迷宮都市オラリオ。その北部に位置する、ロキ・ファミリアの本拠地――黄昏の館。執務室には三人の人物が集まっていた。小人族の英雄、フィン・ディムナ。ハイエルフの魔導士、リヴェリア・リヨス・アールヴ。そして、ドワーフの戦士、ガレス・ランドロック。いずれもオラリオ最高峰の冒険者であり、ロキ・ファミリアの幹部である。
その三人が、今、一枚の報告書を前に沈黙していた。
「……間違いないのかい?」
フィンが尋ねた。リヴェリアは頷く。
「ああ。ヘファイストス・ファミリアに確認した。本人であることは確実らしい」
「冥王サウロン、か」
ガレスが低く唸った。
「まさか、あの御仁がオラリオに来るとはのう」
フィンは報告書に目を落とした。黒曜帝国。大陸東方に広大な版図を有する古代国家。その歴史は、神々が下界へ降臨する以前にまで遡る。幾度も王朝が興亡し、数え切れない国家が滅び去る中、ただ一度も皇帝が交代していない国。永遠の皇帝。冥王サウロン。
「……正直、信じ難い話だね」
フィンは苦笑した。
「神の恩恵もなく数千年を生き、今なお巨大国家を統治しているなんて」
「それだけではない」
リヴェリアが言った。
「古いエルフの伝承には、彼についての記述がある」
「どんな?」
「三つの指輪を鍛え、エルフの王たちに授けた者」
フィンの表情が変わった。
「……力の指輪?」
「ああ」
「我らエルフに伝わる、古代の秘宝だ」
「……実在するのかい?」
「少なくとも、三つのうち一つは今もエルフの手にあると伝えられている」
「なるほど」
フィンは顎に手を当てた。強大な力を持つ指輪。神の恩恵とは異なる体系の力。それを自在に製作できる存在。もしも、その技術をロキ・ファミリアが利用できれば。
「……遠征の戦力を大幅に増強できるかもしれない」
フィンは呟いた。ガレスが眉をひそめる。
「おい、フィン」
「何だい?」
「まさか、あの御仁に指輪を作らせるつもりか?」
「可能性を検討しているだけさ」
「やめておけ」
ガレスは即答した。
「ドワーフの間では、力の指輪は軽々しく求めてよいものではないと教えられておる」
「理由は?」
「代償があるからじゃ」
リヴェリアも頷いた。
「エルフの伝承にも同じ記述がある。指輪は力を与えるが、同時に製作者との繋がりを生む」
フィンは考え込んだ。
「……つまり、指輪の所有者はサウロンの影響下に置かれる可能性がある」
「そういうことだ」
「なるほどね」
「それなら、なおさら一度話を聞いてみたい」
リヴェリアが目を細める。
「フィン」
「分かっているよ。相手が何者かは理解している」
フィンは椅子から立ち上がった。
「ただ、僕たちにはダンジョン攻略という目標がある。そのために利用できる可能性があるなら、調べる価値はある」
「……利用、か」
ガレスが呟いた。
「その言い方は、本人の前ではせん方がよいぞ」
フィンは肩をすくめた。
「もちろんさ」
だが、この時点で。フィンは一つ、根本的な認識を誤っていた。彼はサウロンを、交渉可能な強大な存在として捉えていた。それ自体は間違っていない。問題は、交渉の前提だった。ロキ・ファミリアが望むものを、相手も何らかの利益と引き換えに提供してくれるはずだ。その考えが、そもそも通用しない可能性を、十分には考慮していなかったのである。
*
一方、その頃。サウロンは酒場にいた。
「……うむ」
目の前には、香ばしく焼かれた肉料理。そして、よく冷えた酒。
「悪くない」
サウロンは満足げに頷いた。黒曜帝国の宮廷料理は、当然ながら非常に洗練されている。だが、こうした大衆酒場の料理には、また別の魅力があった。何より、気楽でいい。
「お客さん、追加はいかがですか?」
「では、同じものをもう一皿」
「はーい!」
店員が元気よく返事をする。サウロンは酒を飲みながら、周囲を見渡した。冒険者たちが騒いでいる。今日の戦果。仲間との喧嘩。ダンジョンで遭遇した魔物。そして、神々に関する噂話。実に平和な光景だった。
「……ふむ」
彼はふと、窓の外へ目を向けた。三人の人物が近づいてくる。小人族。エルフ。ドワーフ。いずれも相当な実力者だ。
「……なるほど」
「客か」
ほどなくして、三人が店内に入ってきた。先頭に立つ小人族の男が、サウロンへ歩み寄る。
「失礼。少し時間をいただけるかな?」
「誰だ?」
「ロキ・ファミリアの団長、フィン・ディムナです」
「……ああ」
「小人族の英雄か」
フィンは微笑んだ。
「ご存じでしたか」
「名前くらいはな」
「光栄です」
「それで、何の用だ?」
フィンは一瞬、周囲を見渡した。
「できれば、少し静かな場所でお話しできればと思うのですが」
「断る」
「……え?」
「ここで話せ」
サウロンは肉を切り分けた。
「私は食事中だ。お前たちの都合で場所を移すつもりはない」
フィンは一瞬、言葉を失った。リヴェリアが小さく息を吐く。ガレスは、どこか面白そうに口元を緩めていた。
「……分かりました」
フィンは気を取り直した。
「では、こちらで」
「座るなら、店員に注文してからにしろ」
「……はい?」
「客席を使うなら、店に金を落とすのが礼儀だろう」
フィンは瞬きをした。そして、苦笑した。
「……なるほど。おっしゃる通りですね」
三人は注文を済ませ、席についた。サウロンは満足げに頷いた。
「それで?」
*
「単刀直入に伺います」
フィンは言った。
「あなたが製作されたという、力の指輪についてです」
「ほう」
サウロンは酒杯を置いた。
「それがどうした?」
「我々ロキ・ファミリアは、ダンジョンの深層攻略を目指しています」
「知っている」
「そのためには、さらなる戦力の増強が必要です」
「それも理解できる」
「そこで、あなたの指輪を――」
「断る」
フィンの言葉が止まった。
「……まだ、条件を提示していませんが」
「聞く必要がない」
サウロンは平然と答えた。
「私の指輪を、お前たちの戦力増強に利用したいのだろう?」
「……はい」
「ならば断る」
「理由を伺っても?」
「お前たちに与える理由がない」
即答だった。フィンは沈黙した。サウロンは続けた。
「私が指輪を与えた者たちは、いずれも私自身が選んだ者だ」
「……なるほど」
「彼らには、それぞれ与えるだけの理由があった」
「我々にはない、と?」
「現時点ではな」
「……対価を提示しても?」
「金か?」
「それ以外にも、情報や協力関係など」
「不要だ」
サウロンは酒を飲んだ。
「金ならある。情報も、自分で調べればいい。協力が必要なら、帝国の臣下に命じれば済む」
「……では、何を望まれますか?」
「なぜ、私がお前に何かを望んでいると思う?」
フィンは答えられなかった。
「交渉とは、双方に利益があるから成立するものだ」
サウロンは静かに言った。
「お前たちには指輪が必要なのだろう。だが、私にはお前たちが必要ない」
「……」
「それだけの話だ」
「……確かに、その通りですね」
「理解したなら結構」
サウロンは再び肉を切り分けた。だが、フィンはまだ席を立たなかった。
「……もう一つ、伺っても?」
「何だ?」
「指輪の力は、神の恩恵を超えるものなのでしょうか?」
「比較の仕方によるな」
「と、言いますと?」
「恩恵は、所有者の経験や成長に応じて能力を高める仕組みだろう?」
「はい」
「指輪は違う。指輪そのものに力が宿っている」
「……なるほど」
「未熟な者が持っても、一定の力を発揮できる。逆に、優れた者が持てば、さらに大きな力を引き出せる」
フィンの目が細くなった。
「……非常に興味深いですね」
「だろうな」
「もし、それがあれば――」
「フィン」
サウロンの声が変わった。
「はい?」
「お前は先ほど、私の指輪を戦力増強に使いたいと言ったな」
「……はい」
「それ自体は理解できる。だが、一つ聞こう」
サウロンは、まっすぐフィンを見た。
「お前は、私の指輪を何だと思っている?」
「……何、と申しますと?」
「武器か? 道具か? あるいは、便利な魔道具か?」
フィンは答えを探した。
「……強大な力を秘めた、伝説の工芸品だと認識しています」
「そうか」
「ならば、もう一つ教えてやろう」
右手の指輪が、わずかに輝いた。
「私の指輪には、私の意志が宿っている」
「……!」
「それを身につけるということは、私との繋がりを受け入れるということだ」
リヴェリアの表情が強張った。ガレスも目を細める。サウロンは続けた。
「私は指輪の所有者を知覚できる。必要ならば、その力を封じることもできる」
「……支配も?」
フィンが尋ねた。サウロンは微笑んだ。
「できる」
周囲の喧騒が、遠く感じられた。
「……それを、隠さないのですね」
「隠す必要があるか?」
「普通なら、警戒されることを恐れるでしょう」
「警戒するなら、受け取らなければいい」
サウロンは平然と答えた。
「私は誰にも、指輪を受け取るよう強制していない」
「……なるほど」
だが、その内心では、別の計算が始まっていた。力の指輪。圧倒的な力を与える代わりに、製作者の干渉を受ける可能性がある。それは、単なる武器ではない。戦力増強と引き換えに、組織の独立性を損なう危険がある。仮に指輪を手に入れたとしても、ロキ・ファミリアにとって本当に利益になるのか。フィンは、初めてその問題を真剣に考えた。
*
「……もう一つ、質問してもよろしいでしょうか」
フィンが言った。
「聞くだけならな」
「あなたは、何を基準に指輪の所有者を選ぶのですか?」
「場合による」
「……場合?」
「何を期待するかによって、必要な資質は異なる」
サウロンは答えた。
「例えば、国を任せるなら統治能力が必要だ。軍を率いさせるなら、戦略眼と決断力が必要になる」
「……なるほど」
「鍛冶を任せるなら技術と探究心。知識を求めるなら知性と忍耐だ」
「では、英雄には?」
「……英雄か」
そして、フィンを見た。
「お前は、英雄になりたいのだったな」
フィンの表情が変わった。
「……ご存じでしたか」
「小人族の名誉を取り戻すため、英雄となることを目指している。そう聞いている」
「……はい」
「立派な目標だ」
フィンは、わずかに表情を和らげた。だが、次の言葉で固まった。
「ただし、私には関係ない」
「……え?」
「お前が英雄になろうと、王になろうと、私には何の利益もない」
「……」
「もちろん、目標を持つこと自体は悪くない。だが、それを理由に他人が協力してくれると思うな」
フィンは沈黙した。サウロンは続けた。
「お前が小人族のために英雄になりたいというのは、お前自身の願望だ」
「……はい」
「ならば、その責任もお前自身が負え」
「……」
「他人の力を借りるなとは言わん。だが、他人が協力しないことを不当だと思うな」
フィンは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……肝に銘じます」
「結構」
だが、話はまだ終わらなかった。
「ところで、フィン」
「はい?」
「お前は、指輪の力を得たら何をする?」
「……ダンジョンの攻略を進めます」
「その先は?」
「……その先?」
「ダンジョンを攻略した後だ」
「……小人族の地位向上に尽力するでしょう」
「具体的には?」
「……それは」
フィンは言葉に詰まった。サウロンは静かに言った。
「目標はある。だが、その目標を達成した後の構想が曖昧だな」
「……」
「英雄になれば種族の地位が上がる。そう考えるのは自由だ」
サウロンは酒杯を置いた。
「だが、英雄の名声は制度ではない」
フィンが顔を上げた。
「一人の英雄が現れたところで、その種族の社会的地位が永続的に向上するとは限らん」
「……」
「必要なのは、教育、経済、軍事、政治的な影響力。そして、それらを維持する仕組みだ」
リヴェリアが、わずかに目を見開いた。サウロンは続ける。
「お前が英雄として死んだ後、小人族の地位が元に戻るなら、それは一時的な名声にすぎん」
「……なるほど」
「英雄になることは手段だろう。目的と取り違えるな」
フィンは、深く考え込んだ。彼にとって英雄とは、種族の誇りを取り戻すための象徴だった。だが、目の前の男は、その象徴だけでは不十分だと言っている。数千年にわたり国家を統治してきた者の言葉。それには、確かな重みがあった。
「……勉強になります」
フィンは静かに言った。サウロンは肩をすくめた。
「別に説教をするつもりはなかったがな」
「いえ。貴重なお話でした」
「そうか」
サウロンは最後の肉を口に運んだ。
「ならば、今日の話はこれで終わりだ」
「お時間をいただき、ありがとうございました」
三人は席を立った。そして、店を出ようとした。そのとき。
「……一つ、忠告しておこう」
サウロンの声が響いた。フィンが振り返る。
「何でしょう?」
「私の指輪について、余計な調査をするなとは言わん」
「……はい」
「だが、私の臣下や指輪の所有者に、無断で接触して何かを企むなら話は別だ」
サウロンは微笑んだ。
「私は、自分の所有物や臣下に手を出されるのが嫌いでな」
「……承知しました」
「結構」
サウロンは酒杯を掲げた。
「では、よい一日を」
*
帰路。フィンは、しばらく無言だった。リヴェリアが口を開く。
「……どう思った?」
「難しい相手だね」
フィンは苦笑した。
「こちらの思惑を、最初から理解していた」
「当然じゃろう」
ガレスが言った。
「何千年も生きた王じゃぞ。儂らのような若造の考えることなど、見透かされても不思議ではない」
「……そうだね」
「ただ、収穫はあった」
「ほう?」
「力の指輪の性質が分かった。少なくとも、我々が安易に手を出すべきものではない」
「それは同感だ」
リヴェリアが言った。
「特に、製作者による支配の可能性は看過できない」
「……うん」
フィンは考え込んだ。そして、ふと呟いた。
「……でも」
「何だ?」
「もし、支配機能のない指輪を作れるとしたら?」
リヴェリアの表情が変わった。
「フィン」
「分かっているよ」
フィンは苦笑した。
「今すぐどうこうするつもりはない」
だが、その目には、まだ計算の光が宿っていた。
*
一方。サウロンは、宿へ戻る道を歩いていた。
「……フィン・ディムナ、か」
悪くない男だった。知性があり、判断力もある。組織を率いる能力も、相応に高いのだろう。だが。
「……まだ若いな」
サウロンは呟いた。年齢の話ではない。視野の話だ。フィンは、自分の目的を達成するために、あらゆる可能性を検討する。それ自体は優秀な指揮官の資質だ。しかし、彼の思考はまだ、自分の目的を中心に回っている。相手にも独自の目的があり、そもそも交渉に応じる理由がない場合がある。その認識が、少し甘い。
「……まあ、今後どうなるかは本人次第だな」
サウロンは肩をすくめた。別に、フィンを教育する義理はない。彼が成長しようと、失敗しようと、サウロンには関係のないことだ。ただし。
「……支配機能のない指輪、ねえ」
フィンが最後に抱いた考え。それは、彼の表情から容易に読み取れた。
「……考えるだけなら自由だが」
右手の指輪が、わずかに輝いた。
「私の技術を盗もうとするなら、話は別だぞ」
サウロンは夜空を見上げた。オラリオの空には、無数の星が輝いている。
「……さて」
明日は、ダンジョンに潜ってみるか。この世界の魔物の発生源。神々が管理し、冒険者たちが挑み続ける巨大迷宮。その最深部には、何があるのか。少し興味が湧いてきた。
「……面白そうだ」
冥王は、静かに笑った。
*
黄昏の館。フィンは、自室の机に向かっていた。目の前には、今日の会談内容をまとめた報告書。力の指輪。神の恩恵とは異なる力。そして、冥王サウロン。
「……支配機能、か」
フィンは呟いた。それは、ロキ・ファミリアにとって看過できない危険だった。だが、同時に。もしも、その機能を取り除けるなら。もしも、同等の力を持つ指輪を独自に製作できるなら。ダンジョン攻略は、大きく前進する。
「……ヘファイストス・ファミリア」
フィンは、報告書の一角に目を落とした。サウロンは、ヘファイストスと共同研究を行っている。ならば、彼女を通じて技術を得られる可能性がある。もちろん、サウロン本人からは拒絶されている。だが、技術そのものを独自に研究することまで禁じられたわけではない。
「……一度、相談してみる価値はあるか」
フィンは、静かにペンを取った。そして、ヘファイストス・ファミリアへの面会依頼を書き始めた。その行動が、どのような結果を招くのか。彼は、まだ知らなかった。同時刻。ヘファイストス・ファミリアの地下工房。ヘファイストスは、サウロンから預かった指輪の設計図を眺めていた。ただし、それは完全な設計図ではない。金属の組成。加工工程。
魔力伝導の仕組み。そこまでは記されている。だが、最も重要な部分。霊的な力を物質へ定着させる技術については、意図的に省略されていた。
「……なるほどね」
ヘファイストスは苦笑した。
「ちゃんと線引きしてるわけだ」
サウロンは、最初からすべてを教えるつもりなどなかった。共同研究は、あくまで共同研究。技術の譲渡ではない。そして、何より。
「……あの男、絶対に分かってるわね」
ヘファイストスは呟いた。自分の技術が、どれほどの価値を持つのか。それを欲しがる者が、どれほど現れるのか。そして、その者たちが、どのような手段を取るのか。すべて理解したうえで、あえて一部の技術を公開している。
「……厄介な相手ね」
だが、その声には、どこか楽しげな響きがあった。鍛冶の神として。彼女は、あの男の技術をもっと知りたかった。たとえ、それが冥王の技であったとしても。その頃。オラリオの地下深く。ダンジョンのさらに奥。誰も到達したことのない深淵で。何かが、目を覚ました。それは、遥か昔に感じた気配を思い出していた。炎。影。鉄。
そして、世界そのものへ命令を下す、強大な意志。かつて、地上で数え切れないほどの魔物を焼き払った存在。冥王。サウロン。その気配が、再び迷宮都市に現れた。深淵の奥で、何かが蠢く。そして。ダンジョンは、冥王の帰還を知った。