指輪の王は世界を鍛える   作:ゆいニキ

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第16話 黒曜帝国の逆鱗

オラリオ、西大通り。夕刻の市場は、冒険者と商人たちで賑わっていた。その一角に、黒い外套をまとった男がいた。名を、エルダリオン。黒曜帝国の商務官である。年齢は四十代半ばに見える。しかし、その実年齢は百二十七歳。帝国の魔術と医術によって寿命を延ばされた、古参の官僚だった。彼の胸元には、黒曜石を模した銀の徽章がある。

 中央に刻まれたのは、燃え盛る眼。帝国の紋章だった。

「……納品は予定通りか」

「はい。黒銀鋼の試験素材、二十箱。ヘファイストス・ファミリアへの引き渡しは明朝となります」

 部下が答える。エルダリオンは頷いた。

「品質検査を怠るな。皇帝陛下の名で交わされた契約だ」

「承知しております」

 彼らは武器を携えていなかった。少なくとも、表向きは。商務官としてオラリオに滞在する以上、不要な武装は避けていた。だが、それが一部の者には弱さに見えた。

「おい」

 背後から声がした。振り返ると、数人の冒険者が立っていた。先頭にいるのは、屈強な男。レベル三。オラリオでは、それなりの実力者だった。

「お前ら、黒い塔の連中だろ?」

 エルダリオンは落ち着いて答えた。

「その通りです。何かご用でしょうか」

「最近、随分と景気がいいらしいじゃねえか」

「商取引に関するご相談でしたら、正式な窓口へお願いいたします」

 男は笑った。

「そういう堅苦しい話じゃねえんだよ」

 彼はエルダリオンの胸元を指差した。

「その徽章、気に入らねえな」

「……理由を伺っても?」

「黒い塔の連中が、オラリオで好き勝手やってるからだよ」

 エルダリオンは沈黙した。

「お前らが来てから、商人どもが契約だの信用だの、うるさくなりやがった」

 男は一歩近づいた。

「私たち冒険者を、商人と同じように扱うんじゃねえ」

 エルダリオンは静かに答えた。

「契約を締結したのであれば、履行する義務が生じます。冒険者であることは、その例外にはなりません」

 男の表情が歪んだ。

「……何だと?」

「ご理解いただけないのであれば、ギルドへお問い合わせください」

 次の瞬間。男の拳が、エルダリオンの顔を打った。鈍い音。商務官が地面に倒れる。周囲の人々が悲鳴を上げた。

「偉そうに説教しやがって!」

 男は倒れたエルダリオンの胸元から徽章を引きちぎった。そして、地面に投げ捨てた。

「こんなもん、何の役にも立たねえだろ!」

 靴底が、黒曜石の紋章を踏みつける。その瞬間。エルダリオンの表情が変わった。痛みでも、怒りでもない。深い、深い絶望だった。

「……何ということを」

 男は笑った。

「何だよ。そんなに大事なもんか?」

 エルダリオンは、震える声で答えた。

「あなたは……皇帝陛下の紋章を……」

「皇帝? 知るかよ!」

 男は再び徽章を踏みつけた。

「ここはオラリオだ! お前らの国じゃねえ!」

 エルダリオンは目を閉じた。そして、静かに呟いた。

「……どうか、陛下が寛大であられますように」

*

 事件から一時間後。バラド=ドゥーア。最上層の謁見室。サウロンは、報告書を読んでいた。その背後には、九つの黒い影が立っている。黒衣。王冠。そして、空虚な闇。九人の指輪の幽鬼。ナズグル。かつて人間の王や偉大な戦士であった者たち。九つの指輪によって力を与えられ、やがて肉体と意思を失った存在。彼らは、冥王の最も恐るべき僕だった。

 サウロンは報告書を閉じた。

「……エルダリオンは」

 側近が答える。

「治療を受けております。生命に危険はありません」

「商務官としての任務は?」

「継続可能ですが、本人は謹慎を申し出ております」

「理由は」

「皇帝陛下の紋章を守れなかった責任を感じているとのことです」

 サウロンは玉座から立ち上がった。

「……愚かな」

 側近が頭を垂れる。サウロンは続けた。

「商務官に、武装した冒険者との戦闘を命じた覚えはない」

「御意」

「責任を負うべきは、侵害を行った者だ」

 サウロンは、破損した徽章を手に取った。黒曜石。銀。そして、燃える眼。それは帝国の象徴。数千年にわたり、無数の臣民がその下に暮らしてきた。

「……私の臣民を殴り」

 サウロンの声が低くなる。

「私の紋章を踏みにじったか」

 広間の空気が変わった。九つの影が、一斉に頭を垂れる。サウロンは静かに命じた。

「犯人を捕らえよ」

 一体の影が前へ進み出た。その頭には、黒い王冠。手には、長大な剣。アングマールの魔王。ナズグルの首領だった。

「……御意」

 その声は、人間の喉から発せられたものではなかった。まるで墓の底から吹き上がる、冷たい風のようだった。サウロンは続けた。

「生かして連れてこい」

 魔王は深く頭を垂れた。

「仰せのままに」

 そして、九つの影のうち一つが、闇の中へ消えた。

*

 オラリオ。夜。事件を起こした冒険者たちは、酒場で笑っていた。

「いやぁ、あいつの顔! 傑作だったぜ!」

「皇帝陛下がどうとか言ってたな!」

「ここじゃ神様の方が偉いっての!」

 彼らは酒を飲み、騒いでいた。その時。店内の空気が冷えた。最初に異変に気づいたのは、店主だった。

「……何だ?」

 窓が曇る。灯火が揺れる。そして、外から奇妙な音が聞こえてきた。馬の蹄。一歩。また一歩。だが、そこに馬の姿はなかった。黒い霧が、通りを這っていた。やがて、酒場の扉が開く。そこに立っていたのは、黒い外套をまとった騎士だった。顔は見えない。兜の奥には、ただ闇がある。その存在が一歩踏み出した瞬間。店内の客たちは、言葉を失った。恐怖。

 理由のない恐怖。魂の奥底から湧き上がる、絶対的な恐怖。それは殺気ではない。威圧でもない。生きる者が、本能的に死を恐れる感覚。ナズグルの黒の息。指輪の幽鬼が放つ、存在そのものの恐怖だった。

「……誰だ、てめえ」

 レベル三の冒険者が立ち上がった。剣を抜く。しかし、手が震えていた。黒い騎士は答えなかった。ただ、彼を見た。その瞬間。冒険者の身体が凍りついた。

「……あ?」

 足が動かない。腕が上がらない。声が出ない。彼は理解できなかった。自分はレベル三だ。普通の人間など、相手にならない。怪物だって、何百と倒してきた。なのに。目の前の存在を見ただけで、身体が動かない。黒い騎士が口を開いた。

「……皇帝の臣民を傷つけた者よ」

 声が響く。低く。冷たく。そして、絶対的だった。

「……立て」

 冒険者は、無意識に立ち上がった。自分の意思ではない。身体が、命令に従ったのだ。

「……な、何を……」

 黒い騎士は続けた。

「……来い」

 冒険者の足が動いた。彼は必死に抵抗した。しかし、止まらない。

「や、やめろ! 誰か!」

 仲間たちは動けなかった。いや。動こうとする意思そのものが、恐怖によって押し潰されていた。黒い騎士は、冒険者を連れて店を出た。そして、闇の中へ消えた。

*

 翌朝。ギルド本部。エイナ・チュールは、報告書を見つめていた。

「……冒険者が、連れ去られた?」

 職員が頷いた。

「はい。昨夜、酒場で黒い騎士に連行されたとの証言が多数あります」

「黒い騎士?」

「顔が見えず、周囲の者が強い恐怖を感じたそうです」

 エイナは眉をひそめた。

「……黒い塔の関係者?」

「可能性が高いと考えられます」

 その時、別の職員が駆け込んできた。

「大変です!」

「どうしたんですか?」

「ロキ・ファミリアから、正式な問い合わせが!」

 エイナは顔を上げた。

「……何について?」

「昨夜の黒い騎士についてです!」

 黄昏の館。フィンは、報告を読んでいた。その隣には、リヴェリアとガレスがいる。

「……妙だね」

 フィンが呟いた。リヴェリアが尋ねる。

「何がだ?」

「目撃者の証言だよ」

 フィンは書類を指差した。

「黒い騎士は、魔法を詠唱していない」

「……無詠唱魔法か?」

「それだけなら、まだ説明できる」

 フィンは続けた。

「問題は、恐怖によって周囲の者が動けなくなったことだ」

 ガレスが腕を組む。

「殺気じゃろう?」

「違う」

 フィンは首を横に振った。

「証言では、敵意を向けられていない者まで、同じ恐怖を感じている」

 リヴェリアの表情が変わった。

「……精神干渉か」

「可能性はある」

「でも、もっと気になることがある」

「何だ?」

「その騎士が、冒険者を命令だけで従わせたことだ」

 フィンは静かに言った。

「もしそれが事実なら、ステイタスによる身体能力の差だけでは説明できない」

 リヴェリアは窓の外を見た。黒い塔が見える。

「……あの男の配下か」

「おそらくね」

 フィンは答えた。

「そして、問題はまだある」

「……何だ?」

「黒い騎士は、一人しか確認されていない」

 ガレスが眉をひそめた。

「それがどうした?」

 フィンは静かに答えた。

「黒い塔には、まだ何人いるのか分からない」

*

 バラド=ドゥーア。地下の大広間。連れ去られた冒険者は、石床に跪いていた。その周囲には、九つの黒い影が立っている。彼は震えていた。呼吸すら苦しい。目の前の存在が何なのか、理解できなかった。ただ一つ分かることがある。ここにいるものは、人間ではない。そして、神でもない。

「……お願いだ」

 冒険者は呟いた。

「……助けてくれ」

 九つの影は、何も答えなかった。やがて、巨大な扉が開いた。足音。重い。規則正しい。そして、広間全体が、その足音に従って沈黙した。黒い甲冑。巨大な体躯。燃える眼。サウロン。第二の冥王。黒曜帝国皇帝。彼が現れた瞬間。九人の指輪の幽鬼が、一斉に膝をついた。

「……我が主」

 アングマールの魔王が頭を垂れる。サウロンは、冒険者を見下ろした。

「……お前か」

 冒険者は顔を上げられなかった。

「私の臣民を傷つけた者は」

「……は、はい」

「私の紋章を踏みにじった者は」

「……はい」

 サウロンは沈黙した。そして、静かに尋ねた。

「なぜだ」

 冒険者は震えながら答えた。

「……む、むかついて……」

「それだけか」

「……はい」

 サウロンは、しばらく彼を見つめていた。そして、低く呟いた。

「……くだらぬ」

 その言葉には、怒りすらなかった。

「私の臣民に危害を加えた理由が、気分か」

 冒険者は涙を流した。

「……すみませんでした」

 サウロンは答えた。

「謝罪は、被害者に対して行え」

 そして、アングマールの魔王へ視線を向けた。

「ギルドへ通知せよ」

「御意」

「犯人を拘束したこと。被害者への賠償を要求すること。そして、帝国臣民に対する暴行を容認しないこと」

 魔王は頭を垂れた。

「仰せのままに」

 サウロンは、冒険者を見下ろした。

「お前の処遇は、正式な手続きを経て決定する」

 冒険者は、かすれた声で尋ねた。

「……こ、殺さないんですか?」

 サウロンは答えた。

「殺す価値もない」

 その言葉に、冒険者は崩れ落ちた。だが、サウロンは続けた。

「ただし、賠償を拒み、再び帝国に敵対するならば、話は別だ」

 燃える眼が、彼を捉えた。

「その時は、死よりも重い代償を支払うことになる」

 冒険者は、声も出せずに頷いた。

*

 ギルド本部。ウラノスは、黒い塔から届いた正式通知を読んでいた。その傍らには、フェルズがいる。

「……ナズグル」

 フェルズが呟いた。

「聞いたことのない名称です」

 ウラノスは答えた。

「私も知らぬ」

「しかし、目撃情報は一致しています」

 フェルズは続けた。

「黒い騎士。顔のない存在。周囲の者に強烈な恐怖を与え、冒険者を抵抗不能にした」

「……神の権能か」

「いいえ」

 フェルズは首を横に振った。

「少なくとも、私が知る神々の権能とは異なります」

 ウラノスは目を閉じた。

「……あの男は、何者なのだ」

 フェルズは答えられなかった。しばらくして、ウラノスが尋ねた。

「神威を感じたか」

「いいえ」

「ならば、神ではないのか」

「断定できません」

 フェルズは慎重に答えた。

「ただ、彼の配下が神威を発することなく、あれほどの恐怖を与えたことは確かです」

 ウラノスは沈黙した。そして、静かに呟いた。

「……神々の知らぬ体系が、存在するということか」

「その可能性が高いでしょう」

*

 三日後。バラド=ドゥーア。ギルドの代表者立ち会いのもと、冒険者の処遇が決定された。被害者への治療費。慰謝料。帝国紋章の破損に対する賠償。そして、正式な謝罪。冒険者は、すべてを受け入れた。だが、サウロンは最後に一つの条件を追加した。

「……今後、帝国の臣民に対する暴行を行わぬこと」

 冒険者は必死に頷いた。

「はい! 絶対に!」

「その誓約を、書面に記せ」

 冒険者は震える手で署名した。サウロンは書類を確認した。そして、静かに言った。

「……よい」

 冒険者は安堵した。だが、その瞬間。サウロンの指先から、微かな黒い光が走った。書類に刻まれた文字が、一瞬だけ輝く。冒険者は気づかなかった。しかし、フェルズは見逃さなかった。

「……今のは?」

 サウロンは答えた。

「誓約の確認だ」

「……確認?」

「契約内容を、当事者の意思と結びつけた」

 フェルズは眉をひそめた。

「それは、魔法ですか」

「お前たちの言葉で呼ぶならば、そうだろう」

 サウロンは答えた。

「だが、私にとっては古い技術だ」

 フェルズは沈黙した。

「……どれほど古いのですか」

 サウロンは、しばらく彼を見つめた。そして、静かに答えた。

「お前たちの都市が生まれるより、遥か以前からだ」

 その言葉に、フェルズは息を呑んだ。サウロンは続けた。

「私は、かつて世界が若かった頃、物質に意思を刻む術を学んだ」

「……世界が若かった頃?」

「そうだ」

 冥王は、ゆっくりと立ち上がった。

「そして、その術によって王たちを支配した」

 フェルズは、初めて理解した。目の前の存在は、単なる強大な魔術師ではない。彼には、この世界の神々すら知らない歴史がある。そして、その歴史の中で、数多くの王国を滅ぼしてきたのだ。

*

 その夜。オラリオの外。黒曜帝国の領土へ続く街道。そこには、巨大な軍勢が行軍していた。黒い甲冑。銀の紋章。そして、整然と並ぶ軍旗。数千の兵士。重装歩兵。騎兵。魔術師。さらに、その後方には巨大な影があった。人間より遥かに大きな体躯。炎を宿す瞳。そして、鞭と剣を携えた存在。バルログ。モルゴスの時代より伝わる、炎と影の悪霊。

 それが、黒曜帝国の軍勢とともに進んでいた。軍の先頭には、一人の将軍が立っている。黒い甲冑。長大な剣。そして、帝国の紋章。彼は、遠くに見えるオラリオの城壁を見つめた。

「……陛下より、命令が下った」

 副官が尋ねる。

「進軍ですか」

 将軍は頷いた。

「帝国臣民に対する暴行事件を受け、在外臣民保護のための警備部隊を派遣する」

「……オラリオへ?」

「そうだ」

 副官は息を呑んだ。

「しかし、ギルドとの協議は……」

 将軍は答えた。

「既に始まっている」

 そして、静かに続けた。

「我々は、戦争をしに行くのではない」

 彼は軍勢を振り返った。

「ただ、皇帝陛下の臣民を守るだけだ」

 その背後で、バルログの炎が揺らめいた。

*

 バラド=ドゥーア。最上層。サウロンは、遠くの街道を見下ろしていた。帝国の軍勢。黒い旗。そして、炎の影。それらは、彼の意思によって動いている。数千年前。彼はこの世界に現れた。そして、帝国を築いた。神々の都市とは異なる秩序。神の恩恵に依存しない軍事力。古代の魔術。そして、力の指輪によって結びつけられた支配構造。黒曜帝国。

 それは、単なる国家ではない。中つ国の冥王が、別世界で再び築き上げた支配の体系だった。サウロンは、静かに呟いた。

「……ようやく、思い出す時が来たか」

 彼の手には、一つの指輪があった。黄金。滑らかな表面。そして、炎の中でのみ現れる文字。かつて、滅びの山で鍛えられた指輪。唯一の指輪。その内側には、彼自身の力が宿っている。サウロンは、それを指にはめた。瞬間。塔の奥深くで、九つの影が一斉に跪いた。遠く離れた帝国の各地で、力の指輪を持つ者たちが、主の意思を感じ取った。

 そして、黒曜帝国の軍勢が、歩みを進める。冥王は、静かに宣言した。

「……この都市の神々に教えてやろう」

 燃える眼が、オラリオを見下ろした。

「王とは何か」

「支配とは何か」

「そして、神を名乗ることが、何の保証にもならぬということを」

 黒い塔の頂上。巨大な炎の眼が、夜空を赤く染めた。その光を見上げた者たちは、理由の分からぬ恐怖を覚えた。冒険者たち。商人たち。神々。誰もが、その光を見つめていた。そして、オラリオの歴史に、新たな時代が始まろうとしていた。それは、神々の時代ではない。冥王の時代だった。

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