オラリオに、一つの文書が出回り始めた。発行元は、バラド=ドゥーア。表題は『オラリオ共通商業契約規格』。その内容は、驚くほど簡潔だった。契約当事者の権利と義務を明文化すること。契約締結前に、すべての条項を確認できること。違約時の賠償範囲を事前に定めること。契約の一方的な変更を禁止すること。
そして、神と人間を問わず、同一の商業規則を適用すること。一見すれば、極めて合理的な制度だった。だが、その最後には、奇妙な条項が存在した。
『本規格に基づく契約の紛争について、当事者双方が事前に同意した場合、バラド=ドゥーア契約管理局を仲裁機関として指定できる』
この一文を見た商人たちは、首を傾げた。
「……仲裁機関?」
「揉め事を解決してくれるってことか?」
「ギルドとは違うのか?」
彼らには、まだ分からなかった。この条項こそが、冥王の真の狙いであることを。
*
ギルド本部。フェルズは、机の上に置かれた契約規格を見つめていた。その向かいには、ウラノスが座している。
「……どう見る」
ウラノスが尋ねた。フェルズは答えた。
「危険です」
「理由は?」
「この規格自体には、大きな問題がありません」
「それが危険なのか」
「はい」
フェルズは書類を指差した。
「契約条件の明文化、違約時の処理、当事者間の公平性。いずれも商業活動において有益です」
「……ならば、問題はないのではないか」
「問題は、最後の仲裁条項です」
フェルズは続けた。
「この制度が広まれば、商人たちは紛争解決をバラド=ドゥーアに委ねるようになるでしょう」
「ギルドではなく、か」
「はい」
フェルズは低い声で言った。
「商業紛争を裁く者は、商業秩序を定義する者になります」
ウラノスは目を閉じた。
「……なるほど」
「そして、秩序を定義する者は、やがてその秩序に従う者たちの行動を左右できるようになります」
「つまり、あの男は」
「都市の支配権を、少しずつ移そうとしているのでしょう」
ウラノスは長く沈黙した。やがて、静かに呟いた。
「……剣を抜かずに、か」
「はい」
「しかも、誰も強制されていません」
それが、何よりも厄介だった。
*
数日後。ロキ・ファミリア本拠地。黄昏の館。ロキは、契約規格を机に放り投げた。
「……あかん」
フィンが顔を上げる。
「何がだい?」
「これや」
ロキは書類を指差した。
「黒い塔の新しい商売」
フィンは文書を手に取った。数分間、黙って読み進める。
「……なるほど」
「どない思う?」
「よくできているね」
ロキは眉をひそめた。
「褒めとる場合かいな」
「褒めているわけじゃないよ」
フィンは書類を置いた。
「問題は、これを使うこと自体が不利益になるとは限らない点だ」
「……せやな」
「商人にとって、契約違反を防げる制度は魅力的だろう」
フィンは続けた。
「しかも、仲裁機関の指定は任意になっている」
「そこが厄介なんや」
ロキは椅子にもたれた。
「強制なら反対できる。けど、便利やから使うって言われたら止めようがない」
「さらに、契約管理局が多くの取引を扱うようになれば、商業情報も集まる」
「……情報?」
「どの商人が、何を、どれだけ売買しているか。誰が信用できて、誰が資金繰りに困っているか」
ロキの表情が変わった。
「……それ、全部あいつに分かるんか」
「契約内容の開示範囲次第だけどね」
フィンは慎重に答えた。
「少なくとも、仲裁に持ち込まれた案件については相当な情報が集まるはずだ」
ロキは天井を見上げた。
「……あの黒いの、ほんま面倒くさいわ」
フィンは苦笑した。
「敵としては、非常に厄介だね」
「味方なら?」
「それも、慎重に考える必要がある」
フィンは契約規格を閉じた。
「彼は、味方にさえ条件を提示するだろうから」
*
ヘファイストス・ファミリア。工房の奥では、黒銀鋼の試験が続いていた。椿・コルブランドは、完成したばかりの剣を手に取った。黒銀色の刀身。薄く、鋭い。しかし、通常の鋼鉄とは比較にならない強度を持っている。
「……へえ」
椿は剣を軽く振った。風を切る音が響く。
「悪くないね」
ヘファイストスが近づいた。
「仕上がりは?」
「まだ改良の余地はあるけど、手前としては十分面白い素材だと思うよ」
椿は剣を掲げた。
「ただ、加工が難しいね。普通の鋼と同じ感覚で打つと、すぐに性質が変わっちまう」
「そこが課題ね」
「量産には、まだ時間が必要だわ」
「だろうね」
椿は剣を置いた。
「ところで、あの黒い塔から新しい書類が届いたって?」
「ええ。共通商業契約規格よ」
「また契約かい」
「よくもまあ、次から次へと考えるもんだね」
ヘファイストスは書類を取り出した。
「内容自体は悪くないわ」
「なら、使うのかい?」
「必要な部分だけね」
「全部じゃないのかい?」
「当然でしょう」
ヘファイストスは答えた。
「技術提携は続ける。でも、契約紛争の仲裁まで相手に任せる必要はないわ」
「なるほどね」
「取引相手に、裁判官まで兼ねさせるのは危険よ」
「確かに。手前たちの技術を握ってる相手に、揉め事の判断まで任せるのは気分がよくないね」
ヘファイストスは微笑んだ。
「そういうこと」
彼女は書類に修正案を書き込んだ。
『仲裁機関は、双方が合意する独立した第三者とする』
そして、署名した。
「さて、これでどう返してくるかしら」
*
バラド=ドゥーア。サウロンは、各ファミリアから届いた回答を確認していた。ヘファイストス。一部採用。仲裁条項について修正要求。ロキ。採用保留。ギルド。制度内容の照会。ガネーシャ。検討中。ヘルメス。全面採用希望。サウロンは、最後の名前で手を止めた。
「……ヘルメス」
配下が答える。
「はい。本人より、共通規格を積極的に利用したいとの申し出がありました」
「既存契約の履行状況は?」
「期限内履行が継続しております」
「信用評価は?」
「依然として要監視です」
「規格の利用自体は妨げるな」
「承知いたしました」
「ただし、既存契約の条件を変更するものではないと明記せよ」
「御意」
サウロンは次の書類を手に取った。ヘファイストスからの修正要求。内容を確認する。そして、わずかに頷いた。
「……妥当だ」
配下が顔を上げた。
「修正を認められるのですか」
「当然だ」
サウロンは答えた。
「仲裁条項は任意である。独立した第三者を選ぶことに、何の問題もない」
「しかし、それでは契約管理局の権限が……」
「失われぬ」
サウロンは静かに言った。
「契約管理局の価値は、強制力ではなく信用にある」
配下は沈黙した。
「信用を得るためには、まず信用に足る行動を示さねばならぬ」
サウロンは書類を閉じた。
「ヘファイストスの修正案を受諾せよ」
「御意」
そして、冥王は別の命令を下した。
「仲裁制度の運用実績を記録せよ」
「どのような目的で?」
「制度の有効性を示すためだ」
サウロンは答えた。
「人は、正しさよりも実績を信じる」
その声には、確信があった。
*
オラリオの酒場。ヘルメスは、上機嫌で酒を飲んでいた。
「いやぁ、ついに僕にも運が向いてきたね!」
アスフィは嫌そうな顔をした。
「……何の話でしょう」
「共通商業契約規格だよ!」
「……ああ」
「これを使えば、僕の信用も回復するかもしれない!」
アスフィは眉をひそめた。
「契約規格を使うことと、信用回復は別問題では?」
「もちろん、分かってるよ」
ヘルメスは笑った。
「でもさ、ちゃんとした契約を結んで、ちゃんと守ればいいんだろう?」
「……それは、その通りですが」
「だったら、簡単じゃないか!」
アスフィは沈黙した。その言葉に、強い不安を覚えた。
「……ヘルメス様」
「何だい?」
「新しい契約を増やす前に、現在の契約を完済してください」
「え?」
「現在の契約です」
「……いや、でも」
「完済してください」
「…………」
ヘルメスは酒を置いた。
「……アスフィ」
「何でしょう」
「君、最近ちょっと厳しくない?」
「ヘルメス様が神性を失ってから、必要性を痛感しておりますので」
「……なるほど」
ヘルメスは遠い目をした。
「僕の神性って、教育費だったのかな……」
アスフィは即答した。
「高すぎる授業料です」
*
それから数日後。バラド=ドゥーア契約管理局。二人の商人が向かい合っていた。一人は、武具商。もう一人は、鉱石商。争点は、納品された鉱石の品質だった。武具商は怒鳴った。
「こんな粗悪品を納めておいて、代金を全額払えだと!?」
鉱石商も負けていない。
「契約書に書かれた品質基準は満たしている!」
「どこがだ!」
「検査結果を見ろ!」
二人の間に、黒衣の仲裁官が立った。
「静粛に」
声は低かった。
「本件について、双方が当局による仲裁に同意していることを確認する」
二人は頷いた。
「では、契約書を提出せよ」
書類が並べられる。品質基準。納品数量。検査方法。代金。そして、違約時の処理。仲裁官は、淡々と確認した。
「契約上、鉱石の純度は八十五パーセント以上と定められている」
「そうだ!」
鉱石商が答えた。
「しかし、提出された検査結果では、純度は八十二パーセントである」
「……え?」
「したがって、品質基準を満たしていない」
武具商が勝ち誇ったように笑った。
「ほら見ろ!」
しかし、仲裁官は続けた。
「一方、武具商側は、契約で定められた検収期間を超過している」
「……は?」
「そのため、返品請求権は一部制限される」
二人は黙った。仲裁官は書類を置いた。
「双方に契約上の問題が認められる」
そして、結論を告げた。
「鉱石商は、品質不足に相当する代金の一部を減額する」
「……分かった」
「武具商は、残額を期日までに支払う」
「……ああ」
「本裁定を受諾するか」
二人は顔を見合わせた。そして、頷いた。
「……受け入れる」
「私もだ」
仲裁官は記録を閉じた。
「では、これをもって本件を終了する」
二人の商人は、何とも言えない表情で部屋を出た。だが、争いは終わった。剣も抜かれず。暴力も振るわれず。ただ、契約に基づいて。
*
ギルド本部。フェルズは、最初の仲裁結果を読んでいた。
「……迅速です」
ウラノスが尋ねた。
「どれほどだ」
「申立てから裁定まで、二日です」
「……早いな」
「しかも、双方が受諾しています」
フェルズは書類を置いた。
「これは、広まるでしょう」
ウラノスは目を閉じた。
「……止めるべきか」
「難しいでしょう」
「なぜだ」
「現時点で、制度を利用した者に明確な不利益が生じていません」
フェルズは続けた。
「むしろ、紛争が迅速に解決されている」
「……そうか」
「この制度を禁止すれば、ギルドが商人たちの利益を妨げることになります」
ウラノスは沈黙した。
「……では、どうする」
フェルズは答えた。
「対抗できる制度を整えるしかありません」
「ギルド独自の仲裁機関か」
「はい」
「しかし、それには人材と時間が必要です」
ウラノスは、長く息を吐いた。
「……あの男は、我々に選択を迫っているのだな」
「その通りです」
フェルズは静かに言った。
「従うか、競争するか」
そして、付け加えた。
「どちらを選んでも、都市の制度は変わります」
*
オラリオの一角。複数の神々が集まっていた。ロキ。ヘファイストス。ガネーシャ。そして、ヘルメス。議題は、バラド=ドゥーアの契約規格だった。
「……で、どうするんや?」
ロキが切り出した。ヘファイストスは答えた。
「私は、必要な部分だけ採用するわ」
「仲裁は?」
「独立した第三者を指定する」
ガネーシャが胸を張った。
「私はガネーシャだ!」
「知っとるわ!」
ロキが即座に突っ込んだ。ガネーシャは続けた。
「民の暮らしが良くなるなら、検討する価値はある!」
「……まあ、それはそうやけど」
ヘルメスが手を挙げた。
「僕は全面的に賛成かな!」
全員の視線が集まった。
「……アンタは黙っとき」
ロキが言った。
「ひどいなぁ!」
「神性を差し押さえられた奴が、何を偉そうに語っとんねん!」
「いや、だからこそ契約の大切さが分かるんだよ!」
ヘファイストスはため息をついた。
「ヘルメス」
「何だい?」
「あなた、契約書は全部読んだの?」
「もちろん!」
「本当に?」
「……今回はね」
ロキが笑った。
「ぶははは! 信用ゼロやん!」
ヘルメスは肩を落とした。
「……僕だって成長してるんだけどなぁ」
ヘファイストスは静かに言った。
「なら、行動で示しなさい」
その言葉に、ヘルメスは黙った。やがて、ガネーシャが口を開いた。
「私はガネーシャだ!」
「二回目や!」
ロキが突っ込んだ。しかし、ガネーシャは真剣だった。
「民を守るために、使える制度は使うべきだ!」
その言葉に、場の空気が変わった。ヘファイストスが頷く。
「そうね」
ロキも腕を組んだ。
「……せやな」
神々は理解し始めていた。サウロンの制度を拒絶することだけが、正解ではない。問題は、どこまで利用し、どこから距離を置くかだった。
*
バラド=ドゥーア。サウロンは、契約管理局の報告を確認していた。初月の仲裁申立て。十二件。解決。十件。継続審査。二件。当事者双方の受諾率。高。制度利用者からの評価。概ね良好。サウロンは書類を置いた。
「……順調だ」
配下が尋ねた。
「このまま利用者を増やしますか」
「急ぐ必要はない」
「しかし、ギルドが対抗制度を準備しているとの情報がございます」
「構わぬ」
配下は意外そうに顔を上げた。
「よろしいのですか」
「競争相手が存在することは、制度の信用を高める」
サウロンは答えた。
「独占を警戒する者も、選択肢があれば利用を検討する」
「……なるほど」
「そして、優れた制度が選ばれるならば、それでよい」
サウロンは窓の外を見た。オラリオの街。無数の商人。冒険者。神々。そして、ギルド。
「……市場は、すでに動き始めている」
彼は静かに呟いた。
「次は、信用だ」
机の上に、新たな文書が置かれた。
『オラリオ商業信用登録制度』
そこには、商人やファミリアの契約履行履歴を記録し、取引相手の信用を評価する仕組みが記されていた。サウロンは、その内容を確認した。
「……これで、契約はさらに強固になる」
配下が尋ねた。
「信用評価を公開するのですか」
「本人の同意がある場合に限る」
「なぜでしょう」
「強制すれば、反発を招く」
サウロンは答えた。
「だが、信用を証明できる者は、自ら公開を望むようになる」
配下は沈黙した。やがて、理解したように頷いた。
「……信用を持つ者が得をする制度」
「そうだ」
サウロンは続けた。
「そして、信用を持たぬ者は、信用を得るために制度へ参加する」
その言葉には、静かな確信があった。
*
その夜。オラリオの街では、商人たちが新しい契約規格について語り合っていた。
「黒い塔の仲裁、使ってみたか?」
「ああ。思ったより公平だった」
「ギルドも似た制度を作るらしいぞ」
「なら、条件のいい方を使えばいい」
「そうだな」
商人たちは笑った。彼らにとって重要なのは、利益だった。安全な取引。迅速な紛争解決。そして、信用できる相手。それが得られるなら、制度の提供者が神であろうと冥王であろうと、大きな問題ではなかった。一方。黄昏の館。フィンは、契約規格の普及状況を見つめていた。
「……ロキ」
「なんや?」
「これは、戦争より厄介かもしれない」
フィンは続けた。
「敵が軍隊を率いて攻めてくれば、僕たちは戦える」
「……せやな」
「でも、商人たちが自分の意思で黒い塔の制度を選ぶなら、僕たちに何ができる?」
ロキは答えなかった。フィンは静かに言った。
「しかも、その制度が実際に役立っているなら、なおさらだ」
ロキは天井を見上げた。
「……ほんま、嫌な相手やわ」
「彼は、僕たちが得意とする戦いをしていない」
「……せやな」
「そして、僕たちが不得意な戦場を作っている」
その頃。バラド=ドゥーアの最上層。サウロンは、新しい契約書を閉じた。
『オラリオ商業信用登録制度』
彼は、静かに呟いた。
「……次は、神々自身が信用を求める」
その眼光が、都市を見下ろした。かつて中つ国では、力の指輪が王たちを縛った。だが、この世界では。契約書と信用が、神々を縛る鎖となりつつあった。