黒曜帝国。その版図は大陸東方に広がり、幾千もの都市と無数の民族を擁する。皇帝サウロンの治世は、すでに数千年に及んでいた。人間の王朝が興り、栄え、滅びる。エルフの森が広がり、ドワーフの地下都市が築かれ、そして幾つもの文明が歴史の彼方へ消えていく。その間、黒曜帝国の皇帝は一度も代替わりしていない。帝都の中心にそびえる巨大な黒塔。
バラド=ドゥーア。かつて皇帝自らが設計し、建造した帝国の中枢である。その最上階にある玉座の間では、九人の王が集まっていた。黒い甲冑。古代の王冠。そして、それぞれの指に輝く黄金の指輪。九王。かつて人間として生まれ、サウロンから力の指輪を授けられた九人の支配者。その肉体はとうに人の理を超え、魂は指輪を介して冥王の力と結びついている。
彼らは死を知らない。老いることもない。そして、皇帝への忠誠を疑うこともない。第一の王アルディンが口を開いた。
「第三の王。東方の状況を報告せよ」
呼びかけに応じ、一人の王が進み出た。第三の王ヴァルザーク。かつて帝国東部の諸王国を統一した征服王であり、現在は帝国東方方面軍を統括する大元帥である。
「異常が確認されたのは、東部辺境のカラド山脈です。三日前、地下遺跡の封印が破壊され、魔物の群れが出現しました」
「被害は?」
「民間人の死者はありません。現地守備隊が住民を避難させ、出現した魔物はすべて討伐しました」
アルディンは頷いた。
「対応は適切だ。だが、問題は魔物そのものではないのだろう?」
「はい」
ヴァルザークは卓上に一つの魔石を置いた。暗赤色の結晶。通常の魔石とは異なり、その内部には金色の細い線が幾重にも走っている。
「この魔石は、現地で討伐した魔物から回収したものです。帝国魔術院による分析では、通常のダンジョン産魔石とは明確に異なる構造を持つことが判明しました」
「それで?」
「同じ構造の魔石が、かつて我々が討伐した古代魔物からも発見されています」
玉座の間が静まり返った。九人の王は、その意味を理解していた。古代魔物。神々が地上へ降臨する以前、世界各地を蹂躙していた存在。その中には、通常の魔物とは比較にならない力を持つものもいた。そして、それらを討伐して回ったのが、黒曜帝国の軍勢だった。
「封印が自然に解けた可能性は?」
アルディンが尋ねる。
「低いと考えます。封印術式の一部に、外部から干渉された痕跡があります」
「つまり、何者かが意図的に解放したと」
「その可能性が高いでしょう」
アルディンは考え込んだ。やがて、静かに告げた。
「陛下へ報告する」
ヴァルザークが頷く。
「すでに第一報は送信済みです」
「返答は?」
「先ほど届きました」
ヴァルザークは一枚の書簡を取り出した。黒曜帝国の皇帝紋章。その下に、簡潔な命令が記されていた。第三の王ヴァルザークへ。東部方面軍は現状の警戒態勢を維持せよ。封印の破壊者について調査を継続すること。また、魔石の原本を携え、オラリオへ出頭せよ。なお、帝都の統治については従来どおり第一の王に一任する。サウロン
アルディンは書簡を読み終え、頷いた。
「陛下の御命令だ。第三の王、直ちに出立せよ」
「承知しました」
ヴァルザークは胸に手を当てた。そして、わずかに口元を緩めた。
「久方ぶりに、我が君へ直接お目通りが叶いますな」
その声には、隠しきれない喜びがあった。九王にとって、サウロンは単なる主君ではない。彼らを選び、力を与え、幾千年もの時を共に歩んできた存在。そして、彼ら自身が認めた唯一の君主だった。もっとも。
「くれぐれも、陛下の休暇を邪魔するなよ」
アルディンが釘を刺した。
「分かっております」
「本当か?」
「もちろんです」
「以前、お前が陛下の休暇中に軍事演習の視察を依頼したとき、何と言われたか覚えているか?」
ヴァルザークは沈黙した。数秒後。
「……『休暇という言葉の意味を辞書で調べてこい』と」
「そのとおりだ」
玉座の間に、小さな笑いが広がった。不死の王たちにも、こうした日常はある。数千年も共に仕えていれば、当然だった。
*
同じ頃。オラリオ。ヘファイストス・ファミリアの地下工房。
「……これ、どこで手に入れたの?」
ヘファイストスは、目の前の魔石を見つめていた。暗赤色の結晶。内部には金色の線が走っている。サウロンが第一階層で討伐した異常個体から回収したものだった。
「ダンジョンだ」
「それは分かるわよ。何階層?」
「第一階層」
「……は?」
ヘファイストスが顔を上げた。
「第一階層?」
「ああ」
「そんな馬鹿な話がある?」
「現にあった」
「……まったく」
ヘファイストスは額を押さえた。
「普通、第一階層でこんな魔石は手に入らないわよ」
「私もそう思う」
「……え?」
「通常の魔石とは構造が異なる。しかも、魔力の性質が古い」
サウロンは魔石を手に取った。
「これは、私が数千年前に見たものとよく似ている」
「……数千年前?」
「ああ。神々が下界に降りてくる以前の話だ」
目の前の男は、神々が下界へ降臨する以前から存在している。その事実は知っている。だが、実際にこうして話をしていると、どうしても感覚が追いつかない。
「……あんた、本当に何歳なの?」
「数えるのをやめた」
「……でしょうね」
サウロンは魔石を机に置いた。
「問題は、これがどこから来たかだ」
「ダンジョンでしょう?」
「そうだ。だが、通常の魔物とは明らかに異なる」
「……つまり?」
「ダンジョンは、私に対して特別な魔物を生み出した可能性がある」
「……あんた、何をしたの?」
「入っただけだ」
「……本当に?」
「本当だ」
「……」
ヘファイストスは深いため息をついた。
「ダンジョンに嫌われるなんて、普通はあり得ないわよ」
「昔、少々揉めたことがある」
「少々?」
「魔物を大量に殺した」
「……どのくらい?」
「正確な数は覚えていないな。国家規模の侵攻を何度か撃退した程度だ」
「それを少々って言うの?」
「私にとってはな」
ヘファイストスは頭を抱えた。だが、サウロンは気にしていなかった。
「ところで、前に作った指輪だが」
「……何?」
「改良したい」
「……また?」
「ああ」
サウロンは銀色の指輪を取り出した。二十一番目の指輪。魔力の蓄積と増幅、肉体保護の機能を備えた新作である。
「この魔石の性質を利用すれば、魔力の循環効率をさらに高められる」
「……なるほど」
ヘファイストスの目が輝いた。
「それは面白そうね」
「だろう?」
「でも、問題があるわ」
「何だ?」
「この魔石の構造を完全に解析できていない」
「ならば、解析すればいい」
「……簡単に言ってくれるわね」
「鍛冶の神だろう?」
「そうよ」
ヘファイストスも笑った。
「だからこそ、やってやろうじゃない」
二人は、再び研究へ没頭し始めた。その頃、工房の入口では、一通の面会依頼が届けられていた。差出人は、ロキ・ファミリア団長。フィン・ディムナ。
*
「……断って」
ヘファイストスは、面会依頼を一読して即答した。職員が困惑する。
「よろしいのですか? ロキ・ファミリアの団長からですが」
「分かってるわよ」
「ですが、重要な技術協力について相談したいと……」
「だから断るの」
ヘファイストスは書類を机に置いた。
「サウロンの技術について聞きたいんでしょう?」
「……はい。そのように記載されています」
「なら、なおさらよ」
職員は頷き、部屋を出ていった。サウロンは、その様子を眺めていた。
「……フィンか」
「ええ」
「何の用だ?」
「力の指輪について、技術協力を求めたいそうよ」
「ほう」
「随分と熱心だな」
「……あんた、何か言ったの?」
「私の指輪を欲しがったから断った」
「それだけ?」
「それだけだ」
ヘファイストスは額を押さえた。
「……なるほどね」
サウロンは続けた。
「まあ、独自に研究するなら好きにすればいい。私の技術を盗まない限りはな」
「……その線引きが難しいのよ」
「契約書に書いただろう?」
「ええ。ちゃんと覚えてるわ」
ヘファイストスは腕を組んだ。
「だから、私はあんたの技術を第三者へ提供しない」
「結構」
「ただし、私自身の技術を使って似たものを作ることまで禁止されているわけじゃないわよね?」
「当然だ」
「独立した発明まで制限するつもりはない」
「……そう」
ヘファイストスは微笑んだ。
「それなら、安心したわ」
サウロンは肩をすくめた。
「ただし、私の指輪と同じものを作れると思うなよ」
「……随分と自信満々ね」
「事実だからな」
「いいわ。いつか驚かせてあげる」
「期待している」
二人は再び研究へ戻った。
*
「……断られた?」
フィンは、届けられた返書を見つめた。
「はい」
報告した団員が頷く。
「ヘファイストス様から、技術協力については応じられないとの回答です」
「……そうか」
「ありがとう。下がっていいよ」
団員が退室する。部屋には、フィンとリヴェリア、ガレスが残された。
「……予想どおりだな」
リヴェリアが言った。
「そうだね」
フィンは苦笑した。
「ただ、少し残念ではある」
ガレスが腕を組んだ。
「これで諦めるのか?」
「少なくとも、サウロンの技術を直接手に入れることは諦めるべきだろうね」
「……少なくとも?」
「僕たち自身の装備開発まで諦める必要はない」
フィンは立ち上がった。
「ヘファイストス・ファミリアに頼れないなら、別の鍛冶師を探すだけさ」
「それなら問題ないだろう」
「ただし、サウロンの指輪を模倣しようとはするな」
ガレスが釘を刺した。フィンは苦笑した。
「分かっているよ。本人から警告されているからね」
「ならばよい」
ガレスは頷いた。
「それにしても、あの御仁は変わっておるな」
「……そうだね」
フィンは窓の外を眺めた。
「力を持ちながら、それを誇示しようとしない。権威を持ちながら、他人からの承認を求めない」
リヴェリアが言った。
「数千年も生きていれば、そうなるのかもしれないな」
「……いや」
フィンは首を振った。
「それだけじゃないと思う」
「どういうことだ?」
「彼は、自分の価値を他人の評価で決めていない」
フィンは静かに続けた。
「僕たちは、どうしても他人の評価を意識する。名声、地位、実績。英雄という称号もそうだ」
「……」
「でも、彼にはそれが必要ない」
「少し、羨ましいね」
リヴェリアは何も言わなかった。ガレスも黙っていた。それは、フィン自身が向き合うべき問題だった。
*
三日後。オラリオ東門。巨大な黒い馬が、ゆっくりと門をくぐった。その背には、一人の騎士が乗っていた。黒い甲冑。古代の王冠。腰には長剣。そして右手には、黄金の指輪。第三の王ヴァルザーク。黒曜帝国東方方面軍大元帥。九王の一人。門番たちは、その姿を見て息を呑んだ。
「……何だ、あれ」
「黒曜帝国の騎士か?」
「いや、あの紋章……」
一人の門番が顔色を変えた。
「……九王だ」
その言葉に、周囲が静まり返った。九王。黒曜帝国において、皇帝に次ぐ権威を持つ九人の不死の支配者。その一人が、たった一騎でオラリオへ現れた。
「……失礼ですが」
門番が声をかけた。
「お名前と、ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」
ヴァルザークは馬上から答えた。
「黒曜帝国第三の王、ヴァルザーク。我が君サウロン陛下の御命令により参上した」
「……サウロン陛下?」
「現在、貴都市に滞在されているはずだ」
門番は頷いた。
「……はい。確かに滞在されています」
「ならば、入城を許可していただきたい」
その言葉遣いは、意外なほど丁寧だった。門番は少し驚いた。
「……承知しました。身分証明書を確認させていただいても?」
「無論だ」
ヴァルザークは、帝国の正式な外交証明書を差し出した。門番は確認し、返却した。
「……問題ありません。どうぞお通りください」
「感謝する」
ヴァルザークは馬を進めた。そして、オラリオの街並みを見渡した。
「……なるほど」
賑やかな都市だった。多くの種族が行き交い、神々の眷属が闊歩している。
「……我が君が興味を持たれるのも、理解できる」
だが、その瞳には鋭い光が宿っていた。主君の滞在する都市。そこで、何者かが主君へ無礼を働いていないか。それを確認することも、彼の務めだった。
*
その日の夕方。サウロンが滞在する宿。
「……陛下」
ヴァルザークは、部屋の入口で膝をついた。
「第三の王ヴァルザーク、御命令に従い参上いたしました」
サウロンは、椅子に座ったまま顔を上げた。
「久しぶりだな、ヴァルザーク」
「はっ」
「元気にしていたか?」
「陛下の御加護により、変わりなく」
「そうか」
「それで、東部の件だが」
「こちらに、回収した魔石をお持ちしました」
ヴァルザークは、箱を差し出した。サウロンはそれを開けた。暗赤色の魔石。内部には金色の線。
「……やはりな」
彼は、机の上にもう一つの魔石を置いた。ダンジョンで回収したものだった。二つの魔石は、ほとんど同じ構造をしていた。
「……陛下」
ヴァルザークの声が低くなる。
「これは……」
「ああ」
「同じものだ」
「……まさか」
「そのまさかだ」
サウロンは魔石を手に取った。
「オラリオのダンジョンと、帝国東部の古代遺跡。両者の間に、何らかの繋がりがある」
ヴァルザークは考え込んだ。
「……では、今回の異変は偶然ではないと?」
「その可能性が高い」
「ただし、まだ断定はできん」
「……承知しました」
「それから」
サウロンは、ヴァルザークを見た。
「オラリオでは、余計なことをするなよ」
「……は?」
「私は休暇中だ」
「……はい」
「お前も、必要な調査だけ済ませたら、適当に観光でもしていろ」
「……観光、でございますか?」
「ああ」
「せっかく来たんだ。楽しめ」
ヴァルザークは、しばらく沈黙した。そして、深々と頭を下げた。
「……御意」
*
翌日。ヴァルザークは、オラリオの街を歩いていた。黒い甲冑を脱ぎ、上質な黒衣に着替えている。それでも、その存在感は隠しきれなかった。数千年を生きた王。幾度も戦場を駆け、数え切れない敵を討ち取ってきた存在。その気配は、普通の冒険者とは明らかに異なっていた。
「……ふむ」
彼は、街の中心部にある広場で足を止めた。そこには、数人の神々が集まっていた。酒を飲み、談笑している。その中に、一人の女神がいた。赤い髪。細い目。ロキ。彼女は、ヴァルザークに気づいた。
「……ん?」
そして、目を細めた。
「……何や、あいつ」
隣にいたヘルメスが尋ねる。
「どうしたんだい?」
「いや、妙な奴がおる」
ロキはヴァルザークを指さした。
「……あれ、人間か?」
ヘルメスは視線を向けた。そして、表情を変えた。
「……まさか」
「知っとるん?」
「……九王だ」
ロキの笑みが消えた。
「……何やて?」
「黒曜帝国の不死の王。その一人だよ」
「……へえ」
ロキは、ゆっくりと立ち上がった。
「面白そうやん」
ヘルメスが慌てて声をかけた。
「ロキ、やめておいた方がいい」
「何でや?」
「彼らは、冥王サウロンの直属の臣下だ」
「そんなん知っとるわ」
「ちょっと話しかけるだけや」
そう言って、ヴァルザークへ歩み寄った。
「なあ、そこの兄ちゃん」
ヴァルザークが振り向いた。
「何用か?」
「ウチはロキ。神や」
「そうか」
「……それだけ?」
「他に何を言えばよい?」
ロキは一瞬、言葉に詰まった。
「……いや、普通はもうちょっと驚くやろ」
「神々が下界に降臨していることは承知している」
ヴァルザークは平然と答えた。
「それで、何用か?」
「……あんた、九王やろ?」
「いかにも」
「冥王サウロンの部下?」
「部下ではない」
ヴァルザークの声が、わずかに低くなった。
「我が君に仕える王だ」
「……同じようなもんやろ」
「違う」
即答だった。ロキは、少し驚いた。ヴァルザークは続けた。
「我ら九王は、皇帝陛下より領土と権限を授かり、帝国の統治を担っている。単なる従者ではない」
「……なるほどな」
「随分と誇り高いんやな」
「当然だ」
ヴァルザークは静かに答えた。
「我らは王なのだからな」
ロキは、しばらく彼を見つめた。そして、ふと尋ねた。
「……なあ」
「何だ?」
「その指輪、サウロンから貰ったんやろ?」
ヴァルザークは、右手の指輪を見た。
「そうだ」
「それ、どんな力があるん?」
「答える義務はない」
「……ケチやなあ」
「国家機密だからな」
「……はは」
「面白い奴やな、あんた」
ヴァルザークは肩をすくめた。
「そうか」
そして、歩き出した。ロキが呼び止める。
「ちょっと待ちや!」
ヴァルザークが振り向く。
「まだ何か?」
「ウチのファミリアに興味ない?」
「ない」
即答だった。ロキは固まった。
「……いや、まだ説明してへんやろ」
「必要ない」
ヴァルザークは淡々と答えた。
「我が君に仕える身である以上、他の主君を持つつもりはない」
「……神の恩恵もいらんの?」
「不要だ」
「……何で?」
ヴァルザークは、わずかに微笑んだ。
「すでに、我が君から十分なものを授かっている」
そして、静かに告げた。
「神よ、申し出は不要だ。我ら九王にとって、主君はただ一人だ」
ロキは、しばらく黙っていた。やがて、苦笑した。
「……ほんま、頑固な連中やな」
ヴァルザークは頷いた。
「褒め言葉として受け取ろう」
そして、今度こそ立ち去った。
*
その夜。ヘファイストス・ファミリアの地下工房。サウロンは、二つの魔石を並べていた。
「……なるほど」
ヴァルザークが持参した魔石。ダンジョンで回収した魔石。両者を比較した結果、いくつかの共通点が見つかっていた。
「……やはり、同じ系統だな」
ヘファイストスが尋ねた。
「何か分かった?」
「ああ」
「この魔石には、通常の魔物とは異なる霊的な構造がある」
「……霊的な構造?」
「簡単に言えば、魔石そのものに、外部から命令を受け取るための仕組みがある」
ヘファイストスの表情が変わった。
「……つまり、誰かが魔物を操っている可能性がある?」
「そうだ」
「……誰が?」
「まだ分からん」
サウロンは魔石を手に取った。
「だが、少なくとも、この仕組みは自然発生したものではない」
「……なるほど」
ヘファイストスは考え込んだ。
「それで、どうするつもり?」
「調べる」
「……それだけ?」
「それだけだ」
サウロンは平然と答えた。
「現時点では、私の帝国に直接的な被害は出ていない。だが、封印を破壊した者がいるなら、その目的を知る必要がある」
「……もし、帝国に敵対する存在だったら?」
サウロンは微笑んだ。
「排除する」
即答だった。ヘファイストスは、しばらく彼を見つめた。
「……あんた、本当に迷いがないわね」
「迷う理由がないからな」
サウロンは続けた。
「敵対しない者を攻撃する必要はない。だが、敵対する者を放置する理由もない」
「……なるほど」
「単純な話だ」
ヘファイストスは苦笑した。
「……冥王らしいわ」
サウロンは肩をすくめた。
「そうか?」
*
翌朝。サウロンの宿。ヴァルザークは、主君の前に立っていた。
「……陛下」
「何だ?」
「帝国東部の調査について、追加報告がございます」
「聞こう」
「封印を破壊した痕跡から、古い術式の変質が確認されました」
「……ほう」
「ただし、その術式は帝国のものでも、現存する他国のものでもありません」
「古代の術式か」
「その可能性が高いと考えます」
「なるほど」
そして、しばらく考えた。
「……ヴァルザーク」
「はっ」
「東部方面軍に命令を伝えろ」
「御意」
「カラド山脈周辺の住民を、必要に応じて避難させろ。現地の封印は可能な限り維持し、無理に内部へ侵入するな」
「承知しました」
「それから、帝国魔術院に、古代魔物の研究資料をすべて提出させろ」
「はっ」
「最後に」
サウロンは、右手の指輪を見た。
「九王全員に、警戒態勢を命じる」
ヴァルザークの表情が変わった。
「……全員、でございますか?」
「ああ」
「……それほどの事態と?」
サウロンは微笑んだ。
「まだ分からん」
そして、静かに続けた。
「だが、備えることに損はない」
ヴァルザークは深々と頭を下げた。
「御意」
その瞬間。遠く離れた黒曜帝国の各地で、九つの指輪が輝いた。第一の王アルディン。第二の王。第四の王。第五の王。第六の王。第七の王。第八の王。第九の王。それぞれが、主君の意志を受け取った。そして。黒曜帝国の軍勢が、静かに動き始めた。数千年にわたり、世界の歴史を見つめ続けてきた古代国家。
その軍事機構が、久方ぶりに本格的な警戒態勢へ移行したのである。オラリオ。サウロンは、窓の外を眺めていた。
「……さて」
ヴァルザークが尋ねた。
「陛下。次はいかがなさいますか?」
サウロンは、静かに答えた。
「ダンジョンに潜る」
「私も同行いたしましょうか」
「ああ」
「試料の運搬を務めます」
「では、来い」
「私を誰だと思っている?」
ヴァルザークは、わずかに微笑んだ。
「……失礼いたしました」
サウロンは立ち上がった。黒衣を整え、腰の長剣を確認する。そして、右手の指輪に触れた。
「奥の反応を、もう一度確かめる。東部と同じ原因かどうかは、まだ分からん」
ヴァルザークは、深く頭を下げた。黄金の指輪が、赤く輝いた。
「そのときは、徹底的に叩き潰す」
ヴァルザークは、深々と頭を下げた。
「御意。我ら九王、陛下の御意志に従います」
「結構」
そして、部屋を出た。冥王サウロン。古代の王。力の指輪の製作者。そして、神々すら恐れる存在。その男が、再びダンジョンへ向かおうとしていた。今度は、単なる好奇心ではない。自らの帝国に迫る可能性のある脅威を、確かめるために。