二度と離さない   作:○k-1

1 / 3
第1話

 

 冷たい。

 

 最初に感じたのは、それだった。

 

 背中に触れる硬い台。肌にまとわりつく冷気。鼻の奥に残る消毒液の匂い。

 

 星野アイは、息を吸った。

 

「……っ、は……!」

 

 肺が焼けるように痛んだ。

 

 喉がひきつり、咳がこぼれる。手足が痺れている。身体のどこもかしこも自分のものではないようだった。

 

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 

「アクア……ルビー……!」

 

 呼んだ名前に返事はない。

 

 アイは震える腕で上体を起こした。白い布が胸元から滑り落ちる。見覚えのない部屋だった。壁際の棚。金属の扉。整然と並ぶ、誰かを静かに眠らせるための設備。

 

 霊安室。

 

 その言葉を理解した途端、記憶が押し寄せた。

 

 暗い海。冷たい水。自分の身体から抜けていく力。

 

 そして、あの少女の声。

 

『会いたい? アクアとルビーに』

 

 あの子は、そう尋ねた。

 

 死んだはずの子供たち。

 

 何度呼んでも返事をしてくれなかった、二人。

 

『……お願い……会わせてください……』

 

 みっともなく縋った。嘘をつく余裕なんてなかった。

 

 あの世界で、アイは刺されなかった。

 

 代わりに奪われたのは、何よりも大切な二つの命だった。

 

 子供たちを奪ったのは、リョースケだった。けれど、彼が自分たちの居場所を知っていた理由も、アイには分かっていた。

 

 住所を教えた相手は一人しかいない。アクアとルビーの父親、神木ヒカル。

 

 だから、黒幕が誰なのかを探し回る必要なんてなかった。分かっていたからこそ、憎しみの向かう先も、最初から決まっていた。

 

 あの人に住所を教えなければ。あの人を信じなければ。そんな後悔を何度繰り返しても、二人は帰ってこなかった。

 

 そして、復讐の果てに神木ヒカルを道連れにした時でさえ、胸に残ったのは達成感ではなかった。

 

 ただ、会いたかった。

 

 アクアに。ルビーに。

 

「……生きて、る?」

 

 アイは自分の胸に手を当てた。

 

 弱々しいが、鼓動がある。

 

 そして腹部には、身に覚えのない深い傷の痛みがあった。誰かがこの身体で死んだのだと、否応なく理解させる痛みだった。

 

 それでも、あの少女は約束した。

 

 ならば。

 

「……行かなきゃ」

 

 台から降りた瞬間、膝が折れた。

 

「う、っ……!」

 

 床に手をつき、息を荒げる。身体が重い。視界がちらつく。足先まで冷えきっている。

 

 それでもアイは立った。

 

 一歩。もう一歩。

 

 薄い布を身体に巻きつけ、廊下へ出る。誰かの声がした気がしたが、振り返らなかった。

 

 行く場所は決まっている。

 

 苺プロ。

 

 あそこなら、二人の居場所が分かる。

 

 あの子たちが、本当にこの世界にいるのなら。

 

 今度こそ。

 

 今度こそ、伝えなければ。

 

 *

 

「なんで……なんで、アクアはそんなに普通でいられるの……!」

 

 ルビーは叫んだ。

 

 自分でも、ひどいことを言っていると分かっていた。

 

 アクアだって泣きたいはずだ。ママが死んで、平気なはずがない。

 

 それなのに、アクアが大人たちと話しているのを見ると、どうしようもなく腹が立った。

 

 ママのいない世界で、どうしてそんなふうに話せるの。

 

 どうして私だけ、息をするのも苦しいの。

 

「ルビー、落ち着け」

 

「落ち着けないよ!」

 

 差し出された手を振り払った。

 

「ママが……ママが死んじゃったんだよ!?」

 

 言葉にした瞬間、それが本当のことになってしまう気がした。

 

 ルビーは逃げた。

 

 呼び止める声も聞かず、靴音を響かせて外へ飛び出した。

 

 *

 

 夜の公園には誰もいなかった。

 

 ルビーはブランコに座り、つま先で砂を擦った。

 

「……最低」

 

 アクアに、あんなことを言うつもりじゃなかった。

 

 アクアはきっと、泣くのを我慢しているだけなのに。

 

「ごめんね、アクア……」

 

 目をこすっても涙は止まらなかった。

 

 ママの声を思い出す。

 

 笑った顔を思い出す。

 

 抱きしめてもらった時の温かさを思い出す。

 

 明日になったら帰ってくるんじゃないか。

 

 玄関を開けて、いつもの調子で「ただいまー」って。

 

 そんなはずないと知っているのに、心だけが納得しなかった。

 

 どれくらい座っていただろう。

 

 ルビーはようやく顔を上げた。

 

「……帰ろ」

 

 アクアに謝ろう。

 

 ブランコから降りた、その時だった。

 

「ルビー!」

 

 息を切らしたアクアが駆けてきた。

 

 額に汗を浮かべ、ひどく険しい顔をしている。

 

「勝手にいなくなるな。どれだけ探したと……」

 

「……ごめんなさい」

 

 ルビーは頭を下げた。

 

「アクアにひどいこと言った。アクアだって悲しいのに、私……」

 

「……いい。もういいから」

 

 アクアの声が少し震えた。

 

 その震えが、かえって胸に痛かった。

 

 ルビーは顔を上げた。

 

 そして、アクアの肩越しに、公園の入口を見た。

 

「…………え?」

 

 街灯の下に、女の人が立っていた。

 

 裸足に近い足元。身体に巻きつけた白い布。青ざめた顔。長い髪は乱れ、肩で息をしている。

 

 なのに。

 

 あの瞳を、見間違えるはずがなかった。

 

「……マ、マ?」

 

 アクアが振り返る。

 

「何を……」

 

 その言葉は途中で途切れた。

 

 そこにいたのは、確かに星野アイだった。

 

 死んだはずの母親が、街灯の下で震えながら立っていた。

 

「……アクア」

 

 掠れた声が、二人の名前を確かめるように呼ぶ。

 

「……ルビー」

 

 アイの目から、涙がこぼれた。

 

 最後に見た時と、何も変わらない。

 

 小さな身体も、幼い顔立ちも、見間違えるはずがなかった。けれど、あの時とは違う。二人がこちらを見ている。息をしている。

 

 生きている。

 

 二人とも、生きている。

 

「……よかった」

 

 アイは笑おうとした。けれど顔がくしゃくしゃに歪んで、上手く笑えなかった。

 

「会えた……ほんとに、会えた……」

 

 一歩踏み出す。

 

 途端に身体が傾いた。

 

「ママっ!」

 

 ルビーが叫ぶ。

 

 アクアも反射的に走り出していた。

 

 倒れかけたアイを、小さな二人の手が支える。

 

 温かい。

 

 あんなに求めて、もう二度と触れられないと思っていた温もり。

 

「……あ、ああ……」

 

 アイは二人を抱き寄せた。

 

 力なんてほとんど残っていなかった。それでも離したくなかった。

 

「ママ……? ほんとにママなの……?」

 

 ルビーの声は震えていた。

 

 アクアは何も言わない。ただ、アイの腕を掴む指に力がこもっていた。

 

 アイは二人の顔に頬を寄せた。

 

 あの日、言えなかった言葉。

 

 あの世界で、何度も何度も伝えたかった言葉。

 

 嘘じゃない。

 

 自分の心の底から溢れてくる、本当の言葉。

 

「……アクア、ルビー」

 

 息を吸うだけで痛かった。

 

 それでも、今だけは声が出た。

 

「愛してる」

 

 ルビーが息を呑んだ。

 

「……二人とも、愛してるよ」

 

 その瞬間、アイの膝から力が抜けた。

 

 アクアが必死に支える。

 

「ママ! しっかりして!」

 

「……うん……ごめんね……ちょっと、疲れちゃった……」

 

 アイはかすかに笑った。

 

 遠ざかる意識の中で、二人の声が聞こえる。

 

 今度は、消えないで。

 

 お願いだから。

 

 そう願ったのは、いったい誰だったのだろう。

 

 夜の公園に、子供たちの泣き声が響いた。

 

 そして星野アイは、二度目の生の最初の夜に、愛する二人の腕の中で意識を手放した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。