六年前。
ブリティア王国の片隅に、小さな農村があった。
畑と牧場に囲まれた、どこにでもあるような平和な村だ。
そんな村で暮らす九歳の少女、ハオスには、ひとつだけ大きな問題があった。
「だから! お前は怪力すぎるんだよ、サイクロプス!」
「誰がサイクロプスだ、このバカ!」
「うわっ、追いかけてきた!」
「待てーっ! 今日こそ泣くまでぶん殴ってやる!」
村の広場に、子供たちの騒がしい声が響き渡る。
白い髪を揺らしながら、ハオスは同年代の少年たちを追いかけていた。
少年たちは笑いながら逃げ回り、ハオスは顔を真っ赤にして追いすがる。
その光景は、この村ではすっかりおなじみのものだった。
村でハオスと同じくらいの年頃の子供は、男の子ばかりだった。
そのため、ハオスはいつも彼らと一緒になって遊んでいたのだが……。
「お前、女の子なのに少しはおしとやかにしろよ!」
「うるさい! 女だからなんだってんだ!」
「ほら、また男みたいなこと言ってる!」
「このっ……!」
ハオスは近くにあった小石を拾い上げ、少年たちへ投げるふりをした。
「ひいいっ! やめろ! お前の投げた石、洒落にならねえんだよ!」
「だったら最初からからかうな!」
少年たちは慌てて逃げ出した。
もっとも、彼らが本気でハオスを嫌っているわけではない。
むしろ、その逆だった。
ハオスは誰よりも元気で、遊びにも全力で、困っている仲間がいれば真っ先に助けに行く。
多少乱暴なところはあるが、彼女と遊ぶのを楽しみにしている子供は多かった。
ただし、怪力だけは別問題である。
ある日のこと。
ハオスは村の大人たちが荷車から荷物を下ろしているのを見かけた。
「おじさん、それ重いの?」
「ん? ああ、これはなかなか重いぞ。大人でも持ち上げるのに苦労するくらいだ」
そう言って男が腰を落とし、両腕に力を込める。
荷物はわずかに浮き上がったものの、男はすぐに地面へ下ろしてしまった。
「ふう……。こいつは運ぶのも一苦労だな」
「ふーん」
ハオスは興味深そうに荷物を眺めた。
「じゃあ、あたしが持ってあげるよ!」
「おいおい、無理するな。子供には――」
男が止めるよりも早く、ハオスは荷物の下へ手を差し込んだ。
そして。
「よいしょっと!」
ひょい。
まるで空の籠でも持ち上げるかのように、荷物を軽々と持ち上げてしまった。
「…………」
「これ、どこに置けばいいの?」
「……そ、そこだ」
「わかった!」
ハオスは言われた場所まで荷物を運び、何事もなかったように地面へ下ろした。
その場にいた大人たちは、そろって口を開けたまま固まっていた。
しかし、ハオスの怪力はこれだけではない。
薪割りを手伝ったときには、斧を勢いよく振り下ろした結果、薪だけでなく薪割り台まで真っ二つにしてしまった。
また、村の男たちが何人もかり出される大木の運搬を、ひとりで終わらせたこともある。
そんな出来事が積み重なり、いつしか少年たちは彼女をこう呼ぶようになった。
――サイクロプス。
怪力で知られる魔物の名を借りた、ハオスのあだ名だった。
「まったく……。どうしてこんなお転婆に育っちまったんだろうねえ」
夕方。
家に帰ってきたハオスを見て、母親は深々とため息をついた。
ハオスの服には土がつき、髪は乱れ、頬には小さな擦り傷までできている。
「また男の子たちと喧嘩したのかい?」
「喧嘩じゃないよ! あいつらがサイクロプスなんて呼ぶから、ちょっと追いかけてただけ!」
「それを喧嘩って言うんだよ……」
母親は額に手を当てた。
女の子らしく育ってほしいと願っていないわけではない。
だが、幼い頃からこの調子なのだから、もはやどうしたものか。
「もう少し、おしとやかにできないもんかねえ」
「なにさ。お母さんだって、昔はお転婆だったんじゃないの?」
「なっ……!」
母親が目を見開く。
ハオスはにんまりと笑った。
「だって、あたし、お母さんに似たんだもん!」
「こ、この子は……!」
母親は呆れたように肩を落とした。
しかし、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「まったく、口だけは達者になっちまって……」
「へへっ!」
ハオスは得意げに笑う。
そんな、ありふれた日常。
母親と、村の人々と、喧嘩ばかりしている友達。
ハオスにとって、それが世界のすべてだった。
この平穏が、いつまでも続くと信じていた。
――その日が来るまでは。
*
数日後。
「なあ、ハオス。度胸試しをしようぜ!」
村の外れで、少年のひとりが声を上げた。
「度胸試し?」
「ああ。あの森に入るんだ!」
少年が指さした先には、木々が鬱蒼と生い茂る森があった。
村の大人たちから、決して近づくなと言われている場所だ。
森には危険な魔物が生息している。
武器を持った大人でさえ、遭遇すれば命を落としかねない。
「大人たちには内緒な。森の入り口まで行って、戻ってくる。それだけだ!」
「なんだよ、それ。全然怖くないじゃん!」
ハオスは鼻を鳴らした。
「お前、怖いからって後から泣くなよ?」
「な、泣くわけないでしょ!」
「じゃあ決まりだな!」
少年たちは顔を見合わせ、笑い合った。
誰もが、ほんの少しだけ胸を躍らせていた。
普段は入ることを禁じられている森。
そこへ足を踏み入れるという、ちょっとした冒険。
もちろん、誰も本当に危険な目に遭うとは思っていなかった。
ハオスを先頭に、少年たちは森の中へと入っていく。
木々の間から差し込む光が、足元にまだら模様を描いていた。
「なんだ、普通じゃん」
「魔物なんていないじゃねえか」
「ほらね! あたしの言った通りでしょ!」
ハオスは胸を張った。
しかし、その直後だった。
ガサッ。
「……ん?」
茂みが揺れた。
続いて、低く唸るような声が響く。
ハオスたちが振り向くと、木々の向こうから、二足歩行の獣じみた魔物が姿を現した。
一体。
二体。
三体……。
やがて、周囲の茂みから次々と魔物が現れ、少年たちを取り囲んでいく。
「コ、コボルト……?」
誰かが震える声で呟いた。
犬に似た頭部を持つ魔物、コボルト。
単体であれば大人の冒険者なら対処できることもあるが、群れで行動する習性があり、子供たちが敵う相手ではない。
その数は、十体を超えていた。
「う、うわああああっ!」
少年のひとりが悲鳴を上げた。
「ど、どうするんだよ!」
「知らねえよ! お母ちゃーん!」
「誰か! 誰か助けてくれええっ!」
少年たちは一斉に泣き出した。
逃げようにも、周囲はコボルトに囲まれている。
足がすくみ、まともに動くことさえできなかった。
そんな中。
「あんた達、しっかりしなさい!」
ハオスの大声が森に響いた。
少年たちがびくりと肩を震わせる。
「男の子でしょ! こんなところで泣くな!」
「で、でも……!」
「でもじゃない!」
ハオスは歯を食いしばり、コボルトたちを睨みつけた。
怖くないわけではない。
目の前の魔物たちが、自分たちよりずっと危険な存在だということくらい、幼いハオスにもわかっていた。
それでも。
後ろには、泣いている友達がいる。
誰かが守らなければ、全員がやられてしまう。
「あんた達は村に戻って、大人たちを呼んできて!」
「ハ、ハオスはどうするんだよ!」
「いいから早く行って!」
ハオスは地面に落ちていた太い枝を拾い上げた。
片手で握ると、まるで剣でも持つように構える。
「こいつらは、あたしが引きつける!」
「そんなの無茶だ!」
「あたしのことはいいから、早く行って!」
ハオスは少年たちに背を向け、コボルトの群れへと踏み出した。
「ほら、こっちだ! 犬っころども! あたしを捕まえてみな!」
わざと大声を上げ、枝を振り回す。
コボルトたちの視線が、一斉にハオスへ向いた。
次の瞬間、数体が地面を蹴った。
「来いっ!」
ハオスは迫る爪を身をひねってかわし、手にした枝を叩きつけた。
鈍い音が響く。
一体目のコボルトが地面へ倒れた。
だが、ハオスはそれを確認する余裕もなく、次の攻撃に備える。
右から一体。
左から二体。
正面にも、さらに一体。
「くそっ! 多すぎるだろ!」
枝を振るい、蹴り飛ばし、体当たりで押し返す。
小さな身体からは想像もできない力で、ハオスはコボルトたちを次々と地面へ叩き伏せていった。
けれど、数の差は大きかった。
攻撃をかわしきれず、腕や脚に傷が増えていく。
息も荒くなり、握っていた枝もとうとう折れてしまった。
「はあっ……はあっ……!」
それでも、ハオスは倒れなかった。
後ろを振り返る。
少年たちの姿は、もう見えない。
逃げ切れたのだろうか。
なら、よかった。
ハオスは口元を吊り上げた。
「へっ……。これで、あとはあたしだけだな」
目の前には、まだ何体ものコボルトが残っている。
少女は拳を握り締めた。
「まとめてかかってこい!」
その小さな背中に、逃げるという選択肢はなかった。
*
「た、大変だ! ハオスが森で魔物に襲われてるんだ!」
村へ戻った少年たちは、泣きながら大人たちに助けを求めた。
事情を聞いた村人たちは顔色を変え、すぐさま武器を手に取った。
「案内しろ!」
「急げ! まだ間に合うはずだ!」
大人たちは少年たちに案内させ、森の中を駆け抜けた。
ハオスが囮になっている。
その言葉を聞いた母親も、血相を変えて森へ向かっていた。
どうか無事でいてほしい。
誰もがそう願いながら、必死に足を動かした。
そして、森の奥へたどり着いたとき。
「……な、なんだ、これは」
先頭を走っていた村人が、思わず足を止めた。
そこには、コボルトたちの死骸が散乱していた。
頭部を殴り砕かれたもの。
地面に叩きつけられ、動かなくなったもの。
そのどれもが、強い力で、徹底的に叩き潰されていた。
十体を超えるコボルトが、たった一人の少女によって倒されていたのだ。
「ハオス!」
母親が叫び、倒れた魔物たちの間を駆け抜ける。
そして、すぐに見つけた。
木の根元に横たわる、小さな白髪の少女。
「ハオス! しっかりおし!」
母親は膝をつき、ハオスの身体を抱き起こした。
全身に傷があり、服も泥と血で汚れている。
呼びかけても返事はない。
しかし、かすかな呼吸があった。
「よかった……! よかった……!」
母親はハオスを強く抱きしめた。
「誰か! すぐにこの子を村へ運んでおくれ!」
「わかった! 担架を持ってこい!」
村人たちは慎重にハオスを運び、急いで森を後にした。
彼らの背中が木々の向こうへ消えていく。
その様子を、森のさらに奥から眺めている者がいた。
人影。
木々の陰に身を潜め、その顔は暗がりに隠れている。
人影は、コボルトの死骸を見つめた。
それから、運ばれていく少女へと視線を移す。
「…………」
しばらくの沈黙。
やがて、その人物は驚きを隠せない声で呟いた。
「まさか……彼女が、そうなのか?」
その声は、静かな森の中へ溶けていった。