第一話
冒険者ギルドの扉が開いた。
「おはようございます!」
朝の喧騒に、よく通る明るい声が響き渡る。
扉の向こうに立っていたのは、一人の少女だった。
年齢は十五歳ほど。華奢な身体に旅装束をまとい、腰には使い込まれた剣を佩いている。白く美しい髪と整った顔立ちが目を引く少女だったが、その姿を目にした冒険者たちは、揃って動きを止めた。
そして、誰かが小さく呟いた。
「……ハオスだ」
その名が広がると、ギルド内の空気がわずかに変わった。
ハオス。
この大国でただ一人しか選ばれない、最高位の冒険者――神級冒険者である。
数多くの危険な依頼を達成し、並の冒険者では太刀打ちできない魔物を討伐してきた少女。その実力は、国中に知れ渡っていた。
しかし、当の本人は周囲の視線など気にも留めず、受付へと歩いていく。
「おはようございます、ミリアさん! 先日の依頼の報告に来ました!」
「おはようございます、ハオスさん。報告書はこちらですね。確認しますので、少々お待ちください」
「はい、お願いします!」
ハオスはにこやかに頷き、受付の前で大人しく待った。
その間にも、彼女の背後では冒険者たちが囁き合っている。
「相変わらず、あの子が神級だなんて信じられねえな」
「見た目だけなら新人冒険者だよな」
「馬鹿、聞こえたらどうするんだ」
「大丈夫ですよ!」
突然振り返ったハオスに、男たちの肩が跳ねた。
「私、そんなに気にしてませんから! よく言われますし!」
爽やかな笑顔。
嫌味も皮肉も感じさせない、心からの言葉だった。
男たちは気まずそうに頭を掻く。
「お、おう……悪かったな」
「いえいえ! お気になさらず!」
ハオスは再び受付へ向き直った。
やがて、ミリアが報告書の確認を終え、報酬の入った袋を差し出す。
「依頼の達成を確認しました。こちらが報酬です」
「ありがとうございます!」
ハオスは袋を受け取ると、中身を確かめた。
ずしりとした重み。袋の中では、たくさんの硬貨が音を立てている。
その瞬間、彼女の顔に満面の笑みが広がった。
「おおっ! 今回はかなり多いですね!」
「危険度の高い依頼でしたからね。神級冒険者であるハオスさんだからこそ、安心して任せられた案件です」
「えへへ、そう言っていただけると嬉しいです!」
ハオスは照れくさそうに頬を掻いた。
そして、くるりと振り返る。
「皆さん! 今日は私の奢りです!」
ハオスは報酬袋を掲げ、満面の笑みで宣言する。
「せっかくお金が入ったので、皆さんに食事とお酒を奢ります! 遠慮しないで、好きなだけ頼んでくださいね!」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ギルドが揺れた。
「うおおおおおっ! さすが神級冒険者!」
「ハオス様、最高だぜ!」
「今日は飲むぞ! 食えるだけ食うぞ!」
「おい、誰か酒場に注文を取りに行け!」
冒険者たちは一斉に沸き立ち、あっという間に大騒ぎになった。
普段は財布の中身を気にしながら安い食事で済ませている者もいる。危険な依頼で命を懸けている彼らにとって、思いがけないご馳走は嬉しいものだった。
「皆さん、そんなに喜んでくれるなんて! 私も嬉しいです!」
ハオスも満足そうに頷く。
その様子を、受付のミリアは冷ややかな目で見つめていた。
「……ハオスさん」
「はい?」
「少し、こちらへ」
「えっ? あ、はい!」
ミリアに手招きされ、ハオスは小走りで受付へ戻った。
ミリアは笑顔だった。
ただし、目はまったく笑っていなかった。
「せっかく手に入れた報酬を、どうしてその場で使い切ろうとするんですか?」
「え、ええと……皆さん、頑張っていらっしゃいますし……」
「それはわかります。でも、ハオスさんは先日も新人冒険者の方に装備の修理代を渡していましたよね。その前には食堂で子供たちに食事を奢っていましたし、ついこの間は困っている商人の方にお金を貸していました」
「うっ……」
「その結果、どうなりましたか?」
「…………お金がなくなりました」
「その通りです」
ミリアはぴしゃりと言い切った。
「ハオスさんは神級冒険者です。依頼の報酬も高額ですし、普通の冒険者とは比べものにならないほど稼いでいるはずです。それなのに、どうしていつもお金がないんですか?」
「困っている人を見ると、つい……」
「だからといって、限度があります!」
「す、すみません……!」
ハオスは小さくなって頭を下げた。
その間にも、背後では冒険者たちが料理や酒を注文する声が飛び交っている。
「ハオス様、追加で肉料理を頼んでもいいか!?」
「はい! もちろんです!」
「ハオスさん!」
「すみません!」
ミリアの鋭い声に、ハオスは慌てて背筋を伸ばした。
「とにかく、せめて自分の生活費くらいは残してください。神級冒険者だからといって、毎回お金が湧いて出てくるわけではないんですよ」
「はい……肝に銘じます……」
しょんぼりと肩を落とすハオス。
しかし、冒険者たちの嬉しそうな顔を見ると、すぐに表情が緩んでしまう。
困っている人を放っておけない。
誰かが喜んでくれるなら、自分が少しくらい損をしても構わない。
それがハオスという少女だった。
――たとえ、そのせいで自分の財布が空になろうとも。
◇
「ところで、ハオスさん」
冒険者たちが宴の準備を始める中、ミリアが新しい依頼書を取り出した。
「緊急依頼が入っています」
「緊急依頼ですか?」
ハオスはすぐに表情を引き締めた。
「はい。街道沿いに危険な魔物が出現したそうです。護衛の冒険者が数名負傷し、商人たちも足止めされています」
「それは大変ですね!」
「相手の正体がはっきりしていないため、危険度は不明です。通常なら、複数の上級冒険者を集めて対応するところですが……」
「では、私が行ってきます!」
ハオスは迷うことなく答えた。
ミリアは予想していたというように、静かに頷く。
「そう言うと思いました。現場の状況がわからないので、十分に気をつけてくださいね」
「はい! 任せてください!」
ハオスは依頼書を受け取ると、元気よくギルドを飛び出していった。
その背中を見送りながら、ミリアは深いため息をつく。
「……せめて、帰ってきたら今度こそお金を残してもらわないと」
◇
街を出てしばらく。
ハオスは街道を走っていた。
馬車なら半日かかる距離を、彼女は自分の足だけで駆け抜けていく。
足元の土が弾け、景色が後方へ流れていく。
やがて、街道脇に横転した馬車が見えた。
「見つけました!」
ハオスは急停止した。
地面に靴底が擦れ、土煙が舞い上がる。
馬車の周囲には、数人の護衛らしき男たちが倒れていた。幸い、全員が意識を保っているようだったが、負傷の程度は軽くない。
「皆さん! 大丈夫ですか!?」
ハオスはすぐさま駆け寄った。
「お、お前は……?」
「冒険者のハオスです! すぐに助けますから、無理に動かないでくださいね!」
彼女は負傷者の様子を確認し、まだ動ける護衛に手当てを頼んだ。
「魔物はどこに?」
「あ、あそこだ……!」
男が震える手で街道の先を指さす。
その先に、巨大な影があった。
全身を硬い外殻に覆われた獣型の魔物。大きさは馬車を優に超え、鋭い牙の間から涎を垂らしている。
魔物はハオスの姿を認めると、低い唸り声を上げた。
「なるほど……あれが今回の相手ですか」
ハオスは腰の剣に手を添えた。
「皆さんは下がっていてください。すぐに終わらせますから!」
そう言って、彼女は魔物へと歩き出す。
魔物が咆哮した。
次の瞬間、その巨体が地面を蹴った。
凄まじい速度で突進してくる。
「おおっ、速いですね!」
ハオスは感心したように声を上げた。
そして、軽く横へ身をずらす。
魔物の巨体が目の前を通過した。
その瞬間、ハオスの剣が閃いた。
甲高い音。
硬い外殻が裂け、魔物の身体が大きく傾く。
魔物は苦痛に吠えながら振り返り、鋭い爪を振り下ろした。
ハオスは剣で受け流し、その腕を踏み台にして跳躍する。
「よいしょっ!」
空中で身体を捻り、魔物の頭部へと剣を振り下ろす。
轟音。
魔物の巨体が地面に叩きつけられた。
だが、まだ動いている。
「うーん……思ったより頑丈ですね」
ハオスは剣を構え直した。
相手の外殻は硬く、通常の斬撃だけでは仕留めきれないらしい。
ならば、と彼女は左手を掲げた。
掌の前に、赤い光が集まる。
空気が熱を帯び、周囲の草木が揺れた。
「爆炎よ――」
魔力が膨れ上がる。
「吹き飛べ!」
爆発。
轟音とともに炎が弾け、魔物の巨体を飲み込んだ。
衝撃波が街道を走り、土砂が舞い上がる。近くの岩が砕け、地面には大きな窪みができた。
数秒後。
炎が消えた場所には、黒焦げになった魔物の死骸が横たわっていた。
「……よし!」
ハオスは満足そうに頷いた。
しかし、周囲を見渡した途端、その笑顔が引きつった。
街道の一部が吹き飛び、脇の岩場まで無残に砕け散っている。
「…………」
彼女はそっと視線を逸らした。
「……ちょっと、威力が強すぎましたね」
後方で様子を見ていた護衛たちは、誰も言葉を発せなかった。
魔物を一撃で倒したこともそうだが、それ以上に驚くべきは、あの爆発を放った少女が、まるで失敗した料理でも眺めるような顔をしていることだった。
ハオスはそんな彼らの様子に気づかず、慌てて駆け寄った。
「す、すみません! 皆さんに被害はありませんでしたか!?」
「い、いや……大丈夫だ」
「よかったです!」
彼女は心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「それでは、皆さんは無理をせず、街に戻ったら治療を受けてくださいね。馬車の修理も必要でしょうし、何かあればギルドに伝えてください!」
「わ、わかった……。助かったよ、ありがとう」
「いえいえ! 皆さんが無事でよかったです!」
ハオスはにっこりと笑った。
その笑顔に、護衛たちは改めて目の前の少女が神級冒険者なのだと思い知らされた。
◇
夕方。
冒険者ギルドの扉が開いた。
「ただいま戻りました!」
「お帰りなさい、ハオスさん。無事に終わったようですね」
「はい! 魔物は討伐しました。護衛の皆さんも生きていましたし、街道の安全も確保できたと思います!」
ハオスは討伐の証拠を提出し、現場の状況を報告した。
ミリアは報告書を確認し、ほっと息をつく。
「お疲れさまでした。今回も見事な仕事ですね」
「ありがとうございます!」
ミリアは報酬を用意し、ハオスへと差し出した。
「こちらが今回の報酬です」
「わあっ! ありがとうございます!」
ハオスは袋を受け取ると、嬉しそうに中身を確かめた。
これだけあれば、しばらくは困らない。
――普通なら、そう考えるところだった。
「ハオスさん」
「はい?」
ミリアはにっこりと笑った。
「無駄遣いしないでくださいね」
「…………はい」
ハオスの手が止まった。
「本当に、お願いしますよ。今回の報酬まで使い切ったら、今度こそ前借りは認めませんからね」
「わ、わかっています! 今度こそ大丈夫です!」
「その言葉、何度も聞いている気がしますけど……」
「き、気のせいですよ!」
ハオスは袋を抱え、ぎこちなく笑った。
ミリアは疑わしげな目を向けていたが、やがて小さく息を吐いた。
「まったく……。でも、今日もお疲れさまでした」
「はい! ミリアさんも、お疲れさまです!」
ハオスは深々と頭を下げた。
そして、ギルドを後にした。
◇
夕暮れの街は、橙色に染まっていた。
仕事を終えた人々が家路につき、通りには夕食の匂いが漂っている。
ハオスはその中を、のんびりと歩いていた。
さて、今日は何を食べようか。
せっかく報酬を受け取ったのだから、少しくらい贅沢をしてもいいかもしれない。
そんなことを考えていたときだった。
「お母さん、今日は何を食べるの?」
「そうねえ。あなたの好きなものを作ってあげようか」
「ほんと!? やったあ!」
楽しそうな声が聞こえた。
ハオスが視線を向けると、そこには母親と手を繋いで歩く幼い子供の姿があった。
子供は母親の手を握り、嬉しそうに笑っている。
母親もまた、優しい笑顔で我が子を見つめていた。
その何気ない光景に、ハオスの足が止まった。
「…………」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
思い出したくないわけではない。
忘れられるはずがないのだ。
ハオスにも、あんな時代があった。
◇
まだ、冒険者になる前。
田舎の小さな村で暮らしていた頃。
そこには、穏やかな日々があった。
朝になれば母に起こされ、食卓を囲み、村の人々と挨拶を交わす。
特別なことなど何もない。
けれど、ハオスにとっては、それが何よりも幸せだった。
『ハオス、あまり遠くまで行っちゃ駄目よ』
『はーい!』
『もう、返事だけは一人前なんだから』
母はいつも優しかった。
少し失敗しても怒鳴ったりせず、困ったときには手を差し伸べてくれた。
その手は温かく、幼いハオスにとって、何よりも安心できるものだった。
いつか大きくなったら、母に恩返しをしたい。
たくさん働いて、母を楽にさせてあげたい。
そんな未来を、当たり前のように信じていた。
――あの日が来るまでは。
村を覆った悲鳴。
立ち上る炎。
逃げ惑う人々。
そして、村を蹂躙する魔族。
その中に、ひときわ異様な存在がいた。
顔のない魔族。
耳や目、鼻、口がなく、顔と呼べるものがない、得体の知れない存在。
そいつが何者なのか、なぜ村を襲ったのか、幼いハオスにはわからなかった。
ただ、覚えている。
母の姿を。
自分を庇うように立った、その背中を。
そして――目の前で、母が殺された瞬間を。
世界から音が消えたような気がした。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
母が倒れている。
呼びかけても、返事がない。
いつも自分を抱きしめてくれた手が、もう動かない。
その光景を、ハオスは今も忘れられずにいる。
◇
「…………」
気がつけば、夕日はさらに低くなっていた。
母親と子供の姿は、もう人混みの向こうに消えている。
ハオスは自分の手を見つめた。
あの日から六年。
もう、泣いているだけの子供ではない。
剣を振るい、魔物を倒し、神級冒険者と呼ばれるほどの力を手に入れた。
けれど、どれだけ強くなっても。
どれだけ多くの依頼をこなしても。
母が戻ってくることはない。
「……ふざけんな」
小さな声が漏れた。
普段の明るく礼儀正しい声音とは、まるで違う。
「私の村を壊して……母さんまで殺して……」
握り締めた拳が震える。
胸の奥で、六年間消えることのなかった憎悪が燃え上がる。
「絶対に許さない……顔のない魔族」
その名を思い浮かべるだけで、全身が熱くなる。
忘れるものか。
許すものか。
どこに逃げようと、何年かかろうと、必ず見つけ出す。
そして、この手で討ち取る。
「……待ってろよ」
ハオスは顔を上げた。
夕暮れの街並みを見つめるその瞳には、先ほどまでの明るさはない。
「必ず、私が殺してやる」
それは、誰にも聞かせるつもりのない誓いだった。
人々の笑い声が響く街の中で、少女は一人、静かに歩き出した。