白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
仲間たちの修行が終わったあとも、マァムはしばらく岩場に立ち尽くしていた。
海から吹きつける潮風が、火照った頬を心地よく冷ましていく。ダイは《アバンストラッシュ》を完成させ、ポップもマトリフの厳しい指導を受けながら、魔法使いとして着実に成長していた。そしてヒルダは、そんな2人を相手に圧倒的な実力を見せながらも、それぞれの長所を引き出すように戦っていた。
仲間たちが強くなっていくことは、もちろん嬉しい。けれど、その姿を見つめているうちに、自分だけが取り残されていくような焦りが、胸の奥に生まれていた。
魔弾銃は、もうない。
魔王軍との戦いがさらに激しさを増していく中で、今の自分はどれほど皆の力になれるのだろうか。何度も考えてきた疑問が、先ほどの特訓を見たことで、いよいよ無視できないものになっていた。
「……マァムさん?」
聞き慣れた柔らかな声に顔を上げると、木剣を手にしたヒルダが、少し心配そうにこちらを見つめていた。
「……あっ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてたの」
「……そうでしたか」
ヒルダは小さく頷くと、マァムの傍らに立てかけられたハンマースピアへ視線を向けた。そして、何かを思いついたように微笑んだ。
「……よろしければ、マァムさんも一度、お手合わせしてみませんか?」
「……えっ? 私と?」
「はい。マァムさんがどのように戦われるのか、ぜひ一度見せていただきたいです」
思いがけない誘いに、マァムは目を瞬かせた。ヒルダの実力は十分に分かっているし、まともに勝負を挑んだところで勝ち目などないだろう。しかし、だからこそ、今の自分がどこまで通用するのか確かめてみたい気持ちもあった。
「……いいわ。お願いする!」
「……ふふっ。ありがとうございます」
マァムが力強く頷くと、ヒルダも嬉しそうに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
2人が岩場の中央で向かい合うと、ダイとポップも興味深そうに近づいてきた。
「マァムもやるんだ! 頑張ってね!」
「へえ、今度はマァムが相手か。そいつは面白そうだな」
マトリフも少し離れた岩の上へ腰を下ろし、腕を組んで様子を眺めている。マァムは愛用のハンマースピアを構え、対するヒルダは先ほどダイとの手合わせで使用した木剣を手に、自然体で向かい合った。
「……では、始めましょうか」
「ええ。いくわよ!」
マァムが地面を蹴った。
ハンマースピアの穂先が鋭い軌道を描き、ヒルダの肩口へ迫る。少女は木剣を傾けてその一撃を受け流したが、マァムはすぐに柄を引き戻し、今度は反対側から打撃部分を横薙ぎに振るった。
ヒルダは軽やかに身を引き、その攻撃をかわした。しかし、マァムの動きは止まらない。長柄を滑らせるように持ち替え、間合いに合わせて突きと打撃を使い分けるその動きには、実戦をくぐり抜けてきた者ならではの確かさがあった。
「……なるほど。いい動きですね」
ヒルダは感心したように微笑んだ。
マァムは武器の扱いに慣れているだけでなく、足運びが軽く、身体の軸もしっかりしていた。攻撃をかわされた際の反応も速く、次の動作へ移るまでの無駄が少ない。
ヒルダはしばらく攻撃を受け流していたが、やがて自分から踏み込み始めた。木剣の速度が上がり、右から左へ、肩口から足元へと攻撃の角度が次々に変わっていく。
「……くっ!」
マァムは必死にハンマースピアを操って応戦したが、ヒルダはその動きに合わせて間合いを変え、長柄の武器を十分に振るわせないようにしてくる。何度か反撃を試みたものの、次第に防御へ追われる時間が長くなっていった。
それでも、マァムは諦めなかった。
一度距離を取って肩口にできた擦り傷へ《ホイミ》をかけると、再び前へ出る。ヒルダはそんな彼女を見つめながら、さらに一歩踏み込み、今度は武器がほとんど使えないほど近い間合いへ入り込んだ。
「……っ!?」
木剣が肩口へ迫る。
ハンマースピアを振り回していては間に合わない。そう悟った瞬間、マァムは咄嗟に身体を低く沈め、頭上を通り過ぎる木剣をかわしながら、逆にヒルダの懐へ踏み込んだ。
そして、考えるよりも先に、空いた腕を突き出していた。
「……!」
ヒルダの目が、わずかに見開かれた。
マァムは武器を使うことを諦め、自分自身の腕で相手を押し返そうとしたのである。ヒルダがその動きをかわすと、今度は足を使って踏み込みを妨げようとする。その反撃はまだ洗練された格闘技ではなかったが、身体能力と反応の速さには目を見張るものがあった。
ヒルダは軽く身をひねり、さらに一撃を繰り出した。マァムは咄嗟にハンマースピアの柄で受け止めたものの、衝撃で防御が開き、次の瞬間には木剣が胴の手前で止まっていた。
「……ここまで、ですね」
「……はあっ……はあっ……!」
マァムは肩で息をしながら、自分の両手を見つめた。勝負にはならなかったが、それ以上に、胸の奥には不思議な興奮が残っていた。
「……何だか、変な感じ……。武器が使えないと分かったら、勝手に身体が動いて……」
マァムは少し戸惑いながら、顔を上げた。
「……もしかして、ヒルダさん。さっきから、わざと武器を使いにくいところへ攻めてきてたの?」
「……ふふっ。どうでしょう?」
「……もう!」
マァムは思わず笑ってしまった。
ヒルダが一方的に自分を打ち負かすつもりなら、いくらでも方法はあったはずだ。けれど彼女は、追い込まれたときにどんな動きを選ぶのか、その反応を確かめていたのだろう。
「……マァムさんは、身体の使い方がお上手ですね。特に、武器を使わずに動かれたとき、とても自然に見えました」
「……本当に?」
「はい。もっと磨けば、きっと素晴らしい力になると思いますよ」
マァムは再び自分の両手へ目を落とした。今まで考えていたのは、魔弾銃やハンマースピアをどう活かすかということばかりだった。しかし、自分自身の身体にも、まだ引き出せていない可能性があるのかもしれない。
「……ありがとう、ヒルダさん。何だか、少しだけ分かった気がするわ」
「……ふふっ。それはよかったです」
2人が微笑み合うと、見守っていたダイが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「すごかったよ、マァム! 最後の方、武器が使えなくなっても全然諦めなかったもん!」
「……そうね。でも、ヒルダさんには全然かなわなかったわ」
「だけど、あの動き、すっげえ速かったよ!」
少年の素直な感想に、マァムは少し照れくさそうに笑った。ポップも感心したように頷いており、先ほどまで感じていた焦りが、少しずつ別のものへ変わり始めていることを、マァム自身も感じていた。
◇ ◇ ◇
「……しかし、驚いたねえ」
そこへ、マトリフがゆっくりと歩いてきた。
「おい、マァム。お前、ずいぶん力が強えんだな。あの長い武器を振り回して、最後には身体だけで食らいつこうとしてたじゃねえか」
「……えっ? そ、そうかしら?」
「ああ。まったく、誰かさんにそっくりだぜ」
「……誰かさん?」
マァムが首を傾げると、マトリフは何やら悪戯を思いついたように口元を緩めた。そして、彼女が油断した隙に、不意に胸を揉みしだいた。
「何すんのよ、このエロじじいっ!!」
マァムの怒号とともに、強烈な拳が炸裂した。
「……ぐほおっ!?」
マトリフは凄まじい勢いで地面へ叩きつけられ、そのまま頭から岩場にめり込んでしまった。ダイとポップが目を丸くする中、しばらくして大魔道士が、頭を押さえながらよろよろと起き上がった。
「い、いってえな、この馬鹿力! そういうところだけは、親父のロカにそっくりだぜ!」
「当たり前でしょ! 変なことするからよ!」
怒りの収まらないマァムだったが、父親の名を聞いて、ふと表情を変えた。
「……お父さんに、そっくり……?」
「ああ。お前の親父のロカは、とんでもねえ力自慢の戦士だった。それに母親のレイラは、優秀な僧侶だった。お前には、その両方の素質があるってことさ」
マトリフはたんこぶを押さえながら、少しだけ真剣な顔になった。
「せっかく親から受け継いだものがあるんだ。自分に向いた戦い方ってやつを、もう少し考えてみたらどうだ?」
マァムは、はっと顔を上げた。
ヒルダとの手合わせで感じた、今までとは違う身体の動き。武器を使えない間合いで咄嗟に繰り出した反撃が、再び脳裏に浮かんでくる。
「……自分に向いた、戦い方……」
「まあ、どうするかは自分で考えな。俺が決めてやることじゃねえ」
マトリフはそれだけ言うと、杖を肩に担いで背を向けた。
マァムはその後ろ姿を見送りながら、もう一度自分の両手へ視線を落とした。父から受け継いだ身体の強さも、母から学んだ回復魔法も、アバンから教わった誰かを守るために戦う心も、すべて自分の中に残っている。
それらを活かして、もっと強くなることができるのなら。
その夜、マァムはなかなか眠れなかった。けれど、胸に浮かんでいたのは、もう取り残されることへの焦りばかりではなかった。昼間の手合わせで感じた確かな手応えが、新しい道を選ぶための勇気へ変わろうとしていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、マァムはヒルダのもとを訪ねた。
少女は神殿跡の一角で、背中から外したアストレアの手入れをしているところだった。マァムの姿に気づくと、いつものように穏やかな微笑みを浮かべる。
「……おはようございます、マァムさん」
「おはよう、ヒルダさん。……ちょっと、話があるんだけど」
その声が普段より真剣なことに気づき、ヒルダは手を止めた。
「……私、武闘家になろうと思うの」
「……武闘家、ですか?」
「ええ。昨日あなたと手合わせをして、自分にもまだ強くなれる可能性があるんじゃないかって思ったの。だから、ちゃんと修行してみたい。魔弾銃がなくても、自分自身の力で仲間を守れるようになりたいの」
ヒルダは少し驚いたように目を瞬かせたが、マァムの真剣な眼差しを見つめるうちに、静かに微笑んだ。
「……とても素晴らしいと思います。きっと、もっと強くなられると思いますよ」
「……本当?」
「はい。それに、武闘家になられても、今まで学んでこられたことを捨てる必要はありませんから」
ヒルダはそこで、ふと思い出したように顔を上げた。
「……そういえば、わたしの仲間にも、マリンさんという方がいるんです。クレリックとして神聖魔法を使われるのですが、格闘戦もとてもお得意なんですよ」
「……へえ! 僧侶なのに、格闘もできるの?」
「はい。わたしも、素手の戦い方はマリンさんに教わりました。……少しだけ、動きを真似てみましょうか?」
ヒルダは立ち上がると、記憶を辿るように軽く構えを取った。そして、相手の攻撃をかわすように半歩身体をずらし、そのまま腰の回転を利用して掌を突き出してみせた。
「……こんな感じでしょうか。もちろん、マリンさんご本人の技とは比べものになりませんけれど……」
「……ううん。すごく参考になるわ!」
マァムは興味深そうにその動きを見つめた。僧侶としての力を持ったまま、前へ出て戦うこともできる。自分が選ぼうとしている道は、今まで培ってきたものを捨てることではないのだ。
「……ありがとう、ヒルダさん。私、頑張ってみるわ!」
「……はい。応援しています」
ヒルダも嬉しそうに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
それから間もなく、マァムは旅立ちの日を迎えた。
向かう先は、ロモス王国の山奥だった。そこには武術の達人として知られる人物が住んでいるという。マァムはその人物を訪ね、武闘家としての修行を積むつもりだった。
神殿跡の広場には、ダイとポップ、レオナ、そしてヒルダが集まっていた。
「……本当に行くんだな、マァム」
ポップが、いつになく静かな声で尋ねた。
「ええ。もう決めたことだもの」
「……ったく。せっかくみんなでここまで来たってのに、今度はひとりで修行かよ……」
「何よ。心配してくれてるの?」
「……べ、別にそういうわけじゃねえよ!」
慌てて顔を背けるポップに、ダイが面白そうに笑った。マァムも少しだけ笑ったが、やがて仲間たちへ真剣な眼差しを向けた。
「……みんな、ありがとう。私、絶対に強くなって戻ってくるわ!」
「うん! 待ってるよ、マァム!」
ダイが元気よく答えると、レオナも笑顔で頷いた。ポップも少し照れくさそうにしながら、黙って親指を立ててみせる。
マァムは最後にヒルダへ顔を向けた。
「……ヒルダさん。私が修行から帰ってきたら、また手合わせしてくれる?」
「……もちろんです。楽しみにしていますね」
「……ええ。期待してて!」
その言葉には、自分の選んだ道を信じる確かな決意が込められていた。
やがて、ポップがマァムの傍らへ歩み寄った。
「……それじゃ、ロモスまで送ってやるよ。そこから先は自分で何とかしろよな」
「分かってるわ。ありがとう、ポップ」
「……お、おう」
素直に礼を言われ、ポップは再び顔を赤らめた。
マァムが仲間たちへ大きく手を振り、《ルーラ》で飛び立とうとした、そのときだった。
「……マァムさん」
ヒルダが小さく声をかけた。
「……どうか、お気をつけて。無事に戻ってきてくださいね」
「……ええ!」
マァムは明るく笑った。
「ヒルダさんも、あんまり無茶しちゃ駄目よ!」
「……あっ。はい……」
思いがけない返事にヒルダが少し困ったように微笑むと、マァムは楽しそうに笑いながら、もう一度大きく手を振った。
次の瞬間、ポップの《ルーラ》が発動した。
2人の身体がふわりと浮き上がり、やがて空の彼方へ飛び去っていく。ロモスまで送り届ければ、ポップも再びパプニカへ戻ってくることになっていた。
ダイはその姿が見えなくなるまで、何度も手を振り続けていた。
ヒルダもまた、空を見上げていた。マァムが自分の進むべき道を見つけ、嬉しそうに旅立っていったことが、何より喜ばしかった。
「……ダイくん。また、剣の稽古をしましょうね」
「うん! もちろんだよ、ヒルダ姉ちゃん!」
少年が満面の笑顔で答えると、ヒルダも嬉しそうに微笑んだ。
穏やかな風が、2人の間を吹き抜けていった。
◇ ◇ ◇
それから数日後。
パプニカの神殿跡では、ダイが自分の剣を手に、何やら困った顔をしていた。
「……うーん。やっぱり、もう駄目かなあ……」
鞘から抜いた剣は、あちこちに刃こぼれがあり、刀身にも無数の傷が刻まれていた。クロコダインやヒュンケルとの激戦、そしてフレイザードとの死闘を経て、すっかり傷んでしまったのである。
「こりゃあ、ずいぶん使い込んだなあ。いくらダイでも、そんなボロボロの剣じゃ危ねえぞ」
ロモスから戻ってきたポップが覗き込み、苦笑した。
「分かってるよ。でも、どうすればいいんだろ……」
「だったら、新しい剣を買いに行けばいいじゃない!」
そこへ、明るい声とともにレオナが現れた。
「せっかくだから、ベンガーナへ行きましょうよ。あそこなら、きっといい武器が見つかるわ!」
「……ベンガーナ?」
「そう。世界でも有数の商業都市よ! 大きなデパートがあって、武器や防具はもちろん、いろんなものが売ってるんだから!」
「デパートって、何!?」
ダイが不思議そうに首を傾げると、レオナは少し驚いたように目を瞬かせた。
「えっ? ダイくん、知らないの?」
「うん! 初めて聞いた!」
「ふふっ。じゃあ、実際に見てみれば分かるわ! きっとびっくりするわよ!」
こうして4人は、新しい武器を求めてベンガーナへ向かうことになった。
◇ ◇ ◇
「うっひょおおおーっ!! すっげえええっ!!」
ベンガーナの街並みを見るなり、ダイは目を輝かせて歓声を上げた。
大通りには巨大な石造りの建物が立ち並び、数え切れないほどの人々と馬車が行き交っている。店先には色鮮やかな商品が並べられ、あちこちから客を呼び込む威勢のよい声が響いていた。
「なんだこりゃあ……。城よりでけえ建物がゴロゴロしてやがるぞ……!」
田舎の村出身であるポップも、口をぽかんと開けて高い建物を見上げていた。
「ふふっ。驚くのはまだ早いわ。早速デパートに行きましょう!」
得意げに笑うレオナに連れられ、一行は街の中心にそびえ立つ巨大な商業施設へと足を踏み入れた。
「うわああぁぁっ! なんだこれっ! すっげえ!!」
吹き抜けのエントランスに出た瞬間、ダイの興奮は最高潮に達した。
幾つもの階にわたって広がる売り場には、見たこともないような華やかな商品が並んでいる。大勢の人々が行き交う通路の向こうには、階層をつなぐ不思議な昇降機まであり、少年はどこへ目を向ければよいのか分からない様子だった。
やがて、弾かれたように駆け出し、あちこちのショーウィンドウに顔を近づけ始めた。
「おいコラ、ダイ! 迷子になんぞ……って、うおっ!? なんだこの光る石は!」
ダイを止めようとしたポップも、魔法の仕掛けで動く珍しい道具を見つけ、結局は一緒になって目を輝かせてしまう。
「もう、2人ともお上りさんなんだから……。ねえ、ヒルダさんもそう思わ――」
レオナが苦笑しながら振り返った、そのときだった。
「……わあ……っ! す、すごいですね、ダイくん! あちらにあるのは何でしょうか!」
「ヒルダ姉ちゃん、あれ見てよ! 剣が勝手に磨かれてる!」
「……本当ですね! まあ、なんて素晴らしい仕組みなんでしょう……!」
レオナは目を丸くした。
そこには、ダイとまったく同じように目を輝かせ、売り場のあちらこちらを興味津々といった様子で眺めているヒルダの姿があった。
少女は展示された道具へ顔を近づけては、その精巧な作りに感嘆の声を漏らしている。今度は天井を見上げ、そこに設置された照明へ気づくと、さらに嬉しそうな表情を浮かべた。
「……あの照明も不思議ですね。周囲からマナを集めている様子がないのに、あんなに明るく光っているなんて……。一体、どのような仕組みなのでしょうか……?」
「ヒルダ姉ちゃん! こっちには変わった鎧もあるよ!」
「……まあ! 今度は何でしょう?」
ダイに呼ばれ、ヒルダは嬉しそうにそちらへ歩いていく。
普段は穏やかで礼儀正しく、戦いでは冷静な判断力を見せる少女が、今は見慣れないものを見つけるたびに目を輝かせていた。
彼女の故郷にも、アウロス王都のような大きな街は存在する。しかし、これほど巨大なひとつの建物に様々な店が集まっている施設は、ヒルダも見たことがなかった。ましてや、この世界特有の魔法技術を利用した道具の数々は、元素のマナを直接操る彼女にとって、どれも興味深いものばかりだった。
「……ええええっ!? ヒルダさんまで!?」
レオナが思わず声を上げた。
その隣で、ポップは呆然と2人を見比べていた。
「……あっちであの鎧すげえって騒いで、こっちであの照明すげえって目を輝かせて……」
ポップは大きな溜息をつき、とうとう呆れたように呟いた。
「……お前ら、姉弟かよ……」
「……ふふっ。確かに、そんな感じね!」
レオナが楽しそうに吹き出す。
「いや、ヒルダって17歳だろ!? 普段はあんなに落ち着いてるのに、何でこういうときだけダイと同じなんだよ……!」
ポップが頭を掻いている間にも、当の2人は次の売り場へ向かっていた。ダイが珍しいものを見つければヒルダが嬉しそうに駆け寄り、ヒルダが不思議な道具へ興味を示せば、今度はダイが隣から顔を覗かせる。
「……まあ、いいじゃない。楽しそうなんだから」
「……そりゃそうだけどよ。俺たち、何しに来たんだっけ……?」
ポップの情けない声に、レオナはとうとう声を上げて笑ってしまった。
◇ ◇ ◇
やがて、一行は武器売り場へたどり着いた。
そこには立派な剣や鎧が所狭しと並んでいたが、中でもダイの目を引いたのは、特別な展示台に置かれた重厚な武器だった。
「……ねえ、ポップ! あれ、何!?」
「……おっ、《ドラゴンキラー》じゃねえか!」
「ドラゴンキラー?」
「ああ。ドラゴンのあの硬い皮膚だって貫ける、対ドラゴン用の特別な武器だ。滅多にお目にかかれる代物じゃねえぞ」
店員の説明によれば、この貴重な武器は、間もなく競売にかけられるのだという。
ダイが興味を示すと、レオナは早速会場へ向かおうとした。ヒルダも初めて見る特殊な武器の作りが気になっていたらしく、楽しそうに後に続いた。
◇ ◇ ◇
競売会場には、すでに多くの商人や冒険者たちが集まっていた。
裕福そうな客たちが展示された品物を眺め、あちこちで値段についての話を交わしている。その人混みの中を進んでいたダイたちに、不意に辛辣な声が飛んできた。
「……実力以上の武器をつけて、強くなった気になりたいバカの仲間入りなどおよし」
「……なっ!?」
振り返ると、そこには小柄な老婆と、その傍らに立つ落ち着いた雰囲気の少女がいた。
「……ちょ、ちょっと、おばあちゃん!」
少女が慌てて老婆をたしなめる。しかし、当の老婆は何食わぬ顔でこちらを眺めており、周囲にまで聞こえるような声で言い放ったことなど、少しも気にしていないらしい。
2人は旅の占い師で、老婆はナバラ、少女は孫娘のメルルと名乗った。
「……あの、すみません。祖母は少し口が悪くて……」
メルルが申し訳なさそうに頭を下げた。
「……いいえ。お気になさらないでください」
ヒルダは穏やかに微笑み、丁寧に一礼した。
「初めまして。ヒルダと申します」
「……あ、はい。初めまして……」
メルルも慌てて頭を下げた。
しかし、その瞬間、少女の表情がわずかに変わった。目の前の水色の髪をした少女から、何か奇妙な感覚を覚えたのである。
ヒルダもまた、そんなメルルの眼差しを不思議そうに見つめ返していた。
「……あの……?」
「……い、いえ。何でもありません」
メルルが慌てて首を振ると、ヒルダは少し首を傾げたものの、それ以上尋ねようとはしなかった。
そのとき、会場の奥から大きな歓声が上がった。
ドラゴンキラーの競売が始まったのである。
「……うわあ。すっごく高いんだね……」
次々とつり上がっていく値段を見て、ダイは驚いたように目を丸くした。
「でも、オレ、そんな高い武器じゃなくてもいいよ。ちゃんと使える剣があれば十分だし」
「何言ってるのよ、ダイくん!」
レオナが勢いよく振り返った。
「あんな連中に買われるくらいなら、ダイくんが使った方がずっといいに決まってるじゃない!」
「……えっ? レオナ?」
「よーし! こうなったら、私も負けてられないわ!」
レオナは勢いよく手を上げ、競売に参加し始めた。
すると、周囲の商人たちも負けじと値をつり上げ始める。レオナもすっかり対抗心に火がついたらしく、次々と金額を上乗せしていった。
「……くっ! だったら、もっと上乗せして……!」
「ま、待て待て待てっ! レオナ! 何ムキになってんだよ!?」
ポップが慌てて止めに入った。
「そんな大金、剣1本に使ってどうすんだよ! パプニカの復興だってあるんだろ!?」
「……うっ……!」
その言葉に、レオナはようやく我に返ったらしい。
「……ありがとう、レオナ。でも、そんなに無理しなくていいよ。オレ、他の剣でも平気だからさ」
ダイも困ったように笑いながら、彼女をなだめた。
「……もう! ダイくんは欲がないんだから!」
レオナは少し不満そうに頬を膨らませたが、結局、それ以上競り続けることは諦めた。
ドラゴンキラーは裕福な商人の手に渡り、レオナは最後まで悔しそうにしていた。一方のダイはそれほど気にした様子もなく、ポップもようやく競売が終わったことに胸を撫で下ろしていた。
そのときだった。
「……っ!?」
突然、メルルの表情が強張った。
胸元を押さえ、何かに怯えるように顔を上げる。その様子に気づいたナバラが、不審そうに声をかけた。
「……メルル? どうしたんじゃ?」
「……何か……来る……!」
メルルは震える声で呟いた。
「……恐ろしいものが……たくさん……!」
その言葉に、一行の表情が変わった。
そして、次の瞬間。
建物の外から、凄まじい轟音が響き渡った。
◇ ◇ ◇
港の方角から、巨大な影が迫っていた。
5本もの首を持つヒドラと、それに続く5匹のドラゴン。いずれも凄まじい巨体と強靭な鱗を持ち、港の兵士たちによる砲撃をものともせず、次々と市街地へ侵入してくる。
警鐘が鳴り響き、街はたちまち大混乱に陥った。
デパートでも客たちが悲鳴を上げながら出口へ殺到していたが、建物の外から響く咆哮と衝撃によって、一部の天井が崩れ始めていた。
「……危ないっ!」
ヒルダが咄嗟に手をかざすと、吹き抜けを駆け上がった風が落下しかけた石材を受け止め、人々のいない場所へ運んでいった。
「レオナさん! 皆さんを、こちらへ!」
「分かったわ! みんな、落ち着いて! 押さないで!」
レオナはすぐに兵士たちへ指示を出し、避難経路の確保に取りかかった。ヒルダも風のマナで瓦礫を取り除きながら、逃げ遅れた人々を助け出していく。
一方、ダイとポップはすでに敵の姿を捉えていた。
「ポップ! オレ、あのでっかいやつを何とかしてくる!」
「おう! 残りのドラゴンどもは俺に任せろ!」
2人は互いに頷き合うと、それぞれの敵へ向かって駆け出した。
◇ ◇ ◇
「……ったく! よりによって5匹まとめてかよ!」
迫りくるドラゴンの群れを前に、ポップは思わず悪態をついた。
だが、このまま商業地区で戦えば、周囲の人々まで巻き込んでしまう。少年はすぐに周囲を見回すと、杖から放った炎でドラゴンたちの注意を引きつけ、街の外れへ向かって走り始めた。
「こっちだ、でかぶつども! ついて来やがれ!」
怒り狂った5匹が、地響きを立てて追ってくる。
やがてポップは、建物も人影もほとんどない広い空き地へ辿り着いた。ドラゴンたちが一斉に迫るのを確かめると、少年は杖を高く掲げ、魔法力を集中させた。
「……見てろよ、師匠!」
マトリフから教わった、強力な重圧呪文。
「――《ベタン》ッ!!」
次の瞬間、凄まじい重圧が空き地を襲った。
目に見えない巨大な力がドラゴンたちを上から押し潰し、強靭な四肢が軋みを上げる。地面は大きく陥没し、轟音とともに土煙が舞い上がった。
ポップは歯を食いしばりながら魔法力を送り込み、5匹の巨体を押さえつけ続けた。やがて重圧の中心にいた3匹が完全に地面へ沈み込み、動かなくなる。
「……へっ! どうだ……!」
ポップが得意げに笑った、そのときだった。
「……なっ!?」
重圧の外縁にいた2匹が、凄まじい力で身体を起こしたのである。辛うじて呪文の範囲から逃れたドラゴンたちは、そのままポップから離れ、街へ戻る道を走り始めた。
「ち、ちくしょう! まだ動けんのかよ!」
強力な《ベタン》を放った直後では、すぐに同じ威力の呪文を使うことは難しい。ポップが慌てて追いかけたときには、すでに2匹は大きく距離を取っていた。
「しまった! そっちへ行くなっ!」
少年の叫びもむなしく、ドラゴンたちは再び市街地へ向かって突進していった。
◇ ◇ ◇
その頃、ヒルダはレオナとともに、逃げ遅れた人々を安全な場所へ誘導していた。
崩れかけた建物を風で支え、通路を塞いだ瓦礫を取り除いていた、そのときだった。大通りの向こうから激しい地響きが聞こえ、2匹のドラゴンが姿を現した。
「……ドラゴン!?」
レオナが息を呑んだ。
逃げ遅れた女性が石畳の上へ倒れ込み、その傍らでは小さな子供が泣き叫んでいた。巨大な牙が2人へ迫った、まさにその瞬間だった。
白い影が、凄まじい速さで間に割って入った。
ヒルダだった。
背中から引き抜かれたアストレアが迫りくる牙を受け止め、少女はその力を巧みに横へ逸らした。巨大な頭部が大きく流れた隙に、ヒルダは素早くレオナへ声をかける。
「レオナさん! 皆さんをお願いします!」
「分かったわ!」
レオナはすぐに女性と子供を助け起こし、兵士たちとともに避難を再開した。
その間にも、2匹のドラゴンはヒルダへ襲いかかってくる。しかし、少女は少しも慌てず、軽やかな足運びで牙や爪をかわしながら、相手の突進を巧みに受け流していった。
「……ここから先へは、通しません」
ヒルダは静かに告げた。
ドラゴンの1匹が怒り狂い、真正面から突進してくる。しかし、ヒルダがアストレアを振るった瞬間、凄まじい風圧が発生し、その巨体は足元をすくわれるように宙へ浮いた。
さらに風の流れが変わり、巨大な身体が地面へ叩きつけられる。硬い鱗を持つドラゴンも、その衝撃には耐えきれず、激しく身体を震わせたあと、ぐったりと動かなくなった。
もう1匹が咆哮を上げ、横から襲いかかった。
ヒルダはその突進をかわすと、体勢が崩れたところへ素早く踏み込んだ。そして、アストレアの刀身を返し、巨大な剣の平を竜の頭部へ叩きつけた。
鈍い衝撃音とともに巨体が揺らぎ、続けて放たれた風の衝撃が、ドラゴンを地面へ押し倒す。魔物はしばらく四肢を動かしていたが、やがて完全に意識を失ったらしく、動かなくなった。
ヒルダは静かに剣を下ろした。
2匹とも、まだ息はある。しかし、当分目を覚ますことはないだろう。
「……ふう。これで大丈夫ですね」
少し離れた場所では、兵士たちが恐る恐るドラゴンの様子を確かめていた。ヒルダは彼らに2匹を拘束しておくようお願いすると、再び人々の避難へ目を向けた。
そのとき、ようやく追いついたポップが、倒れたドラゴンを見て目を丸くした。
「……おいおい! もう片づけちまったのかよ!?」
「……あっ、ポップさん。お怪我はありませんか?」
「……あ、ああ。俺は平気だけどよ……」
ポップは2匹のドラゴンを見つめたが、すぐに何かを思い出したように顔を上げた。
「……そうだ! ダイは!?」
その言葉に、ヒルダも表情を引き締めた。
遠く離れた港の方角から、凄まじい咆哮が響いてくる。ヒドラとの戦いは、まだ終わっていなかった。
◇ ◇ ◇
その頃、ダイは港に近い大通りで、ヒドラと激しく戦っていた。
5本もの首が次々と襲いかかり、巨大な牙が石畳を砕いていく。ダイは素早く身をかわしながら反撃を繰り返していたが、相手の鱗は想像以上に硬く、容易には決定的な傷を与えられなかった。
「……くそっ! 何て硬いやつなんだ!」
ダイは剣を握り直し、再び地面を蹴った。
しかし、ヒドラの首へ渾身の一撃を叩き込んだ、その瞬間だった。
甲高い金属音が響いた。
「……えっ!?」
度重なる激戦で傷んでいた剣が、ついに折れてしまったのである。手の中には半分ほどになった刀身だけが残され、砕けた破片が石畳の上へ散らばっていた。
ヒドラはその隙を逃さなかった。
5本の首が一斉に襲いかかり、ダイは必死に身をかわしたものの、武器を失った状態では思うように反撃できない。巨大な牙に追い詰められながら、少年は何とか活路を見いだそうとしていた。
そのとき、近くから悲鳴が聞こえた。
振り返ると、崩れた建物の傍らにメルルの姿があった。逃げ遅れた人々を助けようとしていた彼女へ、ヒドラの巨大な首が迫っていたのである。
「……危ないっ!!」
ダイは考えるより先に地面を蹴っていた。
剣を失ったことも、相手の巨大さも、その瞬間には頭から消えていた。ただ、目の前の人々を守らなければならない。その思いだけが、少年の身体を突き動かしていた。
そして、次の瞬間。
ダイの額に、不思議な紋章が浮かび上がった。
◇ ◇ ◇
ヒドラの牙が、寸前で止まった。
その巨大な顎を受け止めていたのは、先ほどまで武器を失い、追い詰められていたはずの少年だった。
ダイは竜の巨体を押し返すと、信じられないような速さで地面を蹴り、続けざまに襲いかかってきた別の首へ強烈な一撃を叩き込んだ。ヒドラは苦悶の咆哮を上げ、その巨体を大きく揺るがせる。
その光景を目にしたナバラが、思わず息を呑んだ。
「……あの紋章……まさか……!」
傍らのメルルも、少年の額を見つめていた。先ほどまでとは比較にならない力と、そこに浮かび上がった不思議な紋章に、2人とも目を奪われていた。
「……おばあちゃん、あれは……?」
「……竜の騎士……」
ナバラの口から、思わずその名が漏れた。
◇ ◇ ◇
「……っ!?」
離れた場所で負傷者を助けていたヒルダが、思わず顔を上げた。
港の方角から、先ほどまでとは明らかに異なる力の気配が伝わってきたのである。
「……これは……?」
遠くに見えるヒドラの巨体。その前に立つ小さな少年の額には、見覚えのある紋章が輝いていた。
以前にも、ダイの額にあの紋章が浮かび上がるところを見たことはある。魔弾銃へ《ベギラマ》を込めようとしたときも、確かに不思議な力が発揮されていた。
しかし、今はそれまでとは様子が違っていた。
少年の動きも、身体から放たれる力も、先ほどまでとは比較にならないほど高まっている。踏み込みの速さや攻撃の鋭さは、これまでヒルダが目にしてきたダイのものを、明らかに上回っていた。
「……ダイくん……?」
ヒルダは小さく呟いた。
あの紋章には、まだ自分たちの知らない力が秘められているのかもしれない。そう考えながら、少女は遠くで繰り広げられる戦いを注意深く見つめていた。
◇ ◇ ◇
額に紋章を浮かべたダイは、もはや先ほどまでとは別人のような動きを見せていた。
ヒドラの首が繰り出す攻撃をものともせず、次々と反撃を叩き込む。やがて、混乱の中で落とされていたドラゴンキラーを見つけると、少年はそれを手にして巨大な竜の懐へ飛び込んだ。
硬い鱗の隙間を狙い、首の付け根へ深く突き刺す。
そして、少年が大きく叫んだ。
「――《ライデイン》ッ!!」
次の瞬間、凄まじい雷光が天から降り注いだ。
突き刺さったドラゴンキラーを通じて、強烈な雷撃がヒドラの巨体へ流れ込んでいく。5本の首が苦悶の咆哮を上げ、巨大な身体が激しく震えた。
やがて、ヒドラはその巨体を大きく傾け、轟音とともに地面へ崩れ落ちた。
ベンガーナの街を襲った恐るべき竜が、ついに倒されたのである。
◇ ◇ ◇
戦いが終わったあと、街にはしばらく静寂が広がっていた。
崩れた建物の間には砂埃が漂い、石畳のあちこちに深い亀裂が走っている。倒れ伏したヒドラの巨体を前に、兵士たちも住民たちも、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……はあっ……はあっ……!」
ダイはヒドラの首から引き抜いたドラゴンキラーを下ろし、大きく息をついた。額に浮かんでいた紋章は、いつの間にか消えている。
「……やった! 勝ったんだ!」
少年の顔に、明るい笑顔が浮かんだ。
あれほど恐ろしいヒドラを倒し、街の人々を守ることができた。ダイは嬉しそうに振り返ったが、そこに広がっていた光景を見て、思わず足を止めた。
「…………?」
人々は遠巻きにダイを見つめていた。
確かに、街を救った少年へ感謝する者もいた。しかし、目の前で繰り広げられた凄まじい戦いを目撃した人々の中には、その人間離れした力に恐怖を覚える者も少なくなかった。
巨大なヒドラの牙を素手で受け止め、圧倒的な力で打ち倒した少年。額に不思議な紋章を浮かべたその姿は、彼らが知る普通の人間とは、あまりにもかけ離れていた。
「……あ、あの子……本当に人間なのか……?」
誰かが、小さく呟いた。
ダイは戸惑ったように周囲を見回した。すると、近くにいた幼い女の子が、少年の姿を見た途端、母親の服へしがみついて泣き出した。
「……こわいよ……。あのお兄ちゃん、こわいよぉ……!」
「……えっ……?」
ダイは驚いて、その子へ歩み寄ろうとした。
しかし、母親は怯えた表情で娘を抱き寄せ、反射的に後ずさった。周囲の人々も同じように距離を取り、その視線には、隠しきれない恐怖が浮かんでいる。
「……ど、どうしたの……? みんな……」
少年の足が止まった。
自分はただ、人々を助けたかっただけなのだ。あの恐ろしいヒドラを倒して、みんなが安心して暮らせるようにしたかった。それなのに、どうして助けたはずの人々から、こんな目で見られなければならないのだろう。
ダイは何か言おうとしたが、うまく言葉にならなかった。
先ほどまで自分たちを襲っていたヒドラへ向けられていた恐怖。それとよく似た眼差しが、今度は自分へ向けられている。
その事実が、少年の胸に冷たく突き刺さった。
そのときだった。
「……やれやれ。人間って、本当に勝手な生き物だよねえ」
場違いなほど軽い声が、広場へ響いた。
振り返ると、少し離れた瓦礫の上に、奇妙な仮面をつけた男が立っていた。細身の身体を覆う衣装に大きな鎌。その立ち姿には、まるで目の前の惨状を楽しんでいるかのような、不気味な余裕があった。
「……誰だ、お前!」
ダイは咄嗟にドラゴンキラーを投げつけた。鋭い刃が仮面の男の身体へ突き刺さったが、男は痛がる素振りさえ見せず、楽しそうに笑っている。
「……おやおや。いきなり物騒だねえ」
やがて彼が武器を引き抜くと、刃は異様な熱に侵されたように崩れ始め、そのまま跡形もなく溶け落ちてしまった。
「……なっ!?」
駆けつけてきたポップが、警戒するように杖を構えた。
男は芝居がかった仕草で一礼した。
「僕かい? キルバーン。魔王軍では、死神なんて呼ばれている者さ」
「……魔王軍だと!?」
ポップの表情が険しくなる。
しかし、キルバーンはそんな反応など気にも留めない様子で、愉快そうに肩を揺らした。
「今日は面白いものが見られたよ。まさか、あの超竜軍団自慢のヒドラが、こんな小さな勇者にやられちゃうなんてねえ」
男の視線が、ダイへ向けられた。
「……どうやら君は、自分でも知らない大きな秘密を持っているみたいだね」
「……秘密?」
「そうさ。それにしても、あの人たちを見てごらんよ。君に命を助けられたばかりなのに、まるで化物でも見るような目をしているじゃないか」
キルバーンは周囲の人々へ視線を巡らせ、楽しげに笑った。
「人間って、つくづく勝手だよねえ。強い味方は欲しがるくせに、いざ本当に凄い力を目の前にすると、今度はそれが怖くなっちゃうんだから」
「……うるせえっ!」
ポップが怒鳴った。
「ダイが何者だろうが関係ねえだろ! こいつがこの街を守ったのは、本当のことじゃねえか!」
「おやおや。友達思いなんだね、君は」
キルバーンはからかうように笑った。
そこへ、ヒルダとレオナも駆けつけた。
ヒルダはダイの無事を確かめると、ほっとしたように表情を和らげた。しかし、少年を取り巻く人々の様子に気づくと、その表情に微かな翳りが浮かんだ。
「……ダイくん……?」
キルバーンもまた、ヒルダへ視線を向けた。
白い軽鎧に身を包み、背中に巨大な大剣を負った水色の髪の少女。その姿をしばらく眺めたあと、仮面の男は興味深そうに首を傾げた。
「……へえ。君も、なかなか妙な子だねえ」
ヒルダは答えず、静かに相手を見つめた。
「……なんだろうなあ。君も普通の人間とは、ちょっと違うみたいだねえ。……妙な気配がするよ」
「…………」
ヒルダの表情が、わずかに引き締まった。
男の言葉は、確かに自分の境遇へ触れるものだった。しかし、彼がどこまで気づいているのかは分からない。ヒルダは警戒を解かず、仮面の奥に隠された眼差しを見据えていた。
「……ふふっ。まあ、気のせいかもしれないけどね」
キルバーンは楽しげに肩を揺らし、再びダイへ顔を向けた。
「それにしても、今日は本当に面白いものが見られたよ。おかげで、知りたかったことも分かったしね」
「……待て! どういう意味だよ!」
ダイが叫んだが、キルバーンは答えなかった。
「……それじゃあ、またね」
不気味な笑い声だけを残し、男の姿はいつの間にか消えていた。
その場には、重苦しい沈黙が残された。
◇ ◇ ◇
「あの紋章は……伝説の竜の騎士の証じゃ……」
ぽつりと呟いたのは、ナバラだった。
先ほどの戦いの中で少年の額に浮かんだ紋章を目撃した老占い師は、今も信じられないものを見るような表情でダイを見つめていた。
「……竜の騎士……?」
ダイは戸惑ったように聞き返した。
けれど、その言葉を聞いても、自分が何者なのかは少しも分からなかった。先ほどキルバーンが口にした秘密という言葉も、人々から向けられた恐怖の眼差しも、頭から離れない。
自分は、ただデルムリン島でブラスじいちゃんと一緒に暮らしてきただけなのだ。魔物たちと遊び、アバン先生に剣を教わり、仲間たちと旅をしてきた。
それなのに、どうして自分にあんな力があるのだろう。
「……オレは……」
ダイは小さく呟いた。
「……オレは、人間じゃないのか……?」
その声は、驚くほど弱々しかった。
ポップが何か言おうと口を開き、レオナも心配そうにダイへ歩み寄る。しかし、少年は俯いたままだった。
もし本当に自分が普通の人間ではなかったとしたら、今までと同じように仲間たちと一緒にいてもいいのだろうか。そんな疑問が胸の奥に生まれるたびに、人々から向けられた怯えた眼差しが思い出され、少年の心をさらに重くしていった。
◇ ◇ ◇
そんなダイの姿を、ヒルダは静かに見つめていた。
先ほどヒドラと戦っていたとき、少年の額に浮かび上がった不思議な紋章。あれほど急激に戦闘能力が高まったことには驚かされたが、今のヒルダが気にかけていたのは、その力の正体よりも、目の前で俯いている少年の様子だった。
人々を守るために懸命に戦ったダイが、なぜかその人々から恐れられている。何が悪かったのかも分からず、ただ戸惑い、傷ついている。
その光景を見つめた瞬間、ヒルダの胸の奥に、遠い昔の記憶が蘇った。
――気味が悪い。
――あの子には、近づかない方がいい。
かつて、自分にも向けられていた言葉だった。周囲の人々とはどこか違うというだけで恐れられ、忌み子と呼ばれた日々。何もしていないのに避けられ、時には露骨な嫌悪を向けられることもあった。
幼い頃は、なぜ自分がそのような目で見られるのか分からなかった。けれど、同じことが何度も繰り返されるうちに、次第に理解するようになった。自分の存在そのものが、人々に恐怖や不安を与えてしまうのだと。
そして、いつしかヒルダは、自分から人目につかないように過ごすことを選ぶようになっていた。
誰かに受け入れてもらえることを期待して、無理に近づこうとはしない。自分が姿を見せることで相手を怖がらせてしまうのなら、できるだけ人のいない場所にいればいい。誰にも迷惑をかけず、静かに暮らしていけるのなら、それで構わない。
当時のヒルダにとって、それは特別に悲しい決断というより、すでに当たり前になっていた生き方だった。
それでも、あの頃の記憶が消えてなくなったわけではない。人々が自分を見た瞬間に表情を強張らせることや、何もしていなくても怯えたように距離を取られること。そのとき胸の奥に残った痛みを、ヒルダは今も覚えていた。
彼女は、ゆっくりとダイへ視線を戻した。
目の前にいる少年は、かつての自分とまったく同じ境遇というわけではない。けれど、人々を守るために必死で戦ったにもかかわらず、その人々から恐れられ、自分が何者なのかさえ分からなくなっている。
俯いた小さな背中を見ていると、胸の奥が静かに締めつけられるようだった。
そして何より、ヒルダは知っていた。
ダイがどれほど純粋で、優しい少年なのかを。
デルムリン島で初めて出会った日から、ダイはいつも一生懸命だった。剣の稽古では何度転んでも諦めず、少しでも上手にできれば嬉しそうに笑い、強くなったことを認められれば、まるで宝物をもらったかのように目を輝かせていた。
人々を守るためなら、どれほど恐ろしい相手にも立ち向かう。それでいて普段は年相応に無邪気で、つい先ほどまでデパートの中を目を輝かせながら歩き回っていた、あの可愛らしい少年なのだ。
額にどのような紋章が浮かぼうと、どれほど不思議な力が目覚めようと、そんなダイ自身が変わってしまったわけではない。
「……ダイくん」
ヒルダが静かに声をかけた。
少年は俯いたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……ヒルダ姉ちゃん……」
その声は、いつもの元気なものとはまるで違っていた。
「……オレ……どうして、みんなに怖がられるんだろ……?」
ダイは小さく呟いた。
「……オレ、ただ……みんなを助けたかっただけなのに……」
その言葉を聞いた瞬間、ヒルダの胸が痛んだ。
彼女は何も言わず、少年の前へ歩み寄った。周囲から向けられる視線も、遠巻きに聞こえてくる人々の囁き声も、今は気にならなかった。ただ、目の前で傷ついている大切な友達を、ひとりにしておきたくなかった。
ヒルダはダイの前で膝を折り、少年と目の高さを合わせた。
そして、力なく垂れ下がっていた彼の手を、両手でそっと包み込んだ。
「……ヒルダ姉ちゃん……?」
ダイが戸惑ったように目を瞬かせる。
ヒルダは、その小さな手を優しく握りしめた。戦いの熱がまだ残る手には細かな傷があり、先ほどまで巨大なヒドラと戦っていたことを物語っていた。
「……ダイくんは、ダイくんですよ」
穏やかな声だった。
ダイは黙って彼女を見つめた。
「……いつも一生懸命で、誰かのために頑張れる、とても優しい人です。強くなりたいと頑張っているときも、楽しそうに笑っているときも……わたしは、そんなダイくんが大好きですよ」
ヒルダは柔らかく微笑んだ。
「……わたしの、大切なお友達ですから」
ダイの瞳が、わずかに揺れた。
その言葉は、自分が竜の騎士なのか、それとも普通の人間なのかを教えてくれるものではなかった。けれど、ヒルダは今までと何も変わらない眼差しで、自分を見つめてくれていた。
「……でも……」
ダイは小さく口を開いた。
「……オレ、本当に人間じゃないのかもしれないんだよ……?」
その声には、まだ深い不安が残っていた。
ヒルダは静かに頷いた。
「……わたしにも、まだ分かりません。でも、ダイくんがどんな方なのかは、ちゃんと知っているつもりです」
ヒルダは包み込んだ手を離さず、少年の瞳をまっすぐに見つめた。
「……今日も、皆さんを守るために一生懸命戦ってくださいましたね。とても立派でしたよ」
その言葉に、ダイは再び俯いた。
ヒルダは自分の力を恐れていない。何者か分からないという理由で、避けたりもしない。ただ、みんなを守るために頑張ったことを、いつものように認めてくれている。
そのことが、嬉しかった。
けれど、胸の奥に生まれた疑問は、まだ消えていなかった。
「……ありがとう、ヒルダ姉ちゃん……」
ダイは小さな声で答え、包み込まれた手をそっと握り返した。
その様子を、ポップとレオナも静かに見守っていた。ヒルダの言葉によって、ダイの表情はほんの少し和らいだように見えたが、額に浮かんだ紋章のことも、人々から向けられた恐怖の眼差しも、簡単に忘れられるものではないのだろう。
「……ったく。何を今さら心配してんだよ」
ポップが少し照れくさそうに頭を掻いた。
「お前がどんな奴だろうが、俺たちの仲間ってことに変わりはねえだろ?」
「……ポップ……」
ダイが顔を上げると、レオナも優しく微笑み、少年の肩へそっと手を置いた。
「そうよ、ダイくん。私たちだって、ずっと一緒なんだから」
――第12話・了――