迷宮都市オラリオ。冥王サウロンがダンジョン深層で深層の異形を焼き払ってから、三日が経過していた。その間、迷宮都市は表面上の平穏を取り戻していた。ギルドは異常発生の原因を調査し、冒険者たちはいつもどおりダンジョンへ潜り、神々は相変わらず騒がしい日々を送っている。そして、当のサウロンはというと。
「……ふむ」
宿の一室。彼は、机の上に置かれた一通の封書を眺めていた。豪華な装飾が施された封筒。封蝋には、神々の宴を示す紋章。
「神々の宴、か」
サウロンは招待状を開いた。そこには、丁寧な文面で宴への招待が記されていた。差出人は、ガネーシャ。オラリオにおいて、比較的穏健で良識的な神として知られる存在である。
「……なるほど」
「神々の宴に、神でもない私を招待するとはな」
向かいに座っていたヴァルザークが口を開いた。
「陛下。いかがなさいますか?」
「そうだな」
サウロンは、招待状を机に置いた。
「料理は出るのか?」
「……はい?」
「宴なのだろう。ならば、料理と酒が出るはずだ」
「それは、当然かと」
「ならば、行ってみるか」
ヴァルザークは一瞬、沈黙した。
「……陛下」
「何だ?」
「神々の宴でございます。何らかの政治的意図がある可能性も考慮すべきかと」
「当然だ」
「だが、それと料理を楽しむことは両立する」
「……なるほど」
「それに、神々が何を考えているのか、直接観察する機会にもなる」
サウロンは微笑んだ。
「悪くないだろう?」
ヴァルザークは、深々と頭を下げた。
「御意」
「お前も来るか?」
「……私も、でございますか?」
「ああ。護衛としてではなく、客としてな」
ヴァルザークは少し考えた。
「……陛下のお許しがあるのでしたら、ぜひ」
「結構」
サウロンは招待状を閉じた。
「では、返事を書いておこう」
*
同日。ロキ・ファミリア本拠地、黄昏の館。
「……来るんか!?」
ロキは、椅子から飛び上がった。向かいに座るヘルメスが苦笑する。
「どうやらね。ガネーシャから返事があったそうだよ」
「ほんまに、あの冥王が?」
「ああ。正式に出席すると回答したらしい」
ロキは、しばらく沈黙した。そして。
「……おもろいやん」
にやりと笑った。
「ようやく、まともに話せる機会ができたわ」
ヘルメスは肩をすくめた。
「君は、以前にも彼の臣下に話しかけていただろう?」
「そっちはそっちや。今回は本人やで」
「……余計なことはしない方がいいと思うけどね」
「分かっとるわ」
「ちょっと話すだけや」
ヘルメスは、その言葉をまったく信用していなかった。
「……ロキ」
「何や?」
「一応、忠告しておくよ」
ヘルメスは、珍しく真剣な表情になった。
「彼は、僕たち神々を特別扱いしない」
「知っとる」
「それだけじゃない。彼は、神々の権威そのものを認めていない」
「……それも知っとる」
「ならば、なおさら慎重に接するべきだ」
ヘルメスは続けた。
「彼は、神々が下界に降臨する以前から存在している。しかも、神々を殺すことができる」
ロキの笑みが、わずかに消えた。
「……あの話か」
「ああ」
かつて、一柱の神が冥王サウロンへ神威を向けた。そして、その神は完全に消滅した。天界へ送還されたのではない。神格そのものを破壊されたのだ。
「……ほんまに、そんなことができるんか?」
ロキが尋ねた。ヘルメスは頷いた。
「ウラノスが証言している以上、疑う理由はないよ」
「……そうか」
ロキは考え込んだ。そして、静かに笑った。
「……ますます興味が湧くわ」
ヘルメスは、深いため息をついた。
「……君は本当に懲りないね」
*
フレイヤ・ファミリア本拠地。バベル最上階。フレイヤは、窓の外を眺めていた。
「……サウロンが、神々の宴に?」
オッタルが頷く。
「はい。ガネーシャ様からの招待を受けたとのことです」
「……そう」
フレイヤは微笑んだ。
「楽しみね」
オッタルの表情が、わずかに険しくなる。
「……フレイヤ様」
「何かしら?」
「以前の件を、お忘れではありませんか?」
フレイヤは、少し目を細めた。以前の件。サウロンの魂を覗こうとしたこと。そして、その行為を明確な敵対行為と見なされかけたこと。あのとき。彼女は、生まれて初めて、自分の視線を拒絶された。いや。拒絶という言葉では足りない。彼女の視線そのものが、相手の領域への侵入として認識されたのだ。
「……忘れていないわ」
フレイヤは静かに答えた。
「ならば、どうか慎重に」
「分かっているわ、オッタル」
フレイヤは微笑んだ。
「今回は、普通にお話しするだけよ」
オッタルは、しばらく沈黙した。そして、深々と頭を下げた。
「……承知しました」
だが、その内心では、強い警戒心が渦巻いていた。冥王サウロン。あの男は、フレイヤの魅了が通じるかどうか以前の問題として、彼女の干渉を許さない。もしも、フレイヤが再び彼の領域を侵そうとすれば。今度こそ、取り返しのつかない事態になるかもしれない。
*
数日後。オラリオの高級区画。巨大な屋敷では、神々の宴が開催されていた。豪華な料理。芳醇な酒。美しい音楽。そして、華やかな衣装に身を包んだ神々。その中心で、ガネーシャが声を上げた。
「私はガネーシャだ!」
周囲の神々が笑う。
「知ってるよ!」
「毎回言わなくても分かるって!」
ガネーシャは胸を張った。
「本日は、我が宴へようこそ!」
拍手が起こる。そのとき。入口付近が、静かになった。一人の男が現れた。黒い礼装。金色の瞳。右手には、黄金の指輪。冥王サウロン。その後ろには、同じく黒い礼装に身を包んだヴァルザーク。二人は、ゆっくりと会場へ足を踏み入れた。
「……ほう」
サウロンは周囲を見渡した。
「なかなか豪華だな」
ヴァルザークが頷く。
「帝国の宮廷宴会にも劣らぬ規模でございます」
「そうだな」
サウロンは微笑んだ。
「さて、料理はどこだ?」
ヴァルザークは、少し笑った。
「……あちらかと」
二人は、迷うことなく料理の並ぶ卓へ向かった。その姿を、神々は呆然と見送った。
*
「……あれが、冥王サウロンか」
一柱の神が呟いた。
「思ったより普通だな」
「普通なものか」
別の神が答えた。
「よく見ろ。あの男からは、神威とは異なる何かが感じられる」
「……確かに」
「だが、何だ?」
「分からん」
神々は、遠巻きにサウロンを観察していた。一方、当の本人は。
「……この肉料理は美味いな」
「左様でございますな」
「香辛料の使い方が面白い」
「帝国の料理人にも研究させましょうか」
「それもいいが、まずは料理人本人に敬意を払うべきだろう」
「……確かに」
サウロンは、満足げに頷いた。
「うむ。良い宴だ」
そのとき。
「ようこそ、冥王サウロン殿!」
ガネーシャが近づいてきた。サウロンは振り向いた。
「お前が主催者か」
「そうだ! 私はガネーシャだ!」
「知っている。招待状に名前が書いてあった」
「そうか!」
ガネーシャは豪快に笑った。
「楽しんでいるか?」
「ああ。料理が美味い」
「それはよかった!」
ガネーシャは満足げに頷いた。
「ぜひ、存分に楽しんでくれ!」
「感謝する」
サウロンは、素直に礼を述べた。ガネーシャは、その様子に少し驚いた。
「……意外だな」
「何が?」
「もっと、神々を嫌っているのかと思っていた」
「なぜ?」
「いや、噂では……」
「ああ」
「神を殺した話か」
周囲の空気が、一瞬で凍りついた。ガネーシャも、わずかに表情を引き締めた。だが、サウロンは平然と続けた。
「私は神々を嫌っているわけではない」
「……そうなのか?」
「ああ。礼節を弁えた相手なら、神だろうと人間だろうと問題ない」
サウロンは酒杯を掲げた。
「現に、お前は私を客として招き、丁重にもてなしてくれている。感謝しているぞ」
ガネーシャは、しばらくサウロンを見つめた。そして、豪快に笑った。
「ははは! それならよかった!」
「うむ」
二人は、酒杯を軽く合わせた。
*
「……サウロン」
柔らかな声が響いた。振り向くと、そこにはフレイヤが立っていた。銀色の髪。美しい容貌。そして、神々の中でも際立った存在感。サウロンは、静かに彼女を見た。
「……フレイヤか」
「ええ。お久しぶりね」
「ああ」
フレイヤは微笑んだ。
「今夜は、楽しんでいる?」
「それなりにな」
「そう。よかったわ」
フレイヤは、少し間を置いた。そして、静かに尋ねた。
「……以前のこと、まだ怒っているかしら?」
「怒ってはいない」
「……そうなの?」
「ああ」
彼は、静かに続けた。
「ただし、次に同じことをすれば、敵対行為と見なす」
フレイヤの表情が、わずかに変わった。
「……相変わらず、厳しいのね」
「当然だ」
サウロンは淡々と答えた。
「私の魂は、私のものだ。お前の好奇心を満たすために存在しているわけではない」
「……」
「見るなと言ったものを、無断で覗こうとするな。それだけの話だ」
フレイヤは、しばらく沈黙した。そして、静かに頷いた。
「……分かったわ」
「結構」
フレイヤは、少し寂しげに微笑んだ。
「……それでも、あなたと話すことは許してもらえる?」
「普通に話す分には構わん」
「……ありがとう」
「礼を言うほどのことではない」
サウロンは、酒杯を傾けた。フレイヤは、その姿を見つめていた。だが、今度は魂を覗こうとはしなかった。それが、彼女にとってどれほど珍しい自制だったのか。周囲の神々には、理解できなかった。
*
「なあ、サウロン!」
今度は、ロキが近づいてきた。サウロンは振り向いた。
「……ロキか」
「おっ、ウチのこと知っとるん?」
「名前くらいはな」
「そら光栄やわ」
そして、サウロンの右手を見た。
「……その指輪、例の一つの指輪やろ?」
「ああ」
「ほんまに、他の指輪を支配できるん?」
「できる」
「……へえ」
「それって、他の指輪の持ち主も操れるってこと?」
「場合による」
「……場合?」
「所有者の意志、指輪の性質、私との繋がりによって異なる」
「……なるほどな」
ロキは考え込んだ。そして、にやりと笑った。
「……ほな、もしウチがその指輪を奪ったら、どうなるん?」
会場の空気が、再び凍りついた。ヘルメスが、遠くで頭を抱えた。ヴァルザークの表情が、冷たくなる。だが、サウロンは笑った。
「試してみるか?」
ロキの笑みが、わずかに固まった。
「……冗談やで?」
「そうか」
「ならば、私も冗談として受け取ろう」
「……はは」
ロキは苦笑した。サウロンは続けた。
「ただし、私の指輪を奪うという行為は、帝国皇帝への敵対行為だ」
「……」
「お前が神であろうと、その扱いは変わらん」
ロキは、しばらく沈黙した。そして、両手を上げた。
「……分かった、分かった。もう言わへん」
「結構」
サウロンは、再び料理へ手を伸ばした。ロキは、その姿を見つめながら呟いた。
「……ほんま、やりにくい奴やな」
サウロンは聞こえていたが、何も言わなかった。
*
宴も半ばを過ぎた頃。一柱の神が、サウロンへ近づいてきた。壮年の男の姿をした神。名を、バルドゥルという。彼は、サウロンを見つめていた。
「……冥王サウロン」
「何だ?」
「一つ、聞きたいことがある」
「聞こう」
バルドゥルは、静かに尋ねた。
「……お前は、本当に神を殺したのか?」
周囲の神々が、静まり返った。そして、頷いた。
「ああ」
その一言に、会場がざわめいた。バルドゥルは、さらに尋ねた。
「……なぜ、殺した?」
「私に神威を向け、服従を強要したからだ」
「……それだけで?」
サウロンは、静かにバルドゥルを見た。
「それだけ、とは?」
「……いや」
「お前は、神が他者へ神威を向け、服従を強要することを軽い行為だと思っているのか?」
バルドゥルは沈黙した。サウロンは続けた。
「私は、その神に退くよう警告した」
「……」
「だが、相手は警告を無視し、私を屈服させようとした」
「……」
「だから、殺した」
サウロンは、淡々と告げた。
「それだけの話だ」
バルドゥルは、しばらく沈黙した。そして、静かに尋ねた。
「……後悔は?」
「ない」
即答だった。
「……まったく?」
「ああ」
「私は、自分の行動に責任を持っている」
「……」
「相手が神であろうと、王であろうと、私に敵対するなら相応の結果を受け入れるべきだ」
バルドゥルは、静かに目を閉じた。そして。
「……分かった」
そう言って、立ち去った。
*
そのとき。会場の奥から、静かな声が響いた。
「……彼の言葉に、偽りはない」
神々が振り向いた。そこには、ウラノスが立っていた。普段はギルド地下の祈祷の間から動かない老神。その彼が、今夜は珍しく宴に姿を現していた。
「……ウラノス?」
ロキが驚いた。
「何でここにおるん?」
ウラノスは答えなかった。ただ、サウロンを見つめていた。
「……久しいな、冥王」
「ああ。久しぶりだな」
ウラノスは、周囲の神々へ向き直った。
「彼が神を殺したことは事実だ」
会場が静まり返った。
「だが、その経緯を知らずに彼を非難することはできぬ」
ウラノスは続けた。
「かつて、一柱の神が彼に服従を要求した」
「……」
「冥王は拒絶した」
「……」
「神は、神威を解放した」
「……」
「そして、冥王はそれを打ち破った」
ウラノスは、静かに目を閉じた。
「その後、神は消滅した」
神々は、息を呑んだ。ウラノスは続けた。
「天界への送還ではない。神格そのものの消滅だ」
「……そんなことが」
一柱の神が呟いた。
「我ら神々にとって、あれは初めての経験だった」
そして、静かに告げた。
「神であっても、滅び得るのだと知った」
誰も、言葉を発しなかった。
*
サウロンは、酒杯を置いた。
「……一つ、言っておこう」
神々の視線が集まる。
「私は、神々を敵視しているわけではない」
彼は、静かに続けた。
「お前たちが下界で何をしようと、基本的には自由だ」
「……」
「ファミリアを作ろうと、冒険者を育てようと、娯楽に興じようと、私には関係ない」
サウロンは、周囲を見渡した。
「ただし」
その声が、わずかに低くなる。
「私の領域を侵すな」
神々は沈黙した。
「私の臣民を害するな。私の財産を奪うな。そして、私自身へ服従を強要するな」
サウロンは、静かに告げた。
「それだけ守れば、私とお前たちが争う理由はない」
「……理解した」
ガネーシャも頷いた。
「うむ! 実に明快だ!」
ヘルメスは苦笑した。
「……本当に、分かりやすい人だね」
ロキは、腕を組んでいた。フレイヤは、静かにサウロンを見つめていた。そして。ヴァルザークは、主君の背後で微笑んでいた。彼にとって、その言葉は何も新しいものではなかった。数千年前から、サウロンは同じことを言っている。自らの領域を守る。敵対する者は排除する。だが、敵対しない者にまで無意味な干渉はしない。
それが、黒曜帝国の基本方針だった。
*
夜も更けた頃。サウロンは、ヴァルザークとともに会場を後にした。
「……なかなか面白い宴だったな」
「左様でございますな」
「料理も美味かった」
「陛下は、ずいぶんと料理をお気に召されたご様子でした」
「ああ。特に、あの肉料理は良かった」
ヴァルザークは、少し笑った。
「……帝国の料理人に再現させますか?」
「いや」
サウロンは首を振った。
「それでは、ここで食べる楽しみがなくなる」
「……なるほど」
二人は、夜の街を歩いていた。そのとき。ヴァルザークが、静かに尋ねた。
「……陛下」
「何だ?」
「神々について、いかがお考えですか?」
「……そうだな」
そして、静かに答えた。
「面白い連中だ」
「……面白い、でございますか?」
「ああ」
「神という立場にありながら、人間以上に人間臭い」
ヴァルザークも、わずかに笑った。
「……確かに」
「だが、それも悪くない」
サウロンは、夜空を見上げた。
「世界には、いろいろな存在がいる。それぞれが好きに生きればいい」
「……御意」
「ただし、他人の自由を侵すなら話は別だがな」
ヴァルザークは、深々と頷いた。
「……肝に銘じます」
二人は、静かに歩き続けた。その頃。神々の宴が終わった会場。ウラノスは、ヘルメスと向かい合っていた。
「……どう思う?」
ヘルメスが尋ねた。ウラノスは、静かに答えた。
「彼は、変わっておらぬ」
「……そうか」
「ああ」
ウラノスは続けた。
「数千年前と同じだ。己の意志を貫き、他者の権威に屈しない」
ヘルメスは苦笑した。
「……厄介だね」
「そうでもない」
ウラノスは首を振った。
「彼は、明確な基準を持っている」
「……基準?」
「ああ。敵対しなければ、争わない」
「……なるほど」
「それは、ある意味では非常に分かりやすい」
ヘルメスは頷いた。
「……確かにね」
ウラノスは、静かに目を閉じた。
「ただし、忘れるな」
「……何を?」
「彼は、神々の秩序の外にいる」
「……」
「我らの常識で、彼を測るな」
ヘルメスは、静かに頷いた。
「……肝に銘じるよ」
オラリオの夜。サウロンは、宿の窓から街を眺めていた。
「……さて」
神々の宴。なかなか興味深い経験だった。だが、それ以上に。彼には、気になることがあった。ダンジョンの構造。魔石の性質。そして、神々が下界に降臨する以前の歴史。
「……この世界、まだまだ面白いものがありそうだな」
右手の指輪が、黄金に輝く。そして。冥王は、再び研究へと没頭していった。