二度と離さない   作:○k-1

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第3話

 

 病院の廊下は、夜なのに明るかった。

 

 白い壁。白い床。どこかで鳴る電子音。

 

 ルビーは椅子の端に座り、両手を膝の上で握りしめていた。足が床に届かない。いつもならぶらぶら揺らしているところだけれど、今はそんな気にもなれなかった。

 

「……アクア」

 

「ん?」

 

「ママ、また死んじゃわないよね」

 

 隣に座るアクアは、すぐには答えなかった。

 

 救急車に乗せられる前、アイは確かに息をしていた。脈もあった。会話もできていた。そこまでは自分の目で確かめた。

 

 だが、死んだ人間が生き返る理由を、雨宮吾郎だった頃の知識で説明できるはずもない。

 

「……今は先生たちが診てくれてる」

 

「それ、だいじょうぶってこと?」

 

「大丈夫にするために診てもらってるんだ」

 

 ルビーは唇を尖らせた。でも、怒らなかった。

 

 アクアが嘘をつかなかったことは分かったのだろう。

 

「わたし、さっき、ママの手、あったかかったの」

 

「うん」

 

「ほんとにあったかかったんだよ」

 

「……俺も触った」

 

「じゃあ、夢じゃないよね」

 

「夢じゃない」

 

 その言葉だけは、迷わず言えた。

 

 ルビーがそっと肩を寄せてくる。アクアは何も言わず、そのままにした。

 

     *

 

 診察室の向こうで、医師がカルテを見つめていた。

 

「……斉藤さん。もう一度確認させてください」

 

 壱護は疲れ切った顔で頷いた。

 

「この方は、死亡を確認されていた。間違いありませんか」

 

「……ああ」

 

「それで、安置されていた場所からいなくなり、今夜、公園で発見された」

 

「そうだ」

 

 医師は眉間を押さえた。

 

「こちらでも関係部署に確認しています。記録の取り違えで片づく話ではありません」

 

「俺だって、片づくとは思ってねえよ」

 

 壱護の声が荒くなり、すぐに小さくなった。

 

「……悪い。あいつは、どうなんだ」

 

「現在のところ、呼吸、循環ともに安定しています。意識も清明です。ただ、強い疲労と脱水が見られますし、傷の状態は通常の経過では説明がつきません」

 

「傷……?」

 

「刺創の痕跡はあります。しかし、死亡に至った経過と、現在の状態が一致しない。詳しい検査と経過観察が必要です」

 

 医師は言葉を選んでいた。

 

 生き返った、と断言することもできない。間違いだった、と説明することもできない。

 

 壱護は椅子の背にもたれた。

 

 アイが死んだ。

 

 その事実を受け入れることさえ、まだできていなかった。

 

 それなのに今度は、生きているという。

 

「……会えるか」

 

「短時間なら。ただし、本人を休ませることを優先してください」

 

 壱護は深く頭を下げた。

 

  *

 

 アイはベッドの上で、天井を見つめていた。

 

 身体が重い。少し起き上がろうとしただけで、腹の奥が鈍く痛んだ。

 

 それでも、痛いという感覚が嬉しかった。

 

 痛みがある。息ができる。心臓が動いている。

 

 何より、さっきまで二人の声が聞こえていた。

 

「……ほんとに、いるんだ」

 

 呟くと、喉の奥が熱くなる。

 

 別の世界で、アイは二人を失った。

 

 リョースケの顔も、あの日のことも、忘れたことはない。どうして居場所を知られたのかも、考えるまでもなかった。

 

 住所を教えた相手は、神木ヒカル。

 

 子供たちの父親だった。

 

 あの男が何をしたのかを知り、復讐を遂げても、アクアとルビーは帰ってこなかった。

 

 自分も死んで、ようやく終わったはずだった。

 

 なのに。

 

「アクア……ルビー……」

 

 名前を呼ぶと、胸が苦しくなる。

 

 あの子たちが生きている世界。

 

 まだ、あの男がどこかにいる世界。

 

 考えかけて、アイは目を閉じた。

 

 今すぐ何かを決められるほど、身体も心も落ち着いていない。ただ、一つだけはっきりしていた。

 

 もう二度と、あの子たちを奪わせない。

 

 扉が控えめに叩かれた。

 

「アイ。入るぞ」

 

「……社長?」

 

 壱護が入ってきた。その後ろにミヤコがいる。

 

 二人とも、ひどい顔をしていた。

 

「なに、その顔。私、そんなにひどい?」

 

 いつもの調子で笑ってみせる。

 

 けれど、壱護は笑わなかった。

 

「……お前、本当にアイなんだな」

 

「うん。そうだよ」

 

「俺たちは、お前が……」

 

 最後まで言えなかった。

 

 アイは毛布の端を握った。

 

「……ごめん。びっくりさせたよね」

 

「謝ることじゃないでしょう」

 

 ミヤコの声が震えた。

 

「こっちは、どれだけ……」

 

 そこで口を閉じ、何度も瞬きをする。

 

 アイはその顔を見て、ようやく理解した。

 

 自分が二人を失ったように、この世界の人たちは自分を失ったのだ。

 

 アクアも、ルビーも。

 

 壱護も、ミヤコも。

 

「……心配かけて、ごめんね」

 

 今度の謝罪は、笑ってごまかさなかった。

 

 ミヤコは目元を拭った。

 

「子供たち、ずっと待ってるわ」

 

 アイの顔が上がる。

 

「会える?」

 

「先生に、少しだけならって」

 

「……そっか」

 

 たったそれだけの返事が、うまく声にならなかった。

 

  *

 

「走らないで」

 

 ミヤコに言われ、ルビーは廊下の途中でぴたりと止まった。

 

「……走ってないもん」

 

「今、走りかけたでしょ」

 

「ちょっとだけ」

 

 アクアが後ろから追いつく。

 

「ルビー。アイは疲れてるんだから」

 

「わかってる!」

 

 小声で言い返すところが、いつものルビーだった。

 

 病室の扉が開く。

 

 アイがいた。

 

 白い寝間着で、枕に背中を預けている。顔色はまだ良くない。けれど、二人を見ると、ぱっと表情が明るくなった。

 

「アクア、ルビー」

 

「ママ!」

 

 ルビーが駆け寄り、ベッドのすぐ手前で踏みとどまる。

 

「……ぎゅってしていい?」

 

 アイの胸が詰まった。

 

 抱きしめたい。今すぐ、力いっぱい。

 

 けれど、傷のある身体を見て遠慮している娘の気持ちも分かった。

 

「うん。おいでルビー」

 

 ルビーは慎重に腕を伸ばした。アイもそっと抱き返す。

 

 小さな背中が上下している。

 

 息をしている。

 

 アイは目を閉じかけ、慌てて開いた。

 

「……ママ?」

 

「なんでもない。ルビーが可愛すぎて、困っちゃった」

 

「もう、なにそれ」

 

 ルビーが泣き笑いになる。

 

 その横で、アクアがアイをじっと見ていた。

 

「アイ。痛くない?」

 

「ちょっとはね。でも平気」

 

「平気じゃないから病院にいるんだろ」

 

「……あはは。そうでした」

 

 叱られたアイが舌を出す。

 

 アクアはため息をついたが、その表情は少しだけ緩んだ。

 

「無理はしないで」

 

「うん」

 

「ちゃんと休んで」

 

「うん」

 

「……もういなくならないで」

 

 最後の言葉は、とても小さかった。

 

 アイは息を呑む。

 

 アクアは目を伏せたままだった。医者だった頃の知識も、大人びた言葉も、今は何の役にも立たないように見えた。

 

「……うん」

 

 アイは手を伸ばし、アクアの髪に触れた。

 

「ここにいるよ」

 

 約束、と言いかけてやめた。

 

 世界は簡単に大切なものを奪う。そのことを、アイは誰より知っている。

 

 だから代わりに、アクアの手を握った。

 

 温かい。

 

 確かに、ここにいる。

 

「アクアも、ルビーも。大好きだよ」

 

 ルビーが顔を上げた。

 

「わたしも! ママ、大好き!」

 

 アクアは少し目を逸らした。

 

「……知ってる」

 

 アイは笑った。

 

 けれどアクアは、手を握り返しながら考えていた。

 

 アイは、こんなふうに言葉を重ねる人だっただろうか。

 

 あの夜、死に際に聞いた「愛してる」。あれは、アイにとって特別な言葉だったはずだ。

 

 今のアイは、それを少しもためらわない。

 

 嬉しい。

 

 嬉しいのに、胸の奥に小さな疑問が残る。

 

 そしてもう一つ。

 

 目を閉じたルビーの呼吸を確かめるように、アイの視線が何度も胸元へ落ちること。

 

 アクアはそれを見逃さなかった。

 

  *

 

 面会時間が終わる頃、ルビーは眠気に負けかけていた。

 

「やだ。ママといる」

 

「明日また来られるわ」

 

 ミヤコが優しく言う。

 

「……ほんと?」

 

「ええ。先生の許可が出たらね」

 

 アイは、毛布の下で指を握った。

 

 帰らないで。

 

 言いそうになった。

 

 たった一晩でも、離れるのが怖かった。

 

 けれど、眠そうなルビーの顔を見て、飲み込んだ。

 

「ルビー。今日はちゃんと寝ようね」

 

「ママも?」

 

「うん。私も」

 

「約束だよ」

 

「約束」

 

 ルビーが小指を差し出す。

 

 アイはそれに指を絡めた。

 

 アクアは病室を出る直前、振り返った。

 

「母さん」

 

「なあに?」

 

「……何かあったら、ちゃんと言ってよ」

 

 その目は、子供のものとは思えないほど真剣だった。

 

 アイは一瞬、言葉を失う。

 

 何かあった。

 

 ありすぎるほど、あった。

 

 でも、それを話したら、この子はどんな顔をするだろう。

 

「……うん。ありがとう、アクア」

 

 嘘はつかなかった。

 

 ただ、まだ話せなかった。

 

 扉が閉まる。

 

 足音が遠ざかる。

 

 アイはしばらく、閉じた扉から目を離せなかった。

 

  *

 

 深夜。

 

 病室の窓に、黒い影が落ちた。

 

 カァ、と短い声がする。

 

 アイは顔を向けた。

 

 窓の外、街灯に照らされた手すりに、一羽のカラスが止まっている。

 

 どこにでもいる鳥だ。

 

 それでも、アイには思い出す顔があった。

 

 死の向こうで出会った、あの少女。

 

『アクアとルビーに会いたい?』

 

 あの問いに、どれだけ必死に縋っただろう。

 

『お願いします。会わせてください』

 

 願いは叶った。

 

 けれど、何も聞かされていない。

 

 どうして自分が、この世界の自分の身体で目を覚ましたのか。どれだけの時間が残されているのか。ここで生きていて、本当にいいのか。

 

「……ねえ」

 

 小さく呼びかける。

 

「あなたが、連れてきてくれたの?」

 

 カラスは首を傾けた。

 

「……ありがとう」

 

 答えがなくても、それだけは伝えたかった。

 

 カラスが羽ばたく。黒い影は夜の向こうへ消えた。

 

 アイは窓を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 

 神木ヒカル。

 

 この世界にも、あの男はいるのだろう。

 

 前の世界で復讐を終えた時、胸に残ったのは達成感ではなく、二人がいないという空白だけだった。

 

 もう同じことは繰り返さない。

 

 あの男をどうするかは、考えなければならない。

 

 けれど今夜は、二人が明日も笑って会いに来られるように、自分の身体を休めよう。

 

 アイは枕元に置かれた水をひと口飲んだ。

 

 それから、そっと目を閉じる。

 

 眠るのは怖い。

 

 目が覚めた時、また何もかも消えていたら。

 

 それでも、ルビーと約束した。

 

 明日、また会うために。

 

「……おやすみ、アクア。ルビー」

 

 暗い病室に、柔らかな声が落ちた。

 

 今度の夜は、終わりではない。

 

 明日へ続く夜だった。

 

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