「――というわけで、しばらく留守にするんで、私の部屋を空けておいてください」
宿屋のカウンターで、ハオスは店主にそう告げた。
白い髪を揺らしながら、いつものように明るい笑顔を浮かべている。
対する店主は、帳簿から顔を上げると、呆れたようにため息をついた。
「それは構わねぇけどよ、ちゃんとその分の宿泊費は払ってもらうからな」
「…………」
ハオスの笑顔が、ぴたりと止まった。
数秒間、何かを考えるように黙り込む。
そして、気まずそうに視線を逸らした。
「……いざとなれば、給仕のアルバイトで返します」
「俺としちゃ助かるが、またギルドの姉ちゃんに怒られるぞ?」
「大丈夫です! 今度こそ、うまくやりますから!」
「その自信はどこから来るんだよ……」
店主は頭を抱えた。
ハオスはブリティア王国で唯一の神級冒険者だ。
本来なら、宿泊費に困るような立場ではない。ところが、稼いだ金をすぐに使い切ってしまうため、金欠になるのは日常茶飯事だった。
しかも、彼女は金に困ると、この宿屋で給仕のアルバイトを始める。
最初こそ店主も、神級冒険者が働きたいと言い出したことに驚いたものだ。
しかし、話は思わぬ方向へ転がった。
神級冒険者ハオスが給仕をしている。
そんな噂が王国内に広まり、珍しさから彼女を一目見ようと客が押し寄せるようになったのだ。
結果として宿屋の食堂は大繁盛。
店主にとって、ハオスは金銭感覚に問題があるものの、非常にありがたい働き手になっていた。
「まったく……。お前さんが働いてくれるのはありがたいんだがな。神級冒険者が給仕をしてるなんて、ほかの連中に知られたらまた大騒ぎだぞ」
「バレなきゃ大丈夫ですよ!」
ハオスは自信満々に胸を張った。
「いや、もうとっくにバレてるんだよ!」
「……えっ?」
「お前さん、自分の人気を少しは自覚しろ!」
「そ、そうだったんですか……?」
ハオスは驚いたように目を丸くした。
どうやら、本気で気づいていなかったらしい。
「はぁ……。まあ、留守の間は部屋をそのままにしておいてやるよ。ただし、戻ってきたらちゃんと払ってもらうからな」
「ありがとうございます、おじさん!」
ハオスは満面の笑みを浮かべた。
「お礼に、帰ってきたら食堂のお手伝いをしますね!」
「だから、それはギルドの姉ちゃんに怒られるんだって……」
「大丈夫ですよ!多分!」
「何が大丈夫なんだか……」
店主は深いため息をついた。
しかし、その表情はどこか楽しげでもあった。
ハオスは宿屋を出ると、荷物と剣を確かめた。
向かう先は、濃霧に包まれた都市リバール。
上級冒険者や王国騎士団が調査に向かったまま、消息を絶ったという危険な場所だ。
「……よし。行こう」
ハオスは表情を引き締め、歩き出した。
彼女はまだ知らない。
その都市で、すでに何が起きているのかを。
*
――リバール。
かつては交易で栄え、多くの人々が行き交っていた都市。
しかし、今やその面影はなかった。
街路も、建物も、広場も。
すべてが、異様なほど濃い霧に覆われている。
視界は悪く、数歩先の景色さえぼんやりと霞んでいた。
その霧の中を、一人の女性が必死に走っていた。
「はぁっ……! はぁっ……!」
息が切れる。
足が重い。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
彼女の名はエリザ。
上級冒険者として名を知られる、武闘家の女性である。
鍛え上げられた肉体と、素手で魔物を打ち倒す格闘術を武器に、これまで数多くの危険な依頼をこなしてきた。
そんな彼女が今、逃げることしかできずにいた。
「くそっ……! どうして、こんなことに……!」
エリザは背後を振り返った。
霧の向こうから、何かが這いずるような音が聞こえてくる。
続いて、うめき声。
聞き覚えのある声だった。
忘れられるはずがない。
つい先ほどまで、共に戦っていた仲間たちの声なのだから。
*
数時間前。
エリザは仲間たちと共に、リバールへ足を踏み入れていた。
今回の依頼は、都市を包み込んだ濃霧の原因を調査すること。
先行して派遣された冒険者や王国騎士団が戻らない以上、危険な任務になることは予想していた。
それでも、彼女たちは上級冒険者だ。
これまで数々の修羅場をくぐり抜けてきた自負があった。
「それにしても、気味の悪い霧だな」
仲間の一人が周囲を見回す。
「ここまで視界が悪いと、奇襲を受けたときに厄介だ」
「油断しちゃ駄目よ。何が出てくるかわからない」
エリザは拳を握り、警戒しながら歩いていた。
そのときだった。
「……待て。何かいる」
先頭を歩いていた仲間が足を止めた。
霧の向こうに、複数の影が見える。
人影のようだった。
「おい! そこの人! 大丈夫か!?」
仲間の一人が声をかける。
影は答えない。
ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。
やがて霧の中から姿を現したのは、青白い肌をした人間だった。
その身体は傷だらけで、衣服は血に汚れている。
目には生気がなく、口からは濁ったうめき声が漏れていた。
「……ゾンビか!」
エリザが叫ぶ。
その瞬間、ゾンビたちが一斉に襲いかかってきた。
「構えろ!」
仲間たちは即座に武器を抜いた。
エリザも拳を構え、迫り来るゾンビの一体を正面から殴り飛ばす。
鈍い音が響き、ゾンビの身体が地面を転がった。
「数が多い! 囲まれるな!」
彼女たちは連携しながら応戦した。
ゾンビの動きは鈍い。個々の力も、上級冒険者たちにとって大きな脅威ではなかった。
だが、倒しても倒しても、霧の向こうから新たな影が現れる。
そして――。
「……なんだ、あれ?」
誰かが、震える声で呟いた。
ゾンビの群れの奥。
霧の中に、ひときわ異様な何かが立っていた。
それを見た途端、エリザの背筋に冷たいものが走った。
理由はわからない。
ただ、本能が告げていた。
あれは、目の前のゾンビたちとは違う。
決して近づいてはならない存在だと。
「全員、下がれ! あれから距離を――」
言い終わる前に、事態は動いた。
仲間の一人が、突然苦しげな声を上げた。
「ぐっ……あ、ああああっ!」
「おい、どうした!?」
仲間が駆け寄ろうとする。
しかし、その人物の身体が大きく痙攣し始めた。
皮膚の色が変わり、目から光が失われていく。
「な……なによ、これ……!」
やがて、その身体から力が抜けた。
倒れた仲間は、ゆっくりと起き上がった。
そして、エリザたちへ向かって、濁ったうめき声を上げた。
「う、嘘でしょ……?」
それは、先ほどまで共に戦っていた仲間だった。
だが、もう人間ではない。
ゾンビへと変わってしまっていた。
「そんな……!」
エリザは目を見開いた。
何が起きたのか理解できない。
仲間を助けようと一歩踏み出した、そのとき。
「エリザ! 避けろ!」
叫び声と同時に、仲間の一人が彼女を突き飛ばした。
直後、何かが仲間を襲った。
悲鳴が上がる。
次々と、仲間たちが倒れていった。
反撃する間もなかった。
ゾンビに襲われた者たちが、次々と新たなゾンビへ変わっていく。
「お願い……! やめて!」
エリザは歯を食いしばり、拳を振るった。
迫ってきたゾンビを殴り飛ばす。
だが、目の前で仲間が襲われる光景に、判断が追いつかない。
そして、霧の奥にいた存在が、ゆっくりと動いた。
それだけで、エリザは全身が凍りつくような恐怖を覚えた。
勝てない。
戦ってはいけない。
ここにいては、全員が殺される。
そう悟った彼女は、唇を噛み締めた。
「……ごめん」
仲間たちへ向けた言葉だった。
その声が届いたかどうかもわからない。
エリザは踵を返し、走り出した。
*
「はぁっ……! はぁっ……!」
現在。
エリザは霧の中を走り続けていた。
背後からは、複数の足音が迫っている。
それだけではない。
かつて仲間だった者たちのうめき声が、霧の向こうから追いすがってくる。
「くそっ……!」
何度も振り返りながら、彼女は必死に逃げた。
仲間を置き去りにした。
助けることができなかった。
その事実が、胸を締めつける。
それでも、彼女にはやらなければならないことがあった。
この異常事態を、ギルドへ伝えなければならない。
リバールで何が起きているのか。
ゾンビたちがどれほど危険なのか。
そして、霧の奥にいる、あの得体の知れない存在について。
自分がここで死ねば、誰も真実を知ることができない。
「絶対に……戻って、伝えなきゃ……!」
エリザは前を向き、走り続けた。
やがて、見覚えのある街の入り口が見えてきた。
「出口だ……!」
希望が胸に湧き上がる。
あと少し。
ここを抜ければ、外へ出られる。
そう思い、エリザは最後の力を振り絞って走った。
だが――。
「……え?」
気づけば、彼女は再び同じ街路に立っていた。
目の前には、先ほど見たはずの壊れた荷車。
その脇に転がる木箱。
壁に刻まれた、見覚えのある傷跡。
「な、なんで……?」
エリザは息を呑んだ。
確かに、街の入り口へ向かったはずだった。
それなのに、なぜ同じ場所に戻っている?
彼女は別の道を選び、再び走り出した。
角を曲がり、路地を抜け、広場を横切る。
今度こそ。
今度こそ、外へ出られるはずだ。
しかし、どれだけ走っても、霧の向こうに現れる景色は変わらなかった。
同じ建物。
同じ路地。
同じ街路。
まるで、都市そのものが彼女を閉じ込めているかのようだった。
「そんな……! どうして、出られないの……!」
エリザは膝をついた。
体力は限界だった。
拳も傷だらけで、呼吸をするたびに胸が痛む。
仲間は全滅した。
自分だけが生き残った。
それなのに、逃げることすらできない。
霧の向こうから、またうめき声が聞こえてきた。
ゾンビたちが、近づいている。
エリザは震える身体を起こそうとした。
けれど、もう足に力が入らなかった。
「誰か……」
声が掠れる。
助けを求める相手など、どこにもいない。
それでも、願わずにはいられなかった。
「誰か……助けて……」
濃霧の中に、彼女の声が消えていく。
返事はない。
ただ、霧の向こうから、何かが近づいてくる気配だけがあった。