サウロン記   作:ゆいニキ

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第11話 神を縛る契約

オラリオの地下深く。ギルド本部の最奥にある祈祷の間で、ウラノスは静かに目を閉じていた。その前には、一枚の羊皮紙が置かれている。ただし、それは羊皮紙の姿をしているだけだった。材質は不明。破壊不能。そして何より、神の権能をもってしても、その表面に刻まれた文字を消すことができない。

『第一種商業契約書』

 そう記されていた。

「……ヘルメスよ」

 ウラノスの声は重かった。

「お前は、何をした」

「いやぁ……ちょっとした商談をね?」

 ヘルメスは笑った。いつもの、人を食ったような笑顔である。しかし、その額には汗が浮かんでいた。

「商談?」

「そう。例の黒い塔の主と、情報交換について少しばかり」

「その結果が、これか」

 ウラノスが契約書を指差す。そこには、ヘルメスの署名があった。そして、その下には奇妙な文字が並んでいた。神聖文字ではない。下界のどの言語にも属さない。にもかかわらず、ウラノスにはその意味が理解できた。

『契約不履行時、債務者は不足する対価を、その存在を構成する本質的権能、神性及び魂の自由をもって弁済するものとする』

「……ヘルメス」

「はい」

「お前は、自分が何に署名したのか理解していたのか」

「いやぁ、それがねぇ……」

 ヘルメスは視線を逸らした。

「最初は、情報提供に関する普通の契約だと思ったんだよ」

「普通の契約に、神性を担保とする条項があるものか」

「細かいところまで読んでなかったんだよねぇ」

 ウラノスは目を閉じた。長い沈黙が訪れた。そして、数千年を生きる大神は、極めて珍しい行動を取った。深々とため息をついたのである。

「……愚か者が」

*

 黒い塔、バラド=ドゥーア。その最上層。サウロンは巨大な黒曜石の机に向かい、書類を確認していた。かつて中つ国を支配せんとした冥王。その姿からは、激情も、傲慢な歓喜も感じられない。ただ淡々と、数字を確認している。

「ヘルメス」

 低い声が響いた。

「はいはい。呼ばれて飛び出て、ってね」

 ヘルメスが姿を現した。サウロンは顔を上げなかった。

「契約に基づく第一回目の情報提供期限が過ぎた」

「え?」

「三時間と四十七分の遅延だ」

「いや、ちょっと待ってくれよ。まだ半日も経ってないじゃないか」

「契約では、指定時刻までに履行するものと定めている」

「それはそうだけど……」

「遅延損害金が発生している」

 ヘルメスの笑顔が固まった。

「……損害金?」

「無論だ」

 サウロンが書類を一枚差し出す。そこには、遅延に伴う違約金と、未履行債務に対する追加担保の設定について記載されていた。

「いやいやいや! 待ってくれ! これ、金貨で払えるよね!?」

「金貨による弁済は認められている」

「よかったぁ!」

「ただし、現在のお前の資産では不足する」

「…………」

「したがって、不足分は契約に従い、神性から徴収する」

 ヘルメスは笑わなくなった。

「……冗談だよね?」

 サウロンが初めて顔を上げた。その兜の奥で、燃えるような眼光が揺らめく。

「私は、契約について冗談を言わぬ」

「いや、でもさ。僕は神だよ?」

「知っている」

「神性なんて、そんな簡単に扱えるものじゃないんだよ?」

「知っている」

「だったら――」

「だからこそ、担保として価値がある」

 サウロンは再び書類に視線を落とした。

「契約を履行せよ。そうすれば何も問題はない」

「……ちなみに、踏み倒したら?」

「債権回収を行う」

「どうやって?」

 サウロンは答えた。

「お前自身を差し押さえる」

*

 ヘルメスは逃げた。正確には、逃げようとした。神としての本能が警鐘を鳴らしていた。あの男は危険だ。オラリオのどの冒険者よりも。ロキよりも。フレイヤよりも。あるいは、天界の神々よりも。なぜなら、あの男は神を神として扱っていない。利用価値のある存在としてしか見ていないのだ。

「いやぁ、参ったねぇ……」

 ヘルメスは塔の外へ向かって歩いた。その瞬間。足が止まった。

「……あれ?」

 足元に、細い金色の線が浮かび上がる。鎖だった。物理的な鎖ではない。神の目でさえ、その全貌を捉えられないほど精緻な、霊的拘束。それが、彼の存在そのものに巻きついていた。

『契約違反予兆検知』

 無機質な文字が空中に浮かぶ。

『債務履行回避行為を確認』

『担保保全措置を開始』

「…………は?」

 ヘルメスは、神の力を解放しようとした。下界で神の力を使うことは禁じられている。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。しかし。何も起こらなかった。

「……え?」

 もう一度。今度は、明確な意志を込めて。それでも、何も起こらない。背後から声が響いた。

「無駄だ」

 サウロンだった。

「契約締結時、お前は担保設定に同意した」

「……まさか」

「担保とは、債務者の意思によって自由に処分できては意味がない」

 サウロンが右手を掲げる。金色の鎖が、ヘルメスの胸から伸びていた。その先端は、サウロンの掌へと続いている。

「神性の一部について、優先的な支配権を確保した」

「そんなことが……」

「可能だから、契約した」

 ヘルメスは初めて理解した。あの契約書は、単なる約束を記録するものではない。署名した者の存在そのものに、契約内容を刻み込む魔法的装置だった。そしてサウロンは、静かに告げた。

「安心せよ。私は、債務者が正常に活動できなくなることを望まぬ」

「……本当かい?」

「当然だ。返済能力を失わせることは、債権者にとっても不利益となる」

 ヘルメスは安堵しかけた。しかし、続く言葉に凍りつく。

「ただし、支払い不能に陥った場合は別だ」

「…………」

「その際には、所有権の移転をもって最終的な清算とする」

「……所有権?」

「お前の魂と神性の所有権だ」

 冥王は、実に事務的な口調で言った。

「契約書の第十九条、第七項に記載してある」

*

 夕刻。

『豊穣の女主人』。

 ロキは酒を飲んでいた。

「で?」

 目の前には、魂が抜けたようなヘルメスが座っている。

「アンタ、何したん?」

「……契約した」

「誰と?」

「……黒い塔の主」

 ロキは酒を噴き出した。

「ぶっははははは!!」

 店中に笑い声が響く。

「アホや! ほんまもんのアホがおる!!」

「笑い事じゃないんだよ……」

「いや、笑うやろ! あの化け物相手に契約て!」

 ロキは腹を抱えた。

「しかも、踏み倒そうとしたら神性差し押さえ!? あはははは!!」

 ヘルメスは机に突っ伏した。

「……君はいいよね。関係ないから」

「当たり前やん! ウチはそんな胡散臭い契約せえへんもん!」

 その時だった。ヘルメスの懐から、一枚の黒い紙が浮かび上がった。

「……ん?」

 紙がひとりでに開く。そこには文字が浮かび上がっていた。

『債務者行動報告』

『対象:ヘルメス』

『現在位置:豊穣の女主人』

『債務履行能力:維持』

『第三者への契約内容開示:確認』

『秘密保持条項違反の可能性:審査開始』

「…………」

 ヘルメスの顔から血の気が引いた。

「……ロキ」

「なんや?」

「僕、契約内容を他人に話しちゃいけなかったみたいだ」

「…………」

 ロキの笑顔が消えた。紙に新たな文字が現れる。

『秘密保持義務違反:認定』

『違約金:神性持分〇・一%』

 そして。ヘルメスの胸元から、金色の光が一筋抜け出した。それは小さな指輪の形を取り、虚空へ消えていく。

「……あ」

 ヘルメスが呟いた。何かが失われた。神としての自分を構成する、極めて微細な何か。だが、その喪失は明確だった。

「……取られた」

 ロキが口を開いた。

「……何を?」

「……僕の神性」

 店の喧騒だけが響いていた。

「……ほんまに?」

 ヘルメスは頷いた。ロキはしばらく黙り込んだ。そして、ようやく口を開いた。

「……アンタ、ほんまに何してんねん」

 もはや笑ってはいなかった。

*

 バラド=ドゥーア。サウロンの前に、小さな金色の指輪が現れた。彼はそれを指先で摘まみ上げた。指輪の内部には、神性の欠片が封じ込められている。

「……興味深い」

 それは中つ国のマイアとは異なる性質を持っていた。神々の権能。信仰に依存せず、天界という体系に根ざした存在の本質。だが、完全に不可侵というわけではない。契約による同意。魂に刻まれた義務。そして、履行不能時の権利移転。その三つを組み合わせれば、神の本質にさえ干渉できる。

「神を殺す必要はない」

 サウロンは呟いた。

「神を支配するために、戦争をする必要もない」

 彼は指輪を机の上に置いた。

「神自身に、自らの自由を差し出させればよい」

 その時、黒い塔の内部に鐘が鳴った。新たな契約書が完成した合図だった。

『第二種商業契約書』

『対象:神格存在』

『契約担保:神性、権能、魂の自由』

『不履行時処理:担保権実行』

『最終清算方法:存在支配権移転』

 サウロンは内容を確認した。そして、わずかに修正を加えた。

『ただし、債務者が正常に義務を履行する限り、債権者はその自由意思を尊重する』

「これでよい」

 彼はそう言った。

「支配とは、必ずしも鎖を見せることではない」

 冥王の眼光が、静かに燃えた。

「自ら鎖を求める者に、それを与えればよいのだ」

*

 翌日。ウラノスはヘルメスを呼び出した。

「……神性を奪われたと聞いた」

「耳が早いねぇ」

「笑っている場合ではない」

「……そうだね」

 ウラノスは目を閉じた。

「契約を解除する方法はないのか」

「あるにはあるよ」

「何だ」

「全債務の履行」

「それだけか」

「それだけ」

「……ならば、履行すればよい」

「うん。僕もそう思ってる」

 ヘルメスは苦笑した。

「ただね、ウラノス」

「何だ」

「あの男、僕から奪った神性を使って、何か作ってるみたいなんだ」

「……何を?」

「分からない」

 ヘルメスは真顔になった。

「でも、あれだけは分かる」

「…………」

「あの男は、神を倒したいんじゃない」

 ウラノスが目を開く。

「神を、利用したいんだ」

 長い沈黙が訪れた。やがて、ウラノスは低く呟いた。

「……我々は、敵を見誤っていたのかもしれぬ」

*

 黒い塔。サウロンの机には、オラリオの神々に関する情報が並べられていた。ロキ。フレイヤ。ヘファイストス。ガネーシャ。ディオニュソス。そして、ウラノス。それぞれの名前の横には、異なる評価が記されていた。

『軍事力』

『経済力』

『政治的影響力』

『保有する情報』

『契約締結可能性』

『担保価値』

 サウロンは、ゆっくりとそれらを眺めた。かつて彼は、力の指輪を用いて中つ国の王たちを支配しようとした。九人の人間の王は、指輪を受け取った。そして、九人の指輪の幽鬼となった。だが、この世界の神々には、別の方法が有効かもしれない。欲望。好奇心。義務感。そして、傲慢。彼らは自らの神性を絶対のものと信じている。

 ゆえに、それを失う可能性を真剣に考えない。

「……実に都合がよい」

 サウロンは、最初の契約書を取り出した。そこには、ヘルメスの署名があった。すでに、その署名からは細い金色の糸が伸びている。糸は、神の存在の奥深くへと続いていた。まだ細い。まだ弱い。だが、確実につながっている。

「第一号」

 サウロンは静かに告げた。

「次は、誰だ」

 黒い塔の頂上で、炎の眼がオラリオを見下ろしていた。そして、街の神々はまだ知らなかった。この世界において、神であることは、もはや絶対的な安全を意味しない。なぜなら、神の権能すら資産として評価する存在が現れたからだ。そして、その存在は、剣ではなく契約書を携えていた。

 

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