迷宮都市オラリオ。ヘファイストス・ファミリア本拠地。その地下工房では、二人の鍛冶師が一枚の設計図を挟んで向かい合っていた。一人は鍛冶の神、ヘファイストス。もう一人は、かつて創造のヴァラ、アウレに仕えたマイアにして、黒曜帝国の皇帝サウロン。二人の間には、奇妙な沈黙が流れていた。やがて、ヘファイストスが口を開く。
「ねえ、サウロン。一つ勝負をしない?」
「勝負?」
「ええ。鍛冶の腕を競うのよ」
サウロンは手元の魔石から顔を上げた。
「ほう。私に鍛冶で挑むのか?」
「その言い方、随分と自信があるじゃない」
「自信はあるとも。私はこの道を何千年も歩んできたからな」
「私だって鍛冶の神よ。負けるつもりはないわ」
「いいだろう。面白そうだ」
ヘファイストスは満足げに頷いた。
「決まりね。じゃあ、競作の条件を決めましょう」
「その前に、一つ確認したい」
「何かしら?」
「お前が望むのは、鍛冶師としての技術を競うことか。それとも、神としての権能と私の力を競うことか?」
ヘファイストスは、わずかに眉を上げた。
「違いがあるの?」
「大いにある」
サウロンは設計図を脇へ寄せた。
「神の権能を直接使うなら、何をもって鍛冶の技術とするのかが曖昧になる。逆に、純粋な加工技術だけを競うなら、私も霊的な力の大部分を封じる必要がある」
「なるほどね」
「勝負をするなら、条件は明確にしたい」
「それなら、今回は神の権能を使わない。あなたも、作品の完成後に指輪を使って性能を上乗せするようなことは禁止よ」
「構わん。ただし、鍛造の工程に組み込む魔術まで禁じられると、私の技術の半分を捨てることになる」
「そこは認めるわ。魔術も技術の一つだもの」
「結構」
「では、競作を受けよう」
「随分とあっさりね」
「面白そうなことを断る理由がない」
「それで、あなたが勝ったら何が欲しい?」
そして、静かに答えた。
「お前には、一つ頼みたいことがある」
「何?」
「私のために、剣を一本鍛えてもらいたい」
ヘファイストスは瞬きをした。
「……剣?」
「ああ。私が指定する素材を使い、お前自身の技術で鍛えた剣だ」
「それが望み?」
「そうだ」
「てっきり、私の秘伝の技術でも要求されるのかと思ったわ」
「他人の秘伝を奪って何が楽しい?」
サウロンは肩をすくめた。
「私が見たいのは、お前自身の仕事だ」
ヘファイストスは、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと笑った。
「いいわ。受けて立つ」
「では、お前が勝った場合は?」
「あなたの鍛造技術を、一つ教えてもらう」
「範囲は?」
「あなたが認める範囲でいいわ。ただし、私が知らない技術であること」
「妥当だな」
サウロンは手を差し出した。
「契約成立だ」
ヘファイストスは、その手を握った。
「後悔させてあげるわ」
「期待している」
二人は笑った。鍛冶師として、心から楽しそうに。
*
翌日。工房の一角に、二つの鍛冶場が用意された。審査役は、ヘファイストス・ファミリア団長の椿・コルブランド。さらに、外部の技術審査役として、ゴブニュ・ファミリアの熟練鍛冶師が一人招かれた。もっとも、椿は最初から困惑していた。
「……主神様」
「何よ?」
「本当にやるんですか?」
「もちろんよ」
「相手、あの冥王ですよね?」
「そうね」
「力の指輪を作った本人ですよね?」
「そうよ」
椿は額を押さえた。
「……勝負になるんですか?」
ヘファイストスは、にやりと笑った。
「だから面白いんじゃない」
一方、サウロンはすでに素材を確認していた。アダマンタイト。オリハルコン。ミスリル。そして、ダンジョン産の希少な魔石。
「……ふむ」
彼は金属を手に取り、重さを確かめた。
「悪くない素材だ」
椿が近づいてきた。
「冥王陛下。今回の競作ですが、何を作るかは決まっているんですか?」
「ああ」
「何でしょう?」
「剣だ」
「……剣?」
「互いに、実戦で使用できる片手剣を一本ずつ鍛える」
「なるほど。分かりやすいですね」
サウロンは続けた。
「ただし、評価は切れ味だけではない」
「と、言いますと?」
「耐久性、魔力伝導率、使用者への負担、整備の容易さ。それらを総合的に評価する」
「……随分と実用的ですね」
「当然だ」
サウロンは平然と答えた。
「武器は使うためにある。飾るだけなら彫刻を作ればいい」
「気が合いそうですね、陛下」
「そうか」
「ええ。私も、実際に使える武器が好きですから」
「ならば、審査を楽しみにしていろ」
サウロンは、静かに微笑んだ。
*
競作が始まった。ヘファイストスは、伝統的な鍛冶の技術を基礎に、神代から培ってきた膨大な知識を注ぎ込んだ。金属を熱し、叩き、折り返し、鍛える。その手つきには、一切の迷いがない。鍛冶の神。その名に相応しい技術だった。一方。サウロンは、炉の前で静かに立っていた。
「……さて」
彼は、オリハルコンとミスリルを手に取った。そして、右手を掲げた。炎が生まれる。だが、それは以前ダンジョンで使用した、敵を滅ぼすための炎ではない。穏やかで、精密な炎。金属の内部構造を変化させるための、鍛冶の炎だった。
「……ほう」
椿が目を見開いた。サウロンの前で、金属がゆっくりと溶けていく。だが、通常の溶解とは違う。金属の性質が、まるで最初から一つの素材であったかのように融合していく。
「……何ですか、それ」
椿が尋ねた。
「合金化だ」
「それは分かります。でも、どうやって?」
「金属同士の結合を、霊的な力で補助している」
「……そんなことができるんですか?」
「できるとも」
「金属には、それぞれ固有の性質がある。その性質を理解すれば、互いの長所を損なわずに結びつけることも可能だ」
椿は、しばらく黙っていた。そして。
「……主神様が勝負したくなる気持ち、分かりました」
「そうだろう?」
彼は、溶けた金属を型へ流し込んだ。そして、静かに呟いた。
「さて、ここからが本番だ」
*
ヘファイストスは、サウロンの作業を横目で見ていた。
「……なるほどね」
その表情には、驚きと興奮が入り混じっていた。
「金属の内部構造を、直接操作しているのね」
彼女は、自分の剣へ視線を戻した。
「だったら、こっちも負けていられないわ」
彼女の槌が、再び振り下ろされる。一打。二打。三打。金属が、徐々に形を変えていく。その一打ごとに、剣の内部構造が整えられていく。サウロンが霊的な力を用いて金属の性質を調整するのに対し、ヘファイストスは鍛造そのものによって同じ領域へ迫ろうとしていた。椿は、その光景を見つめていた。
「……すごい」
思わず、声が漏れた。二人の技術体系は、まったく異なる。だが、目指しているものは同じだった。最高の武具。使用者の能力を最大限に引き出し、長く使い続けられる道具。そのために、二人はそれぞれの技術を磨き上げていた。そして。三日後。二振りの剣が完成した。
*
最初に披露されたのは、ヘファイストスの剣だった。銀白色の刀身。美しい曲線。そして、刀身の内部に流れる微細な魔力。椿は、思わず息を呑んだ。
「……主神様」
「どう?」
「……素晴らしいです」
ヘファイストスは微笑んだ。
「ありがとう」
剣は、極めて高い完成度を誇っていた。切れ味。耐久性。魔力伝導率。そのすべてが、オラリオ最高峰の水準を大きく上回っていた。続いて。サウロンの剣が披露された。黒銀色の刀身。装飾はほとんどない。だが、その内部には、複雑な霊的構造が組み込まれていた。椿は、剣を手に取った。
「……軽い」
予想以上に軽かった。だが、頼りないわけではない。むしろ、手に持った瞬間から、剣そのものが使用者の動きに合わせようとしている感覚があった。
「……これは」
サウロンが説明する。
「使用者の筋力と動作を補助する機構を組み込んだ」
「……魔法ですか?」
「魔術的な補助機構だ。だが、外部から魔力を供給し続ける必要はない」
「……どういうことです?」
「使用者の動作によって生じる微細なエネルギーを回収し、内部で循環させる」
椿は目を見開いた。
「……そんなことが」
「もちろん、無限に力を生み出すわけではない。だが、効率を高めることはできる」
ヘファイストスが、興味深そうに剣を見た。
「……なるほど。魔力の循環効率を極限まで高めているのね」
「そうだ」
「ただし、万能ではない。強大な魔力を一度に流し込む用途なら、お前の剣の方が優れているだろう」
ヘファイストスは、少し驚いた。
「……自分から認めるの?」
「事実だからな」
サウロンは平然と答えた。
「私の剣は、長期的な使用と安定性を重視した。お前の剣は、瞬間的な性能に優れている」
「……なるほど」
「どちらが優れているかは、使用条件による」
ヘファイストスは、しばらく黙っていた。そして、笑った。
「……本当に、面白い男ね」
*
審査は、丸一日かけて行われた。切断試験。耐久試験。魔力伝導試験。そして、実戦を想定した使用試験。結果は、拮抗していた。ヘファイストスの剣は、瞬間的な破壊力と魔力伝導率で優れていた。サウロンの剣は、耐久性と使用者への負担の少なさ、長期的な安定性で優れていた。椿は、審査結果を見つめた。
「……難しいですね」
外部の鍛冶師も頷いた。
「どちらも、常識外れの完成度です」
ヘファイストスが腕を組んだ。
「それで、どうするの?」
そして。
「……今回の勝者は、サウロン陛下です」
「……理由は?」
「総合的な実用性です」
椿は続けた。
「主神様の剣は、最高の使い手が持てば、凄まじい性能を発揮します」
「ええ」
「ですが、サウロン陛下の剣は、使用者の能力に左右されにくく、長期間の使用にも耐えられます」
「……なるほど」
「今回の評価基準では、そちらを高く評価しました」
そして、笑った。
「……負けたわね」
「今回はな」
「……今回は?」
「ああ」
サウロンは微笑んだ。
「次は、お前が勝つかもしれん」
ヘファイストスは、にやりと笑った。
「……当然よ」
二人は、再び握手した。そして。ヘファイストスは、静かに告げた。
「約束どおり、あなたのために剣を鍛えるわ」
「期待している」
*
その頃。オラリオの一角。ヘルメス・ファミリア本拠地。ヘルメスは、一枚の報告書を眺めていた。
「……なるほど」
そこには、サウロンとヘファイストスの競作について記されていた。
「冥王が、鍛冶の神に勝ったか」
向かいに立つアスフィが頷いた。
「はい。ただし、総合評価による勝利です。性能のすべてで上回ったわけではありません」
「それでも十分だよ」
ヘルメスは微笑んだ。
「神の技術と、冥王の技術。どちらも素晴らしい」
アスフィは、少し眉をひそめた。
「……ヘルメス様」
「何だい?」
「まさか、また余計なことを考えていませんよね?」
ヘルメスは、にこりと笑った。
「失礼だな。僕はいつだって、世界の未来を考えているんだよ」
「それを余計なことと言うんです」
「……手厳しいね」
アスフィは、深いため息をついた。
「サウロン陛下には、関わらない方がよろしいかと」
「そうかな?」
「はい。彼は、神々の思惑に従う存在ではありません」
「分かっているよ」
ヘルメスは頷いた。
「だからこそ、面白いんじゃないか」
アスフィの表情が険しくなった。
「……本気ですか?」
「もちろん」
ヘルメスは、窓の外を眺めた。
「この世界には、英雄が必要だ」
「……はい」
「そして、英雄には試練が必要だ」
「……それは理解できます」
「でも、今のオラリオには、英雄を育てるための大きなきっかけが足りない」
アスフィは、嫌な予感がした。
「……まさか」
ヘルメスは微笑んだ。
「冥王サウロン」
その名を口にした。
「彼ほど、英雄にとって相応しい試練はないだろう?」
アスフィは、完全に沈黙した。そして。
「……絶対にやめてください」
即答だった。ヘルメスは肩をすくめた。
「まだ何もしていないよ」
「だから、今のうちに止めているんです!」
「……やれやれ」
ヘルメスは苦笑した。だが、その目には、計算の光が宿っていた。
*
数日後。ヘルメスは、ある計画を進めていた。目的は単純だった。サウロンの力を、英雄育成のために利用する。ただし、直接頼んでも断られる。ならば、間接的に関与させればいい。
「……さて」
ヘルメスは、机の上に地図を広げた。オラリオ。ダンジョン。そして、いくつかのファミリアの活動範囲。
「サウロンは、敵対しない相手には基本的に干渉しない」
ヘルメスは呟いた。
「だが、自分の領域を侵された場合は、容赦なく排除する」
「……ならば、敵対行為と認識されない形で、彼の力を利用すればいい」
そのとき。背後から声が響いた。
「それは、なかなか興味深い考えだな」
ヘルメスは、ゆっくりと振り向いた。そこには。黒い礼装。金色の瞳。右手には、黄金の指輪。冥王サウロンが立っていた。
「……やあ」
ヘルメスは、笑顔を作った。
「奇遇だね、サウロン」
サウロンは、静かに微笑んだ。
「奇遇ではない」
「……そうなのかい?」
「ああ」
サウロンは、机の上の地図を見た。
「お前が私について調べていると聞いたのでな」
ヘルメスは、わずかに表情を変えた。
「……誰から?」
「それを教える義理はない」
サウロンは平然と答えた。
「それで、何を企んでいる?」
ヘルメスは、少し考えた。そして、笑った。
「……ただの情報収集だよ」
「そうか」
「ならば、問題ない」
ヘルメスは、少し安心した。だが。次の言葉で、その表情が固まった。
「ただし、私をお前の計画に組み込むつもりなら、先に許可を取れ」
「……」
「私は、お前の駒ではない」
ヘルメスは、しばらく沈黙した。そして、苦笑した。
「……参ったな」
サウロンは続けた。
「私の力を利用したいなら、正面から交渉しろ」
「……交渉に応じてくれるのかい?」
「話は聞く」
「……なるほど」
「ただし、断ることもある」
サウロンは微笑んだ。
「それが交渉というものだ」
ヘルメスは、静かに頷いた。
「……分かったよ」
「結構」
そして、踵を返した。
「では、失礼する」
ヘルメスは、その背中を見送った。やがて、静かに呟いた。
「……やっぱり、厄介だね」
だが。その目には、まだ諦めの色はなかった。
*
サウロンが去った後。アスフィが部屋へ入ってきた。
「……ヘルメス様」
「やあ、アスフィ」
「……今の方は?」
「サウロンだよ」
「……何を話されたんですか?」
「ちょっとした忠告を受けた」
アスフィは、深いため息をついた。
「……だから言ったでしょう」
ヘルメスは苦笑した。
「まだ何もしていないんだけどね」
「それでも、考えていることを見抜かれたのでしょう?」
「……まあね」
アスフィは、静かに告げた。
「ヘルメス様。今回は、本当にやめてください」
「……なぜ?」
「相手が悪すぎます」
「……」
「冥王サウロンは、神々の権威に従いません。しかも、彼には自分の国家と軍勢があります」
ヘルメスは黙っていた。アスフィは続けた。
「もしも、あなたの計画が彼の敵対行為と認識された場合、被害を受けるのは私たちです」
「……分かっているよ」
「本当に?」
ヘルメスは、少し考えた。そして、微笑んだ。
「……分かっているつもりさ」
アスフィは、頭を抱えた。
「……それが一番信用できないんです」
*
その夜。サウロンの宿。ヴァルザークは、主君からヘルメスとの会話を聞いていた。
「……陛下」
「何だ?」
「その神、放置してよろしいのでしょうか?」
「現時点ではな」
「まだ何もしていない」
「……しかし、明らかに何かを企んでおります」
「そうだな」
「……ならば」
「ヴァルザーク」
サウロンは、静かに臣下を見た。
「考えているだけで罪にするつもりはない」
「……御意」
「だが、実際に行動へ移した場合は別だ」
サウロンは、酒杯を置いた。
「私を利用しようとするなら、その行為に応じた責任を取ってもらう」
ヴァルザークは、深々と頷いた。
「承知しました」
サウロンは、窓の外を眺めた。
「……ヘルメス、か」
神々の中でも、特に策謀を好む存在。自らの理想のためなら、他者を利用することも厭わない。
「……面白い男だ」
「だが、少々勘違いしているな」
ヴァルザークが尋ねた。
「……何を、でございますか?」
「自分の目的が正しければ、他人を利用しても構わないと思っていることだ」
サウロンは、静かに続けた。
「私は、他人の理想を否定するつもりはない」
「……はい」
「だが、その理想のために私を利用することは許さない」
「……御意」
サウロンは、酒杯を傾けた。
「さて、どうするかな」
ヴァルザークが首を傾げた。
「……何を、でございますか?」
「ヘルメスが、どこまで踏み込んでくるかだ」
サウロンは、静かに微笑んだ。
「警告はした。あとは、本人の判断だ」
*
同じ頃。ヘルメス・ファミリア本拠地。ヘルメスは、机に向かっていた。目の前には、いくつかの書類。そして、一枚の地図。彼は、静かに呟いた。
「……サウロン」
冥王。神々の秩序に属さない存在。圧倒的な力を持ち、誰にも従わない。だが。
「……だからこそ、必要なんだ」
ヘルメスは、地図の一点を指さした。ダンジョン。その深層。
「英雄には、試練が必要だ」
「そして、世界には英雄が必要だ」
そのためなら。多少の危険は、受け入れる覚悟があった。もちろん。自分自身が、その危険を引き受けるつもりだった。少なくとも、本人はそう考えていた。
「……さて」
ヘルメスは、書類を一枚取り出した。そこには、ある計画が記されていた。
『冥王サウロンを利用した、英雄育成計画』
彼は、静かにペンを取った。そして。計画の第一段階を、実行に移すことを決めた。その頃。サウロンは、宿の窓から夜空を眺めていた。
「……さて」
右手の指輪が、わずかに輝いた。遠く離れた場所で、何者かが動き始めている。
「……忠告はしたぞ、ヘルメス」
その声は、誰にも届かなかった。だが。冥王の意志は、すでに動き始めていた。