冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
背中に触れる硬い台。肌にまとわりつく冷気。鼻の奥に残る消毒液の匂い。
星野アイは、息を吸った。
「……っ、は……!」
肺が焼けるように痛んだ。
喉がひきつり、咳がこぼれる。手足が痺れている。身体のどこもかしこも自分のものではないようだった。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
「アクア……ルビー……!」
呼んだ名前に返事はない。
アイは震える腕で上体を起こした。白い布が胸元から滑り落ちる。見覚えのない部屋だった。壁際の棚。金属の扉。整然と並ぶ、誰かを静かに眠らせるための設備。
霊安室。
その言葉を理解した途端、記憶が押し寄せた。
暗い海。冷たい水。自分の身体から抜けていく力。
そして、あの少女の声。
『会いたい? アクアとルビーに』
あの子は、そう尋ねた。
死んだはずの子供たち。
何度呼んでも返事をしてくれなかった、二人。
『……お願い……会わせてください……』
みっともなく縋った。嘘をつく余裕なんてなかった。
あの世界で、アイは刺されなかった。
代わりに奪われたのは、何よりも大切な二つの命だった。
子供たちを奪ったのは、リョースケだった。けれど、彼が自分たちの居場所を知っていた理由も、アイには分かっていた。
住所を教えた相手は一人しかいない。アクアとルビーの父親、神木ヒカル。
だから、黒幕が誰なのかを探し回る必要なんてなかった。分かっていたからこそ、憎しみの向かう先も、最初から決まっていた。
あの人に住所を教えなければ。あの人を信じなければ。そんな後悔を何度繰り返しても、二人は帰ってこなかった。
そして、復讐の果てに神木ヒカルを道連れにした時でさえ、胸に残ったのは達成感ではなかった。
ただ、会いたかった。
アクアに。ルビーに。
「……生きて、る?」
アイは自分の胸に手を当てた。
弱々しいが、鼓動がある。
そして腹部には、身に覚えのない深い傷の痛みがあった。誰かがこの身体で死んだのだと、否応なく理解させる痛みだった。
それでも、あの少女は約束した。
ならば。
「……行かなきゃ」
台から降りた瞬間、膝が折れた。
「う、っ……!」
床に手をつき、息を荒げる。身体が重い。視界がちらつく。足先まで冷えきっている。
それでもアイは立った。
一歩。もう一歩。
薄い布を身体に巻きつけ、廊下へ出る。誰かの声がした気がしたが、振り返らなかった。
行く場所は決まっている。
苺プロ。
あそこなら、二人の居場所が分かる。
あの子たちが、本当にこの世界にいるのなら。
今度こそ。
今度こそ、伝えなければ。
*
「なんで……なんで、アクアはそんなに普通でいられるの……!」
ルビーは叫んだ。
自分でも、ひどいことを言っていると分かっていた。
アクアだって泣きたいはずだ。ママが死んで、平気なはずがない。
それなのに、アクアが大人たちと話しているのを見ると、どうしようもなく腹が立った。
ママのいない世界で、どうしてそんなふうに話せるの。
どうして私だけ、息をするのも苦しいの。
「ルビー、落ち着け」
「落ち着けないよ!」
差し出された手を振り払った。
「ママが……ママが死んじゃったんだよ!?」
言葉にした瞬間、それが本当のことになってしまう気がした。
ルビーは逃げた。
呼び止める声も聞かず、靴音を響かせて外へ飛び出した。
*
夜の公園には誰もいなかった。
ルビーはブランコに座り、つま先で砂を擦った。
「……最低」
アクアに、あんなことを言うつもりじゃなかった。
アクアはきっと、泣くのを我慢しているだけなのに。
「ごめんね、アクア……」
目をこすっても涙は止まらなかった。
ママの声を思い出す。
笑った顔を思い出す。
抱きしめてもらった時の温かさを思い出す。
明日になったら帰ってくるんじゃないか。
玄関を開けて、いつもの調子で「ただいまー」って。
そんなはずないと知っているのに、心だけが納得しなかった。
どれくらい座っていただろう。
ルビーはようやく顔を上げた。
「……帰ろ」
アクアに謝ろう。
ブランコから降りた、その時だった。
「ルビー!」
息を切らしたアクアが駆けてきた。
額に汗を浮かべ、ひどく険しい顔をしている。
「勝手にいなくなるな。どれだけ探したと……」
「……ごめんなさい」
ルビーは頭を下げた。
「アクアにひどいこと言った。アクアだって悲しいのに、私……」
「……いい。もういいから」
アクアの声が少し震えた。
その震えが、かえって胸に痛かった。
ルビーは顔を上げた。
そして、アクアの肩越しに、公園の入口を見た。
「…………え?」
街灯の下に、女の人が立っていた。
裸足に近い足元。身体に巻きつけた白い布。青ざめた顔。長い髪は乱れ、肩で息をしている。
なのに。
あの瞳を、見間違えるはずがなかった。
「……マ、マ?」
アクアが振り返る。
「何を……」
その言葉は途中で途切れた。
そこにいたのは、確かに星野アイだった。
死んだはずの母親が、街灯の下で震えながら立っていた。
「……アクア」
掠れた声が、二人の名前を確かめるように呼ぶ。
「……ルビー」
アイの目から、涙がこぼれた。
最後に見た時と、何も変わらない。
小さな身体も、幼い顔立ちも、見間違えるはずがなかった。けれど、あの時とは違う。二人がこちらを見ている。息をしている。
生きている。
二人とも、生きている。
「……よかった」
アイは笑おうとした。けれど顔がくしゃくしゃに歪んで、上手く笑えなかった。
「会えた……ほんとに、会えた……」
一歩踏み出す。
途端に身体が傾いた。
「ママっ!」
ルビーが叫ぶ。
アクアも反射的に走り出していた。
倒れかけたアイを、小さな二人の手が支える。
温かい。
あんなに求めて、もう二度と触れられないと思っていた温もり。
「……あ、ああ……」
アイは二人を抱き寄せた。
力なんてほとんど残っていなかった。それでも離したくなかった。
「ママ……? ほんとにママなの……?」
ルビーの声は震えていた。
アクアは何も言わない。ただ、アイの腕を掴む指に力がこもっていた。
アイは二人の顔に頬を寄せた。
あの日、言えなかった言葉。
あの世界で、何度も何度も伝えたかった言葉。
嘘じゃない。
自分の心の底から溢れてくる、本当の言葉。
「……アクア、ルビー」
息を吸うだけで痛かった。
それでも、今だけは声が出た。
「愛してる」
ルビーが息を呑んだ。
「……二人とも、愛してるよ」
その瞬間、アイの膝から力が抜けた。
アクアが必死に支える。
「ママ! しっかりして!」
「……うん……ごめんね……ちょっと、疲れちゃった……」
アイはかすかに笑った。
遠ざかる意識の中で、二人の声が聞こえる。
今度は、消えないで。
お願いだから。
そう願ったのは、いったい誰だったのだろう。
夜の公園に、子供たちの泣き声が響いた。
そして星野アイは、二度目の生の最初の夜に、愛する二人の腕の中で意識を手放した。