病院の廊下は、夜なのに明るかった。
白い壁。白い床。どこかで鳴る電子音。
ルビーは椅子の端に座り、両手を膝の上で握りしめていた。足が床に届かない。いつもならぶらぶら揺らしているところだけれど、今はそんな気にもなれなかった。
「……アクア」
「ん?」
「ママ、また死んじゃわないよね」
隣に座るアクアは、すぐには答えなかった。
救急車に乗せられる前、アイは確かに息をしていた。脈もあった。会話もできていた。そこまでは自分の目で確かめた。
だが、死んだ人間が生き返る理由を、雨宮吾郎だった頃の知識で説明できるはずもない。
「……今は先生たちが診てくれてる」
「それ、だいじょうぶってこと?」
「大丈夫にするために診てもらってるんだ」
ルビーは唇を尖らせた。でも、怒らなかった。
アクアが嘘をつかなかったことは分かったのだろう。
「わたし、さっき、ママの手、あったかかったの」
「うん」
「ほんとにあったかかったんだよ」
「……俺も触った」
「じゃあ、夢じゃないよね」
「夢じゃない」
その言葉だけは、迷わず言えた。
ルビーがそっと肩を寄せてくる。アクアは何も言わず、そのままにした。
*
診察室の向こうで、医師がカルテを見つめていた。
「……斉藤さん。もう一度確認させてください」
壱護は疲れ切った顔で頷いた。
「この方は、死亡を確認されていた。間違いありませんか」
「……ああ」
「それで、安置されていた場所からいなくなり、今夜、公園で発見された」
「そうだ」
医師は眉間を押さえた。
「こちらでも関係部署に確認しています。記録の取り違えで片づく話ではありません」
「俺だって、片づくとは思ってねえよ」
壱護の声が荒くなり、すぐに小さくなった。
「……悪い。あいつは、どうなんだ」
「現在のところ、呼吸、循環ともに安定しています。意識も清明です。ただ、強い疲労と脱水が見られますし、傷の状態は通常の経過では説明がつきません」
「傷……?」
「刺創の痕跡はあります。しかし、死亡に至った経過と、現在の状態が一致しない。詳しい検査と経過観察が必要です」
医師は言葉を選んでいた。
生き返った、と断言することもできない。間違いだった、と説明することもできない。
壱護は椅子の背にもたれた。
アイが死んだ。
その事実を受け入れることさえ、まだできていなかった。
それなのに今度は、生きているという。
「……会えるか」
「短時間なら。ただし、本人を休ませることを優先してください」
壱護は深く頭を下げた。
*
アイはベッドの上で、天井を見つめていた。
身体が重い。少し起き上がろうとしただけで、腹の奥が鈍く痛んだ。
それでも、痛いという感覚が嬉しかった。
痛みがある。息ができる。心臓が動いている。
何より、さっきまで二人の声が聞こえていた。
「……ほんとに、いるんだ」
呟くと、喉の奥が熱くなる。
別の世界で、アイは二人を失った。
リョースケの顔も、あの日のことも、忘れたことはない。どうして居場所を知られたのかも、考えるまでもなかった。
住所を教えた相手は、神木ヒカル。
子供たちの父親だった。
あの男が何をしたのかを知り、復讐を遂げても、アクアとルビーは帰ってこなかった。
自分も死んで、ようやく終わったはずだった。
なのに。
「アクア……ルビー……」
名前を呼ぶと、胸が苦しくなる。
あの子たちが生きている世界。
まだ、あの男がどこかにいる世界。
考えかけて、アイは目を閉じた。
今すぐ何かを決められるほど、身体も心も落ち着いていない。ただ、一つだけはっきりしていた。
もう二度と、あの子たちを奪わせない。
扉が控えめに叩かれた。
「アイ。入るぞ」
「……社長?」
壱護が入ってきた。その後ろにミヤコがいる。
二人とも、ひどい顔をしていた。
「なに、その顔。私、そんなにひどい?」
いつもの調子で笑ってみせる。
けれど、壱護は笑わなかった。
「……お前、本当にアイなんだな」
「うん。そうだよ」
「俺たちは、お前が……」
最後まで言えなかった。
アイは毛布の端を握った。
「……ごめん。びっくりさせたよね」
「謝ることじゃないでしょう」
ミヤコの声が震えた。
「こっちは、どれだけ……」
そこで口を閉じ、何度も瞬きをする。
アイはその顔を見て、ようやく理解した。
自分が二人を失ったように、この世界の人たちは自分を失ったのだ。
アクアも、ルビーも。
壱護も、ミヤコも。
「……心配かけて、ごめんね」
今度の謝罪は、笑ってごまかさなかった。
ミヤコは目元を拭った。
「子供たち、ずっと待ってるわ」
アイの顔が上がる。
「会える?」
「先生に、少しだけならって」
「……そっか」
たったそれだけの返事が、うまく声にならなかった。
*
「走らないで」
ミヤコに言われ、ルビーは廊下の途中でぴたりと止まった。
「……走ってないもん」
「今、走りかけたでしょ」
「ちょっとだけ」
アクアが後ろから追いつく。
「ルビー。アイは疲れてるんだから」
「わかってる!」
小声で言い返すところが、いつものルビーだった。
病室の扉が開く。
アイがいた。
白い寝間着で、枕に背中を預けている。顔色はまだ良くない。けれど、二人を見ると、ぱっと表情が明るくなった。
「アクア、ルビー」
「ママ!」
ルビーが駆け寄り、ベッドのすぐ手前で踏みとどまる。
「……ぎゅってしていい?」
アイの胸が詰まった。
抱きしめたい。今すぐ、力いっぱい。
けれど、傷のある身体を見て遠慮している娘の気持ちも分かった。
「うん。おいでルビー」
ルビーは慎重に腕を伸ばした。アイもそっと抱き返す。
小さな背中が上下している。
息をしている。
アイは目を閉じかけ、慌てて開いた。
「……ママ?」
「なんでもない。ルビーが可愛すぎて、困っちゃった」
「もう、なにそれ」
ルビーが泣き笑いになる。
その横で、アクアがアイをじっと見ていた。
「アイ。痛くない?」
「ちょっとはね。でも平気」
「平気じゃないから病院にいるんだろ」
「……あはは。そうでした」
叱られたアイが舌を出す。
アクアはため息をついたが、その表情は少しだけ緩んだ。
「無理はしないで」
「うん」
「ちゃんと休んで」
「うん」
「……もういなくならないで」
最後の言葉は、とても小さかった。
アイは息を呑む。
アクアは目を伏せたままだった。医者だった頃の知識も、大人びた言葉も、今は何の役にも立たないように見えた。
「……うん」
アイは手を伸ばし、アクアの髪に触れた。
「ここにいるよ」
約束、と言いかけてやめた。
世界は簡単に大切なものを奪う。そのことを、アイは誰より知っている。
だから代わりに、アクアの手を握った。
温かい。
確かに、ここにいる。
「アクアも、ルビーも。大好きだよ」
ルビーが顔を上げた。
「わたしも! ママ、大好き!」
アクアは少し目を逸らした。
「……知ってる」
アイは笑った。
けれどアクアは、手を握り返しながら考えていた。
アイは、こんなふうに言葉を重ねる人だっただろうか。
あの夜、死に際に聞いた「愛してる」。あれは、アイにとって特別な言葉だったはずだ。
今のアイは、それを少しもためらわない。
嬉しい。
嬉しいのに、胸の奥に小さな疑問が残る。
そしてもう一つ。
目を閉じたルビーの呼吸を確かめるように、アイの視線が何度も胸元へ落ちること。
アクアはそれを見逃さなかった。
*
面会時間が終わる頃、ルビーは眠気に負けかけていた。
「やだ。ママといる」
「明日また来られるわ」
ミヤコが優しく言う。
「……ほんと?」
「ええ。先生の許可が出たらね」
アイは、毛布の下で指を握った。
帰らないで。
言いそうになった。
たった一晩でも、離れるのが怖かった。
けれど、眠そうなルビーの顔を見て、飲み込んだ。
「ルビー。今日はちゃんと寝ようね」
「ママも?」
「うん。私も」
「約束だよ」
「約束」
ルビーが小指を差し出す。
アイはそれに指を絡めた。
アクアは病室を出る直前、振り返った。
「母さん」
「なあに?」
「……何かあったら、ちゃんと言ってよ」
その目は、子供のものとは思えないほど真剣だった。
アイは一瞬、言葉を失う。
何かあった。
ありすぎるほど、あった。
でも、それを話したら、この子はどんな顔をするだろう。
「……うん。ありがとう、アクア」
嘘はつかなかった。
ただ、まだ話せなかった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
アイはしばらく、閉じた扉から目を離せなかった。
*
深夜。
病室の窓に、黒い影が落ちた。
カァ、と短い声がする。
アイは顔を向けた。
窓の外、街灯に照らされた手すりに、一羽のカラスが止まっている。
どこにでもいる鳥だ。
それでも、アイには思い出す顔があった。
死の向こうで出会った、あの少女。
『アクアとルビーに会いたい?』
あの問いに、どれだけ必死に縋っただろう。
『お願いします。会わせてください』
願いは叶った。
けれど、何も聞かされていない。
どうして自分が、この世界の自分の身体で目を覚ましたのか。どれだけの時間が残されているのか。ここで生きていて、本当にいいのか。
「……ねえ」
小さく呼びかける。
「あなたが、連れてきてくれたの?」
カラスは首を傾けた。
「……ありがとう」
答えがなくても、それだけは伝えたかった。
カラスが羽ばたく。黒い影は夜の向こうへ消えた。
アイは窓を見つめたまま、しばらく動かなかった。
神木ヒカル。
この世界にも、あの男はいるのだろう。
前の世界で復讐を終えた時、胸に残ったのは達成感ではなく、二人がいないという空白だけだった。
もう同じことは繰り返さない。
あの男をどうするかは、考えなければならない。
けれど今夜は、二人が明日も笑って会いに来られるように、自分の身体を休めよう。
アイは枕元に置かれた水をひと口飲んだ。
それから、そっと目を閉じる。
眠るのは怖い。
目が覚めた時、また何もかも消えていたら。
それでも、ルビーと約束した。
明日、また会うために。
「……おやすみ、アクア。ルビー」
暗い病室に、柔らかな声が落ちた。
今度の夜は、終わりではない。
明日へ続く夜だった。