オラリオの地下深く。ギルド本部の最奥にある祈祷の間で、ウラノスは静かに目を閉じていた。その前には、一枚の羊皮紙が置かれている。ただし、それは羊皮紙の姿をしているだけだった。材質は不明。破壊不能。そして何より、神の権能をもってしても、その表面に刻まれた文字を消すことができない。
『第一種商業契約書』
そう記されていた。
「……ヘルメスよ」
ウラノスの声は重かった。
「お前は、何をした」
「いやぁ……ちょっとした商談をね?」
ヘルメスは笑った。いつもの、人を食ったような笑顔である。しかし、その額には汗が浮かんでいた。
「商談?」
「そう。例の黒い塔の主と、情報交換について少しばかり」
「その結果が、これか」
ウラノスが契約書を指差す。そこには、ヘルメスの署名があった。そして、その下には奇妙な文字が並んでいた。神聖文字ではない。下界のどの言語にも属さない。にもかかわらず、ウラノスにはその意味が理解できた。
『契約不履行時、債務者は不足する対価を、その存在を構成する本質的権能、神性及び魂の自由をもって弁済するものとする』
「……ヘルメス」
「はい」
「お前は、自分が何に署名したのか理解していたのか」
「いやぁ、それがねぇ……」
ヘルメスは視線を逸らした。
「最初は、情報提供に関する普通の契約だと思ったんだよ」
「普通の契約に、神性を担保とする条項があるものか」
「細かいところまで読んでなかったんだよねぇ」
ウラノスは目を閉じた。長い沈黙が訪れた。そして、数千年を生きる大神は、極めて珍しい行動を取った。深々とため息をついたのである。
「……愚か者が」
*
黒い塔、バラド=ドゥーア。その最上層。サウロンは巨大な黒曜石の机に向かい、書類を確認していた。かつて中つ国を支配せんとした冥王。その姿からは、激情も、傲慢な歓喜も感じられない。ただ淡々と、数字を確認している。
「ヘルメス」
低い声が響いた。
「はいはい。呼ばれて飛び出て、ってね」
ヘルメスが姿を現した。サウロンは顔を上げなかった。
「契約に基づく第一回目の情報提供期限が過ぎた」
「え?」
「三時間と四十七分の遅延だ」
「いや、ちょっと待ってくれよ。まだ半日も経ってないじゃないか」
「契約では、指定時刻までに履行するものと定めている」
「それはそうだけど……」
「遅延損害金が発生している」
ヘルメスの笑顔が固まった。
「……損害金?」
「無論だ」
サウロンが書類を一枚差し出す。そこには、遅延に伴う違約金と、未履行債務に対する追加担保の設定について記載されていた。
「いやいやいや! 待ってくれ! これ、金貨で払えるよね!?」
「金貨による弁済は認められている」
「よかったぁ!」
「ただし、現在のお前の資産では不足する」
「…………」
「したがって、不足分は契約に従い、神性から徴収する」
ヘルメスは笑わなくなった。
「……冗談だよね?」
サウロンが初めて顔を上げた。その兜の奥で、燃えるような眼光が揺らめく。
「私は、契約について冗談を言わぬ」
「いや、でもさ。僕は神だよ?」
「知っている」
「神性なんて、そんな簡単に扱えるものじゃないんだよ?」
「知っている」
「だったら――」
「だからこそ、担保として価値がある」
サウロンは再び書類に視線を落とした。
「契約を履行せよ。そうすれば何も問題はない」
「……ちなみに、踏み倒したら?」
「債権回収を行う」
「どうやって?」
サウロンは答えた。
「お前自身を差し押さえる」
*
ヘルメスは逃げた。正確には、逃げようとした。神としての本能が警鐘を鳴らしていた。あの男は危険だ。オラリオのどの冒険者よりも。ロキよりも。フレイヤよりも。あるいは、天界の神々よりも。なぜなら、あの男は神を神として扱っていない。利用価値のある存在としてしか見ていないのだ。
「いやぁ、参ったねぇ……」
ヘルメスは塔の外へ向かって歩いた。その瞬間。足が止まった。
「……あれ?」
足元に、細い金色の線が浮かび上がる。鎖だった。物理的な鎖ではない。神の目でさえ、その全貌を捉えられないほど精緻な、霊的拘束。それが、彼の存在そのものに巻きついていた。
『契約違反予兆検知』
無機質な文字が空中に浮かぶ。
『債務履行回避行為を確認』
『担保保全措置を開始』
「…………は?」
ヘルメスは、神の力を解放しようとした。下界で神の力を使うことは禁じられている。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。しかし。何も起こらなかった。
「……え?」
もう一度。今度は、明確な意志を込めて。それでも、何も起こらない。背後から声が響いた。
「無駄だ」
サウロンだった。
「契約締結時、お前は担保設定に同意した」
「……まさか」
「担保とは、債務者の意思によって自由に処分できては意味がない」
サウロンが右手を掲げる。金色の鎖が、ヘルメスの胸から伸びていた。その先端は、サウロンの掌へと続いている。
「神性の一部について、優先的な支配権を確保した」
「そんなことが……」
「可能だから、契約した」
ヘルメスは初めて理解した。あの契約書は、単なる約束を記録するものではない。署名した者の存在そのものに、契約内容を刻み込む魔法的装置だった。そしてサウロンは、静かに告げた。
「安心せよ。私は、債務者が正常に活動できなくなることを望まぬ」
「……本当かい?」
「当然だ。返済能力を失わせることは、債権者にとっても不利益となる」
ヘルメスは安堵しかけた。しかし、続く言葉に凍りつく。
「ただし、支払い不能に陥った場合は別だ」
「…………」
「その際には、所有権の移転をもって最終的な清算とする」
「……所有権?」
「お前の魂と神性の所有権だ」
冥王は、実に事務的な口調で言った。
「契約書の第十九条、第七項に記載してある」
*
夕刻。
『豊穣の女主人』。
ロキは酒を飲んでいた。
「で?」
目の前には、魂が抜けたようなヘルメスが座っている。
「アンタ、何したん?」
「……契約した」
「誰と?」
「……黒い塔の主」
ロキは酒を噴き出した。
「ぶっははははは!!」
店中に笑い声が響く。
「アホや! ほんまもんのアホがおる!!」
「笑い事じゃないんだよ……」
「いや、笑うやろ! あの化け物相手に契約て!」
ロキは腹を抱えた。
「しかも、踏み倒そうとしたら神性差し押さえ!? あはははは!!」
ヘルメスは机に突っ伏した。
「……君はいいよね。関係ないから」
「当たり前やん! ウチはそんな胡散臭い契約せえへんもん!」
その時だった。ヘルメスの懐から、一枚の黒い紙が浮かび上がった。
「……ん?」
紙がひとりでに開く。そこには文字が浮かび上がっていた。
『債務者行動報告』
『対象:ヘルメス』
『現在位置:豊穣の女主人』
『債務履行能力:維持』
『第三者への契約内容開示:確認』
『秘密保持条項違反の可能性:審査開始』
「…………」
ヘルメスの顔から血の気が引いた。
「……ロキ」
「なんや?」
「僕、契約内容を他人に話しちゃいけなかったみたいだ」
「…………」
ロキの笑顔が消えた。紙に新たな文字が現れる。
『秘密保持義務違反:認定』
『違約金:神性持分〇・一%』
そして。ヘルメスの胸元から、金色の光が一筋抜け出した。それは小さな指輪の形を取り、虚空へ消えていく。
「……あ」
ヘルメスが呟いた。何かが失われた。神としての自分を構成する、極めて微細な何か。だが、その喪失は明確だった。
「……取られた」
ロキが口を開いた。
「……何を?」
「……僕の神性」
店の喧騒だけが響いていた。
「……ほんまに?」
ヘルメスは頷いた。ロキはしばらく黙り込んだ。そして、ようやく口を開いた。
「……アンタ、ほんまに何してんねん」
もはや笑ってはいなかった。
*
バラド=ドゥーア。サウロンの前に、小さな金色の指輪が現れた。彼はそれを指先で摘まみ上げた。指輪の内部には、神性の欠片が封じ込められている。
「……興味深い」
それは中つ国のマイアとは異なる性質を持っていた。神々の権能。信仰に依存せず、天界という体系に根ざした存在の本質。だが、完全に不可侵というわけではない。契約による同意。魂に刻まれた義務。そして、履行不能時の権利移転。その三つを組み合わせれば、神の本質にさえ干渉できる。
「神を殺す必要はない」
サウロンは呟いた。
「神を支配するために、戦争をする必要もない」
彼は指輪を机の上に置いた。
「神自身に、自らの自由を差し出させればよい」
その時、黒い塔の内部に鐘が鳴った。新たな契約書が完成した合図だった。
『第二種商業契約書』
『対象:神格存在』
『契約担保:神性、権能、魂の自由』
『不履行時処理:担保権実行』
『最終清算方法:存在支配権移転』
サウロンは内容を確認した。そして、わずかに修正を加えた。
『ただし、債務者が正常に義務を履行する限り、債権者はその自由意思を尊重する』
「これでよい」
彼はそう言った。
「支配とは、必ずしも鎖を見せることではない」
冥王の眼光が、静かに燃えた。
「自ら鎖を求める者に、それを与えればよいのだ」
*
翌日。ウラノスはヘルメスを呼び出した。
「……神性を奪われたと聞いた」
「耳が早いねぇ」
「笑っている場合ではない」
「……そうだね」
ウラノスは目を閉じた。
「契約を解除する方法はないのか」
「あるにはあるよ」
「何だ」
「全債務の履行」
「それだけか」
「それだけ」
「……ならば、履行すればよい」
「うん。僕もそう思ってる」
ヘルメスは苦笑した。
「ただね、ウラノス」
「何だ」
「あの男、僕から奪った神性を使って、何か作ってるみたいなんだ」
「……何を?」
「分からない」
ヘルメスは真顔になった。
「でも、あれだけは分かる」
「…………」
「あの男は、神を倒したいんじゃない」
ウラノスが目を開く。
「神を、利用したいんだ」
長い沈黙が訪れた。やがて、ウラノスは低く呟いた。
「……我々は、敵を見誤っていたのかもしれぬ」
*
黒い塔。サウロンの机には、オラリオの神々に関する情報が並べられていた。ロキ。フレイヤ。ヘファイストス。ガネーシャ。ディオニュソス。そして、ウラノス。それぞれの名前の横には、異なる評価が記されていた。
『軍事力』
『経済力』
『政治的影響力』
『保有する情報』
『契約締結可能性』
『担保価値』
サウロンは、ゆっくりとそれらを眺めた。かつて彼は、力の指輪を用いて中つ国の王たちを支配しようとした。九人の人間の王は、指輪を受け取った。そして、九人の指輪の幽鬼となった。だが、この世界の神々には、別の方法が有効かもしれない。欲望。好奇心。義務感。そして、傲慢。彼らは自らの神性を絶対のものと信じている。
ゆえに、それを失う可能性を真剣に考えない。
「……実に都合がよい」
サウロンは、最初の契約書を取り出した。そこには、ヘルメスの署名があった。すでに、その署名からは細い金色の糸が伸びている。糸は、神の存在の奥深くへと続いていた。まだ細い。まだ弱い。だが、確実につながっている。
「第一号」
サウロンは静かに告げた。
「次は、誰だ」
黒い塔の頂上で、炎の眼がオラリオを見下ろしていた。そして、街の神々はまだ知らなかった。この世界において、神であることは、もはや絶対的な安全を意味しない。なぜなら、神の権能すら資産として評価する存在が現れたからだ。そして、その存在は、剣ではなく契約書を携えていた。