白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
穏やかな波が白い砂浜を洗い、潮風が海岸沿いの木々を優しく揺らしていた。南海に浮かぶ小さな孤島、デルムリン島。人間たちからは魔物の島として恐れられるその場所には、外の世界では考えられないほど平和な時間が流れていた。
砂浜を横切るスライムの群れを、数匹のドラキーが空から追いかけている。少し離れた木陰では、大柄な魔物が昼寝をしており、その腹の上を小さな魔物たちが遠慮なく歩き回っていた。普通ならば互いに争っていても不思議ではない魔物たちが、ここでは当たり前のように共に暮らしている。
そんな島の東側、人の足がほとんど踏み入らない入り江で、ふいに空気が震えた。
海面の上に淡い光が走り、何もない空間が水面のように揺らぎ始める。やがて光の中心から1人の少女が姿を現すと、砂浜にふわりと降り立った。足元に舞い上がった砂が静かに収まり、彼女の長い水色の髪だけが、遅れて吹き抜けた潮風になびいた。
「……あれ?」
少女は周囲を見回し、困惑したように瞬きをした。白磁のように透き通った肌と、澄んだ水色の瞳。純白のワンピースの上には、水色の模様があしらわれた白い軽鎧をまとい、その背中には、彼女の身長とほぼ同じ長さを持つ巨大な大剣が背負われていた。
華奢な体格にはいかにも不釣り合いな剣だったが、少女はその重さを少しも苦にしていないようだった。
ヒルダはしばらく海を眺めたあと、もう1度、自分が現れたはずの空間へ目を向けた。しかし、そこには何の痕跡も残っておらず、ただ穏やかな波の音が聞こえてくるだけだった。
「……困りましたね。ここは、どこなのでしょうか」
独り言のように呟きながら、ヒルダは目を閉じて周囲のマナを探った。空気にも大地にも、確かに魔力に似たものが満ちている。しかし、その流れや性質は彼女が慣れ親しんだものとは微妙に異なっており、少なくとも見知った土地ではないようだった。
シヴァ、マリン、ハンス。共に幾度もの死線を越えてきた仲間たちの顔が、自然と脳裏に浮かぶ。つい先ほどまで自分がいたはずの場所から、どうしてこんな見知らぬ島へ来てしまったのか、まるで見当がつかなかった。
不安がないわけではなかった。それでもヒルダは、焦って動き回るよりも、まず自分の置かれた状況を確かめようと考えた。幸い身体に異常はなく、愛用の大剣《アストレア》も無事で、魔法も問題なく使えるようだった。
そうして周囲を調べようとしたところで、背後の茂みから小さな物音が聞こえた。
茂みの向こうから現れたのは、金色に輝く小さな生き物だった。丸みを帯びた身体に、ちょこんとした目と口。小さな羽を動かしてふわふわと宙に浮かびながら、好奇心いっぱいの様子でヒルダを見つめている。
「まあ……」
思わず声を漏らしたヒルダに、その生き物は元気よく鳴いてみせた。
「ピィ!」
どうやら警戒しているわけではないらしく、ヒルダがしゃがんで手を差し出すと、ためらうことなく掌の上に乗ってきた。金色の身体は見た目よりもしっかりとした感触だったが、その愛らしい仕草に、ヒルダは自然と頬を緩めた。
「ふふっ。こんにちは。あなたは、この島に住んでいるんですか?」
「ピィ、ピィ!」
「そうなんですね。わたし、少し道に迷ってしまったみたいで……。もしよかったら、この島のことを教えていただけませんか?」
もちろん、相手の返事を言葉として理解できるわけではない。それでもヒルダが真剣な顔で話しかけていると、金色の生き物は嬉しそうに身体を揺らし、彼女の周囲をくるくると飛び回り始めた。
そのとき、森の奥から少年の声が響いた。
「ゴメちゃーん! どこ行ったんだよー!」
続いて茂みが大きく揺れ、緑色の服を着た少年が勢いよく飛び出してきた。年の頃はまだ幼く、手には使い込まれた小さな剣を持っていたが、その表情には物騒な雰囲気など微塵もない。
「あっ、いた! ゴメちゃん、こんなところに……って、あれ?」
少年はヒルダの姿を認めると、驚いたように足を止めた。金色の生き物が嬉しそうに少年のもとへ飛んでいったので、どうやら2人は知り合いらしい。しかし、少年の視線はすぐにヒルダへと戻り、今度は信じられないものを見るように目を丸くした。
「に、人間!? 女の人だ!」
その反応に、ヒルダは少し不思議そうに首を傾げた。人間を見てここまで驚かれるとは思っていなかったが、少年の様子には敵意よりも純粋な好奇心が強く表れている。彼女が穏やかに微笑みかけると、少年は何かを思い出したように慌てて口を開いた。
「あ、そうだ! オレ、ダイっていうんだ! 姉ちゃんは誰? どうやってこの島に来たの?」
「わたしはヒルダといいます。よろしくお願いしますね、ダイくん。ええと……どうやって来たのかは、わたしにもよく分からなくて……」
「ええっ!? 分からないの!?」
ダイはますます目を丸くした。ヒルダが困ったように笑うと、彼はしばらく彼女の顔を見つめていたが、やがてその背中にある巨大な剣に気づき、ぱっと表情を輝かせた。
「うわあっ! すっげえ剣!!」
先ほどまでの疑問など、すっかり頭から消えてしまったらしい。ダイはヒルダの周囲を回り込み、背中に斜めに背負われたアストレアを食い入るように見つめた。鞘に収められた大剣は、幼い少年にとって、これまで目にしたこともないほど巨大なものだった。
「ねえねえ、これ姉ちゃんの剣!? こんなでっかいの、どうやって振るんだよ!」
「ええ、わたしの剣ですよ。少し大きいので、最初は扱うのが大変でしたけど……」
「少しどころじゃないって! オレの身長より長いじゃん!」
ダイのもっともな指摘に、ヒルダは改めて自分の背中を振り返った。長年使い続けているため、すっかり慣れてしまっていたが、確かに初めて見る人にとっては相当奇妙な代物なのだろう。そう考えると少しおかしくなり、彼女は小さく笑った。
「姉ちゃん、もしかして勇者なの!?」
「勇者……ですか?」
「そう! 悪い魔王をやっつけたり、困ってる人を助けたりする、すっごく強い勇者! オレもいつか勇者になりたいんだ!」
胸を張って宣言するダイの目は、まっすぐに輝いていた。その姿を見て、ヒルダはどこか懐かしい気持ちになる。誰かを守りたいと願い、強くなることを目指す少年の純粋な思いが、微笑ましかった。
「ふふっ。わたしは勇者ではありませんけど、剣と魔法を使って旅をしていました。困っている人のお手伝いも、少しだけ」
「剣と魔法!? じゃあ、魔法戦士ってやつ!?」
「そうですね。魔法剣士、というのが1番近いでしょうか」
「すっげえ! なあ、姉ちゃん! 剣の使い方、オレにも教えてくれない!?」
勢いよく詰め寄られ、ヒルダは思わず目を瞬かせた。まだ互いの名前を知ったばかりなのに、もう剣の稽古を頼まれるとは思っていなかった。だが、期待に満ちた少年の顔を見ていると無下に断る気にもなれず、どう答えようかと考え込んでしまう。
「オレさ、ブラスじいちゃんに魔法を教えてもらってるんだけど、全然うまくならないんだ。でも剣なら結構得意なんだぜ! だから、もっと強くなりたいんだ!」
「ブラスじいちゃん……?」
「あっ、そっか! 姉ちゃん、島のこと知らないんだもんな。よし、だったらオレが案内してやるよ! ブラスじいちゃんにも会わせてあげる!」
ダイはそう言うと、ヒルダの返事も待たずに森へ向かって歩き始めた。少し進んだところで彼女がついてきていないことに気づくと、慌てて振り返って大きく手を振る。その無邪気な姿に、ヒルダは思わず笑みを深め、立ち上がって少年の後を追った。
見知らぬ場所に突然迷い込んでしまったが、幸いにも最初に出会ったのは親切な少年だった。少なくとも今は、彼の厚意に甘えてみてもよさそうだった。
◇ ◇ ◇
デルムリン島の森を歩きながら、ヒルダは何度も驚かされることになった。
道端ではスライムが跳ね回り、木の枝にはドラキーがぶら下がっている。森の奥からは大柄な魔物が姿を見せることもあったが、ダイが声をかけると、どの魔物も親しげに応じていた。中にはヒルダを珍しそうに眺めるものもいたものの、襲いかかってくる様子はない。
「ここにいる魔物たちは、みんなダイくんのお友達なんですね」
「そうだよ! みんないいやつなんだ。たまに喧嘩したりするけどさ、すぐ仲直りするし!」
「そうですか……。とても素敵なところですね」
ヒルダは心からそう思った。彼女がこれまで旅してきた世界でも、人々と共存する魔物たちは存在していた。しかし、この島ではそれが特別なことでも何でもないらしい。ダイと魔物たちが交わす何気ない挨拶からも、普段の暮らしぶりが自然と伝わってきた。
木々の間を進んでいると、小さなスライムがヒルダの足元へ近づいてきた。彼女がしゃがんで手を差し出すと、スライムは嬉しそうに飛び跳ね、掌に身体を擦りつけてくる。その姿を見たダイは、なぜか少し誇らしげに笑った。
「へへっ。姉ちゃん、魔物が怖くないんだな!」
「え? どうしてですか?」
「だって、島の外から来る人間って、魔物を見ただけで逃げたり、いきなり攻撃したりすることもあるんだ。姉ちゃんは全然そんなことしないからさ」
ダイの言葉に、ヒルダは少しだけ表情を曇らせた。魔物の中には確かに恐ろしい存在もいるし、人間が彼らを警戒する理由も理解できる。それでも、目の前で無邪気に甘えてくるスライムを見ていると、姿や種族だけで相手を判断することなど、とてもできなかった。
「怖い魔物さんも、確かにいます。でも、この子たちは何も悪いことをしていませんから。怖がる理由も、傷つける理由もありませんよ」
「……そっか!」
ダイは嬉しそうに笑うと、再び先頭に立って歩き始めた。ヒルダもスライムに別れを告げ、少年の後に続く。どうやらダイにとって、この島の魔物たちは本当に大切な家族なのだろう。
やがて森の中に開けた場所が現れ、木々に囲まれた小さな住居が見えてきた。
「ブラスじいちゃーん! お客さん連れてきたぞー!」
ダイが大声で呼びかけると、家の中から何やら慌ただしい物音が聞こえてきた。しばらくして姿を現したのは、長い杖を持った鬼面道士だった。ヒルダにとっては見慣れない種族だったが、その仕草や表情には、どこか人間の年長者を思わせるものがあった。
「なんじゃ、ダイ。そんな大声を出さんでも聞こえておるわい。まったく、お前というやつは……」
呆れた様子で出てきたブラスだったが、ダイの後ろに立つヒルダを見た瞬間、ぴたりと言葉を止めた。彼の視線は少女の顔から背中の大剣へと移り、その表情に警戒の色が浮かぶ。魔物ばかりが暮らすこの島に、見知らぬ人間が現れたのだから当然の反応だった。
「……人間の娘さん、かの?」
「はい。ヒルダと申します。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」
ヒルダが丁寧に頭を下げると、ブラスは少し意外そうな顔をした。目の前の少女は、鬼面道士である自分を見ても怖がるどころか、当たり前のように礼儀正しく挨拶をしてくる。見知らぬ人間への警戒は残っていたものの、少なくとも敵意はなさそうだった。
「いやいや、これはご丁寧に。わしはブラスと申す。この島でダイを育てておる者じゃ。して、ヒルダ殿はどちらからお越しになったのかの?」
「それが……少し遠いところから来たのですが、どうやら道に迷ってしまったようでして……」
ヒルダは言葉を選びながら事情を説明した。もっとも、突然見知らぬ場所に現れた理由は彼女自身にも分からず、どうしてこの島に来てしまったのかと尋ねられても、答えようがない。結局、気づいたときには海岸にいたのだと正直に話すことになった。
ブラスは首をひねりながら話を聞いていた。いささか信じがたい話ではあったが、少女が困り果てていることだけは確からしい。何より、ダイがすっかり懐いている様子を見ると、むやみに追い返す気にもなれなかった。
「ふむ……。世の中には不思議なこともあるものじゃな。まあ、何にせよ、困っておる者を放っておくわけにもいかん。よろしければ、しばらくここで休んでいかれるとよい」
「本当ですか? ありがとうございます、ブラスさん」
「なあ、じいちゃん! ヒルダ姉ちゃん、剣と魔法が使えるんだって! オレにも剣を教えてくれるかな!?」
「これ、ダイ! お客人が来たばかりじゃというのに、いきなり何を頼んでおるんじゃ!」
ブラスが呆れたように杖で地面を叩くと、ダイは不満そうに口を尖らせた。そのやり取りがあまりにも自然で、ヒルダは思わず笑ってしまう。どうやらこの2人は、本当の祖父と孫のような関係らしい。
「ふふっ。構いませんよ。わたしでよければ、少しだけお相手します」
「ほんと!? やったあ!」
ダイは飛び上がって喜んだが、ブラスはますます困った顔になった。ヒルダの背中にある剣を見れば、彼女がただの旅人ではないことくらいは想像できる。それだけに、ダイが調子に乗って無茶なことを言い出さないか、心配になったのだろう。
「まったく……。ヒルダ殿、この子は1度言い出したら聞かんところがありましてな。どうか無理はなさらんでくだされ」
「はい。大丈夫ですよ」
ヒルダが穏やかに微笑むと、ブラスもようやく緊張を解いたようだった。もっとも、何かと手のかかる孫が、また新しい遊び相手を見つけてしまったことには、少々複雑な気持ちがあるらしい。
それでも、見知らぬ土地で行き場を失っていたヒルダにとって、2人の温かな歓迎は何よりもありがたかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
ヒルダが目を覚ますと、家の外から元気のよい掛け声が聞こえてきた。窓の向こうでは、まだ朝日が木々の梢を照らし始めたばかりだというのに、ダイが木剣を手に何度も素振りを繰り返している。
「えいっ! やあっ! ……よし!」
勢いよく剣を振り下ろす姿には、子供らしい荒削りな部分が目立つ。しかし、その動きは決して悪くなかった。身体全体を使って剣を振るう感覚が自然と身についているようで、ヒルダはしばらく窓から眺めたあと、静かに外へ出た。
「おはようございます、ダイくん。ずいぶん早起きですね」
「あっ、ヒルダ姉ちゃん! おはよう! 昨日、剣を教えてくれるって言っただろ? だから、朝から練習してたんだ!」
「まあ……。とても熱心なんですね」
ヒルダが感心すると、ダイは照れくさそうに笑った。手にした木剣を構え直し、期待に満ちた目で彼女を見上げる。その様子に、ヒルダは少し考えたあと、近くに落ちていた枝を拾い上げた。
「では、少しだけお相手しましょうか。ただし、わたしは誰かに剣を教えた経験があまりありませんので、上手に説明できるかは分かりませんけど……」
「大丈夫だって! とにかく、いっぺん戦ってみようぜ!」
「ふふっ。分かりました。でも、お互いに怪我をしないように気をつけましょうね」
そう言って、ヒルダは枝を片手に持った。特別な構えを取るわけでもなく、ごく自然に身体の前へ差し出しているだけだったが、その姿を見たダイは、なぜか少しだけ緊張を覚えた。
隙だらけに見えるのに、どこから攻撃すればいいのか分からない。剣を振り下ろせば簡単に当たりそうなのだが、相手の動きを想像しようとすると、どうしても上手くいかなかった。
「……よーしっ!」
ダイは気合いを入れて地面を蹴った。小柄な身体からは想像しにくいほど鋭い踏み込みで、一気にヒルダとの間合いを詰める。そのまま渾身の力で木剣を振り下ろしたが、ヒルダは半歩だけ身体を動かし、軽く枝を添えて攻撃の軌道を逸らした。
「あれっ!?」
思っていた場所に剣が当たらず、ダイは少しよろめいた。それでもすぐに体勢を立て直し、今度は横から斬りかかる。ヒルダはわずかに身体を引き、振り抜かれる木剣に枝を滑らせるようにして、その一撃も難なく受け流した。
手応えがないまま攻撃をかわされ、ダイは不思議そうに自分の木剣を見つめた。力いっぱい振っているはずなのに、ヒルダの持つ細い枝は折れることもなく、彼女自身もほとんどその場から動いていない。
「うーっ! なんで当たんないんだよ!」
悔しそうに声を上げながらも、ダイはすぐに次の攻撃を繰り出した。ヒルダはその動きを注意深く観察しながら、必要なときだけ枝を動かしている。少年の剣には無駄な力が入っている部分も多かったが、思い切りのよさと身体能力はなかなかのものだった。
「ふふっ。ダイくんは、とても力強いですね。でも、剣を振るときに、少しだけ身体が前に出すぎているみたいです」
「身体が?」
「はい。今みたいに大きく踏み込むと、剣が届く距離は長くなります。でも、そのぶん次の動きに移るのが難しくなってしまうんです」
ヒルダはゆっくりと枝を構え、先ほどダイが見せた動きを再現した。さらに、少しだけ足の位置を変えて同じ動作を繰り返す。見た目には大きな違いがないように思えたが、剣を振り終えたあとの姿勢には明らかな余裕があった。
「ほら。こうすると、次の攻撃にも移りやすくなりますよ」
「へえーっ! なるほど!」
ダイは早速真似をしてみた。最初はぎこちなかったものの、何度か繰り返すうちに少しずつ動きが滑らかになっていく。ヒルダが教えたことを自分なりに工夫しながら試しているようで、その飲み込みの早さには彼女も感心させられた。
「よしっ! もう1回やろうぜ、ヒルダ姉ちゃん!」
「はい。でも、あまり無理をしないでくださいね」
再び向かい合うと、ダイは先ほど教わった足運びを意識しながら斬りかかってきた。最初の一撃こそ簡単にかわされたものの、今度は勢い余って身体が流れることもなく、すぐに次の攻撃へ移ろうとする。ヒルダはその変化を見逃さず、少年が繰り出す剣を受け流しながら、時折短い助言を与えた。
そうして始まった朝の稽古は、ダイが満足するまで続いた。
結局、ダイの木剣がヒルダに触れることは1度もなかったが、少年は不思議と悔しそうではなかった。むしろ、今まで知らなかった剣の使い方を教わったことが嬉しくてたまらないらしく、稽古が終わったあとも何度も同じ動きを繰り返している。
一方、ヒルダもまた、思いがけない発見をしていた。
ダイは確かにまだ幼く、剣術も荒削りだった。しかし、わずかな助言を与えただけで動きが目に見えて改善されるほど、優れた感覚を持っている。特に、攻撃を受け流された直後の反応には、長年実戦を経験してきたヒルダでさえ感心するものがあった。
おそらく、剣の扱いをきちんと学べば、驚くほどの成長を見せるだろう。もっとも、その才能がどこまで伸びるのかは、今の彼女にも分からない。何よりダイ自身が、強くなることよりも剣を振るう楽しさに夢中になっているようだった。
そんな少年のひたむきな姿を見守っていると、ヒルダもまた、自分がまだ大きすぎる剣を持て余していた頃を思い出す。今では自在に扱えるアストレアも、幼い頃は運ぶことさえ大変だった。あの頃の自分が、目の前の少年ほど楽しそうに剣を振るえていたかどうかは分からなかったが、その真剣な眼差しにはどこか親しみを覚えた。
「ヒルダ姉ちゃん?」
ダイに呼ばれ、ヒルダは我に返った。
「はい。どうしました?」
「姉ちゃんってさ、やっぱりすっごく強いんだろ?」
「えっ? あ、いえ……そんなことは……」
ヒルダは少し困ったように視線を泳がせた。自分がこれまで積み重ねてきた努力に、何の自覚もないわけではない。しかし、彼女は自分よりも優れた戦士を何人も知っており、目を輝かせて答えを待っている少年に、どう説明したものかと考えてしまう。
「わたしより強い方は、たくさんいらっしゃいますよ」
「ええーっ!? 姉ちゃんより強いやつがいるの!?」
「はい。とても強くて、頼りになる人たちです」
ヒルダは穏やかに微笑んだ。脳裏に浮かんだのは、幾度となく背中を預け合い、苦しい戦いを共に乗り越えてきた仲間たちの姿だった。彼らが今どうしているのか分からないことに胸の奥が少し痛んだが、ダイの前で暗い顔をするつもりはなかった。
「すっげえなあ……。オレもいつか、そんなふうに強くなりたい!」
「きっとなれますよ、ダイくん」
「ほんと!?」
「はい。だって、こんなに一生懸命なんですから」
ヒルダが微笑むと、ダイは嬉しそうに笑った。その笑顔はあまりにもまっすぐで、見ているこちらまで温かな気持ちになる。
この島へ来たばかりの頃、ヒルダはどうすれば元の場所へ戻れるのか、そればかりを考えていた。もちろん、仲間たちのもとへ帰りたいという思いが消えたわけではない。しかし、今のところ帰るための手がかりはなく、むやみに島を離れたところで何かが分かるとも限らなかった。
それならば、まずはこの土地のことを知り、少しずつ手がかりを探していけばよいだろう。幸い、ブラスはしばらく滞在しても構わないと言ってくれているし、ダイともこうして仲良くなることができた。
「……もう少しだけ、ここにお世話になってもいいかもしれませんね」
「ん? なんか言った、姉ちゃん?」
「ふふっ。何でもありませんよ」
ヒルダは小さく首を振り、青く広がる空を見上げた。
デルムリン島には、今日も穏やかな風が吹いている。木々の向こうからは魔物たちの楽しげな声が聞こえ、少し離れた家では、ブラスが朝食の支度をしながらダイを呼んでいた。
見知らぬ土地で迎えた初めての朝だったが、こうしていると、ずっと以前からこの島で暮らしていたかのような不思議な親しみを感じる。ヒルダはもう1度、朝日に照らされた森を眺め、それから小さく微笑んだ。
「ヒルダ姉ちゃーん! 早く来いよー! 朝飯だってさー!」
「はーい。今行きますね」
森の向こうから響く元気な声に返事をして、ヒルダはゆっくりと歩き始めた。
――第1話・了――