ほぼ備忘録なので悪しからず。
炉の底で、白い火が揺れていた。サウロンは鋏で金属片を取り出し、金床へ置いた。槌を落とすと、赤い表面から薄い鱗が剥がれた。二度、三度。音を聞き、向きを変える。扉の外に立つ者は、その間、呼び掛けなかった。
「入れ」
槌を置いて告げると、黒い鎧の男が工房へ入った。アルディン。かつて一国を治め、今は九人の王の一人として、この城に仕える者だった。
「陛下。お求めの品が届いております」
差し出された包みには、短剣が一本収められていた。柄に飾りは少ない。刃を抜けば、炉の明かりが細く映った。サウロンは刃元へ指を滑らせた。
「これを打った者は」
「迷宮都市オラリオの鍛冶師にございます。ヘファイストスの眷属とのこと」
「神が打ったのではないのだな」
「はい」
刃の厚みには、ごく僅かな偏りがあった。だが、使い手が力を掛ける箇所をよく考えている。素材を惜しんだ跡も、無理を承知で熱を加えた跡も見て取れた。サウロンは短剣を鞘へ戻した。
「この者の、他の仕事も見たい」
「取り寄せましょうか」
「私が行く」
アルディンが頭を下げた。
「御出立は、いつに」
「明日」
「承知いたしました」
旅程を問い直すことも、国務を持ち出して引き留めることもなかった。留守の間に何を決め、何を待たせるかは、既に王たちが心得ている。サウロンは短剣を包み直し、自分の荷へ置いた。その右手で、黄金の指輪が光った。
*
サウロンになる前、自分は日本で暮らす人間だった。その記憶は、今もある。ただ、その人生を過ごした年月より、こちらで生きた年月の方が、比べることも馬鹿らしいほど長くなっていた。古い記憶の中には、サウロンという名を物語の登場人物として知った自分がいる。同じ名で呼ばれ、同じ手で槌を振るう自分を、初めはひどく奇妙に感じたものだった。
今、炉の前に立つとき、その感覚が戻ることはほとんどない。金属の性質を知り、火を扱い、望む形を与える。失敗すれば壊し、作り直す。その仕事は、マイロンと呼ばれていた頃から続いていた。工匠として過ごした歳月も、冥王として戦った歳月も、彼の中にある。
国を滅ぼし、支配を広げた。己の力を指輪へ注ぎ、他者を従わせようとした。勝利したこともあれば、敗れ、形すら保てなくなったこともある。小さな者たちの旅が、己の企てを終わらせたことも。その後にも、世界は続いた。国境が変わり、古い言葉を話す者が減り、彼の名は歴史書の中で幾つもの異なる姿を与えられた。
サウロンは再び形を得た。そして、また作り始めた。山に炉を設け、その周囲へ職人が集まり、商人が道を通した。土地を要求してきた領主には武力で答え、従うと決めた者には役目を与えた。広がった領土を持て余して手放す気にはならなかった。鉱山も、街道も、技術を覚えた職人たちも、己が費やした時間の成果だったからだ。
そうして治めてきた国を、今は黒曜帝国と呼ぶ。そこで暮らす者たちは、種族も、寿命も、彼をどう呼ぶかも違っていた。
*
出立の日、アルディンは城門まで同行した。
「オラリオへは、先触れを出しております」
「あの老神宛てか」
「はい。御滞在中の連絡先も、定まり次第知らせるよう申し付けました」
「それでよい」
城門の向こうでは、鉱石を積んだ荷車が入城の順を待っていた。御者が二人を認め、慌てて手綱を引く。サウロンが通り過ぎると、荷車はまた動き始めた。
「陛下」
アルディンが、一通の書状を差し出した。
「西の街道の件でございます。先日の裁可に従い、工事を進めます」
「任せる。異論が出れば、貴様が聞け」
「御意」
それで話は終わった。王は自分の持ち場へ戻り、皇帝は西へ向かった。
*
迷宮都市オラリオ。ギルド本部の地下。フェルズは、一通の書簡をウラノスの前へ置いた。
「黒曜帝国からの使者だ。返答を待たず、宿へ戻った」
黒い封蝋には、炎に囲まれた眼が刻まれている。ウラノスは、その紋章を見て手を止めた。
「本人からか」
「署名もある。偽造ならば、随分と大胆な者だ」
老神は封を切った。文面は短かった。そちらの鍛冶師に興味がある。しばらく滞在する。手配は要らぬ。ただし、余計な干渉はさせるな。末尾には、古い文字で名が記されていた。サウロン。フェルズは、老神が読み終えるのを待った。
「帝国の皇帝が、鍛冶師を訪ねるために来るのか」
「あれならば、来る」
「知己なのだな」
「長く顔を合わせてはおらぬ」
ウラノスは書簡を畳んだ。
「だが、使者を寄越すだけで済む用件に、自ら出向く者ではあった」
「警備はどうする」
「普段どおりでよい。迎えるために門を塞げば、かえって機嫌を損ねよう」
フェルズは、書簡へ目を戻した。帝国について、ギルドにも記録はある。交易の報告、武具の流通、国境を越えた商人の証言。そのいずれにも、代替わりしない皇帝と、九人の王の名が現れた。
「恩恵を受けずに、あれほどの国を保っている」
「神々が降りてくる前からある国だ」
「それほど古いというだけでは、今の力までは分からない」
「そうだ。ゆえに、試すなと伝える」
ウラノスの声が硬くなった。
「ロキとフレイヤには、私から知らせよう。ヘファイストスにも、客が向かうと」
「本人の望みどおり、鍛冶場を見て帰ってくれればよいが」
老神は答えず、書簡を手元へ置いた。
*
西門では、入城を待つ列が伸びていた。荷馬車の車輪が石を噛み、前方から御者の怒鳴る声がした。隣に並んだ獣人の商人が、大きな荷袋を肩へ担ぎ直している。黒い外套の男が、列の先へ目を向けた。
「いつも、これほど待つのか」
商人は男を見上げた。
「今日はまだましだ。祭りの前なら、日が暮れる」
「よく通うのだな」
「ああ。あんたは初めてか」
「入るのはな」
「なら、宿を先に押さえとけ。安いところから埋まるぞ」
男が短く礼を言う間に、列が進んだ。門番は、差し出された書類の印を見て姿勢を正した。
「お名前を確認いたします」
「サウロン」
筆先が止まった。門番は書類と男の顔を見比べ、脇に立つ同僚へ視線を送った。同僚が奥へ走る。
「お待たせいたしました。ギルドへの御案内が必要でしたら――」
「場所は分かる。先に用がある」
「承知しました」
門番が道を開けた。サウロンは城壁の下を抜けた。視界が開け、バベルの塔が姿を現す。塔を中心に、通りも人の流れも幾重に広がっていた。鍛えた武器を背負う者。鎧の留め具を直す者。食べ物を売る声の前で、財布を探る者。その中に、神が混じっている。
サウロンは、店先の串焼きを眺めていた小柄な神の横を通り過ぎた。神は連れの若者へ何かをねだり、断られていた。帝国へ来て統治権を要求した神も、かつてはいた。自分を名乗り、神であると告げ、それだけで国を渡されると思っていた者だった。国境まで送り返した後、その神は戻ってこなかった。サウロンは人波へ目を戻した。
この街で神々が何をして暮らそうと、それだけで口を出す気はない。彼が見たいのは、あの短剣を打った炉だった。
*
バベルの上層で、フレイヤは窓辺から街を眺めていた。数え切れない魂の光。その中に、見慣れないものが入った。明るい、とは思わなかった。暗い、と呼ぶのも違う。彼女がいつも見ている色や輝きでは、その輪郭を捉えられない。人の姿を取っているものの、その内側を測ろうとすれば、視線が奥へ滑っていく。
「……何かしら」
窓へ近づく。まだ、魅了を向けたわけではなかった。ただ、よく見ようとした。遥か下の通りで、黒衣の男が足を止めた。顔を上げる。フレイヤは、目が合ったと感じた。この距離で、人の目が見えるはずはない。それでも、彼女が見ていることを、向こうは知っていた。黄金の光が、男の右手に瞬いた。その瞬間、彼女は窓枠へ手を掛けた。
見ようとしていた先から、こちらを見る意志が返ってくる。フレイヤは視線を緩めた。男はしばらく塔を見上げていたが、やがて顔を戻し、通りを歩き始めた。女神の指が、窓枠から離れる。
「オッタル」
「はっ」
背後で控えていた戦士が答えた。
「ギルドから、何か届いていない?」
「先ほど、ウラノス神からの使者が」
「通して」
フレイヤはもう一度、通りへ目を向けた。黒い外套は、既に人波へ紛れていた。
*
サウロンは、右手を外套の中へ戻した。視線は去った。街へ入るなり魂の内側へ触れようとする者がいるとは、なるほど、老神へ知らせておいて正解だったらしい。通りの分かれ目で、武具店の看板が見えた。ヘファイストスの名がある。窓越しに並んだ刃を眺める。価格札を読み、一つの槍の前で足を止めた。
あの短剣とは別の者の仕事だ。刃の根元の処理に癖がある。店の奥から、槌の音が聞こえた。サウロンは扉を押した。
「見せてもらうぞ」
応対に出た店員が、いらっしゃいませ、と頭を下げた。冥王の来訪を告げる鐘は鳴らなかった。工房では、次の槌が金床へ落ちた。
【主人公紹介】
名前:サウロン
旧名:マイロン
種族:マイア(アイヌールの一員)
立場:黒曜帝国皇帝
趣味:鍛冶、研究、珍しい素材や技術を探すこと
主な所有物:一つの指輪、膨大な私財
配下:九人の不死の王をはじめとする帝国の臣下たち
中身は、遥か昔にサウロンへ成り代わった元日本人。
ただし、今ではサウロンとして過ごした年月の方が圧倒的に長い。工匠としての好奇心と、冥王としての尊大さや支配欲を併せ持つ。
敗北と復活を経て、現在は多種族が暮らす黒曜帝国を統治している。国の大きな方針は自分で決めるが、日常の政務は臣下に任せ、鍛冶や研究へ時間を費やしている。
神々よりも古い存在で、神の恩恵を必要としない。神だからという理由で敬うこともない。
九人の王は、それぞれの人格と意志を保ったまま、自ら彼へ仕えている。
オラリオを訪れた目的は、名高い鍛冶師の仕事と、迷宮で採れる素材を見ること。
本人は、しばらく趣味を楽しむつもりでいる。
※本作独自の設定を含みます。『指輪物語』の時代と『ダンまち』の時代は、同じ世界の歴史として繋がっています。