流れていく。
「お気に召しましたか?」
「はるか東のユディト市で発掘された十二隻の高速機動艇の一つです。南方に流れたものをどうにか見つけて買い取りました。“歴史”の船ですよ」
「かつてのか」
「ええ、かつての」
「この窓も硝子ではないのです。学者の分析ではたとえば頭足類の皮膚に近いそうで、どのように光を通しているのかはわからないとか。恐ろしく緻密な有機構造だそうですが――ほら、見えましたね」
「あれが西側航路の終わりの町。ラスペルバです」
遠目にも壮麗な都市船だった。
巻貝のような白い塔がとぐろを巻き、都市中枢を覆っている。その周りにはまるで菌糸類のような網目をつくる街並みが広がっていた。それらはすべて陸橋や塔をつなぐ都市構造体の有機的結合なのだった。
「このラスペルバで物資を補給します。それが終わったら、いよいよ禁じられた海へと入ります。
「だからこの船を?」
トグラスの言葉に、
「ええ。この船でなくては潜水などできませんから。それに、並の船など置き去りにできる足の速さです。軍の妨害はさほど心配しなくてもいいでしょう。出鼻さえ挫かれなければね」
「補給は商船から海上で行います。危険ですが、都市に停泊するよりは軍に見つかるリスクも少いはずです。もっとも、これが商船とは名ばかりの海賊のような奴らで、かなり吹っ掛けられましたがね」
「こんな西の海にも海賊がいるのか」
トグラスは言った。
「ええ、連中はどこにでもいますよ。」
「皆様方、お揃いで」
その船室には、十数人の人間がひしめいていた。トグラスのほかにもずいぶんと声をかけていたらしい。格好からして
「今、上で
「――君が船長ではなかったのか」
トグラスは言った。
「まずは、この危険な航海についてきてくださったことに、深く感謝を」
「今から我らが向かう先は連邦の外側、人界の外側です。もし軍に見つかれば拘束され、まっとうな海図もない、それどころかおとぎ話の中に出てくるような怪物が棲んでいるかもしれぬ、そんな海です。そこに何があるのか知りたいという私の我儘に付き合っていただいたこと、感謝いたします」
「西の海には、海の終わるところがあるといわれています。海に怯えなくともよい、乾いた地と豊かな恵みの茂る理想郷――“約束の地”へと、我らの船は向かうのです。どうか、この船旅に幸いがあらんことを!」
「ユディトの闇市場で手に入れたものです。かなり高くつきましたが」
トグラスは――他の面々もともに――それを覗き込んだ。
「西海域の海図です。古いものです。途轍もなく古い。建国期のものかもしれません。どれだけ頼りになるかも分かりませんが、ひとまずこれに従って進みます。
「――私は天文学者です」
男は言った。
「星読なら慣れています。まっすぐ西に進むだけなら保証はできるでしょう」
「幸いにして、物資は十二分にある。人間より食べ物と水の目方のほうが多いんだからな」
上から降りてきた船長がそう言った。恰幅のよい男だった。海百合の根に手足が生えてきたみたいなごつごつした格好をしていた。彼は炎のように苛ついて唸った。
「あんちくしょうの彼奴らめ、この期に及んで運び賃を釣り上げよった。がめつい奴らだ――だが間違いなく一年は保つ量だし、
「皆様方、よろしいでしょうか?」
「それではこれよりラスペルバ近海域を離脱します。最初の目標は――」
◆
――デリラ。
海図にはそう記されていた。
船はすでに浮上していた。ラスペルバを遠く離れ、国境船の下方をもすり抜けるようにして海域を離脱していたからだ。ここまでくればどれだけ遠目の利く軍人でも、探査船を見つけられるはずはない。
トグラスは中央船室で外の景色を眺めていた。大海原はまるで群青色を砕いて敷き詰めたように広がっていた。その何もない
「よろしいですか、
「言ったはずだがな。私は君の先生ではない。そう呼ぶ必要はない」
「ですから教えを乞いたいのです」
トグラスは読んでいた書を閉じた。どうせ中身は諳んじられるほど読み返していたのだから。
「何かね?」
「西の果ての大地について」
少年は尋ねた。トグラスはため息をつき、唸るように言った。
「たとえば古シャーン語では
「私のいたところでは、“約束の地”と呼んでいました」
「なぜ私をこの旅に誘った?」
老人は言った。
「私は天使学者だ。海理学、海水学、航海術、そのどれも使えん。その<天使>についてだって過去の偉人たちの研究成果を掘り起こしてまとめただけのこと。私の知識がこの調査に役立つとは思えないのだよ」
「先生は十二分に博識でらっしゃいます」
「鋏で魚を捌くようなものだ。できるできないの話とは別に、ものにも人にも本分というのがある」
「そう。私は先生の本分のためにお願いしたのです」
彼はそう言うと、右手に持っていた鋼の箱をおもむろに持ち上げた。文机の上に置かれたそれは、耳障りな音を立てて開いた。武骨なさまで、四隅を火で留めてある。
「お約束の品です。【偽リベリウス記】の頁ですよ」
トグラスは顔をしかめた。
「西の果に辿り着いたら、という話だったと思っていたがな」
「前払いです。ここまで来てしまえば同じことですから。おそらく、これは世にでたことのない頁だと思いますよ」
「どうかね。案外、知られている断篇も多いからね」
トグラスは咳払いをし、分厚い眼鏡を掛けながら、鋼鉄の箱へ顔を寄せた。
そして、彼は弾かれたように後ずさった。
火遊びでやけどをした赤子のように、老人はおのれの手と顔を抑えると、
「なんだこれは」
「ですから、申し上げました。【偽リベリウス記】と」
「馬鹿な。馬鹿なことをいうものだ!」
トグラスは取り乱してさけんだ。あり得ない。こんなものを無造作に放り出してよこすなど。
「これは――これは“原典”ではないか!」
鉄の箱の中に入っていたのは、乱暴にちぎり取られたようなざらつく、ただの一枚の紙片だった。ただしその粗い紙面では、くすんだ文字が蟲のように蠢いていた。
それらは一節の文章を作っては、次の瞬間にはまた違う一節へとばらばらに組み替えられている。延々と移り変わり続ける文字の群れは、その言語すら異なるものに変化させながら、セピア色のダンスを踊っていた。
【偽リベリウス記】の原典。その意味を噛み締め、トグラスは息を落ち着かせながら言った。
「まさか。君が西の果ての話をしていたのは」
「はい」
その右眼の虹彩に、無数の文字が躍っているのをトグラスは見た。かたちを変えゆくセピア色が、瞳孔を囲んで回転している。まるで嵐に舞う羽虫のようだった。
「少し読んでしまったのです。焼きついてしまいました。寝ても覚めても知識が頭の中でぐるぐると、最初の一年は気が狂いそうでしたよ。受け流せるようになるにはさらに数年かかりました。その中でも断片的な記述だけを読み解いて拾い上げられるようになったのは、本当にもうつい最近のことです」
「専門家に向かって恐縮ですが――これは一種の
「本当に、君は幸運だった」
トグラスは言った。
「我々、天使学者でさえ滅多に“原典”を参照することはない。危険すぎるからだ。写本のかたちで扱うのが基本、そうしていても我が兄弟子たちはみな心を喰われてしまった」
「ええ。天使学者にはこれに対処する方法が伝わっていると聞きました」
「気休めのようなものだ。我々の防衛精読とて常に破られる危険がある。これはかの偽リベリウスの――最初の天使学者の手になる術式なのだぞ」
「ですがなにも無いよりはましでしょう。先生はことの専門家であらせられる。その頁には西海域について書かれている。さすがの先生もこれはご存じないでしょう。キボートス大山嶺の名前は、他ならぬ【偽リベリウス記】に記されているのですよ」
「最古の天使文書がなぜキボートスの名に言及しているのか?それはつまり、西の果てには何らかのかたちで<
「私の頭に流し込まれた情報は断片にすぎない。完全ではないのです。足りぬのですよ。できるならもう一度この目で読みたいものですが、それをやれば今度こそ私は心をなくしてしまうでしょう」
「それで、私にか」
トグラスは呆然と言った。
「あるいは私に“読み方”を教えてくださればいい」
「それはできん。天使学者の精読法は一朝一夕で身につくものではないし、才能がなければ今度こそ君の精神はひとたまりもなく壊れる。そんな無謀な賭けをしたいのか?」
トグラスは首を振ると、どっかと腰を下ろした。
「これが私の仕事か」
「危険であることは分かっています」
「いい。だが時間をくれ。ことは慎重に進める必要があるのだ。かつてはひとつの節を読み解くためにひと月をかけたこともあった」
「先生の、徒弟時代のことですか?」
トグラスは力なく笑った。
「私が“トグラス”になる前のこと、バーグリス師のもとで学んでいた
トグラスはそこで初めて
「私がこれに怖気づくとでも思ったのか?西の果をこの目で見たいというのは私も同じ思いだ。二度と、こんな騙し討ちのような真似はするな」
「はい。先生」
その時、あの肥った船長が中央船室に入ってきて、言った。
「おや、学者先生。お話中にお邪魔して申し訳ない――
◆
防護服を着込んで上部甲板に出ると、ぞっとするような海の甘い匂いが立ちこめていた。波からは十分に離れているはずだというのに、それでも毒の香りがする。
そこには黒ずくめの痩せた男がいて、
「先生。なにもこんな場所にまで出てこられずとも」
「年寄り扱いするな。私にも船外活動くらいできる」
「海水には気をつけてくださいね」
防護服のフードをかぶり、
その男はぼろぼろの黒い服を着ていて、裾などはなかば網目のようになっていた。猫背で、張り出した額の奥に隠れた眼差しも薄暗かった。彼はボソボソと不気味につぶやいた。話しかけているというより独り言のようだった。
「北、11時の方角にわずかながら影のようなものがありました」
男は――名前は
「おそらくは都市船と思われます。さほど大きくはなさそうでしたが。私のこの目で見ましたからまず間違いないでしょう。よろしければ先導しますが」
「確かなのですか?」
「ですから、ついてきてくださればわかることです」
黒ずくめの格好が歪んで、大きくなった。
男は人間の姿からかけ離れていき、次第に巨大でくろぐろとした怪物に変身していったのだった。幅広の翅のある蟲の姿に。
能天使系統か。トグラスは離れたところで手摺につかまりながらそう思っていた。それもかなり人型を崩している。あそこまで人間離れした姿で我を失わないというのはなかなかの<人間イカリ>だ。ふつうは能天使でももっと人型を保つ。肉体が怪物に変じたなら、心まで怪物になると、みな分かっているからだ。
『船の針路は変えられるのですか?』
「変えようと思えばすぐにでも」
「では、お願いします」
「船が面舵を取ります。入りましょう」
西方探査船ガディエルはやや北方にそれながら、一ローグか幾らほど進んだ。海のもやが晴れるに従って、前方には確かに土地が見え始めた。間違いなく都市船だった。塔があり、壁があり、浜辺があった。
「これがデリラですか」
「位置から言えばそうだが、わかったもんじゃないな」
髭を生やした
「まあ、名前のわからぬ土地があり、一方で名前しかわからぬ海図がある。どれがどれだろうが大したことではあるまいさ。目の前にあるのがすべてだ。もちろん上陸して確かめてみるのだろう?」
「そうでなくては、何がわかります?」
それで、一行はこの都市にあがってみることになった。むろん全員ではなかった。船長は探査船から離れることを嫌がったし、天使学者トグラスは書を持って自室に引っ込んでしまった。だが幾人かは喜び勇んで、冒険の兆しにわくわくしていた。
「まったく未知の土地ですよ」
ことに民俗学者などは喜色をあらわにそう言った。これは若く痩躯の、吹けば倒れそうな男だったが、今度ばかりは船酔いのことも忘れて
「間違いなく私を連れて行ってくれるのでしょうな。何のために私をこの探査に誘ったのかということですよ。ここで私を置いていったりはしないでしょうね」
上陸は四名で行われた。防護服を身に纏い、浅瀬の海を掻き分けていくのはひどく嫌な気持ちだった。なにせ、整備された桟橋などあるはずもなかったのだ。
「さて、ここがデリラ――もう、そう呼ぶことにしますが――とにかく、記録の方はお願いしますよ。もっとも頼まなくともそうしてくれそうですが」
ごつごつした海岸線で、
人影はなかった。
あたりは死んだ珊瑚と融けた鉄、錆、砂のかたまりが混ざり合った海岸で、足で踏みしめるたびにざらざらと文句を言った。だが、人の住んでいた名残はたしかにあった。
人間を象ったらしき像がふたつ、遠く向かい合うようにして据えられていた。らしき、というのはその彫像が、長く伸びた二本の角を持っていたからだった。
明らかに人の作ったものだった。よく見るとその間には広々とした道の砕け散った跡があった。民俗学者は興奮気味に手元の紙くずへなにか書き付けていた。
「見たことのない様式ですよ」彼はいった。「少なくともシャーン人のものではないと思います。まだ人がいるのでしょうか?」
「さて。いてくれるとありがたいですがね。色々と聞きたいことがあるのです。もっとも、人がいたとしてもことばが通じるのかどうか」
一行の目標に定められたのは、まずは浄水の補給だった。すでにそれなりの量を費やしていたからである。たしかに濾過便で多少は賄えるが、それにしたってきれいな水の多いのに越したことはない。
「
海図描きがいった。
「この都市はかなり広い。本当に調べ尽くそうと思ったら長くかかるぞ」
「しかしそう急ぐものでもないでしょう。調査は必要です。少なくとも人間の不在は確かめておく必要がある。とりあえず中心の塔を目指しましょう」
海図描きはやや不満げに頷いた。
「空から見てみましょう」
そう言うと、<人間イカリ>は蟲に身を変えてさっと舞い上がっていってしまった。
内陸へと分け入るにつれ、都市は都市らしくその街並みを見せつけた。もっともすべて無人だった。埃を被って朽ちて、崩れていた。生き物の影一つなかった。土はなく、砂と赤錆だけだった。
「十年や二十年ではこうはならん」
海図描きは言った。
「こりゃ何百年も昔の街だ。見ろ。この文字を」
転がされたなにかの破片に刻んであるそれを、
「屍体がありませんな」
民俗学者がそう言った。
「屍体?」
「つまり、その、街が滅ぶというのは結構な一大事でしてね」
学者は細い目をさらに細めて答えた。
「とりわけ何をもって滅ぶかが肝要なわけです。戦争で滅ぶのなら戦死体、疫病で滅んだのなら病死体が見つかる。しかしここには何もありません」
「そりゃ、逃散したのさ」
海図描きが口を挟んだ。
「人が減って、最後は仲良く移民船にでも乗っかって逃げ出したのだろうよ。それでどこかの海に沈んだとか。よくある話だ」
「まあ、そうやもしれませんが」
民俗学者は渋々認めたが、なおも不思議そうに遺跡を調べていた。
なにかおかしい感じがした。民俗学者のいうように、なにかあったのだ。人が減って逃げ出したというには、どこか不穏なものがあった。
頭上から
『お見せしたいものがあります』
「どうしたのです?」
『口でいうよりお見せしたほうが早いかと。すぐにすみます』
『見えますか』
『見えませんか?』
「何のことを仰っているのか」
『手があるでしょう』
そこには、大きな掌を突いた手形が刻印されていたのだった。
屋敷跡の破壊はちょうどたなごころの部分にあたり、そこから五つのへこみが放射状に伸びている。アーチを崩しているのも、親指にあたる傷の裂け目だった。
『上から見ているとこんな手形がいくつもありました。はじめは偶然のかたちかとも思いましたが――これは明らかに手です。手の跡です』
その手はとてつもなく大きかった。人間くらい握りつぶせてしまえそうなほど巨大で、雄々しい。それにつけても手形がこれということは、肝心の“手”はどこにあるのだろう?
民俗学者が下で手を振っていた。降りてきてくれとの意味なのだ。
「見てください。塔が――」
デリラの塔は、その廃墟の街の奥に悠々とそびえていた。
それは巨大な円柱だった。最下部は太ましく、切り株のように広がっていて、その上にやや直径を小さくした柱が伸び、すっぱりと断ち切られたような切り口が台座のように空へと晒されているのだった。
その影が少しだけ動いた。
見間違いなどではなかった。角ばった円柱の輪郭が動いている。この、何もない都市で。誰も動く者のないはずの都市で。
手が伸びた。背が持ち上がった。
「<
塔の頂点には、一体の<天使>が這いつくばっていた。光がちらちらと踊り、はためくようにして広がる。ルルルル……と歌うような音が響いて、翼を広げている。
「野良だ。光の翼だ」
民俗学者が血相を変えて言った。
『走れ!』
野良が羽ばたいた。
空間と時間を蹴り飛ばすようにして、その巨体が塔から滑り落ちてくる。杖を振りかざしながら、人間味のない不気味な動きで迫ってくる。
一行は決死の思いで走った。
後ろからは異様な唸りが響いてきていた。まるで人間を百人そこら集めてひたすら囁かせているような、赤子の鳴き声を瓶詰めにして発酵させたような、そんな恐ろしくも美しい音色が。うなじがちりちりと焼けているような気がして、
野良がすぐそこまで来ていた。それはもう地上すれすれのところを浮遊していて、壊れた廃虚を払いのけるようにしながらぐうっと近づいてきた。
「《
果たしてそのとおりになった。
つやのある物理結界がカーテンのようにさっと引かれ、野良はそれにぶち当たって、止まった。があんと鐘の音のような轟音が響いた。
前を飛んでいた
乱暴に放り投げられた石ころみたいなざまで、ひっくり返った
「何事かね。騒々しいにもほどがあるぞ。乱痴気騒ぎで船を壊す気か?」
そう、重装備でハッチから顔を出した船長へ向かって、
「早く!」
誰かが言った。
「早く、出航を!」
船長はそれ以上なにか尋ねたりするほど愚鈍ではなかった。すぐに船は動き出した。甲板にいためいめいは足をもつれさせながら船内へと滑り込んでいった。だが、
そこでは杖を携えた野良が、灰色のからだを重たげに引きずりながら、また塔へとゆっくり戻っていくところだった。光の翼を背に、脚を地上から離して――そこで
野良のその頭、ぼうっと光る眼差しを湛える眼窩だけは、首を真反対にひねりきってこちらを睨んでいたのだから。
◆◆
「野良か」
トグラスはもはやはるかに遠くなったデリラの浜辺を遠眼鏡で覗き込みながら、言った。
「
「
「使いたくはなかったのに。貴重な品だったものを」
その手は虫食いのように欠けて、血が出ていた。たまさか、海のしぶきに触れてしまったのだ。もっとも、それで済んだのは幸運だった。船乗りのなかには腕一本、足一本、ときにはもっと肉体を失ったものも決して少なくはない。
「なぜ追ってこなかったのでしょう」
「野良の行動原理はよく分かっていない。というより、おそらく、それぞれが違う理で動いているのだと思う。あれは、デリラを護っているのだろう」トグラスは言葉を切って続けた。「あるいは支配しているのか。滅ぼしたのか。分からぬことだ。杖を持っているということは主天使系統だろうから、やろうと思えば船に奇跡を撃ち放つこともできただろうに」
「それをされなくて幸運でしたよ」
今度は
「この船は戦争向きにはできていないはずですから」
「“歴史”の船だ。そう悲観したものでもあるまい」
トグラスはそう言うと、がたがた震えている若い民俗学者の擦りむいた膝を包帯で包んでやった。
「落ち着きたまえ、
「いただきます、師よ」
民俗学者はそう言ったが、カップを取り落としてしまった。収まらぬ震えをどうにか鎮めようとして、彼は息を吐いた。
「野良のねぐらだったとは、想像も――」
「ああ、野良は本来なら海に属するはずのものだ。しかし、あれの心配はせずともよかろう。一旦追うのをやめて見せて、騙し討ちをするようなそんな卑怯な真似はしない」
「なぜわかるのです?」
「それは知性だからだ。野良に知性はない。我々人間がやるような卑しい真似はせん。高潔なる白痴なのだ、彼らは」
「けだものですよ」
「そうとも。けだものだ。小賢しい人間などよりもよほど気高い、偉大なるけだものだよ」
探査船ガディエルは、結局なにひとつ補給できぬままにデリラ近海域を後にした。南方にたわむような航路で、あの恐ろしい野良から十分離れたと判断すると、船長は天文学者と海図描きに相談しながらようやく航路を西に向けた。
「やはりだめだ。記録はない」
トグラスは手持ちの文献を漁りながらそう言った。それは【手のひらの書】といって、今まで現れた野良のことがスケッチと伝聞録で書きとめてある本だった。
「西海域中心に見てみたが、どれも違う。だが野良がそう遠くまで移動するということも考えられんし、やはり載っていないのだろう」
「未知の<天使>ということですか」
「この書とて、完全にはほど遠いからな」
トグラスはため息をつくと、鞄に書物をしまった。それは聖異物なのに違いないと
「野良とは、何なのですか?」
「さて。あるものが“何”であるかなど、いったいどのようにして答えられる?我々はただ目に見えるものに名前をつけているだけだ。本質を理解することもないまま。<天使>が何であるかすらも分からんのに」
「しかし、本質がわからずとも、上っ面は見て取れるでしょう」
「その上っ面でさえ、我々は何も知らんのだよ」
探査船ガディエルはさらに西の奥深くへと進んでいった。海の色はだんだんと黒みを増しているようだった。波が次第に強くなり、海水の揮発するもやもまた濃く、白く、視界を塗りつぶしていくのだった。
野良はその数を増やしていた。
航路上の霧に混じって、ぼうっとした影が現れたのは一度や二度ではなかった。そのたびに探査船は舵を切り直し、蛇行するようにして西へと向かっていった。
「不気味な連中め」
船長は毒づいた。
「さすがは禁じられた海だ。こんなのがうようよしていたんではまともな航海などできん」
洋上に野良の<
少しの間はそれでもよかった。天文学者の星読では、探査船ガディエルの軌道はやや南に逸れてこそいたが、おおむね正しく西へと向かっていたからだ。
けれど、それも長くは続かなかったのだ。
◆
「どうかね?」
遠眼鏡越しに外界を覗くトグラスへと、海図描きが声をかけた。老人は鼻を鳴らすと、首を振った。
「いかんな。まったくもっていかん」
そう言うと、彼はそれを無造作に差し出した。
外には一体の<
海の水面を踏みしめるようにして、脚を波に洗わせながら静かに立っている。だが《円環》は頭上になく、代わって揺らめく光の翼が背に輝いていた。
「間違いなく野良だ。系統はわからないが。これ以上近づくと気取られるぞ」
トグラスは言った。海図描きは顔をしかめると、
「ここに1体。おおよそ1ローグ南にもう1体。縄張りがざっと半ローグほど。それが絶えずうろうろと動いている、となると、なあ」
「間をすり抜けようにもすき間がないな」
トグラスは言った。民俗学者がすっかりおびえきった様子で窓の外を睨んでいた。
「勢いよく突っ切れば、どうにかならないのですか?」
とりあえず言ってみた、というほどの口調で、彼はそう尋ねた。海図描きが髭をざらざら擦りながら唸った。
「これだから陸の学者さんは困る。馬鹿なこと言っちゃあいかんぜ。野良というのはああやって海でふらふらするだけのものだが、そのぶん見つかった時は素早い。捕捉されればこの船の最大船速でもおそらく逃げ切れん。それにしたって“叫ばれ”たり奇跡を使われたりしない計算の話なんだ」
船乗りにとって野良は恐怖そのものだった。
外海は人間の領域ではないからだ。都市船から離れればそこは<
「野良というのは、なんというか、目で見ているのではないんだ」
トグラスがつけ足した。
「あれらは空間そのものをダイレクトに認識している。天使学ではふつう被赦界深度と言ったりするが、物理空間上にある質量を感ずる、その射程距離のようなものがあってね。背後から近づいたから悟られない、というような物の見方をしないんだよ、あれらは」
「スペクトルは
「一体だけなら、戦うという手もありますが」
「それは最後の手段だ!」
海図描きが唸った。
「野良に手を出すなどと、ろくなことにならないぞ。あれらは“寄ってくる”んだからな」
「今はこの船も気取られてはいないが、強い力を派手に使えば話は別だ。大っぴらに戦の奇跡など起こせば何ローグ先までもそれが響く。この海だと、一体や二体では済まないだろう」
トグラスのことばに、海図描きはかつての恐怖を噛み潰しているかのような、苦い顔で言った。
「おれは若いころに一度だけ見たことがある。“
「それでなくても、おそらくは勝てないでしょう」
少し遠くに腰掛けていた
「“野良は五割増し”。有名な言葉です。たとえ私が同化しても敵うかどうか」
野良は普通の<
「それに同化するとなればここに呼び出した本体を打ち捨てていかざるを得ない。この船には<
「同感だ。やはり一度引き返して大回りをするべきだ」
海図描きのその言葉に、しかし
「すでにかなりの遠回りをしているのです。これ以上航路を変えたとして、その先で似たようなことがないとなぜ言えます?」
「しかし――」
なおも食い下がる
「さきほど仰いましたね。海に引きずり込まれる船を見たと」
「言ったがどうした。そうなりたいとでも言うのか」
海図描きに、
「ええ、そうです」
「気は確かですか」
民俗学者が頓狂な声を上げた。
「このガディエルは“歴史”の船です。軍の国境船を躱した時と同じですよ。<
「自殺行為だ」
海図描きが唸った。
「たかが海面下をゆくのとはわけが違う。野良の目を避けるということは、半ローグ以上も潜らねばならん。海だぞ。陸に上がりきって忘れてしまったのか?船乗りの鉄則を。俺たちは、人間を簡単に消してしまえる猛毒のうえに浮かんでいるんだ」
「どこかで冒さねばならない危険だ」
「西の果ての航海がまともな道筋であるはずがないのですよ。大丈夫、弾道潜航の後で即座に浮上します。野良の掌握域の外側ぎりぎりを進むかたちになります」
海図描きはなにか言おうとしたが、結局は黙り込んだ。
船長はその話を聞いたときも、あきれたような顔をしてはいたが、文句や不平は言わなかった。
「お前さんには度肝を抜かされるよ」
船長は
「理屈のうえではそりゃあできるさ。この船は“歴史”の遺物だからな。だが海中に別の野良がいたらどうする?海獣がいたら?」
「避けていただけますか」
船長はとうとう笑い出した。
「ははあ避けろと来たか。いいだろう。だがそうなると前後左右だけじゃなく上下の軸もあるからな。船酔いは覚悟しておくんだぞ。特に学者先生方は」
船長は身をひと揺すりすると、舵を眺めながら言った。
「しかし潜航か。手が足らんな」
「手伝うかね?」
トグラスは操舵室の後ろでそう言った。船長は後ろ姿で手をひらひら振った。
「いらんよ」
その手がぶれた。
ぐらぐらと揺らいだのだ。右手が二本に見えたような気がしたと思ったその時、それは錯覚ではなくなった。
「《
船長がふたりになり、そして四人になった。その手のひらのところに無数の手を重ねたような紋章が刻まれているのにトグラスは目を留め、自嘲的に笑った。本当に耄碌したものだ。
「
「別に隠していたつもりはないがね」
船長は――“数”の<
「達する。これより本探査船ガディエルは海中への潜航を開始する。総員、姿勢を保ち、船体の前傾に備えるように――」
船が沈み始めた。
「壮観だな」
トグラスは大窓の前へと回り込み、船の向かう先を見やった。
青く透き通った海水が暗くなっていく。ふだん人間が通りすがるようなところがいかに浅瀬でしかなかったのか、よくわかる。今までは恐ろしくて目を背けていたのだ、自分たちの足元にこんな深みがあるという現実から。
「人の身ではなかなかお目にかかれるものでない。君もこっちへ来てその目で見たらどうかね」
トグラスは民俗学者の
海はどんどんと色濃くなっていった。あぶくが勢いよく通り過ぎ、蒼い光のようなものが辺りに満ちる。船長が怒鳴った。
「深度50ヴル」
そして海が晴れ上がった。
浅瀬を抜けたのだ、と分かった。さっきまで海上から見えていたあの美しい海の色は、海に浮かぶ上澄みに過ぎないのだった。今ではもう比べものにならぬほど遠くまでが見える。あらゆる方角が透き通ってちらちら光っている。
「書にあるとおりだ」
トグラスは言った。
「熱圏。もっとも上層の海だ。太陽からの熱がよく伝わる」
「海に層があるのですか?」
「見えるか?あの雲が」
海の底にあるというのに、それはたしかに雲だった。
白く渦を巻き、綿のように膨らみ、また絡まりあって層をなしている。それがどこまでも、どこまでも広がっていた。見渡せる限りは、どこまでも。その白亜の界面に時折、か細い光が走っては消えていく。
「“ヘイグロットの雲”。かつて天使学者ヘイグロットがその書で示したそれを、まさかこの目で拝めるとは――あの光は稲妻だよ。熱圏の下部においては電離層といって、いかづちが満ちている。層の間で海の動きがずれることで、ああいった雲のような構造と、そして電力が生まれるのだ」
「層の間?」
「では、これでもまだ下があるのですか?」
「【海の書】によれば、熱圏と電離層を超えた先には中間圏といって、極低温の世界があるという。あらゆるものが凍りつく、太陽熱が届かぬ場所だ。さらに何十ローグか降下すると今度は成層圏があり、これはやや暖かい。そしてその下の対流圏から強い海流が噴き出している。この四つの大いなる階層構造を突き破って何百ローグも持ち上がってきたそれのひとつが、我々もよく知っているあれ――東の大海流なのだそうだ」
トグラスは夢中で言葉を紡いでいたが、はっと我に返ったようだった。
「確かめようもないことだ。ああも晴れ渡っているから勘違いするかもしれんが、あの雲海までだって行こうと思ったら何ヶ月かかるか分からん」
「では、そのヘイグロット師はどのようにしてそれを?」
「嘘か真か、深海の成層圏まで潜っていったそうだ。最後には、帰ってこなかったらしいがね」
船はもう半ローグほども潜っているというのに、その雲海は少しも近づいていなかった。白亜の渦のひとつひとつに手が届きそうなほどだったが、それは錯覚に過ぎないのだった。
船長が伝声管越しに怒鳴った。
「浮上、開始!」
船が舳先を持ち上げた。
ヘイグロットの雲海が傾いて遠ざかっていく。それが見えなくなってからも、トグラスは名残惜しげに振り向きたがっていたが、首を振って浮上する海面に目を向けた。あれは人間が魅せられてはいけない、危ないものなのだ。
「ああ、やっと出るぞ」
誰かがそう息をついたとき、大窓が海のみなもを抜けた。泡立つ水が後ろへ流れていき、しゅうしゅうと揮発しては靄に溶けていく。
帰ってきたのだ。人間の領域へ。
「生きた心地がしませんでしたよ」
民俗学者が腰を抜かしながらそう言い、海図描きが頭を抱えながら唸った。
「みなさん、心労をかけました」
「二度とごめん被るね」
海図描きは皮肉っぽく言った。
野良の影はなかった。頭を出したところで出くわすというのが、
トグラスは遠眼鏡を覗き込み、そして言った。
「周囲に<
そう言って、老人は水平線へと指をさした。
「次の都市だよ」
To be continued…