――翌日。
「ハオス! あんたという子は、いったい何を考えているんだい!」
「本当に心配したんだぞ!」
「魔物のいる森に子供だけで入るなんて、命がいくつあっても足りん!」
「しかも、あれだけのコボルトを倒しただと? お前、本当に九歳なのか……?」
「…………」
家の中に、大人たちの怒声が響き渡っていた。
寝台の上に座るハオスは、何人もの大人に取り囲まれ、ひたすら小さくなっていた。
丸一日眠り続けた末、ようやく目を覚ました彼女を待っていたのは、傷の心配よりも先に飛んでくる説教の嵐だった。
村人たちは、ハオスが無事だったことに心から安堵していた。
だからこそ、危険な森へ入ったことを厳しく叱らずにはいられなかったのだ。
「……ごめんなさい」
いつもなら「ちょっと冒険しただけじゃん!」などと言い返すところだが、今回ばかりは違った。
ハオスは俯き、素直に頭を下げた。
「私が軽率でした。皆さんにご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
「…………」
大人たちが一斉に黙り込んだ。
いつもなら反抗的な態度を取るハオスが、今日は妙にしおらしい。
それどころか、聞いたこともないほど丁寧な言葉遣いで謝罪している。
あまりの変わりように、叱っていた村人たちのほうが戸惑ってしまった。
「お、おう……。わかればいいんだ」
「そうだ。もう二度と、あんな真似はするんじゃないぞ」
「はい。肝に銘じます」
ハオスは神妙な顔で頷いた。
その様子を見ていた母親は、しばらく考え込んだあと、ぽんと手を打った。
「……そうだね。せっかくだから、あんたには罰を与えようか」
「えっ?」
ハオスが顔を上げる。
「罰?」
「ああ。しばらくの間、周りの人には敬語で話しな」
「け、敬語!?」
ハオスの顔が引きつった。
「そ、そんなの必要ないじゃん!」
「おや。反省したんじゃなかったのかい?」
「うっ……!」
「危険な場所へ勝手に入って、村の人たちに心配をかけたんだ。これくらいは当然だろう?」
「そ、それは……」
ハオスは言葉に詰まった。
母親は腕を組み、にっこりと微笑んだ。
「それとも、まだ反省が足りないのかい?」
「……いえ。十分に反省しています」
「なら、決まりだね」
「そんなぁ……」
ハオスはがっくりと肩を落とした。
母親はそんな娘の頭を撫でながら、心の中でひそかに期待していた。
これを機に、少しはお転婆が改善されてくれるかもしれない。
せめて、危険なことをするときくらいは、立ち止まって考えるようになってほしい。
そんな母親の願いが、どこまで届くかはわからない。
ただひとつ確かなのは、ハオスがこの罰を相当に嫌がっているということだった。
*
「……これは、驚いたな」
その日の昼過ぎ。
ハオスを診察していた村の医者は、彼女の身体を確かめながら、何度も首を傾げていた。
「先生、どうしたんですか?」
母親が心配そうに尋ねる。
「いや……傷の治りが、あまりにも早いんだ」
「傷の治り?」
「ああ。森でこれだけの魔物と戦ったんだ。全身に傷を負っていても不思議ではない。実際、昨日はかなりひどい状態だったと聞いている」
医者はハオスの腕に目を向けた。
そこには、昨日まで深い傷があったはずだった。
だが、今は薄い痕が残っているだけで、ほとんど塞がっている。
「普通なら、これほどの傷が一日で治ることはない。体力の回復も異常に早い……」
「へえ。あたしって、そんなにすごいの?……ですか?」
「感心している場合じゃないよ、ハオス」
母親がたしなめる。
「先生、何か悪いところがあるんでしょうか?」
「今のところ、特に異常は見つからない。むしろ、驚くほど健康だ。ただ……」
医者は言葉を切り、改めてハオスを見つめた。
「この子の身体には、まだわからないことが多い。無理をさせないようにしてくれ」
「わかりました」
「はい。私も気をつけます」
ハオスは素直に返事をした。
母親は、娘が無事であることに安堵した。
けれど、医者が最後に見せた困惑した表情は、なぜか心の片隅に引っかかっていた。
この子は、普通の子供とはどこか違う。
それが何を意味するのか、母親にも、医者にもわからなかった。
*
そして、その翌日。
村に、悪夢が訪れた。
「……なんだ、あれ?」
村の入り口にいた男が、遠くを見つめて呟いた。
村へ続く道の向こうから、一人の人影が歩いてくる。
黒い衣服をまとった、細身の人影。
一見すると、人間のようにも見えた。
しかし、近づくにつれて、その異様さが明らかになっていく。
「おい……あいつの顔……」
人影には、顔と呼べるものがなかった。
目がない。
鼻がない。
口もない。
耳すら存在しない。
顔があるはずの場所には、ただ不気味な肌が広がっているだけだった。
「な、何者だ! ここは人間の村だぞ!」
男が声を張り上げた。
返事はない。
人影は歩みを止めることなく、村へと近づいてくる。
「止まれ! 聞こえないのか!」
男が手にした槍を構えた、その瞬間だった。
人影の右手に、炎が生まれた。
「なっ……!」
炎は瞬く間に膨れ上がり、男の身体を包み込んだ。
悲鳴が上がる。
男が地面に倒れるよりも早く、人影は左手を振るった。
風が刃となって走り、近くにいた別の村人を切り裂いた。
鮮血が地面に散る。
あまりにも一瞬の出来事だった。
「ば、化け物だあああっ!」
「逃げろ! みんな逃げろ!」
村人たちの叫び声が響き渡る。
しかし、逃げ惑う人々を、人影は容赦なく追い詰めていった。
右手から放たれる炎が家屋を焼き、左手から放たれる風の刃が人々を切り裂く。
抵抗しようとした男たちも、魔法を放とうとした者たちも、次々と倒れていった。
平和だった村が、瞬く間に地獄へと変わっていく。
*
「ハオス! こっちへおいで!」
「お母さん!? いったい何が起きているの!」
「いいから、早く!」
母親はハオスの手を引き、家の裏手へと走った。
外からは悲鳴が聞こえてくる。
何かが燃える音。
家屋が崩れる音。
そして、聞き覚えのある村人たちの声が、ひとつ、またひとつと途絶えていく。
「お母さん、みんなは!?」
「今は何も考えずに、静かにしておくれ!」
母親はハオスを抱き寄せ、物陰に身を潜めた。
ハオスは震えていた。
怖かった。
森でコボルトの群れに襲われたときとは、まるで違う。
あのときは、自分が戦えば友達を守れた。
けれど、今は何が起きているのかさえわからない。
村の大人たちが、次々と倒されている。
どれだけ怪力があっても、どうすればいいのか見当もつかなかった。
「大丈夫だよ、ハオス……」
母親は娘の頭を抱きしめ、震える声で囁いた。
「お母さんが、そばにいるからね……」
その言葉を聞き、ハオスは母親の服を強く握った。
どうか、何事もなく終わってほしい。
どうか、みんな無事でいてほしい。
幼い少女は、ただそれだけを願っていた。
だが――。
「……そこにいるのは、誰だ?」
すぐ近くから、声がした。
ハオスの身体が凍りつく。
母親は唇を噛み、娘を背中に隠した。
ゆっくりと、足音が近づいてくる。
逃げなければ。
そう思っても、足が動かなかった。
そして、物陰の前に人影が立った。
顔のない魔族。
右手には炎。
左手には風。
その異様な姿を見た瞬間、母親はハオスを強く抱きしめた。
「……見つかってしまったね」
「お、お母さん……」
ハオスは母親の背中にしがみついた。
魔族は、二人を見下ろすように立っていた。
顔のない頭部が、ゆっくりと傾く。
「やっと見つけたぞ」
その声には、何の感情も感じられなかった。
「逃げなさい、ハオス!」
母親が叫んだ。
「えっ……?」
「いいから、走って!」
母親はハオスを突き飛ばすようにして、魔族との間に割って入った。
次の瞬間。
風が走った。
母親の身体が大きく揺れ、服が赤く染まった。
「……お母さん?」
ハオスには、何が起きたのかわからなかった。
母親は、ゆっくりと膝をついた。
「……あ、ああ……」
ハオスは駆け寄り、母親の身体を支えた。
「お母さん! お母さん、しっかりして!」
母親の傷は深かった。
誰の目にも明らかな致命傷だった。
「いやだ……。お母さん、死なないでよ……!」
ハオスは必死に母親の身体を揺さぶった。
いつもなら、どんなに悪戯をしても叱ってくれた。
どんなに乱暴なことをしても、最後には頭を撫でてくれた。
そんな母親が、今、目の前で倒れている。
「お願い……。お願いだから……!」
母親は、かすかに目を開けた。
「……ハオス」
「なに!? どうしたの!?」
「……聞いて、ほしいことが……あるんだよ」
母親の声は弱々しかった。
それでも、彼女は必死に言葉を紡いだ。
「ごめんね……。今まで、黙っていて……」
「何を……言ってるの……?」
「……あたしはね……本当は、あんたの……本当のお母さんじゃ、ないんだ……」
「…………え?」
ハオスの動きが止まった。
母親は、苦しそうに息を吸った。
「ずっと昔……川に流されていた赤ん坊を、見つけたんだよ……。それが、あんただった……」
母親の目から、一筋の涙がこぼれた。
「誰の子なのかも……どこから来たのかも、わからなかった……。それでも……放っておけなくてね……」
「…………」
「だから……あんたを拾って、育てたんだ……。本当のことを言わなくて……ごめんね……」
ハオスは、母親の顔を見つめていた。
言葉が出なかった。
自分は、母親の本当の子供ではなかった。
川に流されていた赤ん坊だった。
知らなかった。
そんなこと、一度も考えたことがなかった。
けれど――。
「……そんなの」
ハオスは母親の手を握り締めた。
「そんなの、どうだっていいよ……!」
声が震えた。
「血がつながってなくたって、お母さんはお母さんだよ……! あたしを育ててくれたのは、お母さんだよ……!」
涙が溢れ、頬を伝って落ちていく。
「一緒にご飯を食べて……悪いことをしたら叱ってくれて……。あたしが怪我をしたら心配してくれて……!」
ハオスは母親の手を、さらに強く握った。
「そんなの……本当のお母さんじゃなかったら、できないことだよ……!」
「……ハオス……」
「だから……お願い……。死なないでよ……。まだ、あたし……お母さんに、何も返せてない……!」
母親は、そんな娘を見つめていた。
やがて、苦しげだった表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「……ありがとう……」
母親は、かすかに笑った。
「……あんたを、育てられて……よかったよ……」
「お母さん……?」
「……これからも……元気で……。あんたらしく……生きるんだよ……」
その手から、少しずつ力が抜けていく。
「……お母さん?」
ハオスは呼びかけた。
「ねえ……お母さん……?」
返事はなかった。
母親の顔には、穏やかな微笑みが残っていた。
けれど、その瞳が再び開くことはなかった。
「…………」
ハオスは、母親を抱きしめたまま動けなかった。
泣き声すら、出なかった。
胸の中に、何かが崩れ落ちていく。
大好きだった母親。
自分のすべてだった人。
その人が、もう二度と戻ってこない。
そして、その命を奪ったのは――。
「…………お前」
ハオスは、ゆっくりと顔を上げた。
顔のない魔族が、そこに立っていた。
まるで、目の前で起きたことなど何とも思っていないかのように。
「……お前が」
ハオスの声が震える。
「お前が、お母さんを……!」
魔族は答えない。
その無言が、ハオスの中にあった何かを決定的に壊した。
「うああああああああっ!」
少女は叫び、立ち上がった。
涙で視界が滲む。
身体は震えていた。
それでも、拳だけは固く握り締められていた。
「殺してやる……!」
ハオスは魔族へ向かって駆け出した。
「絶対に……絶対に許さない!」
怪力を込めた拳を振り上げる。
だが、魔族は避けようともしなかった。
ただ、右手をわずかに動かした。
次の瞬間。
ハオスの胸に、強烈な衝撃が走った。
「……え?」
魔族の手刀が、少女の胸を貫いていた。
痛みが遅れて押し寄せる。
身体から力が抜け、足元が崩れる。
目の前の景色が、ゆっくりと暗くなっていった。
「……お、かあ……さん……」
伸ばした手は、何にも届かなかった。
ハオスの意識は、深い闇へと沈んでいった。
*
「――っ!」
ハオスは、勢いよく上半身を起こした。
「はあっ……! はあっ……!」
荒い呼吸。
全身に浮かぶ汗。
胸元を両手で押さえ、彼女は何度も息を吸い込んだ。
痛みはない。
血も流れていない。
そこにあるのは、いつもと変わらない自分の身体だった。
「…………夢?」
ハオスは、ゆっくりと周囲を見回した。
そこは、見慣れた宿の一室だった。
窓から差し込む光。
寝台の脇に置かれた荷物。
壁に立てかけた剣。
六年前の村ではない。
今、自分がいるのは、ブリティアの首都ギリスの宿だ。
「……嫌な夢、見ちゃったな」
ハオスは額に手を当てた。
六年前の出来事は、今でも時折、夢に現れる。
母親の最期。
顔のない魔族。
そして、自分の胸を貫いた手刀。
忘れられるはずがなかった。
「……大丈夫」
ハオスは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「私は、もうあの頃の子供じゃない」
今の自分には、剣がある。
力がある。
冒険者として積み重ねてきた経験がある。
もう、何もできずに奪われるだけの少女ではない。
ハオスは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「……よし!」
両手で頬を軽く叩き、気持ちを切り替える。
今日は、リバールへ向かう日だ。
濃霧に包まれ、上級冒険者や王国騎士団までもが消息を絶った都市。
そこに魔族が関わっている可能性がある。
考えるべきことは、たくさんあった。
「……今は、依頼に集中しないと」
ハオスは寝台から立ち上がり、剣を手に取った。
そして、出発の準備を整えるため、窓の外へと目を向ける。
朝の光が、街並みを照らしていた。
だが、彼女の胸の奥には、今も消えない炎が残っている。
六年前に奪われたもの。
決して忘れることのできない仇。
いつか必ず、見つけ出す。
そして、その手で決着をつける。
ハオスは静かに剣の柄を握り締めた。
「……待っていろ。顔のない魔族」
その声は、小さな部屋の中に低く響いた。