迷宮都市オラリオ。ギルド本部。
「……はい?」
受付嬢エイナ・チュールは、目の前の男を見上げた。黒髪に金色の瞳。上質な黒衣を纏い、腰には一振りの長剣。そして右手には、黄金の指輪。男は至極当然といった様子で告げた。
「ダンジョンに潜りたい」
「……はい。冒険者登録ですね?」
「ああ」
「では、所属ファミリアを教えていただけますか?」
「ない」
「……え?」
「どこの神にも属していない」
エイナは瞬きをした。
「……申し訳ありませんが、冒険者登録には原則としてファミリアへの所属が必要になります」
「ほう」
男は興味深そうに頷いた。
「それはギルドの規則か?」
「はい。冒険者の身元や能力を把握し、安全を確保するための制度です」
「なるほど。合理的だな」
エイナは、少し安心した。どうやら話の通じる人物らしい。
「ですので、まずはファミリアを――」
「だが、私には必要ない」
「……はい?」
「私は神の恩恵を必要としない」
「そ、それは……」
エイナは困惑した。恩恵を受けずにダンジョンへ潜る。それ自体は、絶対に不可能というわけではない。だが、極めて危険だ。魔物に対抗するためには、神の恩恵による身体能力の強化が事実上不可欠である。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
「サウロン」
エイナの手が止まった。
「……サウロン、様?」
「ああ」
「……少々、お待ちください」
エイナは慌てて奥へ引っ込んだ。サウロンは、その背中を見送りながら小さく笑った。
「……さて」
どの程度、話が通じる組織なのか。少し楽しみだった。
*
数分後。サウロンは応接室へ案内されていた。向かいに座るのは、ギルドの上級職員。その顔には、明らかな緊張が浮かんでいる。
「……冥王サウロン陛下で、いらっしゃいますね」
「そうだ」
「このたびは、我がギルドへお越しいただき、誠にありがとうございます」
「挨拶はいい。ダンジョンに潜りたい」
「……承知しております」
職員は額の汗を拭った。
「ただ、現在の冒険者管理制度では、神の恩恵を持たない方の登録について、いくつか確認事項がございまして……」
「なるほど」
「では、確認しよう」
「……はい?」
「私がダンジョンに潜ることを、ギルドは禁じているのか?」
「い、いえ。正確には、ギルドの管理下にない方の入場を推奨しておりません」
「推奨していない、か」
サウロンは微笑んだ。
「ならば、禁止ではないな」
「……それは、そうですが」
「では問題ない」
「お、お待ちください!」
職員が慌てて立ち上がった。
「安全上の問題が――」
「私の安全か?」
「はい!」
「それなら心配する必要はない」
「……しかし」
サウロンは、静かに職員を見た。
「私がこの世界で何年生きているか、知っているか?」
「……数千年、と」
「その間、数え切れないほどの魔物と戦ってきた」
「……」
「少なくとも、自分の身を守る方法くらいは心得ている」
職員は黙った。それは、確かにそうなのだろう。だが、ギルドとしては、前例のない存在を無条件で認めるわけにもいかない。
「……少々、お時間をいただけますか」
「構わん」
「必要な手続きは踏もう」
職員は深々と頭を下げ、部屋を出ていった。その背中を見送りながら、サウロンは小さく呟いた。
「……官僚組織というのは、どこも似たようなものだな」
*
ギルド地下。祈祷の間。ウラノスは、フェルズから報告を受けていた。
「……冥王が、ダンジョンへの入場を希望しております」
「そうか」
「いかがいたしましょう」
ウラノスは、しばらく沈黙した。冥王サウロン。神々が下界に降臨する以前から存在する、古代の超越者。その力は、神の恩恵によって測れるものではない。そして、何より。かつて一柱の神を完全に滅ぼした存在。
「……拒絶する理由はない」
ウラノスは静かに告げた。
「しかし、ダンジョンが彼にどう反応するかは不明です」
「分かっている」
「万が一、迷宮そのものが暴走すれば……」
「それでも、彼を力ずくで止めることはできぬ」
ウラノスは目を閉じた。
「彼は、我らの管理する秩序の外にいる」
「……」
「そして、我らの権威に従う義務もない」
フェルズは沈黙した。ウラノスは続けた。
「ただし、一つだけ条件を提示せよ」
「条件、ですか?」
「ダンジョンの構造を、必要以上に破壊しないこと」
「……なるほど」
「彼が本気で力を振るえば、迷宮そのものに甚大な被害が及ぶ可能性がある」
「承知しました」
*
「……構造を破壊しないこと、か」
サウロンは、ギルドから提示された条件を読んでいた。
「まあ、構わん」
職員が安堵する。
「ありがとうございます」
「ただし、魔物が襲ってきた場合は、相応に対処するぞ」
「もちろんです」
「それから、私に危害を加えようとする者がいた場合も同様だ」
「……承知しました」
サウロンは書類に署名した。
「これでいいか?」
「はい。特例として、ダンジョンへの入場を許可いたします」
「結構」
こうして、冥王サウロンは、ギルド公認の特例入場者となった。その日の午後。サウロンは、バベルの地下へ続く階段を降りていた。周囲には、冒険者たちが行き交っている。剣士。魔導士。槍使い。重装の戦士。それぞれが装備を整え、迷宮へ挑んでいた。
「……ふむ」
サウロンは周囲を見渡した。
「なかなか壮観だな」
そして。一歩、ダンジョンへ足を踏み入れた。その瞬間。迷宮が震えた。
*
最初に異変に気づいたのは、深層で戦っていた冒険者たちだった。
「……何だ?」
足元が揺れる。壁が軋む。魔物たちが、突然動きを止めた。そして。一斉に、同じ方向を向いた。地上。いや。地上から降りてきた、何か。
「……おい」
冒険者の一人が呟いた。
「何が起きてるんだ?」
答える者はいなかった。第一階層。サウロンは、静かに立っていた。
「……ほう」
周囲の壁が脈動している。まるで、生き物の内臓のように。
「……なるほど」
彼は壁に手を当てた。その瞬間。何かが、彼の存在を認識した。敵。侵入者。異物。迷宮そのものから、明確な拒絶の意志が伝わってくる。
「……面白い」
「お前、意志があるのか」
壁が震えた。魔物が生まれる。一体。二体。十体。数十体。通常の第一階層では考えられない速度で、魔物が次々と出現していく。周囲の冒険者たちが悲鳴を上げた。
「何だこれ!?」
「モンスターが多すぎる!」
「逃げろ!」
サウロンは、その光景を眺めた。
「……なるほど」
どうやら、迷宮は自分を排除したいらしい。
「随分と歓迎してくれるじゃないか」
彼は右手を掲げた。黄金の指輪が輝く。そして。
「――伏せろ」
声が響いた。命令。それは魔法ではなかった。神の恩恵による技でもない。ただ、サウロンという存在が発した意志。その言葉に、魔物たちが反応した。一斉に動きを止める。そして、地面へと崩れ落ちた。
「……え?」
冒険者たちは、呆然とした。数十体の魔物が、何の抵抗もできずに倒れている。サウロンは、その光景を眺めた。
「……ふむ」
そして、少し首を傾げた。
「思ったより効くな」
*
だが、迷宮は諦めなかった。壁がさらに激しく脈動する。天井から、異様な音が響く。そして。新たな魔物が生まれた。通常の魔物とは異なる。黒い外皮。巨大な体躯。そして、異常な魔力。
「……ほう」
「これは、少し違うな」
魔物は咆哮した。周囲の冒険者たちが、恐怖に凍りつく。
「……何だ、あれ」
「見たことねえぞ……」
サウロンは、一歩前へ出た。
「さて」
魔物が突進する。巨大な爪が振り下ろされる。その瞬間。サウロンは、右手を軽く振った。魔物の身体が、空中で停止した。
「……ふむ」
彼は興味深そうに観察した。
「魔石を核にして、肉体を構成しているのか」
魔物は暴れた。だが、動けない。
「なるほど。実に面白い」
サウロンは指を鳴らした。次の瞬間。魔物の身体が、内側から崩壊した。黒い外皮が砕け、肉体が霧散する。そして、魔石だけが宙に残った。サウロンは、それを手に取った。
「……悪くない」
彼は微笑んだ。
「いい研究材料だ」
*
ギルド本部。
「第一階層で異常発生!」
「魔物の大量出現を確認!」
「冒険者の避難を急がせろ!」
職員たちが慌ただしく動き回っていた。エイナは、報告書を見つめていた。
「……まさか」
そこには、異常発生の時刻が記されていた。冥王サウロンがダンジョンへ入場した直後。偶然とは思えなかった。
「……どうなってるの」
エイナは呟いた。そのとき。新たな報告が届いた。
「異常発生、収束しました!」
「……え?」
「魔物はすべて討伐された模様です!」
「……誰が?」
職員は、困惑した表情で答えた。
「……サウロン陛下、です」
エイナは、ゆっくりと椅子に座った。
「……やっぱり」
*
第一階層。サウロンは、壁に手を当てていた。迷宮は、まだ震えている。だが、先ほどのような激しい反応はない。
「……なるほど」
彼は、静かに呟いた。
「お前は、私を知っているのか」
壁の奥から、何かが伝わってくる。憎悪。恐怖。そして、古い記憶。遥か昔。神々が下界に降臨する以前。魔物が地上を蹂躙していた時代。その魔物たちを、炎によって焼き払った存在。黒曜帝国の皇帝。冥王サウロン。迷宮は、その存在を覚えていた。
「……そうか」
「随分と根に持っているようだな」
壁が震える。
「まあ、無理もない」
彼は手を離した。
「私も、お前の魔物を随分と殺したからな」
そして、静かに告げた。
「だが、勘違いするな」
その声には、先ほどまでの軽さがなかった。
「私は今、お前を滅ぼしに来たわけではない」
迷宮が沈黙した。
「興味があるから来ただけだ」
サウロンは微笑んだ。
「だから、余計なことをしなければ、こちらも余計なことはしない」
一瞬の静寂。そして。迷宮の奥から、明確な敵意が返ってきた。
「……そうか」
右手の指輪が、赤く輝いた。
「ならば、覚えておけ」
空気が変わる。炎が生まれる。黒い炎。黄金の炎。そして、世界の根源へ働きかける、冥王の意志。
「私は、お前に入場の許可を求めた覚えはない」
壁が震えた。
「私がここにいるのは、私がそう望んだからだ」
その言葉は、迷宮の奥深くへと響いていった。
「お前が拒絶しようと、私には関係ない」
そして。
「次に邪魔をするなら、相応の代償を払ってもらう」
迷宮は沈黙した。
*
ギルド地下。ウラノスは、目を閉じていた。その表情は険しい。
「……やはり、こうなったか」
フェルズが尋ねた。
「いかがいたしましょう」
「……何もするな」
「しかし、ダンジョンが再び暴走すれば……」
「分かっている」
ウラノスは低く答えた。
「だが、今の彼はまだ、こちらとの約束を守っている」
「……はい」
「構造を破壊せず、魔物のみを排除している」
「……確かに」
「ならば、我らが介入する理由はない」
フェルズは沈黙した。ウラノスは続けた。
「問題は、ダンジョンの方だ」
「……」
「彼を敵として認識している」
「……はい」
「そして、彼はその敵意を理解している」
ウラノスは、深く息を吐いた。
「……願わくば、迷宮が愚かな選択をせぬことを」
*
数時間後。サウロンは、ダンジョンから戻ってきた。手には、いくつかの魔石。そして、見慣れない鉱石。
「……ふむ」
彼は満足げに頷いた。
「なかなか面白かった」
ギルド職員たちは、遠巻きに彼を見ていた。エイナが、おずおずと近づいてくる。
「……サウロン様」
「ん?」
「……ご無事で、何よりです」
「ああ。特に問題はなかった」
「……問題、なかったんですか?」
「少し歓迎が激しかったがな」
エイナは、何とも言えない表情になった。
「……それで、また潜られるのですか?」
「当然だ」
「……そうですか」
エイナは、遠い目をした。サウロンは、魔石を一つ取り出した。
「ところで、これを鑑定してもらいたい」
「……はい?」
「通常の魔石とは性質が違うようでな」
エイナは、魔石を見つめた。そして、顔色を変えた。
「……これ」
「何だ?」
「……見たことがありません」
「そうか」
サウロンは微笑んだ。
「ならば、ますます面白い」
その夜。黒曜帝国の遠隔通信術式を通じて、一通の報告が届いた。差出人は、九王の一人。第三の王。かつて、古代の魔物たちを討伐した戦士。報告には、こう記されていた。我が君。帝国東部にて、古代の魔物の活動を確認。その性質は、かつて我らが討伐したものと酷似しております。また、各地の古代遺跡にて、異常な魔力反応が観測されております。
古い封印の劣化が疑われます。周辺の反応との関係を調査中です。ご指示を。サウロンは、報告書を読み終えた。
「……ほう」
そして、ゆっくりと笑った。
「どうやら、面白いことになってきたな」
右手の指輪が、静かに輝いた。
「さて」
冥王は、窓の外を眺めた。オラリオの夜空。その下には、世界最大の迷宮が眠っている。
「……久しぶりに、少し本気を出すことになるかもしれんな」