「それで、あんたは何が欲しいの?」
ヘファイストスは、目の前に座る男へ尋ねた。黒衣に身を包んだ長身の男。黒曜帝国の皇帝にして、古代より存在する冥王。サウロン。彼は今、ヘファイストス・ファミリアの本拠地にある応接室で、出された紅茶を飲んでいた。
「アダマンタイト、オリハルコン、それからダンジョン産の希少金属を一通りだな」
「……ずいぶん欲張るじゃない」
「もちろん、相応の対価は払う」
「お金なら腐るほど持ってそうね」
「まあな」
サウロンは平然と頷いた。実際、黒曜帝国の国庫には莫大な財貨が蓄えられている。もっとも、それは国家の財産であって、皇帝個人の財布ではない。両者を混同するほど、彼は愚かではなかった。とはいえ、数千年にわたって蓄積した私財だけでも、そこらの国家予算を軽く上回る。金銭的な問題など、存在しないに等しかった。
「それで?」
ヘファイストスが腕を組む。
「そんな希少金属を集めて、何を作るつもり?」
「指輪だ」
「……指輪?」
「ああ」
サウロンは右手を持ち上げた。中指には、黄金の指輪が輝いている。ヘファイストスの視線が、自然とそこへ向かった。そして、固まった。
「……ちょっと待ちなさい」
「何だ?」
「その指輪」
「ああ、これか」
「見せて」
「断る」
即答だった。ヘファイストスは眉をひそめた。
「……減るもんじゃないでしょう?」
「減る可能性がある」
「どういう意味よ」
「これには私の力の相当部分を込めてある。私以外の者が触れれば、どうなるか分からん」
それは誇張ではなかった。一つの指輪。すべての力の指輪を統べる、至高の指輪。その製作にあたり、サウロンは自らの霊的な力の一部を、指輪そのものへ注ぎ込んでいる。それゆえに、指輪は彼の力を増幅し、他の指輪を支配する。同時に、それは彼自身の存在と深く結びついていた。
「……なるほどね」
ヘファイストスは、しばらく指輪を見つめた。
「つまり、それが例の……」
「そうだ」
「一つの指輪だ」
沈黙が落ちた。
「……本当に実在したのね」
「伝説だと思っていたか?」
「実物を見るまでは、ね」
彼女は椅子に深く座り直した。
「十九の力の指輪。そして、それらを統べる一つの指輪」
「ああ」
「エルフに三つ、ドワーフに七つ、人間に九つ」
「よく知っているな」
「鍛冶の神だもの。古代の伝説的な工芸品については、それなりに調べているわ」
ヘファイストスは苦笑した。
「ただ、正直なところ、半分は作り話だと思っていた」
「無理もない」
サウロンは紅茶を飲んだ。
「随分と昔の話だからな」
「……それで、今度は何を作るつもりなの?」
「新しい指輪だ」
「二十一番目?」
「そうなるな」
「……あんた、また世界の歴史を変えるつもり?」
「指輪を一つ作るだけだぞ?」
「その指輪一つで、国が興り、滅びることもあるでしょうが」
「使い方次第だな」
「……まったく」
ヘファイストスは額を押さえた。この男にとって、歴史に名を残す神器の製作は、趣味の延長でしかないらしい。それが恐ろしい。そして、鍛冶の神としては、どうしようもなく興味をそそられた。
「……いいわ」
彼女は言った。
「材料は用意する。ただし条件がある」
「聞こう」
「製作に立ち会わせなさい」
「……構わん」
「本当!?」
「ああ。ただし、私の許可なく作業へ干渉するな。それから、知り得た技術を無断で他者に教えるな」
「分かったわ」
「契約書を作ろう」
「……随分と現実的ね」
「約束というのは、後で揉めないために明文化するものだ」
「気に入ったわ、あんた」
「それは結構」
こうして、冥王と鍛冶の神の共同研究が始まった。
*
同じ頃。オラリオの一角にある神殿では、数柱の神々が集まっていた。ヘルメス。ロキ。ガネーシャ。そして、ギルドを通じて参加したウラノス。議題は一つ。冥王サウロンの来訪について。
「……で?」
ロキが椅子にもたれかかった。
「そのサウロンっちゅう奴、そんなにヤバいん?」
ヘルメスは苦笑した。
「少なくとも、ただの人間ではないね」
「そんなん分かっとるわ」
「古代から生き続けている。黒曜帝国の皇帝で、九人の不死の王を従えている。しかも、神の恩恵を受けていない」
「……ふうん」
「面白そうやん」
ウラノスが口を開いた。
「興味本位で接触することは勧めぬ」
「何でや?」
「彼は、神々の庇護を必要としない」
「そら、強い奴ならそういうのもおるやろ」
「違う」
ウラノスの声が低くなった。
「彼は、神々の権威そのものを必要としていないのだ」
ロキは眉をひそめた。
「……どういう意味や?」
「彼にとって、神々は支配者でも、絶対者でもない。ただの異なる種族にすぎぬ」
「……は?」
「神だからといって敬意を払うこともなければ、神だからといって恐れることもない」
ヘルメスが肩をすくめた。
「まあ、彼自身が神に近い存在だという話もあるからね」
「神に近い?」
「何やそれ。神の真似事でもしとるんか?」
ウラノスは、しばらく沈黙した。そして、静かに告げた。
「……かつて、一柱の神が彼を侮辱した」
ロキの笑みが薄くなる。
「神は、冥王に跪くよう命じた」
「……それで?」
「冥王は拒絶した」
「まあ、そうなるわな」
「神は怒り、神威を解き放った」
その言葉に、ヘルメスの表情が変わった。
「……ウラノス様」
「そして」
ウラノスは続けた。
「その神は、二度と天界へ戻らなかった」
ロキは、ゆっくりと身体を起こした。
「……何やて?」
「神格を破壊され、存在そのものを消滅させられた」
「……冗談やろ」
「事実だ」
ウラノスは目を閉じた。
「私も、その事件を天界から見ていた」
誰も言葉を発しなかった。神々にとって、下界での死は天界への帰還を意味する。それは絶対的な法則だった。少なくとも、彼らはそう信じていた。だが、冥王はその法則を覆した。
「……どうやって?」
ロキが尋ねた。ウラノスは答えた。
「分からぬ」
「は?」
「彼は神の肉体を破壊したのではない。神格そのものへ干渉したのだ」
「……そんなことが」
「あり得ぬ、と言いたいのだろう」
「私もそう思っていた」
そして、最後に付け加えた。
「だからこそ、彼を侮るな」
*
数日後。ヘファイストス・ファミリアの地下工房。サウロンは、用意された金属を眺めていた。
「……なるほど」
アダマンタイト。オリハルコン。そして、ダンジョン深層から採掘された希少鉱石。いずれも興味深い性質を持っている。
「どう?」
ヘファイストスが尋ねた。
「気に入った?」
「ああ。特にこのオリハルコンは面白い」
サウロンは金属片を手に取った。
「魔力の伝導性が高い。それでいて、霊的な力に対しても安定している」
「霊的な力?」
「私の使う力だ」
「……なるほど」
ヘファイストスは興味深そうに頷いた。
「それで、どう加工するの?」
「見ていろ」
サウロンは炉の前に立った。だが、火を入れない。
「……あれ?」
ヘファイストスが首を傾げた。
「炉は使わないの?」
「必要ない」
サウロンは右手を掲げた。黄金の指輪が輝く。次の瞬間。空間そのものが熱を帯びた。
「――っ!」
ヘファイストスが息を呑む。炎が生まれた。だが、それは通常の炎ではない。赤でも、青でもない。黄金に輝く、異質な炎。物質を燃やすための炎ではなく、物質の在り方そのものへ働きかける力。サウロンは金属を宙へ浮かべた。アダマンタイト。オリハルコン。希少鉱石。それらが炎の中で溶け合い、混ざり合い、再構成されていく。
「……嘘」
ヘファイストスは呟いた。神である彼女ですら、下界では神の力を封じている。だが、目の前の男は違う。神の恩恵も、魔法も、魔道具も使わず。ただ己の意志によって、金属を支配していた。
「……これが」
彼女は震える声で言った。
「冥王の鍛冶……」
サウロンは答えなかった。その意識は、すでに製作へ集中していた。金属の形が変わる。輪となり、細かな紋様が刻まれる。そして、その内部へ、目に見えない何かが流れ込んでいく。力。意志。そして、法則。
「……完成だ」
サウロンは、宙に浮かぶ指輪を手に取った。銀色の指輪。その表面には、青白い光が走っている。
「これが……?」
「二十一番目の指輪だ」
ヘファイストスは、恐る恐る尋ねた。
「どんな能力があるの?」
「魔力の蓄積と増幅。それから、使用者の肉体保護だな」
「……それだけ?」
「それだけだ」
「……本当に?」
「もちろん、私が必要と判断すれば、機能を停止させることもできる」
ヘファイストスの表情が変わった。
「……やっぱり」
「何だ?」
「その指輪にも、支配機能を組み込んでいるのね」
「ああ」
「……なぜ?」
サウロンは、不思議そうに首を傾げた。
「なぜ、とは?」
「どうして、そんな機能が必要なの?」
そして答えた。
「私が作ったものだからだ」
「……それだけ?」
「それだけだ」
サウロンは続けた。
「私は、自分の作ったものに責任を持つ。指輪を与えた者が、その力で何をするかは本人の自由だ。だが、私に敵対するために使うなら話は別だ」
「……なるほど」
「それに、私の技術を利用して世界を滅ぼそうとする者が現れたら、止める必要もあるだろう」
「……合理的ね」
「当然だ」
サウロンは指輪を机に置いた。
「さて」
「何?」
「次は、これを誰に与えるかだな」
ヘファイストスは、嫌な予感がした。
「……まさか」
「せっかくオラリオに来たんだ。面白い冒険者にでも渡してみるか」
「……あんたねえ!」
ヘファイストスは頭を抱えた。
「そんな気軽に、伝説級の神器を配るんじゃないわよ!」
「気軽ではないぞ」
「どこがよ!」
「ちゃんと相手は選ぶ」
「そういう問題じゃないでしょうが!」
サウロンは、実に楽しそうだった。
*
翌日。サウロンは、街を歩いていた。目的は、指輪の受け取り手を探すこと。もっとも、誰でもいいわけではない。強さ。才能。意志。そして、何より。自分の力を何のために使うのか。それを見極める必要があった。
「……ふむ」
彼は広場で足を止めた。そこには、一人の少女がいた。金色の髪。金色の瞳。腰には細身の剣。周囲の冒険者たちが、彼女を見て囁いている。
「剣姫だ」
「ロキ・ファミリアのアイズ・ヴァレンシュタイン……」
「相変わらず綺麗だな」
サウロンは少女を眺めた。
「……なるほど」
興味深い。その肉体には、神の恩恵による強化が施されている。だが、それだけではない。魂の奥底に、強烈な執念がある。何かを求めている。何かを憎んでいる。そして、そのために自分自身を削り続けている。
「……面白いな」
サウロンは呟いた。その声が聞こえたのか。少女が振り向いた。金色の瞳が、サウロンを捉える。
「……あなた」
「何だ?」
「……強い?」
「まあ、それなりにな」
少女は、じっと彼を見つめた。
「……戦って」
「断る」
即答だった。
「……え?」
「私は今、休暇中だ」
「……でも」
「戦いたいなら、他を当たれ」
サウロンは歩き出した。少女は、しばらく呆然としていた。そして、小さく呟いた。
「……変な人」
*
その夜。ロキ・ファミリアの本拠地。黄昏の館。アイズは、ロキに昼間の出来事を報告していた。
「……黒い服の男?」
ロキが尋ねた。
「うん」
「名前は?」
「……聞いてない」
「……そうか」
「でも、強かった」
「どれくらい?」
アイズは、少し考えた。そして答えた。
「……分からない」
ロキの表情が変わった。
「……分からん?」
「うん」
アイズは頷いた。
「強さが、見えなかった」
「……ほう」
「でも、すごく強いと思う」
そして、ふと思い出した。ウラノスの言葉。冥王サウロン。神々の恩恵を必要としない、古代の存在。
「……まさかな」
ロキは呟いた。だが、その予感は的中していた。
*
同じ頃。サウロンは宿の一室で、完成した指輪を眺めていた。
「……さて」
誰に渡すか。剣姫。あの少女は、確かに興味深い。だが、少し危うい。強さへの執着が強すぎる。指輪を与えれば、さらに力を求めるだろう。それが良い方向に働くかどうかは、分からない。
「……やめておくか」
サウロンは指輪を箱へ戻した。
「もう少し、面白い奴を探そう」
そのとき。窓の外から、騒ぎ声が聞こえた。
「待て!」
「泥棒だ!」
サウロンは窓を開けた。路地を、一人の少年が走っている。白い髪。赤い瞳。その後ろを、数人の男たちが追いかけていた。
「……ん?」
少年の魂は、まだ未熟だった。だが。
「……ほう」
そこには、奇妙な可能性があった。何者にも染まっていない、純粋な意志。そして、異常なほどの成長の余地。
「……面白い」
サウロンは微笑んだ。
「少し、見てみるか」
冥王は、静かに立ち上がった。その右手には、一つの黄金の指輪。すべての指輪を統べる、唯一の指輪が輝いていた。