冒険者ギルドの奥にある個室。
重厚な扉が閉じられると、外の喧騒が遠のいた。
部屋の中には机と椅子がいくつか置かれており、壁には過去の依頼に関する資料が並んでいる。
ハオスはミリアと向かい合って座ると、手元に置かれた封書を見つめた。
「ええと……それで、ミリアさん」
「はい、何でしょう?」
「この手紙なんですけど……私、読めないんです」
ハオスは申し訳なさそうに頬を掻いた。
封書には王国の紋章が刻まれている。差出人がブリティア王国であることはわかるものの、中に書かれた文章を読むことはできなかった。
ミリアは特に驚いた様子もなく、穏やかに頷いた。
「もちろんです。そのために直接伺ったのですから」
「すみません……。せっかく国から手紙をいただいたのに」
「謝る必要はありませんよ」
ミリアは首を横に振った。
「この国では、文字の読み書きを学校で学ぶのが一般的です。ただ、学校に通えるのは、基本的に学費を払える富裕層や、教育を受ける機会に恵まれた人たちが中心ですから」
ミリアが言葉を続ける。
「農村で暮らす人々や、生活に余裕のない家庭の子供たちは、幼い頃から働き手として期待されることも少なくありません。そのため、ハオスさんの様に文字を学ぶ機会がないまま大人になる人も多いんです」
ハオスも、幼い頃は小さな村で暮らしていた。
村には畑仕事や家畜の世話など、毎日やらなければならない仕事がいくつもあった。文字を教えてくれる学校など、身近には存在しなかった。
そのため、ハオスは今でも簡単な文字さえ読むことができない。
冒険者として活動するうえで不便を感じることはあるが、同じ境遇の者は決して珍しくなかった。
「ですから、ハオスさんのように文字を読めない冒険者もいます。特に珍しいことではありません」
「そう言っていただけると助かります!」
ハオスはほっとしたように笑った。
「では、手紙の内容を説明しますね」
ミリアは封書を開き、中に入っていた書類を取り出した。
先ほどまでの柔らかな表情が、徐々に引き締まっていく。
「今回、王国から依頼されたのは、都市リバールで発生した異常事態の調査です」
「リバール……ですか?」
「はい。ブリティア王国の中でも、多くの人々が暮らしている都市の一つです。ところが、数日前から、その都市全体が突然、濃い霧に包まれてしまったそうです」
「霧に?」
ハオスは首を傾げた。
「はい。最初は自然現象だと考えられていました。しかし、霧が何日も晴れず、外から都市の様子を確認することも難しくなっているとのことです」
「それは……変ですね」
「ええ。さらに問題なのは、調査に向かった人々が戻ってきていないことです」
ミリアは書類に視線を落とした。
「すでに数名の上級冒険者が調査に向かいました。しかし、誰一人として帰還していません」
「上級冒険者が、数名も……?」
ハオスの表情が曇った。
上級冒険者といえば、各地で実績を積み重ね、危険な魔物の討伐も任される実力者たちだ。
もちろん、神級冒険者であるハオスとは実力に差がある。それでも、一般的な冒険者の中では十分に優れた者たちである。
そんな彼らが、複数人で調査に向かって消息を絶った。
単なる霧の発生で片づけられる事態ではない。
「それだけではありません」
ミリアが続けた。
「王国騎士団からも、調査のために騎士たちが派遣されました」
「騎士団まで……」
「はい。騎士団は、王国が保有する最高戦力です。一般的な兵士とは違い、所属する騎士は全員が上級冒険者以上の実力を持っています」
騎士団は王族や貴族の護衛だけでなく、王国の存亡に関わる危機にも対処する精鋭集団だ。
その実力は、並の冒険者とは比較にならない。
「その騎士たちも……戻ってきていないんですか?」
「はい。派遣された騎士たちも、全員が行方不明です」
「…………」
ハオスは黙り込んだ。
上級冒険者だけでなく、王国騎士団までもが消息を絶った。
都市に何が起きているのか、現時点ではわかっていない。だが、内部に侵入することさえ危険な状況であることは間違いなかった。
「それで、私に調査してほしいということですね」
「その通りです。国としても、これ以上の被害を出すわけにはいきません。そこで、ブリティアを代表する神級冒険者であるハオスさんに、調査を依頼したいとのことです」
ミリアは書類を机に置いた。
「リバールに向かい、霧の原因と、消息を絶った人々の行方を調べること。それが今回の依頼です」
「わかりました」
ハオスは真剣な顔で頷いた。
「人がたくさん行方不明になっているんですよね。早く助けないと!」
その声には、いつもの明るさが残っていた。
危険な場所であろうと、助けを必要としている人がいるならば放っておけない。
それがハオスだった。
しかし――。
「……少し待ちなさい」
突然、部屋の奥から声がした。
「えっ?」
ハオスとミリアが振り向く。
部屋の奥にある扉が開き、一人の老人が姿を現した。
白髪交じりの髪に、深い皺の刻まれた顔。年齢を感じさせる佇まいではあるが、その背筋は真っ直ぐに伸びている。
老人はゆっくりと二人のもとへ歩いてきた。
「ギルドマスター……」
ミリアが立ち上がり、軽く頭を下げる。
この冒険者ギルドを取り仕切る責任者。
そして、かつて神級冒険者として名を馳せた人物だった。
老いによる身体能力の衰えを理由に冒険者を引退した今でも、その経験と知識はギルド内で大きな信頼を集めている。
「話は聞かせてもらった」
ギルドマスターはハオスへ視線を向けた。
「リバールの件だが、わしは魔物の仕業ではない可能性が高いと考えている」
「魔物ではない……?」
ハオスが問い返す。
「ああ。都市を覆うほどの濃霧が突然発生し、そこへ調査に向かった上級冒険者や騎士が全員消息を絶った。これほどの事態を引き起こせる魔物も存在するだろう。だが、わしにはどうにも引っかかるものがある」
ギルドマスターは、机の上に置かれた報告書を指先で叩いた。
「魔族の仕業である可能性が高い」
「…………魔族?」
その言葉が耳に入った瞬間。
ハオスの表情から、笑みが消えた。
先ほどまで穏やかだった瞳が、鋭く細められる。
握り締めた拳が、小さく震えた。
「……魔族……!」
低い声だった。
いつもの丁寧な口調とは違う、荒々しい声音。
部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。
「ハ、ハオスさん……?」
ミリアは思わず息を呑んだ。
目の前にいる少女は、先ほどまでと同じ人物のはずだった。
しかし、今のハオスから感じられるものは、普段の明るく人懐っこい雰囲気とはまるで違う。
そこにあるのは、剥き出しの憎悪だった。
まるで、魔族を一匹残らず殺し尽くそうとするかのような、凄まじい殺気。
ミリアは言葉を失い、知らず知らずのうちに息を詰めていた。
その様子を見て、ギルドマスターが静かに口を開く。
「ハオス君」
「…………」
「落ち着きなさい」
老人の声は穏やかだったが、そこには確かな重みがあった。
「今回の件が魔族の仕業だとしても、君の復讐相手である顔のない魔族が関わっているとは限らん」
その名を聞いた瞬間、ハオスの眉がぴくりと動いた。
「顔のない魔族……」
「そうだ。君が追い続けている相手だ。だが、今の時点では何の証拠もない。魔族というだけで、そいつだと決めつけるのは早計だ」
「…………」
「怒りに任せて行動すれば、助けられる命も助けられなくなる。君が本当に救いたいものを、見失うんじゃない」
ハオスは唇を噛み締めた。
脳裏に浮かぶのは、炎に包まれた故郷。
倒れた村人たち。
そして、自分を庇って命を落とした母の姿。
忘れられるはずがない。
許せるはずもない。
魔族という言葉を聞くだけで、あの日の光景が蘇る。
それでも。
「……すみません」
ハオスは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「少し、頭に血が上ってしまいました」
「わかっているならいい」
ギルドマスターは頷いた。
ハオスは拳を開き、ミリアへと向き直る。
「驚かせてしまってすみません、ミリアさん」
「い、いえ……大丈夫です」
ミリアはそう答えたものの、まだわずかに緊張が残っていた。
ハオスは普段、誰に対しても礼儀正しく、困っている人を見れば迷わず手を差し伸べる少女だ。
そんな彼女が、魔族という言葉だけであれほどの憎悪を露わにした。
その理由を、ミリアは知っている。
六年前。
ハオスの故郷は、顔のない魔族によって滅ぼされた。
母親を殺され、帰る場所を失った少女。
彼女が冒険者となった理由も、その復讐のためだった。
「……私は、リバールへ行きます」
ハオスは静かに告げた。
「魔族が関わっている可能性があるなら、なおさら放っておけません。それに、行方不明になった冒険者や騎士の皆さんも、まだ生きているかもしれませんから」
その言葉には、もう先ほどの激しい憎悪は表れていなかった。
代わりに、強い決意が宿っていた。
「必ず原因を突き止めます。そして、助けられる人がいるなら、絶対に助けます」
ギルドマスターは、しばらくハオスを見つめていた。
やがて、満足そうに頷く。
「よし。それでこそ神級冒険者だ」
「ありがとうございます!」
ハオスはいつものように、明るく笑った。
けれど、その瞳の奥には、消えることのない炎が揺らいでいる。
魔族。
その存在は、ハオスにとって単なる討伐対象ではない。
故郷を奪い、母を殺し、人生を変えた仇そのものだった。
そして今、その魔族が関わっているかもしれない事件が起きている。
偶然なのか。
それとも、何かが繋がっているのか。
現時点では、まだわからない。
「それでは、準備を整えて出発します!」
ハオスは椅子から立ち上がった。
「リバールの人たちが待っていますから!」
そう言って、彼女は個室の扉へと向かう。
その背中を、ギルドマスターは黙って見送った。
かつて自分が神級冒険者として戦っていた頃を思い出すように、老人は目を細める。
「……あの子が向かう先に、何が待っているのか」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。