「ママ?」
ルビーは、返事を待った。
「ねえ、ママ。起きてよ」
ついさっきまで自分を抱きしめていた腕が、するりと落ちている。
怖かった。
アイが目の前に現れた時、怖いなんて思う暇もなかった。ただ嬉しくて、夢中で飛びついた。もう二度と会えないはずだったママが、自分の名前を呼んでくれたのだから。
なのに。
「やだ……やだよ。ママ、また……?」
「ルビー、少し離れて」
アクアの声だった。
「やだっ!」
「アイの様子を診るんだ。お願い」
いつもなら腹の立つ、妙に大人びた言い方だった。けれど今は、声の端が震えている。
ルビーがほんの少し身を引くと、アクアはアイの鼻と口元に顔を近づけ、胸の動きを見た。それから首筋に指を当てる。
息をしている。
脈もある。
弱々しいが、確かに。
「……生きてる」
呟いた瞬間、アクア自身がその言葉に打たれた。
生きている。
そんなはずがない。
自分は見たのだ。床に広がる血を。呼びかけても二度と答えなかった母親を。医者だった頃の知識など持ち出さなくても、あれが死だったことくらい分かる。
それなのに今、指先の下では心臓が動いている。
「アクア……?」
「大丈夫。呼吸はある。だけど、起こさないで。まず大人を呼ぶ」
大丈夫。
口にした言葉を、自分がいちばん信じられなかった。
アクアはポケットから携帯電話を取り出した。震える指で、ミヤコの番号を押す。
『アクアくん!? 今どこなの! ルビーちゃんは一緒!?』
呼び出し音が途切れるなり、切羽詰まった声が飛び込んできた。
「一緒にいる。公園。いつもの……事務所から近い公園」
『よかった……! 今、社長と探しに出ようとしてたのよ。すぐ迎えに――』
「ミヤコさん」
アクアは一度、唇を噛んだ。
「来て。できれば社長も。……それから、救急車が必要かもしれない」
『えっ? どっちか怪我したの!?』
「俺たちは無事だ。でも、説明できないことが起きた」
『説明って、何を――』
「電話じゃ無理なんだ。お願い、早く」
少しの沈黙。
『……分かった。すぐ行く。二人とも、そこから動かないで』
通話が切れた。
アクアは携帯電話を握りしめたまま、アイを見下ろした。
額には汗が浮かび、唇の色も悪い。上着の下に見える服は見覚えのあるものだったが、腹部を庇うように身体を丸めている。服の下の傷がどうなっているのか、確かめたい。だが、こんな公園の地面で不用意に動かしていい状態とも思えなかった。
「……ママ、痛いの?」
ルビーが尋ねた。
「分からない」
「アクアは何でも知ってるじゃん」
「……分からないんだよ」
思わず強く返してしまい、アクアは息を呑んだ。
ルビーの目に、また涙が溜まる。
「ごめん」
アクアは小さく言った。
「俺も、怖い」
それを聞いて、ルビーは黙った。
いつも偉そうな兄が、こんなふうに言うのは初めてだった。
ルビーはアイの手を握った。冷たい夜気にさらされていても、その手には確かな温もりがあった。
「……ママ。ルビー、ここにいるからね」
もう怒ったりしない。わがままも言わない。
そんな約束を口にしそうになって、やめた。
さっき、アクアにひどいことを言ったばかりだったから。
「アクアもいるよ。だから、起きて……」
握った手は、まだ握り返してこなかった。
*
最初に聞こえたのは、足音だった。
「アクア! ルビー!」
ミヤコが公園へ駆け込んできた。その後ろに壱護もいる。
二人の子供が無事だと分かった瞬間、ミヤコの顔に安堵が浮かんだ。
だが、それは一秒も続かなかった。
「……え?」
ルビーが誰かの手を握っている。
アクアが、その誰かのそばに膝をついている。
街灯の下に横たわる紫がかった長い髪。見慣れた横顔。
ミヤコの足が止まった。
「……アイ?」
自分の口から出た名前が、ひどく遠くに聞こえた。
壱護がミヤコの横を抜けた。駆け寄ろうとして、同じように動けなくなる。
「……おい」
声が掠れた。
「なんだ、これは」
つい先ほどまで、二人は葬儀のことを考えなければならない立場だった。受け入れたくなくても、現実は変わらない。アイは死んだ。確認も済んでいる。遺体は安置されている。
そのはずだった。
「社長」
アクアが呼んだ。
「俺にも分からない。でも、アイなんだ。さっきまで喋ってた。俺たちの名前を呼んで……それで、倒れた」
「……喋った?」
壱護が、ようやく一歩近づいた。
「アイが?」
「うん」
ルビーは涙で濡れた顔を上げる。
「ママ、帰ってきたの。ほんとだよ。ルビーのこと抱っこして、愛してるって言ってくれたの」
壱護の喉が動いた。
彼はアイの傍らにしゃがみ、顔を覗き込んだ。頬に触れようとした手が途中で止まる。ためらった末に指先が触れた時、その表情が崩れた。
「……温かい」
ミヤコが口元を押さえた。
「そんな……そんなこと……」
「ミヤコ」
壱護は振り返らずに言った。
「救急に連絡しろ。事情は……俺が話す」
何をどう話せばいいのか、彼にも分からなかった。
だが、アイの胸が上下していることだけは、見間違いではなかった。
*
救急車を待つ間、アイは夢を見ていた。
小さな靴が二足、玄関に並んでいる。
呼べば返事があるはずなのに、誰も答えない。
扉を開けても、部屋を探しても、二人はいない。
何度も見た夢だった。
あの世界で、何度朝を迎えても終わらなかった悪夢。
――また、いなくなっちゃった。
指先が冷たくなる。
自分はまた間違えたのだろうか。会えたと思ったのは、死ぬ間際に見た都合のいい幻だったのだろうか。
『ママ』
声がした。
『ルビー、ここにいるからね』
もう一つ、声が重なる。
『俺もいる』
アイは、必死にその声を追いかけた。
「……っ」
瞼が動いた。
「ママ!?」
すぐ近くでルビーが叫ぶ。
アイは薄く目を開けた。
ぼやけた視界の向こうに、金色の髪。青い瞳。隣には同じように小さな顔がある。
ああ。
いた。
「……アクア……ルビー……」
声は掠れていた。
「ママ! よかった、よかったぁ……!」
ルビーが飛びつこうとするのを、アクアがそっと止める。
「ルビー、今はそっとしてあげて」
「……うんっ」
アイは二人の顔を交互に見た。何度も、確かめるように。
「……どこにも、行かない?」
思ってもいなかった言葉が零れた。
ルビーが目を丸くする。
「行かないよ。ママこそ、もういなくならないで……」
「……うん」
アイは微笑もうとした。
「ごめんね。びっくりさせちゃったね」
その時、視界の端に二人の大人が映った。
「……ミヤコさん? 社長……?」
壱護は返事をしなかった。
ミヤコは泣きそうな顔のまま、何かを言おうとしては口を閉じている。
アイは少し困ったように笑った。
「……ただいま」
その一言で、ミヤコの目から涙が落ちた。
「……本当に、アイなの?」
「うん。……たぶん、説明するの難しいんだけど」
自分でも分かっている。ここにいることは、きっと当たり前ではない。
それでも今は、説明より先にしたいことがあった。
アイはゆっくりと両手を動かし、アクアとルビーの指を探した。
二人はすぐに握り返してくれた。
「……二人とも、いてくれて、ありがとう」
アクアの眉が寄った。
ありがとう。
なぜ、そんなことを言うのだろう。
まるで自分たちがここに生きているだけで、奇跡だとでもいうように。
問いかけるより先に、遠くからサイレンが聞こえてきた。
*
救急隊員の問いに、壱護は必要なことだけを答えた。女性が意識を失ったこと。今は受け答えができること。腹部に傷があるらしいこと。
死亡確認を受けたはずの人間だという話は、隠し通せるものではなかった。病院へ向かえば記録も残っている。それでも、今この場で混乱を広げるより、まず診てもらうべきだと判断した。
アイは担架に乗せられる時、アクアの手を離せなかった。
「アイ」
アクアが顔を近づける。
「俺たちも行く。絶対に」
「……ほんと?」
「ほんと」
その答えを聞いて、ようやくアイの指から力が抜けた。
壱護が付き添い、ミヤコは子供たちを連れて病院へ向かうことになった。
救急車の扉が閉まる直前、アイはもう一度だけ二人を見た。
生きている。
泣いて、怒って、心配してくれる。
あの子たちが。
扉が閉まった。
アクアは、ルビーの手を握った。
「……さっきは、ごめん」
ルビーが小さく言う。
「アクアのせいじゃなかったのに。ひどいこと言って」
「俺も、何もできなかった」
「……でも、ママ、帰ってきたね」
アクアは答えられなかった。
帰ってきた。
確かにそうだ。
けれど、アイはどうして、目を覚ました時に自分たちが『どこにも行かないか』と尋ねたのだろう。
失うことを恐れていたのは、自分たちだけではないのかもしれない。
夜道を走る救急車の赤い光を、アクアはじっと見つめた。
奇跡が起きた理由は、まだ分からない。
それでも一つだけ、決めたことがある。
今度こそ君を守るよアイ。