オラリオ、西大通り。夕刻の市場は、冒険者と商人たちで賑わっていた。その一角に、黒い外套をまとった男がいた。名を、エルダリオン。黒曜帝国の商務官である。年齢は四十代半ばに見える。しかし、その実年齢は百二十七歳。帝国の魔術と医術によって寿命を延ばされた、古参の官僚だった。彼の胸元には、黒曜石を模した銀の徽章がある。
中央に刻まれたのは、燃え盛る眼。帝国の紋章だった。
「……納品は予定通りか」
「はい。黒銀鋼の試験素材、二十箱。ヘファイストス・ファミリアへの引き渡しは明朝となります」
部下が答える。エルダリオンは頷いた。
「品質検査を怠るな。皇帝陛下の名で交わされた契約だ」
「承知しております」
彼らは武器を携えていなかった。少なくとも、表向きは。商務官としてオラリオに滞在する以上、不要な武装は避けていた。だが、それが一部の者には弱さに見えた。
「おい」
背後から声がした。振り返ると、数人の冒険者が立っていた。先頭にいるのは、屈強な男。レベル三。オラリオでは、それなりの実力者だった。
「お前ら、黒い塔の連中だろ?」
エルダリオンは落ち着いて答えた。
「その通りです。何かご用でしょうか」
「最近、随分と景気がいいらしいじゃねえか」
「商取引に関するご相談でしたら、正式な窓口へお願いいたします」
男は笑った。
「そういう堅苦しい話じゃねえんだよ」
彼はエルダリオンの胸元を指差した。
「その徽章、気に入らねえな」
「……理由を伺っても?」
「黒い塔の連中が、オラリオで好き勝手やってるからだよ」
エルダリオンは沈黙した。
「お前らが来てから、商人どもが契約だの信用だの、うるさくなりやがった」
男は一歩近づいた。
「私たち冒険者を、商人と同じように扱うんじゃねえ」
エルダリオンは静かに答えた。
「契約を締結したのであれば、履行する義務が生じます。冒険者であることは、その例外にはなりません」
男の表情が歪んだ。
「……何だと?」
「ご理解いただけないのであれば、ギルドへお問い合わせください」
次の瞬間。男の拳が、エルダリオンの顔を打った。鈍い音。商務官が地面に倒れる。周囲の人々が悲鳴を上げた。
「偉そうに説教しやがって!」
男は倒れたエルダリオンの胸元から徽章を引きちぎった。そして、地面に投げ捨てた。
「こんなもん、何の役にも立たねえだろ!」
靴底が、黒曜石の紋章を踏みつける。その瞬間。エルダリオンの表情が変わった。痛みでも、怒りでもない。深い、深い絶望だった。
「……何ということを」
男は笑った。
「何だよ。そんなに大事なもんか?」
エルダリオンは、震える声で答えた。
「あなたは……皇帝陛下の紋章を……」
「皇帝? 知るかよ!」
男は再び徽章を踏みつけた。
「ここはオラリオだ! お前らの国じゃねえ!」
エルダリオンは目を閉じた。そして、静かに呟いた。
「……どうか、陛下が寛大であられますように」
*
事件から一時間後。バラド=ドゥーア。最上層の謁見室。サウロンは、報告書を読んでいた。その背後には、九つの黒い影が立っている。黒衣。王冠。そして、空虚な闇。九人の指輪の幽鬼。ナズグル。かつて人間の王や偉大な戦士であった者たち。九つの指輪によって力を与えられ、やがて肉体と意思を失った存在。彼らは、冥王の最も恐るべき僕だった。
サウロンは報告書を閉じた。
「……エルダリオンは」
側近が答える。
「治療を受けております。生命に危険はありません」
「商務官としての任務は?」
「継続可能ですが、本人は謹慎を申し出ております」
「理由は」
「皇帝陛下の紋章を守れなかった責任を感じているとのことです」
サウロンは玉座から立ち上がった。
「……愚かな」
側近が頭を垂れる。サウロンは続けた。
「商務官に、武装した冒険者との戦闘を命じた覚えはない」
「御意」
「責任を負うべきは、侵害を行った者だ」
サウロンは、破損した徽章を手に取った。黒曜石。銀。そして、燃える眼。それは帝国の象徴。数千年にわたり、無数の臣民がその下に暮らしてきた。
「……私の臣民を殴り」
サウロンの声が低くなる。
「私の紋章を踏みにじったか」
広間の空気が変わった。九つの影が、一斉に頭を垂れる。サウロンは静かに命じた。
「犯人を捕らえよ」
一体の影が前へ進み出た。その頭には、黒い王冠。手には、長大な剣。アングマールの魔王。ナズグルの首領だった。
「……御意」
その声は、人間の喉から発せられたものではなかった。まるで墓の底から吹き上がる、冷たい風のようだった。サウロンは続けた。
「生かして連れてこい」
魔王は深く頭を垂れた。
「仰せのままに」
そして、九つの影のうち一つが、闇の中へ消えた。
*
オラリオ。夜。事件を起こした冒険者たちは、酒場で笑っていた。
「いやぁ、あいつの顔! 傑作だったぜ!」
「皇帝陛下がどうとか言ってたな!」
「ここじゃ神様の方が偉いっての!」
彼らは酒を飲み、騒いでいた。その時。店内の空気が冷えた。最初に異変に気づいたのは、店主だった。
「……何だ?」
窓が曇る。灯火が揺れる。そして、外から奇妙な音が聞こえてきた。馬の蹄。一歩。また一歩。だが、そこに馬の姿はなかった。黒い霧が、通りを這っていた。やがて、酒場の扉が開く。そこに立っていたのは、黒い外套をまとった騎士だった。顔は見えない。兜の奥には、ただ闇がある。その存在が一歩踏み出した瞬間。店内の客たちは、言葉を失った。恐怖。
理由のない恐怖。魂の奥底から湧き上がる、絶対的な恐怖。それは殺気ではない。威圧でもない。生きる者が、本能的に死を恐れる感覚。ナズグルの黒の息。指輪の幽鬼が放つ、存在そのものの恐怖だった。
「……誰だ、てめえ」
レベル三の冒険者が立ち上がった。剣を抜く。しかし、手が震えていた。黒い騎士は答えなかった。ただ、彼を見た。その瞬間。冒険者の身体が凍りついた。
「……あ?」
足が動かない。腕が上がらない。声が出ない。彼は理解できなかった。自分はレベル三だ。普通の人間など、相手にならない。怪物だって、何百と倒してきた。なのに。目の前の存在を見ただけで、身体が動かない。黒い騎士が口を開いた。
「……皇帝の臣民を傷つけた者よ」
声が響く。低く。冷たく。そして、絶対的だった。
「……立て」
冒険者は、無意識に立ち上がった。自分の意思ではない。身体が、命令に従ったのだ。
「……な、何を……」
黒い騎士は続けた。
「……来い」
冒険者の足が動いた。彼は必死に抵抗した。しかし、止まらない。
「や、やめろ! 誰か!」
仲間たちは動けなかった。いや。動こうとする意思そのものが、恐怖によって押し潰されていた。黒い騎士は、冒険者を連れて店を出た。そして、闇の中へ消えた。
*
翌朝。ギルド本部。エイナ・チュールは、報告書を見つめていた。
「……冒険者が、連れ去られた?」
職員が頷いた。
「はい。昨夜、酒場で黒い騎士に連行されたとの証言が多数あります」
「黒い騎士?」
「顔が見えず、周囲の者が強い恐怖を感じたそうです」
エイナは眉をひそめた。
「……黒い塔の関係者?」
「可能性が高いと考えられます」
その時、別の職員が駆け込んできた。
「大変です!」
「どうしたんですか?」
「ロキ・ファミリアから、正式な問い合わせが!」
エイナは顔を上げた。
「……何について?」
「昨夜の黒い騎士についてです!」
黄昏の館。フィンは、報告を読んでいた。その隣には、リヴェリアとガレスがいる。
「……妙だね」
フィンが呟いた。リヴェリアが尋ねる。
「何がだ?」
「目撃者の証言だよ」
フィンは書類を指差した。
「黒い騎士は、魔法を詠唱していない」
「……無詠唱魔法か?」
「それだけなら、まだ説明できる」
フィンは続けた。
「問題は、恐怖によって周囲の者が動けなくなったことだ」
ガレスが腕を組む。
「殺気じゃろう?」
「違う」
フィンは首を横に振った。
「証言では、敵意を向けられていない者まで、同じ恐怖を感じている」
リヴェリアの表情が変わった。
「……精神干渉か」
「可能性はある」
「でも、もっと気になることがある」
「何だ?」
「その騎士が、冒険者を命令だけで従わせたことだ」
フィンは静かに言った。
「もしそれが事実なら、ステイタスによる身体能力の差だけでは説明できない」
リヴェリアは窓の外を見た。黒い塔が見える。
「……あの男の配下か」
「おそらくね」
フィンは答えた。
「そして、問題はまだある」
「……何だ?」
「黒い騎士は、一人しか確認されていない」
ガレスが眉をひそめた。
「それがどうした?」
フィンは静かに答えた。
「黒い塔には、まだ何人いるのか分からない」
*
バラド=ドゥーア。地下の大広間。連れ去られた冒険者は、石床に跪いていた。その周囲には、九つの黒い影が立っている。彼は震えていた。呼吸すら苦しい。目の前の存在が何なのか、理解できなかった。ただ一つ分かることがある。ここにいるものは、人間ではない。そして、神でもない。
「……お願いだ」
冒険者は呟いた。
「……助けてくれ」
九つの影は、何も答えなかった。やがて、巨大な扉が開いた。足音。重い。規則正しい。そして、広間全体が、その足音に従って沈黙した。黒い甲冑。巨大な体躯。燃える眼。サウロン。第二の冥王。黒曜帝国皇帝。彼が現れた瞬間。九人の指輪の幽鬼が、一斉に膝をついた。
「……我が主」
アングマールの魔王が頭を垂れる。サウロンは、冒険者を見下ろした。
「……お前か」
冒険者は顔を上げられなかった。
「私の臣民を傷つけた者は」
「……は、はい」
「私の紋章を踏みにじった者は」
「……はい」
サウロンは沈黙した。そして、静かに尋ねた。
「なぜだ」
冒険者は震えながら答えた。
「……む、むかついて……」
「それだけか」
「……はい」
サウロンは、しばらく彼を見つめていた。そして、低く呟いた。
「……くだらぬ」
その言葉には、怒りすらなかった。
「私の臣民に危害を加えた理由が、気分か」
冒険者は涙を流した。
「……すみませんでした」
サウロンは答えた。
「謝罪は、被害者に対して行え」
そして、アングマールの魔王へ視線を向けた。
「ギルドへ通知せよ」
「御意」
「犯人を拘束したこと。被害者への賠償を要求すること。そして、帝国臣民に対する暴行を容認しないこと」
魔王は頭を垂れた。
「仰せのままに」
サウロンは、冒険者を見下ろした。
「お前の処遇は、正式な手続きを経て決定する」
冒険者は、かすれた声で尋ねた。
「……こ、殺さないんですか?」
サウロンは答えた。
「殺す価値もない」
その言葉に、冒険者は崩れ落ちた。だが、サウロンは続けた。
「ただし、賠償を拒み、再び帝国に敵対するならば、話は別だ」
燃える眼が、彼を捉えた。
「その時は、死よりも重い代償を支払うことになる」
冒険者は、声も出せずに頷いた。
*
ギルド本部。ウラノスは、黒い塔から届いた正式通知を読んでいた。その傍らには、フェルズがいる。
「……ナズグル」
フェルズが呟いた。
「聞いたことのない名称です」
ウラノスは答えた。
「私も知らぬ」
「しかし、目撃情報は一致しています」
フェルズは続けた。
「黒い騎士。顔のない存在。周囲の者に強烈な恐怖を与え、冒険者を抵抗不能にした」
「……神の権能か」
「いいえ」
フェルズは首を横に振った。
「少なくとも、私が知る神々の権能とは異なります」
ウラノスは目を閉じた。
「……あの男は、何者なのだ」
フェルズは答えられなかった。しばらくして、ウラノスが尋ねた。
「神威を感じたか」
「いいえ」
「ならば、神ではないのか」
「断定できません」
フェルズは慎重に答えた。
「ただ、彼の配下が神威を発することなく、あれほどの恐怖を与えたことは確かです」
ウラノスは沈黙した。そして、静かに呟いた。
「……神々の知らぬ体系が、存在するということか」
「その可能性が高いでしょう」
*
三日後。バラド=ドゥーア。ギルドの代表者立ち会いのもと、冒険者の処遇が決定された。被害者への治療費。慰謝料。帝国紋章の破損に対する賠償。そして、正式な謝罪。冒険者は、すべてを受け入れた。だが、サウロンは最後に一つの条件を追加した。
「……今後、帝国の臣民に対する暴行を行わぬこと」
冒険者は必死に頷いた。
「はい! 絶対に!」
「その誓約を、書面に記せ」
冒険者は震える手で署名した。サウロンは書類を確認した。そして、静かに言った。
「……よい」
冒険者は安堵した。だが、その瞬間。サウロンの指先から、微かな黒い光が走った。書類に刻まれた文字が、一瞬だけ輝く。冒険者は気づかなかった。しかし、フェルズは見逃さなかった。
「……今のは?」
サウロンは答えた。
「誓約の確認だ」
「……確認?」
「契約内容を、当事者の意思と結びつけた」
フェルズは眉をひそめた。
「それは、魔法ですか」
「お前たちの言葉で呼ぶならば、そうだろう」
サウロンは答えた。
「だが、私にとっては古い技術だ」
フェルズは沈黙した。
「……どれほど古いのですか」
サウロンは、しばらく彼を見つめた。そして、静かに答えた。
「お前たちの都市が生まれるより、遥か以前からだ」
その言葉に、フェルズは息を呑んだ。サウロンは続けた。
「私は、かつて世界が若かった頃、物質に意思を刻む術を学んだ」
「……世界が若かった頃?」
「そうだ」
冥王は、ゆっくりと立ち上がった。
「そして、その術によって王たちを支配した」
フェルズは、初めて理解した。目の前の存在は、単なる強大な魔術師ではない。彼には、この世界の神々すら知らない歴史がある。そして、その歴史の中で、数多くの王国を滅ぼしてきたのだ。
*
その夜。オラリオの外。黒曜帝国の領土へ続く街道。そこには、巨大な軍勢が行軍していた。黒い甲冑。銀の紋章。そして、整然と並ぶ軍旗。数千の兵士。重装歩兵。騎兵。魔術師。さらに、その後方には巨大な影があった。人間より遥かに大きな体躯。炎を宿す瞳。そして、鞭と剣を携えた存在。バルログ。モルゴスの時代より伝わる、炎と影の悪霊。
それが、黒曜帝国の軍勢とともに進んでいた。軍の先頭には、一人の将軍が立っている。黒い甲冑。長大な剣。そして、帝国の紋章。彼は、遠くに見えるオラリオの城壁を見つめた。
「……陛下より、命令が下った」
副官が尋ねる。
「進軍ですか」
将軍は頷いた。
「帝国臣民に対する暴行事件を受け、在外臣民保護のための警備部隊を派遣する」
「……オラリオへ?」
「そうだ」
副官は息を呑んだ。
「しかし、ギルドとの協議は……」
将軍は答えた。
「既に始まっている」
そして、静かに続けた。
「我々は、戦争をしに行くのではない」
彼は軍勢を振り返った。
「ただ、皇帝陛下の臣民を守るだけだ」
その背後で、バルログの炎が揺らめいた。
*
バラド=ドゥーア。最上層。サウロンは、遠くの街道を見下ろしていた。帝国の軍勢。黒い旗。そして、炎の影。それらは、彼の意思によって動いている。数千年前。彼はこの世界に現れた。そして、帝国を築いた。神々の都市とは異なる秩序。神の恩恵に依存しない軍事力。古代の魔術。そして、力の指輪によって結びつけられた支配構造。黒曜帝国。
それは、単なる国家ではない。中つ国の冥王が、別世界で再び築き上げた支配の体系だった。サウロンは、静かに呟いた。
「……ようやく、思い出す時が来たか」
彼の手には、一つの指輪があった。黄金。滑らかな表面。そして、炎の中でのみ現れる文字。かつて、滅びの山で鍛えられた指輪。唯一の指輪。その内側には、彼自身の力が宿っている。サウロンは、それを指にはめた。瞬間。塔の奥深くで、九つの影が一斉に跪いた。遠く離れた帝国の各地で、力の指輪を持つ者たちが、主の意思を感じ取った。
そして、黒曜帝国の軍勢が、歩みを進める。冥王は、静かに宣言した。
「……この都市の神々に教えてやろう」
燃える眼が、オラリオを見下ろした。
「王とは何か」
「支配とは何か」
「そして、神を名乗ることが、何の保証にもならぬということを」
黒い塔の頂上。巨大な炎の眼が、夜空を赤く染めた。その光を見上げた者たちは、理由の分からぬ恐怖を覚えた。冒険者たち。商人たち。神々。誰もが、その光を見つめていた。そして、オラリオの歴史に、新たな時代が始まろうとしていた。それは、神々の時代ではない。冥王の時代だった。