二度と離さない   作:○k-1

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第2話

 

「ママ?」

 

 ルビーは、返事を待った。

 

「ねえ、ママ。起きてよ」

 

 ついさっきまで自分を抱きしめていた腕が、するりと落ちている。

 

 怖かった。

 

 アイが目の前に現れた時、怖いなんて思う暇もなかった。ただ嬉しくて、夢中で飛びついた。もう二度と会えないはずだったママが、自分の名前を呼んでくれたのだから。

 

 なのに。

 

「やだ……やだよ。ママ、また……?」

 

「ルビー、少し離れて」

 

 アクアの声だった。

 

「やだっ!」

 

「アイの様子を診るんだ。お願い」

 

 いつもなら腹の立つ、妙に大人びた言い方だった。けれど今は、声の端が震えている。

 

 ルビーがほんの少し身を引くと、アクアはアイの鼻と口元に顔を近づけ、胸の動きを見た。それから首筋に指を当てる。

 

 息をしている。

 

 脈もある。

 

 弱々しいが、確かに。

 

「……生きてる」

 

 呟いた瞬間、アクア自身がその言葉に打たれた。

 

 生きている。

 

 そんなはずがない。

 

 自分は見たのだ。床に広がる血を。呼びかけても二度と答えなかった母親を。医者だった頃の知識など持ち出さなくても、あれが死だったことくらい分かる。

 

 それなのに今、指先の下では心臓が動いている。

 

「アクア……?」

 

「大丈夫。呼吸はある。だけど、起こさないで。まず大人を呼ぶ」

 

 大丈夫。

 

 口にした言葉を、自分がいちばん信じられなかった。

 

 アクアはポケットから携帯電話を取り出した。震える指で、ミヤコの番号を押す。

 

『アクアくん!? 今どこなの! ルビーちゃんは一緒!?』

 

 呼び出し音が途切れるなり、切羽詰まった声が飛び込んできた。

 

「一緒にいる。公園。いつもの……事務所から近い公園」

 

『よかった……! 今、社長と探しに出ようとしてたのよ。すぐ迎えに――』

 

「ミヤコさん」

 

 アクアは一度、唇を噛んだ。

 

「来て。できれば社長も。……それから、救急車が必要かもしれない」

 

『えっ? どっちか怪我したの!?』

 

「俺たちは無事だ。でも、説明できないことが起きた」

 

『説明って、何を――』

 

「電話じゃ無理なんだ。お願い、早く」

 

 少しの沈黙。

 

『……分かった。すぐ行く。二人とも、そこから動かないで』

 

 通話が切れた。

 

 アクアは携帯電話を握りしめたまま、アイを見下ろした。

 

 額には汗が浮かび、唇の色も悪い。上着の下に見える服は見覚えのあるものだったが、腹部を庇うように身体を丸めている。服の下の傷がどうなっているのか、確かめたい。だが、こんな公園の地面で不用意に動かしていい状態とも思えなかった。

 

「……ママ、痛いの?」

 

 ルビーが尋ねた。

 

「分からない」

 

「アクアは何でも知ってるじゃん」

 

「……分からないんだよ」

 

 思わず強く返してしまい、アクアは息を呑んだ。

 

 ルビーの目に、また涙が溜まる。

 

「ごめん」

 

 アクアは小さく言った。

 

「俺も、怖い」

 

 それを聞いて、ルビーは黙った。

 

 いつも偉そうな兄が、こんなふうに言うのは初めてだった。

 

 ルビーはアイの手を握った。冷たい夜気にさらされていても、その手には確かな温もりがあった。

 

「……ママ。ルビー、ここにいるからね」

 

 もう怒ったりしない。わがままも言わない。

 

 そんな約束を口にしそうになって、やめた。

 

 さっき、アクアにひどいことを言ったばかりだったから。

 

「アクアもいるよ。だから、起きて……」

 

 握った手は、まだ握り返してこなかった。

 

  *

 

 最初に聞こえたのは、足音だった。

 

「アクア! ルビー!」

 

 ミヤコが公園へ駆け込んできた。その後ろに壱護もいる。

 

 二人の子供が無事だと分かった瞬間、ミヤコの顔に安堵が浮かんだ。

 

 だが、それは一秒も続かなかった。

 

「……え?」

 

 ルビーが誰かの手を握っている。

 

 アクアが、その誰かのそばに膝をついている。

 

 街灯の下に横たわる紫がかった長い髪。見慣れた横顔。

 

 ミヤコの足が止まった。

 

「……アイ?」

 

 自分の口から出た名前が、ひどく遠くに聞こえた。

 

 壱護がミヤコの横を抜けた。駆け寄ろうとして、同じように動けなくなる。

 

「……おい」

 

 声が掠れた。

 

「なんだ、これは」

 

 つい先ほどまで、二人は葬儀のことを考えなければならない立場だった。受け入れたくなくても、現実は変わらない。アイは死んだ。確認も済んでいる。遺体は安置されている。

 

 そのはずだった。

 

「社長」

 

 アクアが呼んだ。

 

「俺にも分からない。でも、アイなんだ。さっきまで喋ってた。俺たちの名前を呼んで……それで、倒れた」

 

「……喋った?」

 

 壱護が、ようやく一歩近づいた。

 

「アイが?」

 

「うん」

 

 ルビーは涙で濡れた顔を上げる。

 

「ママ、帰ってきたの。ほんとだよ。ルビーのこと抱っこして、愛してるって言ってくれたの」

 

 壱護の喉が動いた。

 

 彼はアイの傍らにしゃがみ、顔を覗き込んだ。頬に触れようとした手が途中で止まる。ためらった末に指先が触れた時、その表情が崩れた。

 

「……温かい」

 

 ミヤコが口元を押さえた。

 

「そんな……そんなこと……」

 

「ミヤコ」

 

 壱護は振り返らずに言った。

 

「救急に連絡しろ。事情は……俺が話す」

 

 何をどう話せばいいのか、彼にも分からなかった。

 

 だが、アイの胸が上下していることだけは、見間違いではなかった。

 

  *

 

 救急車を待つ間、アイは夢を見ていた。

 

 小さな靴が二足、玄関に並んでいる。

 

 呼べば返事があるはずなのに、誰も答えない。

 

 扉を開けても、部屋を探しても、二人はいない。

 

 何度も見た夢だった。

 

 あの世界で、何度朝を迎えても終わらなかった悪夢。

 

 ――また、いなくなっちゃった。

 

 指先が冷たくなる。

 

 自分はまた間違えたのだろうか。会えたと思ったのは、死ぬ間際に見た都合のいい幻だったのだろうか。

 

『ママ』

 

 声がした。

 

『ルビー、ここにいるからね』

 

 もう一つ、声が重なる。

 

『俺もいる』

 

 アイは、必死にその声を追いかけた。

 

「……っ」

 

 瞼が動いた。

 

「ママ!?」

 

 すぐ近くでルビーが叫ぶ。

 

 アイは薄く目を開けた。

 

 ぼやけた視界の向こうに、金色の髪。青い瞳。隣には同じように小さな顔がある。

 

 ああ。

 

 いた。

 

「……アクア……ルビー……」

 

 声は掠れていた。

 

「ママ! よかった、よかったぁ……!」

 

 ルビーが飛びつこうとするのを、アクアがそっと止める。

 

「ルビー、今はそっとしてあげて」

 

「……うんっ」

 

 アイは二人の顔を交互に見た。何度も、確かめるように。

 

「……どこにも、行かない?」

 

 思ってもいなかった言葉が零れた。

 

 ルビーが目を丸くする。

 

「行かないよ。ママこそ、もういなくならないで……」

 

「……うん」

 

 アイは微笑もうとした。

 

「ごめんね。びっくりさせちゃったね」

 

 その時、視界の端に二人の大人が映った。

 

「……ミヤコさん? 社長……?」

 

 壱護は返事をしなかった。

 

 ミヤコは泣きそうな顔のまま、何かを言おうとしては口を閉じている。

 

 アイは少し困ったように笑った。

 

「……ただいま」

 

 その一言で、ミヤコの目から涙が落ちた。

 

「……本当に、アイなの?」

 

「うん。……たぶん、説明するの難しいんだけど」

 

 自分でも分かっている。ここにいることは、きっと当たり前ではない。

 

 それでも今は、説明より先にしたいことがあった。

 

 アイはゆっくりと両手を動かし、アクアとルビーの指を探した。

 

 二人はすぐに握り返してくれた。

 

「……二人とも、いてくれて、ありがとう」

 

 アクアの眉が寄った。

 

 ありがとう。

 

 なぜ、そんなことを言うのだろう。

 

 まるで自分たちがここに生きているだけで、奇跡だとでもいうように。

 

 問いかけるより先に、遠くからサイレンが聞こえてきた。

 

  *

 

 救急隊員の問いに、壱護は必要なことだけを答えた。女性が意識を失ったこと。今は受け答えができること。腹部に傷があるらしいこと。

 

 死亡確認を受けたはずの人間だという話は、隠し通せるものではなかった。病院へ向かえば記録も残っている。それでも、今この場で混乱を広げるより、まず診てもらうべきだと判断した。

 

 アイは担架に乗せられる時、アクアの手を離せなかった。

 

「アイ」

 

 アクアが顔を近づける。

 

「俺たちも行く。絶対に」

 

「……ほんと?」

 

「ほんと」

 

 その答えを聞いて、ようやくアイの指から力が抜けた。

 

 壱護が付き添い、ミヤコは子供たちを連れて病院へ向かうことになった。

 

 救急車の扉が閉まる直前、アイはもう一度だけ二人を見た。

 

 生きている。

 

 泣いて、怒って、心配してくれる。

 

 あの子たちが。

 

 扉が閉まった。

 

 アクアは、ルビーの手を握った。

 

「……さっきは、ごめん」

 

 ルビーが小さく言う。

 

「アクアのせいじゃなかったのに。ひどいこと言って」

 

「俺も、何もできなかった」

 

「……でも、ママ、帰ってきたね」

 

 アクアは答えられなかった。

 

 帰ってきた。

 

 確かにそうだ。

 

 けれど、アイはどうして、目を覚ました時に自分たちが『どこにも行かないか』と尋ねたのだろう。

 

 失うことを恐れていたのは、自分たちだけではないのかもしれない。

 

 夜道を走る救急車の赤い光を、アクアはじっと見つめた。

 

 奇跡が起きた理由は、まだ分からない。

 

 それでも一つだけ、決めたことがある。

 

 今度こそ君を守るよアイ。

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