白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
パプニカの夜空に、久しぶりに人々の笑い声が響いていた。
かつて王国の中心として栄えた都は、今も戦火の傷跡を色濃く残している。壮麗だった建物の多くは崩れ落ち、石畳には無数の亀裂が走り、街のあちこちには瓦礫が積み上げられていた。以前の賑わいを取り戻すには、まだ長い時間が必要だろう。
それでも、この夜ばかりは人々の表情が明るかった。
魔王軍との戦いに勝利し、氷の中に閉じ込められていたレオナ姫が無事に救い出されたのである。神殿跡の一角には急ごしらえの食卓が並べられ、兵士や生き残った住民たちが持ち寄った食料で、ささやかな祝宴が開かれていた。豪華な料理も華やかな装飾もなかったが、篝火の周りには互いの無事を喜ぶ人々の笑顔が溢れていた。
「いやあ、まったく! よくぞ魔王軍の奴らを追い払ってくれました!」
上機嫌で杯を掲げたバダックの顔は、すっかり赤くなっていた。周囲の兵士たちも嬉しそうに杯を掲げ、長い戦いを生き延びた喜びを分かち合っている。
「それもこれも、勇者ダイ殿と、そのお仲間たちのおかげですな!」
その言葉に、周囲から歓声が上がった。
ダイは照れくさそうに頭を掻き、ポップもまんざらではない様子で胸を張っている。マァムはそんな2人を見て笑っていたが、その表情には、激しい戦いを終えた安堵が浮かんでいた。
少し離れた席では、ヒルダも人々の笑顔を見つめていた。
長い水色の髪を背中へ流し、純白のワンピースの上には、いつもの白い軽鎧をまとっている。戦いで負った傷はマァムの《ベホイミ》によってほぼ塞がっていたものの、使い果たしたマナはまだ十分に回復しておらず、身体には重い疲労が残っていた。
「ヒルダさん、本当に起きていて大丈夫なの?」
隣に座ったマァムが、心配そうに顔を覗き込んだ。
「はい。おかげさまで、だいぶ楽になりました。ご心配をおかけして、すみません」
「謝らなくてもいいけど、無理だけはしないでね。あなた、さっきも宴の準備を手伝おうとしてたでしょう?」
「……皆さん、とてもお忙しそうでしたから……」
「もう。今日はあなたも休むの!」
きっぱりと言われ、ヒルダは少し困ったように微笑んだ。身体を休ませるべきだとは分かっているのだが、傷ついた街で懸命に働く人々を見ていると、どうしても手を貸したくなってしまう。そんな彼女の性格を、マァムは出会って間もないというのに、すっかり見抜いているようだった。
「……分かりました。今日はちゃんと休ませていただきますね」
「本当かしら?」
マァムが悪戯っぽく笑うと、ヒルダも小さく笑みを返した。
そのとき、宴の向こう側から明るい声が聞こえてきた。
「ダイくーん!」
振り返ると、レオナがこちらへ駆け寄ってくるところだった。氷の中に閉じ込められていたときの青白い顔色はすでに失われ、年頃の少女らしい快活な笑顔を取り戻している。
「レオナ! よかったあっ! 元気になったんだね!」
ダイも嬉しそうに顔を輝かせた。
「ダイオウイカみたいに真っ白い顔してたから心配してたんだよ!」
「…………」
レオナの笑顔が、ぴたりと止まった。
何やら不穏な気配を感じたポップが、思わず一歩後ずさる。その直後、レオナの拳がダイの顔へ飛んだ。
「いってえっ!?」
「んもうっ! ちょっとは雰囲気ってものを考えてよね、ダイくん!」
「ええっ!? だって、心配してたのは本当だよ!」
「そこじゃないの! せっかく久しぶりに会えたんだから、もっと素敵な言葉があるでしょう!?」
まったく噛み合わない2人のやり取りに、ポップは吹き出し、マァムも口元を押さえて笑っていた。しかし、ヒルダだけは心配そうにダイの顔を覗き込んでいる。
「……ダイくん、大丈夫ですか?」
「う、うん……。でも、何で殴られたんだろ……?」
ダイが不思議そうに首を傾げると、ヒルダも真剣な顔で考え込んだ。そして、何か思いついたように顔を上げる。
「……そうですね……。ダイオウイカではなく、もっと可愛らしい海の生き物に例えた方がよかったのかもしれませんね」
「そっか! じゃあ、何がいいと思う?」
「……ええと……クラゲ、でしょうか。透き通っていて、とても綺麗ですし……」
「なるほど!」
「ちょっと! どうして海の生き物から離れないのよっ!!」
レオナが思わず叫んだ。
「ぶはははっ! ヒルダまで何言ってんだよ! そういう問題じゃねえだろ!」
とうとう腹を抱えて笑い出したポップに、ヒルダはきょとんとした顔を向けた。本人は至って真面目に考えたつもりらしく、何がおかしかったのか分かっていないようだった。
レオナは呆れたように2人を見比べていたが、やがて自分までおかしくなってしまったらしい。小さく噴き出すと、ダイの顔を覗き込んだ。
「……もう。ダイくんったら、相変わらずなんだから」
「……へへっ!」
「でも、本当にありがとう。助けに来てくれて、嬉しかったわ」
その言葉に、ダイも嬉しそうに笑った。
ほんの少し前まで、互いの無事さえ確かめられなかった2人が、こうして顔を見合わせて笑っている。その光景を眺めながら、ヒルダも胸の奥に温かなものが広がっていくのを感じていた。
◇ ◇ ◇
「そういえば、ちゃんと紹介してもらってなかったわね。みんな、ダイくんの仲間なの?」
レオナは改めて周囲を見渡した。
バルジの塔で捕らわれる直前、ポップやマァムの姿を目にする機会はあったものの、ゆっくりと言葉を交わす余裕などなかった。ダイから2人を紹介されると、レオナはそれぞれに礼を述べ、最後にヒルダへ顔を向けた。
「……わあ。あなた、すごく綺麗な人ね!」
「……えっ?」
思いがけない言葉に、ヒルダの方が驚いてしまった。
「この人がヒルダ姉ちゃんだよ! デルムリン島でオレに剣を教えてくれたんだ!」
「……初めまして、レオナさん。ヒルダと申します」
ヒルダは丁寧に一礼した。
「……ご無事で、本当によかったです。お身体の具合は、もう大丈夫でしょうか?」
「ええ、もう平気よ! それに、私のことはレオナでいいわ。そんなにかしこまらなくたっていいんだから!」
「……ふふっ。ありがとうございます。でも、レオナさんとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「もう、結局さん付けなのね!」
レオナが楽しそうに笑い、ヒルダもつられて微笑んだ。初めて言葉を交わしたというのに、王女はまるで以前からの友人のように気さくで、その明るさにヒルダも自然と心が和んでいく。
「そうだ、レオナ! ヒルダ姉ちゃんってすごいんだよ! あのフレイザードを真っ二つにしちゃったんだから!」
「ええっ!? あのフレイザードを!?」
レオナが目を丸くすると、ポップも興奮気味に口を挟んだ。
「俺も目の前で見たけどよ、あれにはさすがに驚いたぜ!」
「……でも、わたしは最後まで倒しきれませんでした。フレイザードを倒したのはダイくんですから」
ヒルダは少し困ったように微笑んだ。あのとき自分ができたのは、フレイザードの猛攻を食い止めることまでだった。最後に敵を倒し、レオナを救い出せたのは、ダイたちが諦めずに戦い続けてくれたからである。
その後、レオナはダイたちから、これまでの旅について聞き始めた。ロモスでの戦いや魔王軍の軍団長たちとの遭遇、そしてバルジ島で繰り広げられた激戦。3人が交互に話すたび、レオナは驚いたり笑ったりしながら、楽しそうに耳を傾けていた。
やがて、彼女の視線が少し離れた場所に立つ銀髪の青年へ向けられた。
「……ところで、ダイくん。あそこにいる剣士も、アバンの使徒なの?」
「……えっ!?」
ダイの表情が強張った。
隣にいたポップもぎくりと肩を震わせ、2人は思わず顔を見合わせる。そんな様子を不思議に思ったレオナが首を傾げたところへ、青年が静かに歩み寄ってきた。
「……ダイ。もういい」
「……ヒュンケル……」
青年はダイの傍らを通り過ぎ、レオナの前へ進み出た。
銀色の髪と端正な顔立ちを持つ青年には、どこか近寄りがたい雰囲気があった。レオナはその真剣な眼差しを見上げ、少し不思議そうに尋ねる。
「……あなた、お名前は?」
ヒュンケルは一瞬だけ目を伏せた。そして、静かに顔を上げる。
「……俺の名は……魔王軍、不死騎団長ヒュンケル」
「……不死騎団長……!?」
レオナの表情が一変した。
近くにいた兵士たちも驚いて振り返り、周囲には低いざわめきが広がっていく。王都を襲い、多くの命を奪った不死騎団。その軍団長が目の前にいるという事実は、パプニカの人々にとって到底聞き流せるものではなかった。
「ち、違うんだ、レオナ! ヒュンケルはもう悪い奴じゃないんだよ!」
ダイが慌てて口を挟んだが、ヒュンケルは静かに首を振った。
「……よせ、ダイ。かばってもらう必要はない」
青年は改めてレオナへ向き直った。
「俺がこの国を襲い、多くの人々を苦しめたことは事実だ。今さら魔王軍を離れたところで、その罪が消えるわけではない」
ヒュンケルの声には、少しの迷いもなかった。
「……レオナ姫。俺をあなたの手で裁いてほしい。ここで命を奪われようとも、文句はない」
レオナは何も言わず、青年を見つめていた。
自分の国を滅ぼしかけた軍団の長が、目の前にいる。大勢の人々が命を落とし、多くの家族が引き裂かれたことを思えば、簡単に許せるはずもなかった。
けれど、ヒュンケルは逃げようとも、言い訳をしようともしていない。その眼差しには、自らの罪を受け止めようとする覚悟があった。
やがて、レオナは静かに口を開いた。
「……分かったわ。あなたの望みどおり、私が裁きを下します」
ダイとポップが息を呑んだ。ヒュンケルは黙ってレオナの言葉を待ち、その場に立ち続けている。
「……ヒュンケル。あなたには、これからアバンの使徒として生きてもらうわ」
「……!」
青年の目が、大きく見開かれた。
「あなたが奪ってしまった命は、もう戻らない。でも、これから先、あなたの力で救える命はきっとあるはずよ。だったら、その剣をもう誰かを苦しめるために使うんじゃなくて、人々を守るために使ってほしいの」
レオナは一歩近づき、真っ直ぐにヒュンケルを見つめた。
「……自分の過ちから目を逸らさず、これからの人生を懸けて償っていくの。そして、道に迷ったときにはアバン先生が教えてくれたことを思い出して。それが、私からあなたへ下す裁きよ」
ヒュンケルはしばらく言葉を失っていた。
罰を受ける覚悟はできていた。憎しみを向けられることも、命を奪われることさえ、当然の報いだと思っていた。しかし、目の前の王女が示した道は、それとはまったく異なるものだった。
生き続けること。そして、自らの手で守れる命を、ひとつでも多く守ること。
それは過去の罪を忘れてよいという意味ではない。むしろ、これからも自らの行いに向き合い、その重さを背負いながら歩み続けることを求められているのだろう。
「……レオナ姫……」
やがてヒュンケルは、王女の前へ静かに膝をついた。
「……承知しました……!」
その声には、深い感謝と確かな決意が宿っていた。
周囲の人々の反応は一様ではなかった。なお険しい表情を浮かべる者もいたが、レオナが軽い気持ちでこの決断を下したのではないことは、誰もが感じ取っていた。
ヒルダはその光景を静かに見つめていた。
かつて王城の地下で剣を交えた青年が、今こうして自らの過ちと向き合い、新たな道へ踏み出そうとしている。その姿を目にして、胸の奥が少し温かくなった。
その後、レオナはダイたちから、ヒュンケルが地底魔城で彼らを救い、マグマの中からヒルダに助け出された経緯を聞いた。また、パプニカの兵士たちが、水色の髪と白い鎧、巨大な銀白色の剣を持つ女剣士の噂を口にし始めたのも、その頃だった。
王都が陥落する以前から各地の村や街で不死騎団を退け、陥落後も避難民を守っていたというその剣士が、目の前のヒルダであると知り、人々の間には驚嘆の声が広がった。ヒルダは突然集まった視線に頬を赤くし、自分ひとりの力ではなく、皆が助け合ったからこそ救えた命もあったのだと、控えめに答えるばかりだった。
「……それでも、あなたに助けられた人たちがいるのは本当でしょう?」
レオナは優しく微笑んだ。
「パプニカの人たちを守ってくれて、本当にありがとう」
「……ありがとうございます、レオナさん」
ヒルダが静かに頭を下げると、周囲からも感謝の言葉が上がった。救えなかった命への悔いが消えることはなかったが、人々が再び笑顔を取り戻していることは、何より嬉しかった。
やがて宴には穏やかな賑わいが戻り、篝火の周りには再び人々の笑い声が広がっていった。
◇ ◇ ◇
夜が更けた頃、ヒルダは神殿跡の石段に腰を下ろし、空を見上げていた。
潮風に乗って聞こえてくる人々の笑い声は、パプニカへ来てから何度も耳にしてきた悲鳴や怒号とはまるで違う。傷ついた街の片隅に、ようやく小さな平穏が戻ってきたことを、彼女は静かに喜んでいた。
「ヒルダ姉ちゃん!」
聞き慣れた声に振り返ると、ダイとポップが歩いてきた。ダイの手には料理の載った小さな皿があり、ヒルダがあまり食べていなかったことに気づいたらしい。
「ほら、ヒルダ姉ちゃんも食べなよ! さっきから全然食べてないでしょ?」
「……ありがとうございます、ダイくん」
ヒルダが微笑んで皿を受け取ると、ダイはその隣へ腰を下ろした。ポップも向かいの石段に座り込み、しばらく3人で宴の様子を眺めていたが、やがてダイが何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、ヒルダ姉ちゃん。アバン先生と剣を交えたことがあるって言ってたよね?」
「……はい」
「先生とどんな手合わせをしたの? オレ、ずっと気になってたんだ!」
その言葉に、ヒルダの表情が少し和らいだ。
「……実は、ダイくんとポップさんがお休みになったあと、アバンさんともう一度だけお手合わせをさせていただいたんです」
「ええっ!? そんなことしてたの!?」
「ちょっと待てよ! 俺たち、そんなの全然知らねえぞ!?」
「……ふふっ。お2人には、内緒でしたから」
ヒルダは懐かしそうに微笑んだ。
思い出すのは、デルムリン島を発つ前夜のことだった。月明かりの下、波音を聞きながらアバンと剣を交えたあの時間。昼間の木剣による手合わせとは違い、互いの技量を確かめ合うような、静かで緊張感のある攻防だった。
「……あの夜、《アバンストラッシュ》も見せていただいたんです。わたしもアストレアと風のマナでどうにか受け止めて、海の方へ力を逸らしたのですが……本当に、素晴らしい剣技でした」
「へえっ! それで、どっちが勝ったの!?」
目を輝かせるダイに、ヒルダは少し困ったように笑った。
「……どちらが勝ったというより、お互いの剣を確かめ合うような手合わせでしたね。わたしにとっても、とても勉強になりました」
アバンがあの一撃に込めた力は、手合わせのために慎重に抑えられていた。それでも、剣を通して伝わってきた技の鋭さと、緻密に制御された力は、今も鮮明に覚えている。
「……アバンさんは、ダイくんたちのことも、とても大切に思っていらっしゃいました」
その言葉に、ダイの表情が静かになった。
あの短い修行の日々を思い出しているのだろう。アバンはいつも穏やかで、できないことがあれば辛抱強く教えてくれた。そんな先生が、今はもういない。
「……ダイくん、ポップさん。アバンさんのこと、もう少し聞かせていただいてもよろしいでしょうか」
ヒルダの問いに、2人は顔を見合わせ、やがて頷いた。
それから、デルムリン島で起きた出来事が語られた。
突然現れた魔王ハドラー。アバンがかつてその魔王を倒した勇者だったこと。そして、弟子たちを守るため、自らの命を懸けて《メガンテ》を放ったこと。
最初はダイが話し、途中からポップも言葉を継いだ。あの日のことを思い出すうちに、2人の声が何度か震えたが、ヒルダはそのたびに静かに頷き、最後まで耳を傾けていた。
アバンがかつての勇者だったと知ったときには、驚きを隠せなかった。しかし、彼女の胸に浮かんだのは、あの穏やかな笑顔だった。
「……アバンさんらしい、ですね……」
話を聞き終えたヒルダは、小さく呟いた。
「……お2人を守りたかったんですね。本当に……最後まで、優しい方だったんですね……」
ダイとポップは何も答えなかった。
ヒルダも、それ以上言葉を重ねようとはしなかった。アバンが最後に選んだ行動を思えば、胸の奥に深い悲しみが広がっていく。それでも、あの人と出会い、剣を交え、短い時間をともに過ごせたことは、彼女にとって大切な思い出だった。
3人はしばらくその場を動かず、それぞれの記憶に残るアバンの姿を思い浮かべていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、ヒュンケルとクロコダインは神殿跡の外れへ向かっていた。
フレイザードが倒され、自分たちまで魔王軍を離れた今、敵が次にどのような手を打ってくるのか、探っておく必要がある。かつて魔王軍の軍団長だった2人だからこそ、敵の内情を知る手掛かりを得られるかもしれなかった。
「……鬼岩城へ向かうつもりか、ヒュンケル」
「……ああ。奴らがこのまま黙っているとは思えん。次の動きを確かめておきたい」
「……うむ。俺も同行しよう」
クロコダインは力強く頷いた。
2人が歩き出そうとした、そのときだった。
「……待って!」
背後から声が響いた。
振り返ると、マァムが駆け寄ってくるところだった。宴の途中で2人の姿が見えなくなったため、気になって探しに来たらしい。
「……マァム」
「……どこへ行くつもりなの?」
「魔王軍の動きを探りに行く。今のうちに、奴らの様子を確かめておきたい」
ヒュンケルの答えに、マァムは少し顔を曇らせた。
「……また危険なところへ行くのね」
「ああ。だが、俺たちなら敵の内情も多少は分かる。ダイたちが次の戦いへ備えるためにも、動いておくべきだ」
マァムは何か言いかけたが、結局その言葉を飲み込んだ。
彼が自分の過去を背負いながら、新しい道へ進もうとしていることは分かっている。危険だからといって引き止めることが、必ずしも彼のためになるわけではないのだ。
「……分かったわ。でも、絶対に無茶しないでね。ヒルダさんだって、あんなに必死になって助けてくれたんだから」
「……ああ。分かっている」
ヒュンケルの表情が、わずかに和らいだ。
「心配するな、マァム。俺もついている。そう簡単にやられはせん」
クロコダインが豪快に笑ったが、マァムはむしろ少し呆れたような顔をした。
「……もう。そういう人ほど無茶するんだから……」
そんな彼女をしばらく見つめていたヒュンケルが、やがて静かに口を開いた。
「……マァム。また会おう」
その言葉に、マァムは一瞬だけ目を見開き、ゆっくりと微笑んだ。
「……ええ。また会いましょう」
ヒュンケルは頷き、クロコダインとともに歩き始めた。
マァムは2人の背中が夜の闇へ消えていくまで、その場で見送っていた。かつて敵として出会った青年が、今は自らの意思で人々を守ろうとしている。その変化を思うと、寂しさとともに、どこか誇らしい気持ちが胸に広がっていた。
◇ ◇ ◇
それから数日が過ぎた。
パプニカの都では、レオナの指揮のもとで復興作業が進められていた。崩れた建物の瓦礫が取り除かれ、通行できなかった道がひとつずつ開かれていく。食料や資材はまだ十分ではなかったが、避難していた人々も少しずつ戻り始め、街には以前とは違う活気が生まれていた。
一方、ダイたちも次の戦いに備え、修行を始めていた。
数日間の休養によって、ヒルダの傷はすでに完治し、消耗していたマナも元通りになっている。アストレアを背負って身体を動かしてみても、戦いの疲労はすっかり抜けており、以前と変わらぬ軽やかさを取り戻していた。
この日、4人が集まっていたのは、パプニカ郊外の海を望む広い岩場だった。周囲には建物もなく、魔法の訓練を行うにも十分な広さがある。
「おい、ポップ! 何をボサッとしてやがる!」
「ひ、ひええっ! ちょっと待ってくれよ、師匠!」
岩場の一角では、大魔道士マトリフが弟子を怒鳴りつけていた。
かつてアバンたちとともに魔王ハドラーに立ち向かった、歴戦の魔法使いである。その腕前は並の魔法使いなど到底及ばないほどで、ポップも彼のもとで厳しい修行を続けていた。
「強い呪文を覚えりゃ、それだけで勝てると思ってんのか? 実戦じゃ、敵が都合よく待ってくれるわけじゃねえんだぞ!」
「分かってるって! だから、ちょっとくらい準備する時間を……!」
「敵に待ってくれって頼むつもりか、馬鹿野郎!」
容赦のない一喝に、ポップは思わず首をすくめた。
少し離れた場所では、ダイが面白そうに笑っている。マァムも苦笑していたが、マトリフの口の悪さには昔から馴染みがあった。アバンたちが魔王ハドラーを倒して平和になったあと、幼い頃から顔を合わせていた相手だけに、今さら驚くようなものではない。
「……ふふっ。賑やかな方ですね」
ヒルダが微笑むと、マァムも笑った。
「昔からあんな感じなのよ。でも、魔法の腕は本物だから、ポップもきっと強くなれるわ」
そんな2人の会話をよそに、マトリフが片手を上げた。
「よし、ポップ。好きなように攻撃してこい! 俺を倒すつもりで撃ってみろ!」
「へっ! 後悔すんなよ、師匠!」
ポップが杖を構え、《ギラ》を放った。
鋭い炎の閃光が岩場を走る。しかし、マトリフは同じ《ギラ》を軽々と放ち、真正面からぶつけると、ポップの炎を押し返して消し飛ばしてしまった。
「……なっ!?」
「同じ呪文でも、魔法力の込め方ひとつでこれだけ違うんだよ!」
驚く弟子へ、今度は《ヒャド》が放たれた。
冷気が岩肌を這うように広がり、ポップの足元を瞬く間に凍りつかせる。少年が慌てて逃れようとしたところへ、さらに《イオラ》の光が迫った。
「うわああっ!? ――《トベルーラ》ッ!!」
ポップは間一髪で空へ飛び上がった。
直後、足元で爆発が起こり、白い煙が噴き上がる。上空からその様子を見下ろしたポップは、得意げに笑った。
「へへっ! どうだ、師匠! もうそんな簡単にはやられねえぜ!」
「……ほう。ちったあ使えるようになったじゃねえか」
「へっへー! いくら師匠でも、ここまでは追ってこられねえだろ!」
「……誰が来られねえって?」
次の瞬間、マトリフの身体が猛烈な勢いで上昇した。
「……えっ!? ぎゃああっ!!」
逃げる間もなく体当たりを食らったポップは、情けない悲鳴を上げながら空中で大きく姿勢を崩した。どうにか《トベルーラ》を制御し直して地面へ降り立つと、息を切らしながら師匠を睨みつける。
「ち、ちくしょう! 反則だろ、今の!」
「どこが反則だ、馬鹿野郎! お前が使える呪文なら、俺だって使えるに決まってんだろ!」
マトリフは呆れたように鼻を鳴らした。
「いいか。魔法使いってのは、ただ強い呪文を撃てばいいってもんじゃねえ。相手がどう動くか、その先まで考えて戦うんだよ!」
ポップは悔しそうに唇を噛んだ。
そんなやり取りを見ていたダイが、興奮したように声を上げた。
「すげえや、マトリフさん! ねえ、オレにもそんな強い魔法、教えてよ!」
「……何だ、ダイ。お前まで魔法使いになりてえのか?」
「だって、ポップもどんどん強くなってるしさ。オレももっと強い呪文が使えたら、みんなを助けられるだろ?」
真剣な顔で答えるダイに、マトリフは小さく息をついた。
「いいか、ダイ。何でもかんでも自分ひとりでできる必要はねえんだ。お前にはお前の、ポップにはポップの役目がある。足りねえ力は、仲間が補えばいい」
「……えっ?」
「勇者にとって一番大事なのは、どんなに恐ろしい敵を前にしても、仲間のために進める勇気だ。お前がその心を失わなきゃ、一緒に戦ってくれる仲間がいるんだよ」
その言葉に、ダイは目を見開いた。
「……そっか。うん! 分かったよ、マトリフさん!」
少年が力強く頷くと、隣で聞いていたポップは少し照れくさそうに顔を背けた。
ヒルダもまた、穏やかに微笑んでいた。かつてシヴァやハンス、マリンとともに旅をしてきた彼女にとって、互いの得意なことを活かし、足りない力を補い合うことの大切さは、よく分かっていたからである。
◇ ◇ ◇
「そうだ、ヒルダ姉ちゃん!」
ダイが何かを思い出したように顔を上げた。
「今度はオレと剣の稽古しようよ! もうすっかり元気になったんでしょ!?」
ヒルダは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「……ふふっ。そうですね。では、久しぶりにお手合わせしましょうか」
「やったあ!」
ダイが歓声を上げた。
ヒルダは背中からアストレアを外し、岩場の端へ慎重に置いた。代わりに手にしたのは、稽古用に用意された丈夫な木剣だった。ダイも同じように木剣を持ち、彼女の向かい側へ立つ。
その姿を、マトリフが興味深そうに眺めていた。
「……何だ、あの嬢ちゃん。剣の腕も立つのか?」
「腕が立つなんてレベルじゃないぜ、師匠」
ポップが苦笑した。
「相当強いのは前から知ってたけどよ、あのフレイザードを目の前で真っ二つにしちまったときは、さすがに度肝を抜かれたぜ」
「……ほう?」
マトリフの片眉が上がった。
フレイザードといえば、魔王軍の軍団長だった怪物である。その相手を剣で両断したという話に、さすがの大魔道士も興味を引かれたらしい。
しかし、ポップ自身は今度の手合わせについて、少し違う期待も抱いていた。
クロコダインやヒュンケルとの死闘を経て、ダイの剣は飛躍的に進歩している。バルジ島ではアバン流刀殺法を極め、ついには《アバンストラッシュ》でフレイザードを倒したのだ。ヒルダが強いことは分かっていたが、今のダイならば、かつてデルムリン島で剣を教わっていた頃とはまるで違う戦いができるはずだった。
ひょっとすると、今度こそ勝てるのではないか。
そんな期待を胸に、ポップは2人の立ち合いを見守っていた。
「ヒルダ姉ちゃん! 今日は本気でいくからね!」
「……はい。楽しみにしています」
ヒルダも静かに構えを取った。
柔らかな潮風が、2人の間を吹き抜けていく。
デルムリン島で何度も向かい合った少年の姿を見つめながら、ヒルダはあの頃のことを思い出していた。剣を受け止められずに何度も尻餅をつき、それでも決して諦めず、稽古が終われば、また明日も教えてほしいと笑っていた少年。
そのダイが、今では魔王軍の軍団長を倒すほどの剣士へと成長している。
ヒルダの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「……では、どうぞ」
「いくよっ!」
ダイが地面を蹴った。
次の瞬間、乾いた打撃音が岩場へ響いた。
ダイの木剣が鋭い軌道を描き、ヒルダの肩口へ迫る。しかし、少女はそれを正面から受け止めず、剣の側面を滑らせるようにして受け流した。
ダイはその勢いを利用して身体を回転させ、反対側から斬りかかる。再び木剣がぶつかり合い、鋭い音が響いた。
以前なら、最初の攻撃を受け流された時点で大きく体勢を崩していただろう。しかし今のダイは、剣を振り抜いたあとでも足元の動きを止めず、自然に次の攻撃へつなげている。
「……ふふっ。ずいぶん上手になりましたね」
「まだまだ!」
ダイは笑いながら、さらに踏み込んだ。
木剣が激しく打ち合わされ、足元の砂埃が舞い上がる。正面から斬りかかったかと思えば、次の瞬間には身体を低く沈め、別の角度から攻撃を繰り出してくる。その動きには、数々の実戦を経て身につけた鋭さがあった。
しかし、ヒルダはそのすべてを冷静に受け流していた。
ダイが大きく踏み込めば半歩退き、逆に距離を取ろうとすれば、いつの間にか自分の間合いへ入り込んでいる。力任せに受け止めることなく、相手の剣が流れる方向へ木剣を滑らせ、次の動きへ自然につなげていた。
「……マジかよ!? 今のダイでも勝てねえってのかよ!?」
その攻防を見ていたポップが、思わず声を上げた。
「……すごいわ……。ヒルダさん、こんなに強かったのね。まるでダイが子供扱いだわ……」
マァムも驚きを隠せなかった。
「……まあ、実際ダイは子供だけどよ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
マァムにすかさず突っ込まれ、ポップは苦笑した。しかし、その目は2人の立ち合いへ向けられたままだった。
今のダイの剣がどれほど鋭いかは、身をもって知っている。数々の死闘をくぐり抜け、今や魔王軍の軍団長にも届くほどの力を身につけたダイが全力で攻め込んでいるにもかかわらず、ヒルダはまるで稽古をつけるように、その攻撃を受け流している。
しかも、相手を圧倒しようと躍起になっているわけではない。ダイが新しい動きを見せるたびに嬉しそうに微笑み、ときには反撃できる間合いへ踏み込みながらも、少年が次にどう動くのかを見守っていた。
「……なるほどな……」
マトリフも感心したように顎を撫でた。
剣術については専門外とはいえ、あの少女が相当な技量の持ち主であることは分かる。力や速度だけではなく、相手の動きを読む力と、わずかな隙を見極める正確さが並外れていた。
そのとき、ヒルダが静かに口を開いた。
「……いいですね、ダイくん。では、こちらからも少し攻めさせていただきます」
「……うん!」
ダイが頷いた、その瞬間だった。
ヒルダの足元で、小さな風が巻き起こった。
「……っ!?」
少女の身体が横へ滑るように移動し、次の瞬間にはダイの側面へ回り込んでいた。
木剣が鋭く振り抜かれる。
「うわっ!」
ダイは慌てて剣を引き戻し、どうにか受け止めた。
しかし、衝撃を受けたと思った瞬間、ヒルダの剣がするりと離れ、今度は足元へ低い軌道を描いてくる。少年は咄嗟に跳び退き、木剣の先端が跳ね上げた砂を浴びながら、素早く構え直した。
ヒルダの身体には、いつの間にか淡い風のマナがまとわりついていた。踏み込む瞬間には背中を押し、方向を変える瞬間には身体の流れを助けるように、細かく力が調整されている。
「……ほう……!」
マトリフが興味深そうに目を細めた。
剣の攻防を続けながら、あれほど繊細に魔法を操ることができる。風で無理に身体を加速させているのではなく、もともとの剣技を損なわないように力を加減しているところが、何より見事だった。
だが、ダイもただ翻弄されているばかりではなかった。
迫りくる攻撃を受け止めながら、少しずつヒルダの動きに対応し始めていたのである。剣を振るうだけでなく、相手が次にどこへ動こうとしているのかを考え、足元を踏み替えて正面へ向き直る。その判断は、以前よりも明らかに速くなっていた。
ヒルダはその変化を感じ取り、嬉しそうに微笑んだ。
「……本当に、強くなられましたね……」
「まだ、負けないよ!」
ダイは地面を蹴った。
ダイは正面から斬りかかると見せかけ、ヒルダが迎え撃とうとした瞬間、身体を低く沈めた。頭上を木剣が通り過ぎるのと同時に、少年は素早く踏み込み、少女の胴へ向けて剣を繰り出した。
「……っ!」
ヒルダは半歩だけ身を引いた。
木剣の切っ先が、白い衣装のすぐ手前を通り過ぎる。
しかし、ダイはそこで無理に追撃しようとはせず、剣を引き戻して構え直した。その判断に、ヒルダは少し驚いたように目を見開いた。
以前のダイなら、あと少しで届くと思った瞬間、無理にでも攻撃を続けていただろう。だが今は、相手の反撃まで考え、自分の姿勢を崩さないことを優先している。
「……いい判断です」
ヒルダは小さく頷いた。
するとダイは、嬉しそうに笑いながら再び踏み込んだ。
鋭い斬撃がヒルダの正面へ迫り、少女は木剣の側面で受け止める。しかし、ダイは途中で力の向きを変え、相手の剣に沿わせるように刃を滑らせ、そのまま別の角度へ攻撃をつなげた。
その動きには、以前の少年にはなかった工夫があった。力任せに押し切ろうとするのではなく、相手の剣が動く方向まで考え、わずかな隙へ切っ先を送り込もうとしている。
だが、ヒルダはその一撃を受け止めると、木剣をわずかに傾けた。
ダイの剣が、その表面を滑る。
そして、少年が次の動きへ移ろうとした瞬間、ヒルダは相手の懐へ一歩だけ踏み込んだ。剣を引き戻そうとしたダイの胸元へ、木剣の先端が静かに向けられる。
「……あっ!」
ダイが慌てて後退したときには、すでに勝負が決まっていた。
「……ここまで、ですね」
「くっそー! もう少しだったのに!」
ダイは悔しそうに叫んだ。
しかし、その表情は明るかった。
「……ふふっ。でも、本当に驚きましたよ。以前より、ずっと剣の流れが自然になっています。それに、相手の動きをよく見て、次の攻撃を考えられるようになりましたね」
「……本当!?」
「はい。ダイくんは、ますます素晴らしい剣士になられました」
その言葉に、ダイは満面の笑顔を浮かべた。
デルムリン島で自分へ剣を教えてくれた少女から、こうして成長を認めてもらえることが、何より嬉しかったのである。
「だけど、まだヒルダ姉ちゃんには勝てないなあ!」
「……ふふっ。これからも一緒に頑張りましょうね」
ヒルダも嬉しそうに微笑んだ。
その様子を見ていたポップは、呆れ半分、感心半分といった様子で肩をすくめた。今のダイでも、ヒルダにはまだ届かない。しかし、当の本人が悔しがりながらも嬉しそうに笑っているのを見ると、ポップもつられて口元を緩めてしまった。
◇ ◇ ◇
「そうだ、ヒルダ姉ちゃん! フレイザードを真っ二つにした、あの技!」
手合わせを終えたダイが、何かを思い出したように声を上げた。
「……《断罪》のことですか?」
「そう! あのとき、何が起きたのか全然分からなかったんだ! ものすごく速かったよね!」
「俺も目の前で見てたけどよ、剣が閃いたと思ったら、もうフレイザードが真っ二つになってたんだぜ。いったい何をしたんだ?」
ポップも興味津々といった様子で身を乗り出した。マァムもまた、あの瞬間を思い出しながら、黙って耳を傾けている。
「……あれは、少し特殊な剣技なんです」
ヒルダは静かに答えた。
「どれほど強い相手であっても、ほんのわずかな綻びが生じることがあります。その一瞬を見極めて、最も弱いところへ剣を通すんです」
「……綻び?」
ダイが不思議そうに首を傾げた。
ヒルダは足元に落ちていた小石を拾い、表面に走る細い亀裂を示した。
「例えば、この石も、どこから力を加えても同じように割れるわけではありませんよね。亀裂に沿って力を加えれば、割りやすくなります」
「……なるほど! じゃあ、フレイザードにもそんなところがあったんだ!」
「……はい。ただ、《断罪》はその綻びを見つけられなければ成立しません。いつでも同じように使える技ではないんです」
あのときは身体もマナも限界に近く、迫りくるフレイザードの拳をかわす余地もほとんど残されていなかった。だからこそ、わずかに生じた綻びを見逃さず、残された力をひとつの剣閃へ集中させたのである。
「……へえ……! ねえ、それってオレにもできるかな!?」
「……簡単ではありませんよ。相手の動きや力の流れを、よく見極める必要がありますから」
「そっかあ……。でも、いつかやってみたいな!」
「……ふふっ。では、まずは今の剣を、もっと磨いていきましょうね」
ダイが元気よく頷くと、マトリフも感心したように顎を撫でた。
「……相手の守りに生じた隙を、一瞬で見抜いて斬るわけか。そいつは力任せに斬りつけるより、よっぽど難しいだろうな」
あれほどの剣技に加えて、風の魔法まで巧みに操る少女。その実力を目の当たりにして、大魔道士としての好奇心は、すでに十分に刺激されていた。
◇ ◇ ◇
「……おい、ポップ」
マトリフが弟子を呼んだ。
「せっかくだ。今度はお前、あの嬢ちゃんと手合わせしてみろ」
「……えっ!?」
ポップは思わず声を裏返した。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、師匠! ヒルダと戦えってのか!?」
「そうだ。何か文句でもあんのか?」
ポップは困ったようにヒルダへ目を向けた。
デルムリン島で出会った頃から、彼女が相当な実力者であることは感じていた。しかし、実際に目にした魔法といえば、風を操ったり、空を飛んだりする程度であり、本格的な魔法戦を見たことはない。
剣についても、フレイザードを《断罪》で一瞬にして両断した光景は、今も鮮明に覚えている。だが、それ以外の技を見る機会はほとんどなく、ヒルダがどれほどの力を秘めているのか、正直なところ想像もつかなかった。
そして今、成長したダイでさえ勝てなかったところを見たばかりである。
「……師匠、相手が悪すぎねえか……?」
「馬鹿野郎! だから稽古になるんじゃねえか!」
マトリフは呆れたように言い返した。
「安心しろ。今度は魔法使い同士の勝負だ。剣は使わねえし、嬢ちゃんにも威力を調整してもらう。それなら文句ねえだろ?」
「……そ、そりゃそうだけどよ……」
まだ少し躊躇っていたポップだったが、ヒルダが穏やかに微笑んだことで、ようやく腹を決めたらしい。
「……ポップさん。わたしも、ぜひお手合わせしてみたいです」
「……分かったよ! やってやろうじゃねえか!」
少年は杖を握り直し、勢いよく立ち上がった。
ヒルダも木剣を岩場の端へ置き、ポップの向かい側へ立つ。互いに十分な距離を取り、ダイとマァムが安全な場所まで下がったところで、マトリフが片手を上げた。
「いいか。魔法だけで勝負しろ。ただ呪文を撃ち合うんじゃなく、どうやって相手に当てるか考えるんだぞ」
「……はい。分かりました」
ヒルダは丁寧に頷いた。
「……よし、始めろ!」
ポップが杖を構えた。
その先端へ赤い魔法力が集まり、周囲の空気が熱を帯び始める。
「――《メラゾーマ》ッ!!」
次の瞬間、巨大な火球が放たれた。
先ほどマトリフへ放った《ギラ》とは比較にならないほど強い炎が、轟音とともにヒルダへ迫る。まともに受ければ、ひとたまりもない威力だった。
しかし、少女は一歩も退かなかった。
「……では、わたしも……」
ヒルダが左手をかざした。
その瞬間、周囲の空気が急激に冷え込んだ。
「……えっ!?」
ポップの目が丸くなった。
ヒルダの前方へ白い冷気が集まり、瞬く間に厚い氷の壁が生み出される。直後、巨大な火球が真正面から激突し、凄まじい音とともに大量の水蒸気が噴き上がった。
炎が氷壁の表面を削り、激しい熱によって水が弾け飛ぶ。火球はなおも壁を押し破ろうとしたが、ヒルダは左手をかざしたまま冷気の流れを調整し、削られた部分へ新たな氷を重ねていった。
やがて炎の勢いが衰え、最後には砕け散る氷とともに消滅した。
「……なっ……!?」
ポップは呆然とした。
目の前の少女は、あの《メラゾーマ》を受け止めるほどの氷壁を、ほんの一瞬で作り出してしまったのである。
「……おいおい……。氷の魔法まで使えんのかよ……!」
「……はい。風ほど得意ではありませんけれど……」
ヒルダは穏やかに微笑んだ。
「ったく! どんだけ反則なんだよ、お前は!」
「……ふふっ。でも、今の《メラゾーマ》は、とても強かったですよ」
「そりゃ、どうも!」
ポップは苦笑しながら、再び杖を構えた。
その様子を見ていたマトリフは、興味深そうに目を細めていた。
今の氷壁は、この世界で一般的に使われている氷の呪文とは、どこか感覚が違っていた。少女は決まった形の呪文を放ったというより、氷の形や厚さをその場で調整し、迫りくる火球の威力に合わせて必要な力を加えていたように見える。
あれほど強い炎を防いだことも驚きだったが、それ以上に、その制御の仕方が気になった。
「おい、ポップ! 何をボサッとしてやがる!」
「分かってるって!」
マトリフの声に我に返り、ポップは再び攻撃を仕掛けた。
「――《ヒャダルコ》ッ!!」
今度は鋭い冷気が広がった。
幾つもの氷塊が生み出され、ヒルダへ向かって飛んでいく。少女はその軌道を見極めると、右手を軽く振った。
次の瞬間、赤い光が走った。
ヒルダの掌から放たれたのは、炎だった。
扇状に広がった火炎が迫りくる氷を包み込み、瞬く間に溶かしていく。白い蒸気が噴き上がり、細かな水滴が光を反射する中、少女は静かに手を下ろした。
「今度は炎かよ!? 何だよ、それ! いったい何種類使えるんだ!?」
「……ええと……風と雷が特に得意ですが、炎や氷も使えますよ」
「……ま、まだあるのかよ……!」
ポップは思わず天を仰いだ。
魔法使いとして複数の属性を扱うこと自体は珍しくない。しかし、それぞれの威力がこれほど高く、しかもほとんど間を置かずに切り替えられるとなれば、話は別だった。
「おい、ポップ! ぼんやり見てんじゃねえぞ!」
マトリフの怒鳴り声が飛んだ。
「相手が何を使えるか分かったんなら、次にどうするか考えろ! ただ同じように魔法を撃ち合ってたら、いつまで経っても勝てねえぞ!」
「……くそっ……!」
ポップは歯を食いしばった。
相手は氷も炎も使える。どの属性を選んでも対応されてしまう可能性が高く、単純に魔法の相性だけを考えていても仕方がない。
ならば、相手が自由に動けない状況を作ればいい。
「だったら、これでどうだ! ――《ヒャド》ッ!!」
少年は杖を低く構え、ヒルダの足元へ冷気を放った。
岩場の表面が一気に凍りつき、白い霜が少女の足元まで広がっていく。ヒルダは少し驚いたように視線を落としたが、すぐに地面を蹴り、凍りつく範囲から離れた。
しかし、それこそポップの狙いだった。
「そこだっ! ――《ギラ》ッ!!」
少年の杖から放たれた炎の閃光が、ヒルダの移動先へ向かって走る。
「……!」
ヒルダは軽く身体をひねった。
閃光が彼女の肩のすぐ横を通り過ぎる。先ほどまでのポップは、少女が立っている場所へ魔法を撃ち込んでいた。しかし今は、最初の冷気で移動を促し、その移動先へ次の攻撃を重ねてきたのである。
その直後、ヒルダの指先に青白い光が宿った。
「……えっ!?」
ポップは驚いて身を引いた。
細い雷が乾いた岩肌を走り、少年の足元の少し手前で弾けて、小さな火花を散らした。
「うわっ! 今度は雷かよ!?」
「ふふっ。今の攻撃は、とてもよかったですよ」
思わず後退したポップへ、ヒルダが穏やかに声をかけた。
「最初の冷気でわたしの動きを誘導して、その先へ炎を重ねられましたね。あのように相手の動きを考えて魔法を使われると、わたしも避けるのが難しくなります」
ポップは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに得意げな笑みを浮かべた。
「……へへっ! そうだろ!」
「調子に乗るな、馬鹿弟子!」
マトリフの声が飛んだ。
「今のは悪くなかったが、最後の一撃をかわされてんだろ! 褒められたからって、そこで満足してどうする!」
「分かってるよ!」
ポップは慌てて杖を構え直した。ヒルダも楽しそうに微笑み、再び左手をかざした。
◇ ◇ ◇
それからしばらく、炎と氷が激しくぶつかり合う攻防が続いた。
ポップは次第に、ただ相手へ魔法を放つだけでなく、移動先を予測して攻撃を仕掛けるようになっていた。ヒルダもそれに合わせて威力を調整し、ときには氷の壁を作り、ときには炎や雷を使って少年の進路を塞いだ。
やがて、炎と氷が衝突した場所から大量の水蒸気が噴き上がり、岩場の一角が白い霧に覆われた。
「……へへっ。これなら、姿は見えねえだろ……!」
ポップは素早く位置を変えた。
相手の視界が遮られた今なら、予想しない角度から攻撃できる。そう考えて杖を構え直した瞬間、霧の向こうで青白い光が閃いた。
「……えっ!?」
ポップが慌てて身を引く。
次の瞬間、足元の地面へ細い雷が突き刺さり、小さな火花を散らした。
「何で分かったんだよ!?」
「……姿は見えませんでしたけれど、足音と、魔法を使おうとされた気配が分かりましたから」
「……そ、そんなところまで分かるのかよ!」
ポップは思わず呻いた。
そのとき、白い霧の中へ小さな炎が幾つも灯り始めた。
炎はポップへ直接向かわず、左右へ回り込むように広がっていく。逃げようとした先には氷の塊が現れ、さらに足元へ雷光が走った。
ポップは必死に《メラ》で氷を溶かし、迫る雷から飛び退いた。しかし、ひとつの攻撃へ対応するたびに別の方向が塞がれ、思うように動けなかった。
「馬鹿野郎! 相手の魔法をひとつずつ見てから対処してんじゃ遅え! 周りの状況を考えろ!」
マトリフの怒鳴り声が響いた。
ポップは歯を食いしばった。このままでは、ヒルダの魔法に追い回されるばかりだ。相手の姿を見失ったまま、その場で攻撃を防ぎ続けていても仕方がない。
「――《トベルーラ》ッ!!」
次の瞬間、ポップの身体が勢いよく浮き上がった。
白い霧を突き抜けて空中へ飛び出すと、眼下には岩場の全体が広がり、ヒルダの姿もはっきりと見える。
「……へへっ! これなら、どこにいるか分かるぜ!」
少年はすぐに杖を構えた。
今度は少女の移動方向を確かめながら、《ギラ》を放つ。ヒルダはそれをかわしたが、続いて放たれた《ヒャド》が進路を塞ぎ、逆方向へ跳ぼうとすれば、そこへさらに炎が迫った。
ポップは、ただ相手がいる場所へ攻撃しているのではない。空中から広い範囲を見渡し、ヒルダがどこへ移動しようとしているのかを予測して、魔法を重ねてきたのである。
ヒルダは軽く地面を蹴り、岩場の端へ跳んだ。
しかし、その行き先へも、すでに次の炎が迫っていた。
「……ふふっ」
ヒルダの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
彼女は片手をかざし、迫る炎の前へ薄い氷を幾重にも重ねた。火炎が氷を砕き、白い蒸気が弾ける中、その隙に一歩だけ身を引く。
そこへ、マトリフの声が響いた。
「……よし! そこまでだ!」
ポップは杖を下ろし、ゆっくりと地面へ降り立った。
「……はあっ……はあっ……。ったく、とんでもねえ相手だぜ……!」
「お疲れさまでした、ポップさん」
ヒルダは穏やかに微笑んだ。
「でも、最後の攻撃はとてもよかったですよ。空から全体を見渡して、わたしの逃げ道を考えながら魔法を使われましたね」
「……へへっ! そうだろ!」
得意げに笑ったポップだったが、すぐにマトリフの声が飛んできた。
「調子に乗るな、馬鹿弟子! 今ので相手を倒せたと思ってんのか!」
「……わ、分かってるって!」
慌てて姿勢を正すポップを見て、ダイが楽しそうに笑った。マトリフはそんな弟子を横目で見ながら、小さく鼻を鳴らした。
「……まあ、少しはマシになってきたってところだな」
その言葉には、わずかながら満足そうな響きがあった。
しかし、大魔道士の興味は、すでに別のところへ向かっていた。
「……ところで、嬢ちゃん」
「はい?」
「お前、さっきから炎や氷ばかり使ってるが、風が一番得意なんだろ?」
「はい。雷も得意ですが、風は特に使い慣れています」
「だったら、そいつも少し見せてくれねえか。今までの魔法は、ほとんどポップに合わせてたみてえだからな」
ヒルダは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……風の魔法、ですか?」
「ああ。ただし、無茶はしなくていい。安全に止められる範囲で、少しだけ本気を見せてやってくれ」
マトリフはそう言って、ポップへ目を向けた。
「おい、ポップ。最後にもうひとつだ。今度は嬢ちゃんの得意な魔法を受けてみろ」
「……えっ!?」
ポップの顔が引きつった。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ、師匠! 今までだって十分すげえ魔法だったじゃねえか!」
「だからこそだ。まだ自分の知らねえ強さがあるってことを、その目で見ておけ」
マトリフの言葉に、ヒルダは少し心配そうに眉を寄せた。
「……あの……大丈夫でしょうか……?」
彼女が心配しているのは、もちろん自分のことではない。風の魔法は最も使い慣れているだけに、少し威力を上げるだけでも、広い範囲へ影響を及ぼすことがある。
「……ポップさんにお怪我をさせてしまっては……」
「危ねえと思ったら止められるんだろ?」
「……はい。それはできますけれど……」
「だったら、俺も見ててやる。無理のない範囲で頼むぜ」
ヒルダはしばらく考え込んだあと、ポップへ顔を向けた。
「……ポップさん。本当によろしいですか?」
ポップは少し迷った。
先ほどの魔法戦だけでも、ヒルダが尋常ではない魔法使いだということは十分に分かった。だが、あれほど多彩な魔法を使いながら、最も得意だという風をほとんど使っていなかったことも確かだった。
その本領がどれほどのものなのか、知りたいという気持ちもある。
「へっ! そこまで言われちゃ、引き下がれねえだろ!」
少年は杖を握り直した。
「いいぜ、ヒルダ。ちょっと見せてくれよ、お前の本気って奴を!」
ヒルダは静かに頷いた。
「……では、少しだけ……」
そう言って、彼女は右手を前へ差し出した。
◇ ◇ ◇
最初に起きた変化は、ごく小さなものだった。
岩場を吹き抜けていた潮風が、ふっと向きを変える。ヒルダの足元に砂が集まり、長い水色の髪が緩やかに揺れ始めた。それだけなら、先ほどダイとの手合わせで見せた風の魔法と大して変わらない。
しかし、次の瞬間。
「……っ!?」
ポップの表情が強張った。
ヒルダの周囲で、空気が唸り始めたのである。
最初は少女の髪を揺らす程度だった風が、見る間に勢いを増していく。足元の砂埃が巻き上がり、岩場に転がっていた小石が音を立てて転がり始めた。潮風とは明らかに異なる気流が生まれ、周囲の空気が少女の掌へ吸い寄せられていく。
「……お、おい……?」
ポップは思わず杖を握り直した。
ヒルダは静かに右手をかざしたまま、ほとんど動いていない。呪文を唱える様子もなく、ただ周囲の風のマナを集めているだけだった。
それなのに、空気そのものが震え始めていた。
「……では、参ります」
ヒルダが静かに告げた。
「――《ウインドブラスト》」
次の瞬間、凄まじい轟音が響き渡った。
「……うわあっ!?」
ポップは反射的に腕を上げた。
ヒルダの前方から、巨大な風の奔流が押し寄せてきたのである。目に見えないはずの空気が、巻き上げられた砂や水滴によって輪郭を持ち、岩場の上を荒れ狂いながら迫ってくる。
その勢いは、先ほどまでの魔法とは明らかに違っていた。
「……な、何だよ、こりゃあっ!?」
ポップは慌てて横へ跳んだ。
しかし、避けようとした先からも猛烈な風が吹きつけてくる。足元の砂埃が激しく巻き上がり、身体を支えようと踏ん張っても、風圧に押されて足が滑ってしまう。
「……えっ!?」
気づいたときには、周囲を暴風に囲まれていた。
正面から迫る巨大な風の奔流だけではない。左右からも強烈な気流が吹き込み、背後へ逃れようとしても身体を押し戻されてしまう。幾つもの風が異なる方向から絡み合い、少年の周囲に逃げ場のない空間を作り出していた。
ポップは息を呑んだ。これでは、どこへ逃げても風に捕まってしまう。
「……く、くそっ! ――《トベルーラ》ッ!!」
咄嗟に杖を掲げ、空中へ逃れようとした。
地上の逃げ道を塞がれているなら、上へ飛び出せばいい。先ほどの魔法戦でも、それで状況を立て直すことができた。
しかし。
「う、うそだろっ!?」
身体が思うように浮き上がらなかった。
《トベルーラ》の魔法力で上昇しようとした瞬間、下から吹き上げる風が身体を突き上げ、次いで横からの猛烈な気流が姿勢を崩してしまう。どうにか高度を上げようとしても、今度は頭上から押し下げるような風が襲いかかり、まともに進むことさえできなかった。
「……ぐっ……! ちくしょうっ、上にも逃げられねえのかよ……!」
ポップは必死に杖を握りしめた。
ヒルダの魔法は、ただ巨大な風を一直線に放つものではなかった。周囲を荒れ狂う気流のひとつひとつが、少年の動きを封じるように方向を変えている。こちらが逃れようとするたびに風が回り込み、次に進もうとする場所まで塞がれてしまうのだ。
そのとき、正面の暴風が大きく渦を巻いた。
「……なっ……!?」
ポップの顔から血の気が引いた。
ヒルダの掌の先で、荒れ狂う風がひとつの巨大な塊へと収束していく。周囲の空気が猛烈な勢いで引き寄せられ、激しい唸りを上げながら、圧倒的な力が一点へ集まっていった。
先ほどまでの風だけでも、立っていることすら難しかった。それが今、ひとつにまとまって自分へ向かってくる。
「……お、おい……冗談だろ……!?」
ポップは咄嗟に杖を構えた。
《イオラ》で風を押し返すことも頭をよぎったが、この巨大な奔流を前にして、爆発の衝撃がどこまで通用するのか想像もつかない。何より、呪文を唱えている間にも風は勢いを増し、もはや姿勢を保つことさえ難しくなっていた。
逃げ道は、どこにもなかった。
正面から、巨大な風の塊が迫る。
「……うわああああっ!!」
ポップは思わず目を閉じた。
次の瞬間、強烈な衝撃が身体を捉える――そう思われた、そのときだった。
轟音が、不意に途切れた。
「…………えっ?」
ポップは恐る恐る目を開いた。
目の前まで迫っていた巨大な風の塊が、無数の細かな気流となって四方へ散っていく。身体を押し潰さんばかりに吹き荒れていた暴風も、嘘のように勢いを失い、巻き上げられた砂が静かに岩場へ降り積もっていった。
やがて、穏やかな潮風だけが残された。
「……はっ……はっ……!」
ポップは杖を握ったまま、しばらく動けなかった。
何が起きたのか、すぐには理解できなかったのである。
確かに、あの巨大な風の塊は自分の目の前まで迫っていた。あとわずかでも遅ければ、まともに吹き飛ばされていたに違いない。
しかし、その直前。
ヒルダは、あれほど凄まじい魔法を完全に消し去ってしまったのだ。
「……お、お前……」
ポップは震える声で呟いた。
「……今の……いったい、何なんだよ……?」
ヒルダはゆっくりと手を下ろした。
「……《ウインドブラスト》です。いつもより、少し強めにマナを込めてみました」
「……す、少し……!?」
ポップの声が裏返った。
あれほどの暴風を、少し威力を上げただけだというのか。これまで相手にしてきた魔物の魔法とは、規模も性質もまるで違う。しかも、彼女はそのすべてを自在に操っていたのである。
「でも、やはり少し強すぎたかもしれませんね。すみません、ポップさん。お怪我はありませんか?」
ヒルダは心配そうに近づいてきた。
その表情は、先ほどまでの猛烈な風を生み出していたときとは何も変わらない。むしろ、ポップを怖がらせてしまったことを申し訳なく思っているようだった。
「……あ、ああ……。怪我はねえけどよ……」
ポップはようやく息を整え、岩場へへたり込んだ。
「……ったく……とんでもねえもん見ちまったぜ……」
少し離れた場所では、ダイとマァムも呆然としていた。
「……す、すっげえ……! ヒルダ姉ちゃん、あんな魔法まで使えるんだ……!」
「……今の風……本当に、全部ヒルダさんが操ってたの……?」
2人の目の前で起きたのは、ただ強烈な風を放つだけの魔法ではなかった。広い範囲を暴風で包み込み、逃げ道を塞いだうえで、巨大な風の塊を叩きつけようとしていたのである。
しかも、最後にはそのすべてを、一瞬で霧散させてしまった。
「……なるほどな……」
マトリフが低く呟いた。
その眼差しは、ヒルダへ向けられている。
あれほどの規模の魔法を生み出せることも驚きだった。しかし、大魔道士として何より興味を引かれたのは、その精密な制御である。
強力な魔法ほど、一度放てば途中で制御を変えることは難しい。それなのに目の前の少女は、巨大な風の奔流を自在に操り、ポップへ届く寸前に、まるで何事もなかったかのように消し去ってしまった。
「……おい、嬢ちゃん。お前、今の風を全部、自分で操ってたんだよな?」
「……はい。ポップさんに当たらないように、最後はマナの流れを解きました」
「……簡単に言いやがるぜ……」
マトリフは思わず苦笑した。
ヒルダにとっては自然な操作なのかもしれないが、彼の長年の経験からすれば、これほどの出力と制御を両立させることは容易ではない。どうやら異なる世界の魔法には、自分の知らない技術がまだまだ存在するらしい。
◇ ◇ ◇
「……ところで嬢ちゃん。お前、魔法の威力をどうやって変えてやがる?」
稽古が終わったあと、マトリフは改めてヒルダへ声をかけた。
「さっきの氷壁もそうだが、最初に作った形を途中で変えてただろ。今の風も、最後にはきれいさっぱり消しちまったしな」
ヒルダは少し考え込んだ。
「……ええと……集めるマナの量や、流れ方を調整していましたけれど……」
「マナの流れ方、だと?」
「はい。わたしの場合は、周囲の元素のマナを集めて、必要な形へ整えているんです」
ヒルダはそう説明すると、右手の掌を上に向けた。
その上へ、小さな炎が生まれる。
炎はゆっくりと揺らめいていたが、指先のわずかな動きに合わせて形を変え、やがて静かに消えていった。続いて淡い冷気が集まり、今度は小さな氷の結晶が現れる。
「ほう……」
マトリフは興味深そうに身を乗り出した。
決まった呪文の形を再現するのではなく、元素の性質を利用しながら、必要な形へ整えていく。そのやり方は、この世界で一般的に知られている魔法とは、根本から異なっているようだった。
「面白えな、お前の魔法は。俺も長いこと魔法を使ってきたが、そんなやり方をする奴は初めて見たぜ」
「そうなんですか?」
「まったく、世の中にはまだ知らねえことがあるもんだな。今度、もう少し詳しく聞かせてもらうぜ」
「はい。わたしでよろしければ、喜んで」
ヒルダが丁寧に頷くと、マトリフは満足そうに笑った。
それから、マトリフは岩場に座り込んだままの弟子へ、ようやく顔を向けた。
「おい、ポップ。いつまでへばってやがる!」
「……か、勘弁してくれよ、師匠……。今のを見せられたあとじゃ、ちょっとくらい休ませてくれたっていいだろ……!」
「馬鹿野郎! だからこそ、まだまだ修行が必要なんだよ!」
マトリフは容赦なく言い返した。
「いいか。お前が戦う相手は、いつも自分より弱い奴ばかりじゃねえ。どうにもならねえほど強い奴と戦うことだってある。そんなときでも、頭を使って戦うことを忘れんじゃねえぞ!」
ポップは少しだけ顔を上げた。
先ほどの《ウインドブラスト》を思い出す。逃げ道を塞がれ、空へ飛ぼうとしても暴風に翻弄され、最後にはただ目を閉じることしかできなかった。
悔しかった。
だが、それと同時に、あれほどの力を持つ相手にどう立ち向かえばよいのか、考えてみたいとも思った。
「……分かったよ、師匠」
ポップは小さく頷いた。
「今度は、もう少しマシなところを見せてやるぜ」
「ふん。その意気だ」
マトリフは満足そうに鼻を鳴らした。
そのやり取りを眺めながら、ヒルダも穏やかに微笑んでいた。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所で、マァムはその一連の稽古を見つめていた。
ダイは剣の腕を上げ、ポップもマトリフの厳しい指導を受けながら着実に成長している。そしてヒルダは、そんな2人を相手に圧倒的な実力を見せながらも、それぞれの長所を引き出すように戦っていた。
仲間たちが強くなっていくことは、もちろん嬉しい。けれど、その姿を眺めているうちに、マァムの胸には小さな焦りが生まれていた。
「……マァム?」
ダイに声をかけられ、マァムははっと顔を上げた。
「どうしたの? 何か考え事?」
「……ううん。何でもないわ」
そう答えて微笑んだものの、その視線は自然と傍らのハンマースピアへ向けられていた。
魔弾銃は、もうない。それでも武器を使って戦うことはできるし、回復魔法で仲間を助けることもできる。だが、これから先、さらに強い敵が現れたとき、今の自分はどれほど皆の力になれるのだろうか。
マァムは再び仲間たちへ目を向けた。
ダイとポップが楽しそうに言い合い、ヒルダがその様子を微笑ましそうに眺めている。いつもと変わらない賑やかな光景だったが、マァムの胸に芽生えた思いは、簡単には消えてくれなかった。
彼女はそっと自分の手を見つめ、静かに拳を握りしめた。
――第11話・了――