世界がまだ若かった頃。彼は美しい存在だった。名を、マイロン。アウレの民に属するマイア。創造と鍛造、物質の構造と技術を司る偉大なるヴァラ、アウレに仕えた精霊である。彼は秩序を愛した。無駄を嫌った。不完全なものを憎んだ。物質が正しい形を取り、すべてが計画通りに動くことに喜びを見いだした。だが、その愛はやがて歪んだ。
なぜ他者は、合理的な命令に従わないのか。なぜ愚かな者が、自らの判断で世界を乱すのか。なぜ完全な秩序を築ける者が存在するのに、不完全な自由を許さねばならないのか。そして彼は、メルコールに惹かれた。後にモルゴスと呼ばれる、最初の冥王。メルコールは彼に、望むものを与えるように見えた。力。権威。
そして、自らの意思によって世界を作り変える機会。やがてマイロンは、サウロンとなった。恐るべき者。憎むべき者。モルゴスの副官。そして、主が敗れた後には、自ら冥王となった。しかし彼は、単なる破壊者ではなかった。むしろ、無意味な破壊を嫌った。彼が望んだのは、世界を焼き尽くすことではない。
世界のあらゆるものが、彼の意思に従って動くことだった。そのために彼は、かつてエレギオンのエルフたちへ近づいた。美しい姿をまとい、アンナタール――贈り物の君を名乗って。彼は技術を教えた。知識を与えた。鍛冶師たちの望みを叶える方法を示した。そして、力の指輪が生まれた。だが、エルフたちは知らなかった。
その贈り物の背後で、サウロンが密かに別の指輪を鍛えていたことを。オロドルイン。滅びの山。その火の中で鍛えられた、一つの指輪。他の指輪を支配するための、唯一の指輪。そして今。同じ世界の、遥か後の時代。神々の暮らす別の都市。サウロンは再び、鍛冶の技術を教えていた。
*
バラド=ドゥーア。地下深く。そこには、オラリオの誰も知らない工房が存在した。巨大な炉。黒い金床。壁面に刻まれた、古い文字。それは神聖文字ではない。ドワーフのルーンでもない。中つ国の時代より受け継がれた、サウロン自身の知識によって刻まれた文字だった。炉の前に、冥王が立っていた。その手には、黒銀鋼の試作品。
ヘファイストス・ファミリアとの共同研究によって生み出された合金である。サウロンは、それを炎の中へ入れた。
「……悪くない」
彼は金属の変化を観察した。ミスリルそのものではない。だが、この世界の魔石と組み合わせることで、かつての中つ国には存在しなかった性質を獲得している。魔力伝導。魔石によるエネルギーの蓄積。そして、神の恩恵によって変化する魂との共鳴。
「……興味深い」
サウロンは槌を取った。彼は鍛冶を知っている。単に知識として理解しているのではない。アウレの下で学び、エレギオンの鍛冶師たちを導き、力の指輪の製造に関与した存在なのだ。槌が振り下ろされる。一度。二度。三度。金属が形を変える。そこには魔法陣も、神聖文字も存在しなかった。代わりに、金属そのものへ意思が浸透していく。
サウロンは物質を理解していた。そして、物質を通じて精神へ働きかける術を知っていた。かつて彼が指輪へ注ぎ込んだもの。力。意思。支配への欲望。その技術の一端が、再び炉の中で形を取り始めていた。やがて、一つの指輪が完成した。黒銀色。装飾はない。ただ、内側に微細な文字が刻まれている。サウロンはそれを見つめた。
「……まだ足りぬ」
指輪には力が宿っていた。しかし、かつての力の指輪には及ばない。当然だった。一つの指輪は、単なる魔法の道具ではない。サウロン自身の力の大部分を注ぎ込んだ、彼の存在と不可分の作品だった。あれと同じものを、気軽に作り直せるはずがない。まして、あの指輪は既に滅びの山の火によって破壊されている。だが。
「……別の道はある」
サウロンは指輪を金床に置いた。そして、机の上に置かれた金色の指輪へ目を向けた。ヘルメスから徴収した神性の欠片。それが封じ込められた指輪だった。
「神の本質を、物質に定着させることは可能」
サウロンは静かに呟いた。
「ならば、神性と魔石を媒介として、魂に作用する新たな指輪も鍛えられよう」
その眼光が燃え上がった。
「……実験を続ける」
*
ヘファイストス・ファミリア。椿は、黒銀鋼の新しい試作品を調べていた。
「……妙だね」
ヘファイストスが顔を上げる。
「何が?」
「この金属、打つほどに魔力の通り道が変わるんだ」
椿は刀身を指差した。
「手前がいつも通りに鍛えると、魔力が均等に流れる。でも、黒い塔から教わった方法だと、特定の場所に集中する」
ヘファイストスは剣を手に取った。
「……確かに」
魔力を流す。刀身の一部が、淡く輝いた。
「まるで、金属そのものに回路を作っているみたいね」
「そうなんだよ」
椿は腕を組んだ。
「それも、後から刻むんじゃない。鍛える段階で、性質を変えている」
ヘファイストスの表情が変わった。彼女は鍛冶の女神だ。だからこそ、その技術の異常さが分かった。魔剣。魔道具。魔石を用いた武具。それらとは、根本的に異なる。金属に魔法を付与しているのではない。金属そのものを、魔法的な性質を持つ存在へと作り変えている。
「……あの男」
ヘファイストスは呟いた。
「本当に何者なのかしら」
椿が笑った。
「少なくとも、とんでもない鍛冶師だってことは間違いないね」
「ええ」
ヘファイストスは剣を見つめた。
「でも、気になることがあるわ」
「何だい?」
「この技術、完成形が見えないのよ」
「完成形?」
「ええ。今教えられている技術は、明らかに何かの基礎なの」
ヘファイストスは刀身を置いた。
「まるで、もっと高度なものを作るための準備みたいに」
「……手前たちが、知らないうちに何かの研究を手伝ってるってことかい?」
「可能性はあるわ」
「契約違反じゃないの?」
「今のところ、違反は確認できない」
ヘファイストスは眉をひそめた。
「それが、少し気味が悪いのよ」
*
同じ頃。オラリオでは、新しい制度が始まっていた。
『オラリオ商業信用登録制度』
契約履行の記録。支払い状況。取引実績。紛争履歴。それらを登録し、希望者には信用証明を発行する。参加は任意。だが、登録した商人には明確な利益があった。信用を証明できる。取引相手を探しやすくなる。そして、一定の条件を満たせば、バラド=ドゥーアの取引保証制度を利用できる。商人たちは次々と登録を始めた。
「これがあれば、遠方の商人とも取引しやすいな」
「保証まで付くのか?」
「ああ。ただし、契約条件を守る必要があるらしい」
「当たり前だろ」
彼らは笑った。誰もが、便利な制度だと考えていた。しかし、その登録証には一つの特徴があった。黒銀色の小さな金属片。そこには、登録者ごとに異なる紋様が刻まれていた。身分証明。契約記録との照合。偽造防止。表向きの説明は、それだけだった。そして、その説明は嘘ではなかった。ただし、すべてでもなかった。
*
バラド=ドゥーア。サウロンは、登録証の試作品を見つめていた。小さな黒銀の板。その内部には、極めて微細な構造が刻み込まれている。物質と魔力を結びつける回路。そして、登録者本人の魔力に反応する仕組み。
「……これでよい」
配下が尋ねた。
「この金属片が、どのような役割を果たすのでしょうか」
サウロンは答えた。
「識別だ」
「識別、ですか」
「所有者を識別し、記録と結びつける」
配下は頷いた。
「それだけでしょうか」
サウロンは沈黙した。やがて、静かに答えた。
「現段階ではな」
その言葉の意味を、配下は理解できなかった。サウロンは、別の金属片を手に取った。登録証。信用。契約。そして、魔力。それらは、個別には何の脅威にもならない。だが、互いに結びついた時。一つの巨大な体系を形成する。かつての力の指輪も、そうだった。九つは人間の王たちへ。七つはドワーフの領主たちへ。三つはエルフたちの手に。
そして、一つはサウロン自身のもの。ただし、すべてが彼の思い通りになったわけではない。エルフたちは彼の企みを察知した。ドワーフたちは、彼が望んだような幽鬼にはならなかった。人間の王たちは、やがて指輪の幽鬼となった。支配には、対象の性質を理解する必要がある。それを、サウロンは知っていた。だからこそ、今回は急がない。まず、観察する。
次に、理解する。そして、相手が自ら求めるものを与える。
「……人間は、信用を求める」
サウロンは呟いた。
「商人は利益を求める」
別の金属片を手に取る。
「冒険者は力を求める」
そして、ヘルメスの神性を封じた指輪を見る。
「神々は、自らの権威を求める」
「欲望の形が違うだけだ」
かつてアンナタールは、エルフたちの願望を利用した。中つ国の美しさを保ちたいという願い。衰退を食い止めたいという願い。その願いに応える技術を与え、彼らを自らの計画へ引き込んだ。今度も同じだった。ただし、舞台はオラリオ。相手は神々と冒険者。そして、利用するのは魔石と神の恩恵。
「……この世界に適した指輪を作る」
サウロンは、静かに宣言した。
*
ヘルメスは、黒い塔の窓口に立っていた。
「……えっと」
受付の黒衣の男が、書類を確認する。
「ヘルメス様ですね」
「そうそう!」
「信用登録をご希望で?」
「もちろん!」
「では、現在の契約履行状況を確認します」
ヘルメスは胸を張った。
「最近は、ちゃんと守ってるよ!」
「確認しております」
「じゃあ、評価も上がってるよね?」
受付係は書類を見た。
『ヘルメス』
『契約履行状況:改善』
『過去の違反履歴:複数』
『神性担保権実行履歴:一件』
『信用評価:要監視』
ヘルメスは固まった。
「……まだ?」
「はい」
「結構頑張ってるんだけど」
「改善は記録されています」
「じゃあ、何で評価が変わらないの?」
「信用回復には、継続的な実績が必要です」
ヘルメスは肩を落とした。
「……世知辛い」
受付係は続けた。
「ただし、今後も履行を継続されれば、再評価の対象となります」
「……本当?」
「はい」
ヘルメスは、少しだけ元気を取り戻した。
「よし! じゃあ、頑張るか!」
受付係は、登録証を差し出した。黒銀色の小さな金属片。ヘルメスはそれを手に取った。
「……へえ。結構きれいだね」
「登録者の魔力に反応する仕組みです」
「神でも使えるの?」
「神格存在については、専用の仕様となります」
「なるほどねぇ」
ヘルメスは登録証を眺めた。その表面に、淡い光が走る。一瞬だけ。彼の神性を封じた指輪と、どこか似た反応だった。
「……ん?」
ヘルメスは眉をひそめた。しかし、光はすぐに消えた。
「……気のせいかな」
彼は登録証を懐にしまった。そして、何も知らずに塔を後にした。
*
その夜。ヘファイストスは、黒銀鋼の試作品を調べていた。その隣には、椿がいる。
「……やっぱり妙ね」
ヘファイストスが呟いた。
「何が?」
「この金属の魔力回路よ」
彼女は、試作品の断面図を広げた。
「単純な魔力伝導だけなら、ここまで複雑な構造は必要ない」
椿は図面を覗き込んだ。
「……確かにね」
「それに、回路の一部が外部からの魔力に反応するようになっている」
「外部から?」
「ええ」
「まるで、別の装置と連動することを前提にしているみたい」
椿は腕を組んだ。
「……手前たちが作ってるのは、ただの武具じゃないってことかい?」
「可能性はあるわ」
ヘファイストスは試作品を置いた。
「ただし、今の段階では断定できない」
「……あの黒い塔の主に、直接聞いてみる?」
ヘファイストスは微笑んだ。
「もちろん、そのつもりよ」
「答えると思う?」
「さあね」
ヘファイストスは立ち上がった。
「でも、聞かないよりはいいでしょう」
*
バラド=ドゥーア。サウロンは、地下工房に戻っていた。その手には、黒銀の指輪。試作品。まだ完成には程遠い。だが、その内部には確かな力が宿っていた。彼は指輪を見つめた。そして、遠い記憶を思い起こした。滅びの山。火口。そして、一つの指輪。かつて彼は、自らの力の大部分をそこへ注ぎ込んだ。
その結果、指輪が存在する限り、彼の力もまた世界に強く結びついた。だが、指輪が滅びた時。彼の力もまた、決定的に失われた。それは、彼が犯した最大の過ちの一つだった。一つの器に、あまりにも多くを委ねた。
「……同じ過ちは繰り返さぬ」
サウロンは呟いた。新たな指輪は、一つではない。一つの器にすべてを集中させる必要もない。複数の器。複数の契約。複数の権能。それらを、互いに結びつける。一つが破壊されても、全体は残る。一人が離反しても、体系は崩れない。そして、すべてを統括する中心には。
「……私がいる」
サウロンは、指輪を炉へ戻した。炎が燃え上がる。金属が赤く輝く。その中で、古い文字が浮かび上がった。それは、かつて一つの指輪に刻まれた文字とは異なる。だが、その思想は同じだった。支配。統制。そして、服従。サウロンは静かに槌を振り下ろした。
*
地下工房の最奥。そこには、巨大な石の台座があった。台座の上には、いくつもの金属片が並んでいる。信用登録証。黒銀鋼の試作品。魔石を組み込んだ小さな指輪。そして、神性を封じた金色の指輪。サウロンは、それらを一つずつ確認した。商業制度。技術提携。神々との契約。信用登録。すべては、別々の事業に見える。
だが、彼の中では一つにつながっていた。新たな力の指輪を鍛えるための、巨大な実験だった。この世界には、恩恵が存在する。神々が眷族に与える、魂への刻印。冒険者は経験を積み、能力を高める。そして、その成長は神々の権能によって記録される。サウロンは、その仕組みに強い関心を抱いていた。かつての力の指輪は、所有者の存在に作用した。
寿命を引き延ばし、能力を増幅し、やがて精神を支配した。ならば、この世界の恩恵と組み合わせればどうなるか。神々が魂へ刻む情報。魔石が蓄える力。そして、指輪が持つ支配の技術。それらを統合すれば。
「……新たな可能性が開ける」
サウロンは呟いた。ただし、彼はまだ完成を宣言しなかった。この世界の魂の構造は、中つ国とは異なる。神性も、恩恵も、完全には理解できていない。だからこそ、実験が必要だった。そして、実験には対象が必要だった。
「……まずは、適合性を調べる」
サウロンは、黒銀の指輪を手に取った。その内側には、微細な文字が刻まれている。一見すれば、装飾にすぎない。だが、その文字は、古い時代の技術によって刻まれたものだった。エレギオンの鍛冶師たちが、かつて学んだ技術。そして、その技術を教えた存在。アンナタール。贈り物の君。
「……贈り物には、価値が必要だ」
彼は指輪を金床に置いた。
「価値がなければ、誰も受け取らぬ」
そして、炎を強めた。
*
フォールクヴァング。フレイヤは、窓の外を眺めていた。黒い塔。その頂上には、赤い光が揺らめいている。
「……オッタル」
「はっ」
「最近、あの塔から妙な気配がするの」
「妙な気配、ですか」
「ええ」
フレイヤは目を細めた。
「以前とは違う何かが、動き始めているような……」
オッタルは黙っていた。フレイヤは続けた。
「私は、もうあの男の魂を覗かない」
「はい」
「けれど、あの男が何かを作っていることくらいは分かるわ」
「……何を?」
「分からない」
フレイヤは静かに答えた。
「ただ、あの男が単なる商人ではないことだけは確かよ」
オッタルは頷いた。
「その通りかと」
フレイヤは、しばらく黒い塔を見つめていた。やがて、ぽつりと呟いた。
「……あの男は、何を欲しているのかしら」
その問いに、答える者はいなかった。
*
深夜。バラド=ドゥーア。地下工房。サウロンは、完成したばかりの黒銀の指輪を見つめていた。試作品。まだ不完全。だが、確かに新たな力が宿っている。彼は指輪を掌に載せた。その表面に、微かな文字が浮かび上がる。古い言葉。中つ国の暗黒の言語。それは、かつての一つの指輪に刻まれた詩ではない。新たに作られた、短い命令だった。
『結びつけよ』
サウロンは、その文字を見つめた。そして、静かに呟いた。
「……始まりだ」
かつて、エレギオンの鍛冶師たちは、アンナタールの贈り物を受け入れた。彼らは知識を得た。技術を得た。そして、力の指輪を生み出した。だが、その背後に潜む意図を見抜いた時には、既に遅かった。今度は、オラリオ。神々の都市。そこでは、誰もが何かを求めている。力。富。名誉。愛。自由。そして、信用。サウロンは、指輪を黒い箱へ収めた。
「……欲する者には、与えよう」
冥王の眼光が燃えた。
「望むものを、望む形で」
その声には、かつて中つ国を支配しようとした者の確信があった。
「そして、与えたものを通じて、すべてを結びつける」
黒い塔の最上層。巨大な炎の眼が、オラリオを見下ろしていた。その視線の先には、神々の都市が広がっている。