白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険   作:AmethystBlue

2 / 4
第2話 デルムリン島の小さな剣士

 ヒルダがデルムリン島に現れてから、すでに2週間ほどが過ぎていた。見知らぬ世界に迷い込んだという事実は変わらないものの、彼女はすっかり島の暮らしに馴染んでいた。朝はブラスの家で食事を共にし、日中は島の探索や薬草の採集を手伝い、ときには魔物たちの小さな揉め事を仲裁する。空いた時間にはダイにせがまれて剣の稽古に付き合うという、穏やかな日々が続いていた。

 

 もちろん、元の世界へ帰る方法を探すことを諦めたわけではない。ブラスに借りた古い地図を眺めたり、この世界の魔法について教わったりしながら、少しずつ情報を集めている。しかし、そもそもヒルダ自身、何が原因でここへ来てしまったのか分かっておらず、今のところ手掛かりらしいものは何ひとつ見つかっていなかった。

 

 それでも焦らずにいられるのは、デルムリン島での暮らしがあまりにも平和だったからかもしれない。魔物たちは陽気で、ブラスは親切、そしてダイは驚くほど人懐っこい。最初こそ見知らぬ人間の少女に戸惑っていた島の魔物たちも、今ではヒルダを見かけると親しげに近づいてくるようになっていた。

 

 そんな暮らしの中で、ダイにも新しい日課ができていた。

 

「やあっ! とうっ!」

 

 朝日が差し込む森の広場に、少年の元気な掛け声が響いていた。ダイは木剣を握り、少し離れた場所に立つヒルダへと勢いよく踏み込んでいく。以前ならば一直線に突っ込んできたところだが、今は相手の反応を見ながら足運びを変え、攻撃の瞬間に身体の向きを調整するようになっていた。

 

 ヒルダは細い木の枝を片手に、穏やかな表情で少年を迎えた。振り下ろされる木剣に枝を軽く添えて受け流し、次の一撃には身体を半歩だけずらして対応する。彼女自身はほとんど動いていないように見えるのに、ダイの木剣は不思議なほど空を切り続けていた。

 

「くそーっ! また当たんない!」

「ふふっ。でも、今のはよかったですよ。最初の頃と比べたら、ずいぶん動きがよくなりましたね」

「ほんと!? じゃあ、もうちょっとで姉ちゃんに勝てるかな!」

 

 期待に目を輝かせるダイに、ヒルダはどう答えたものかと困ったように笑った。少年の上達が早いのは間違いないが、さすがに今の実力で自分に勝つのは難しい。それでも、せっかく芽生えた向上心に水を差すようなことは言いたくなかった。

 

「そうですね……。まずは、わたしの持っている枝に1度でも剣を当てられるようになりましょうか」

「よーしっ! だったら今日こそ当ててやる!」

 

 ダイは張り切って木剣を構え直したが、ヒルダはすぐには応じなかった。少年の足元へ視線を落とし、少し考えてから、自分の足を動かしてみせる。ダイが不思議そうに覗き込むと、彼女はゆっくりと重心を移しながら説明を始めた。

 

「ダイくん、剣を振るときに、相手をよく見ていますか?」

「え? そりゃ見てるよ。姉ちゃんに当てようとしてるんだから」

「ふふっ。そうですね。でも、剣が当たる場所だけではなくて、相手の足や身体の向きにも気をつけてみてください。相手が次にどちらへ動こうとしているのか、少しだけ分かることがありますから」

 

 ヒルダはそう言いながら、ダイの目の前でゆっくりと左右へ動いてみせた。少年は最初こそ首を傾げていたが、やがて彼女の足が身体よりも先にわずかに動いていることに気づき、興味深そうに目を細める。

 

「……あっ! そっか! 姉ちゃん、よける前に足が動いてるんだ!」

「はい。ですから、剣だけを追いかけるのではなく、身体全体を見るんです。ただし、上手な人ほど動きを読まれないようにしますから、いつも同じとは限りませんけどね」

「なるほどなあ……。よし、もう1回!」

 

 ダイは再び構えを取った。今度は闇雲に斬りかかるのではなく、ヒルダの動きをじっと観察しながら間合いを詰めてくる。途中で1度、剣を振り下ろすような動作を見せてから横へ回り込んだため、ヒルダは小さく目を見開いた。

 

 もちろん、その程度の動きで彼女の防御を崩せるわけではない。軽く枝を動かして攻撃を受け流したが、教わったことを早速応用しようとするダイの柔軟さには感心させられた。しかも、失敗しても落ち込むどころか、次はどうすればよいのかと考えている。

 

 この少年には、優れた素質がある。

 

 ヒルダ自身、剣術に関しては長年の実戦経験があるものの、誰かを本格的に指導した経験はほとんどなかった。自分では当たり前のようにできる動きを、相手に分かりやすい言葉で説明するのは意外に難しい。それでもダイは、彼女の助言から何かを掴み取り、驚くほどの速さで吸収していく。

 

 まだ身体は小さく、技術も未熟だが、ときおり見せる動きには単なる子供の遊びとは思えない鋭さがあった。もし優れた師に巡り会い、本格的に剣術を学ぶことができたなら、この少年はどこまで強くなるのだろうか。

 

 そんなことを考えながら、ヒルダは今日もダイの相手を続けていた。

 

◇ ◇ ◇

 

「まったく、あの子は……。剣の稽古ばかり熱心になりおって」

 

 ある日の昼下がり、ブラスは深いため息をつきながら杖を握り直した。家の前では、魔法の練習をしていたはずのダイが、いつの間にか木剣を振り回している。最初こそ呪文の詠唱に取り組んでいたのだが、小さな火球を生み出すのが精一杯で、とうとう嫌になってしまったらしい。

 

「ダイ! まだ今日の魔法の修行は終わっておらんぞ!」

「ええーっ!? だって、何回やっても上手くいかないんだもん! オレ、やっぱり魔法より剣のほうが向いてるって!」

「そういう問題ではないわい! 立派な魔法使いになるためには、毎日の積み重ねが大切なのじゃ!」

 

 ブラスの叱責に、ダイは露骨に顔をしかめた。その様子を少し離れた場所から眺めていたヒルダは、困ったように笑いながら2人のもとへ歩み寄る。ダイが剣の稽古に夢中になる気持ちはよく分かるが、ブラスの言い分ももっともだった。

 

「ブラスさん、少し休憩してはいかがでしょうか? ずっと練習していたので、ダイくんも疲れているのかもしれません」

「むう……。ヒルダ殿は少々この子に甘いのではないかの?」

「そ、そうでしょうか……?」

 

 思いがけない指摘に、ヒルダは少し慌てた。ダイが自分の背後で嬉しそうに笑っていることに気づくと、今度はそちらへ向き直り、やんわりと注意する。

 

「でも、ダイくん。魔法の練習をしなくてもいいというわけではありませんよ。ブラスさんが一生懸命教えてくださっているんですから、もう少し頑張ってみましょう?」

「うっ……。姉ちゃんまでそんなこと言うのかよ……」

 

 ダイは渋々といった様子で木剣を置き、杖を握り直した。そんな少年を見て、ブラスはようやく満足そうに頷く。どうやらヒルダの言葉なら素直に聞くことも多いらしく、最近では彼女に仲裁を頼むことも珍しくなくなっていた。

 

 もっとも、肝心の魔法については相変わらずだった。

 

 ダイは何度も呪文を唱えたが、ようやく生まれた小さな火球は、頼りない音を立てて消えてしまった。本人はひどく不満そうだったものの、ヒルダはその様子を興味深く観察していた。

 

 呪文を唱えるたび、ダイの魔力が不安定に揺れるのを感じる。しかし、この世界の魔法についてはまだ分からないことも多く、彼女は安易に口を出すことを控えていた。

 

「ヒルダ殿は、魔法も使えると聞いておりますが……。やはり、呪文を覚えるのには苦労なされましたかな?」

 

 ブラスに尋ねられ、ヒルダは少し考え込んだ。彼女が扱う魔法は、周囲のマナを操ることで発動させるものが多く、こちらの世界の呪文とは少し勝手が違う。自分の経験をそのまま話しても、かえって分かりにくいかもしれなかった。

 

「ええと……。わたしは、少し変わった方法で魔法を使うんです。ですから、こちらの世界の魔法については、まだ分からないことが多くて……」

「ほう。異なる体系の魔法、ということですかな?」

「はい。わたしの仲間に、ハンスさんという魔道士がいるんです。魔法についてはとても詳しい方なので、きっとハンスさんなら、こちらの魔法にも興味を持つと思います」

 

 懐かしそうに語るヒルダを見て、ブラスは静かに頷いた。彼女がときおり口にする仲間たちの話から、その旅が決して平穏なものではなかったことは察していた。しかし、ヒルダ自身は詳しいことをあまり語ろうとせず、ブラスも無理に聞き出そうとはしていなかった。

 

「そのハンス殿という方は、ずいぶん優れた魔法使いなのですな」

「はい。とても頼りになる方なんですよ。わたしも魔法について教わることがあるんですけど、ハンスさんの知識にはいつも驚かされてばかりで……」

 

 ヒルダが微笑むと、ブラスもつられて表情を和らげた。仲間のことを語る少女の声音には、離れた場所にいる相手への信頼と親しみが自然に滲んでいた。

 

 その一方で、ダイはまたしても魔法の練習に苦戦していた。

 

「ううーっ! やっぱりダメだ! 全然上手くいかねえ!」

「ダイくん、焦らなくても大丈夫ですよ。得意なことと苦手なことは、誰にでもありますから」

「でもさあ、勇者って剣も魔法も使えるんだろ? オレ、こんなんじゃ勇者になれないよ」

「ふふっ。今すぐ何でもできる必要はないと思いますよ。剣の練習と同じで、少しずつ覚えていけばいいんですから」

 

 ヒルダの言葉に、ダイは少しだけ元気を取り戻したらしい。しかし、その視線が早くも傍らの木剣へ向かっていることに気づくと、ブラスはまたしても深いため息をついた。

 

「……ヒルダ殿。やはり少々甘いようですな」

「えっ? あ、あの……すみません……」

 

 困り果てたように頭を下げるヒルダを見て、ダイはとうとう声を上げて笑い出した。つられてヒルダも小さく笑い、ブラスはそんな2人を見ながら、呆れたように杖を振るのだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 それからさらに数週間が過ぎた。

 

 ダイの剣術は、少しずつだが確実に上達していた。ヒルダが教えたのは、足運びや間合いの取り方、相手の動きを観察することなど、剣術の基本となる部分がほとんどだった。しかし、もともと身体能力に優れたダイにとって、それらの知識は驚くほど有益だったらしい。

 

 以前のダイは、とにかく勢いよく剣を振り、持ち前の身体能力で相手を圧倒しようとすることが多かった。今では相手の動きを見ながら攻撃の機会を探し、次の動作を意識して剣を振るようになっている。もちろん、まだ子供らしい勢い任せの攻撃も多いが、それでも戦い方には少しずつ変化が生まれていた。

 

 もっとも、ダイの根本的なところは何も変わっていない。島の魔物たちを家族のように大切にし、困っている仲間がいれば誰よりも早く駆けつける。その優しさと勇敢さは、ヒルダがこの島へ来たときから変わらないものだった。

 

 ある日、海岸沿いの崖で小さな騒ぎが起こった。

 

 遊んでいた魔物の子供が足を滑らせ、崖の途中にある狭い岩棚へ落ちてしまったのだ。幸い大きな怪我はなかったものの、岩棚は波に洗われており、自力で登ることもできない。周囲の魔物たちが慌てて駆けつけた頃には、すでに潮が満ち始めていた。

 

「大変だ! 早く助けないと!」

 

 知らせを聞いたダイは、真っ先に崖へ向かって走り出した。ヒルダも後を追ったが、到着したときには、少年がすでに崖の縁から身を乗り出していた。下を覗き込むと、小さな魔物が岩棚にしがみつき、不安そうにこちらを見上げている。

 

「待ってろ! 今助けてやるからな!」

 

 ダイはそう叫ぶと、すぐに崖を降りようとした。しかし、その肩にヒルダの手がそっと置かれる。

 

「ダイくん、待ってください。そのまま降りるのは危険です」

「でも、早くしないとあいつが!」

「はい。ですから、わたしが先に降ります。ダイくんは、皆さんと一緒に上から手伝っていただけますか?」

 

 ヒルダは落ち着いた声でそう告げると、崖の下へ目を向けた。岩棚は狭く、濡れた岩肌には足をかけられる場所も少ない。さらに、波が打ち寄せるたびに小さな魔物の身体が揺れており、悠長にしていられる状況ではなかった。

 

 ダイは一瞬だけ迷ったものの、すぐに頷いた。

 

「分かった! じゃあオレ、みんなを呼んでくる!」

 

 少年が駆け出すのとほぼ同時に、ヒルダは崖の縁から軽やかに身を躍らせた。吹き上がる風に水色の髪が広がり、彼女は岩肌を蹴って危なげなく岩棚へ降り立つ。怯えている魔物が驚いたように顔を上げたので、ヒルダは安心させるように微笑みかけた。

 

「もう大丈夫ですよ。今、助けますからね」

 

 その言葉に応えるように、魔物は小さく鳴きながら彼女へしがみついた。ヒルダはその身体をそっと抱き上げると、波が届かない位置へ移動する。ちょうどそのとき、先ほどまで魔物がいた岩棚に大きな波が砕け散り、白い飛沫が舞い上がった。

 

「ヒルダ姉ちゃん! 縄を持ってきたぞー!」

 

 頭上からダイの声が聞こえた。見上げると、少年は近くの魔物たちと協力しながら、丈夫な木に縄を結びつけている。結び目を確かめたあと、ダイは崖の縁まで駆け寄り、縄の端をこちらへ投げ下ろした。

 

「ありがとうございます、ダイくん!」

 

 ヒルダは片腕に魔物を抱いたまま、もう一方の手で縄を受け取った。崖を登るだけなら彼女にとって難しいことではなかったが、足場の悪い場所で怯える魔物を抱えている以上、安全な方法があるに越したことはない。縄を補助に使いながら岩肌を蹴り、身軽な動きで崖の上へ戻っていく。

 

「よーし! もうちょっとだ!」

 

 上ではダイが仲間の魔物たちに声をかけ、縄を引いていた。やがてヒルダが崖の縁へ手をかけると、少年はすぐに駆け寄り、彼女が抱えていた小さな魔物を受け取る。無事に救出された仲間の姿を見て、周囲から一斉に歓声が上がった。

 

「よかったあ! 無事だったな!」

 

 ダイは嬉しそうに魔物を抱き上げた。小さな魔物も安心したように少年へしがみつき、しきりに身体を擦り寄せている。その光景を見たヒルダは、ほっと息をつきながら微笑んだ。

 

「助かりました、ダイくん。縄を用意してくださって、ありがとうございます」

「へへっ! 姉ちゃんが先に助けてくれたからだよ!」

「ふふっ。皆さんが協力してくださったおかげですね」

 

 ヒルダがそう答えると、ダイは照れくさそうに頭を掻いた。周囲の魔物たちも嬉しそうに騒ぎ、救出された子供を取り囲んでいる。

 

 困っている仲間を見つければ、危険を顧みず真っ先に飛び出していく。その勇敢さはダイの素晴らしいところだったが、今回のように、誰かと力を合わせることで安全に助けられる場合もある。ヒルダはそんなことを思いながら、仲間たちに囲まれて笑う少年を、温かな気持ちで見守っていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 その夜、ダイが眠りについたあと、ヒルダはブラスと共に家の外で星空を眺めていた。

 

 波の音が遠くから聞こえ、森の中では夜行性の魔物たちが静かに活動している。昼間の賑やかさが嘘のように、島には穏やかな夜の空気が満ちていた。

 

「ヒルダ殿には、すっかり世話になってしまいましたな」

 

 ブラスがしみじみと呟くと、ヒルダは驚いたように顔を向けた。彼女にしてみれば、行き場のない自分を受け入れ、こうして寝食を共にさせてくれているブラスのほうに、ずっと大きな恩があると思っていた。

 

「そんなことはありませんよ。わたしのほうこそ、こんなによくしていただいて……。本当にありがとうございます、ブラスさん」

「いやいや。ダイもあれほど楽しそうにしておりますしのう。あの子にとって、ヒルダ殿との出会いはよい刺激になったようじゃ」

 

 ブラスは静かに笑いながら、家のほうへ視線を向けた。ダイが剣の稽古に夢中になっていることには少々複雑な思いもあるが、以前よりも剣の扱いが上達しているのは確かだった。自分では剣術を教えてやれないだけに、ヒルダとの出会いはあの子にとって得難い機会だったのだろう。

 

「それに、剣の腕前もずいぶん上がったようじゃ。わしには剣術のことはよく分からんが、最近のあの子の動きは以前とはまるで違って見える」

「ふふっ。ダイくんは、とても飲み込みが早いんです。わたしが少し教えただけで、すぐに覚えてしまうんですよ」

「ほう……。やはり、あの子には剣の才能があるのかもしれませんな」

 

 ブラスは嬉しそうに頷いたものの、その表情にはわずかな寂しさも滲んでいた。もともとは立派な魔法使いに育てるつもりだったダイが、日に日に剣術へ傾倒していく。そのことを残念に思う気持ちは、やはり簡単には消えないのだろう。

 

 ヒルダはそんなブラスの気持ちを察し、少し言葉を選びながら口を開いた。

 

「ブラスさんが教えてくださっている魔法も、きっと無駄にはならないと思いますよ。今は上手に使えなくても、いつか役に立つときが来るかもしれませんし……。それに、魔法を知っている剣士というのは、戦い方の幅も広がりますから」

「……なるほどのう。そういう考え方もあるか」

 

 ブラスは感心したように頷いた。実際に剣と魔法の両方を扱うヒルダの言葉には説得力があり、ダイが剣士を目指すとしても、自分の教えてきたことが無駄になるわけではない。そう考えると、少しばかり気持ちが軽くなったようだった。

 

「ところで、ヒルダ殿。そろそろ島の外へ出ることも考えておられるのではないかの?」

 

 不意に尋ねられ、ヒルダは少し驚いた。確かに、ここ数日は大陸へ渡る方法について考えることが増えていたが、そのことをブラスに詳しく話した覚えはない。彼女が戸惑っていると、ブラスは穏やかに笑った。

 

「いやなに。ヒルダ殿には探しておられるものがあるのでしょう? いつまでもこの小さな島に留まっていては、見つかるものも見つかりますまい」

「……はい。わたしも、そろそろ外の世界を見てみたいと思っていました」

 

 ヒルダは静かに頷いた。デルムリン島での暮らしは楽しく、できることならもう少し続けていたい。しかし、シヴァやマリン、ハンスのことを思うと、このまま何もせずに過ごしているわけにもいかなかった。

 

 仲間たちは、今頃どうしているだろうか。自分が突然いなくなったことで、心配をかけていないだろうか。そう考えると胸が締めつけられるが、今の自分にできることは、少しずつでも帰る方法を探し続けることだけだった。

 

「ただ……ダイくんのことが、少し気になってしまって」

「ダイのことを?」

「はい。あの子はとても優しくて、剣の才能もあります。でも、わたしが教えてあげられることには限りがありますから……。できれば、もっときちんと剣術を教えてくださる方がいればいいのですが」

 

 ヒルダは小さく苦笑した。自分が長年の戦いで身につけてきた技術を、まだ幼いダイにどう伝えればよいのか、迷うことも少なくない。今は基本的なことを教えるだけで十分だが、少年が本格的に剣の道を歩むのであれば、いずれは優れた師の指導が必要になるだろう。

 

「ふむ……。ヒルダ殿ほどの剣士でも、教えるとなると難しいものなのですな」

「はい。ですから、もしダイくんが本格的に剣を学びたいと思うなら、きちんとした先生に習うのが1番だと思います」

 

 そう答えてから、ヒルダは再び夜空を見上げた。

 

 この世界には、どのような剣士がいるのだろうか。どのような魔法が存在し、どのような人々が暮らしているのだろうか。まだ知らないことばかりだが、だからこそ、少しだけ楽しみに思う気持ちもあった。

 

 ブラスはそんな彼女の横顔を静かに見守っていた。島に現れたときは行き場を失っていた少女が、今では外の世界へ目を向け始めている。いつかは別れが来るのだろうが、それまでの間、ここが彼女にとって安らげる場所であればよいと、老いた鬼面道士は思った。

 

◇ ◇ ◇

 

 異変が起こったのは、それから数日後のことだった。

 

 朝から島の空気が妙に重く、森の奥では落ち着かない様子の魔物たちが騒いでいた。普段は陽気なドラキーが互いに威嚇し合い、温厚な魔物までもが苛立ったように地面を踏み鳴らしている。最初はちょっとした喧嘩かと思われたが、やがて島のあちこちで同じような騒ぎが起こり始めた。

 

 ヒルダもその変化に気づいていた。

 

 森の中に、これまで感じたことのない不気味な魔力が広がっている。魔物たちが興奮し始めた時期と重なることから、無関係とは思えなかった。近くでは、先ほどまで仲良く遊んでいたはずの魔物が突然仲間に襲いかかろうとしており、ヒルダはすぐに両者の間へ割って入った。

 

「どうしたんですか? 落ち着いてください」

 

 襲いかかろうとする魔物を風で押し戻し、争っていた相手から引き離す。しかし、魔物の目は血走ったままで、興奮が収まる様子はなかった。傷つけずに動きを止めることは難しくないものの、これほど多くの魔物が一斉におかしくなっている以上、何か別の原因があるはずだった。

 

「……いったい、何が起きているのでしょうか……」

 

 ヒルダが眉をひそめた、そのときだった。

 

「ヒルダ姉ちゃん! 大変だ! みんなの様子がおかしいんだ!」

 

 森の向こうから、ダイが血相を変えて駆け寄ってきた。どうやら彼も島の異変に気づき、仲間たちを落ち着かせようとしていたらしい。しかし、いつもなら自分の言うことを聞いてくれる魔物たちが、まるで別人のように暴れ始めたことで、どうすればよいのか分からなくなっていた。

 

「はい。わたしも気づいています。ダイくん、まずはブラスさんのところへ戻りましょう。何か分かるかもしれません」

「う、うん! でも、みんなは大丈夫なのかな……」

「今はできるだけ傷つけないようにしましょう。原因が分かれば、元に戻してあげられるかもしれません」

 

 ヒルダはそう言ってダイの肩に手を置いた。少年は不安そうな顔のまま頷き、彼女と共に家へ向かって走り出す。途中でも何匹かの魔物が襲いかかってきたが、ヒルダは風で進路を逸らしたり、動きを封じたりしながら、誰も傷つけずに切り抜けていった。

 

 やがてブラスの家が見えてきたところで、2人は足を止めた。

 

「ダイ! ヒルダ殿! 近づいてはいかん!」

 

 家の前に立つブラスが、苦しげな声で叫んでいた。杖を握りしめた手は小刻みに震え、普段の穏やかな様子からは想像もできないほど険しい表情を浮かべている。何かに抗うように身体を強張らせ、必死にその場へ踏みとどまっているようだった。

 

「じいちゃん!? どうしたんだよ!」

 

 ダイが駆け寄ろうとすると、ブラスは慌てて杖を突き出した。

 

「来るな、ダイ! わしは……わしは、どうやら自分を抑えきれなくなりそうなのじゃ……!」

 

 その声は苦痛に満ちていた。ヒルダも異変を感じ取り、すぐにブラスの様子を確かめる。彼の周囲には、先ほど森で感じたものと同じ不気味な魔力が漂っており、何らかの力が魔物たちに影響を与えていることは間違いなさそうだった。

 

「ブラスさん、大丈夫ですか? いったい何が……」

「わからん……。じゃが、この感覚には覚えがある。かつて魔王ハドラーが世界を支配しようとしていた頃、わしら魔物はその邪悪な意志に操られておった。勇者によって魔王が倒され、ようやく自由になれたというのに……」

 

 ブラスはそこまで言うと、再び苦しげに身体を震わせた。ダイが心配そうに見つめる中、老いた鬼面道士はどうにか顔を上げ、絞り出すように言葉を続ける。

 

「もしや……魔王が復活したというのか……?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ヒルダの胸に冷たいものが走った。

 

 魔物たちの意思を奪い、凶暴化させる邪悪な力。その有様は、ヒルダがいた世界でも経験したことがある。もちろん、同じ現象だとは限らないが、本人の意思とは無関係に心を支配されることが、どれほど恐ろしい結果を招くのか、ヒルダは身をもって知っていた。

 

「ブラスさん……。無理に動かないでください。わたしが、何とかしますから」

 

 ヒルダは静かに告げると、ブラスの様子を慎重に確かめた。魔力による干渉が起きていることは感じ取れるものの、それをどうすれば安全に取り除けるのかは分からない。下手に魔法を使って、かえって彼を傷つけてしまうことだけは避けたかった。

 

 そのとき、ブラスが突然、顔を上げた。

 

「ダイ……! お前は早く、この島から逃げるのじゃ!」

「えっ!? 何言ってんだよ、じいちゃん!」

「このままでは、わしもお前に襲いかかってしまうかもしれん! ヒルダ殿、どうかダイを連れて島を離れてくだされ!」

 

 ブラスの必死の訴えに、ヒルダは息を呑んだ。ダイの身を案じる気持ちは痛いほど伝わってくるが、目の前で苦しんでいる彼を置き去りにすることなど、簡単には考えられなかった。

 

「ブラスさん、でも……」

「お願いじゃ! わしがまだ正気を保っているうちに……!」

 

 しかし、ダイは激しく首を振った。

 

「嫌だよ! じいちゃんやみんなを置いて、オレだけ逃げるなんてできるわけないだろ!」

「ダイ! 今はそんなことを言っている場合ではない!」

「だって、みんなオレの仲間じゃないか! じいちゃんだって、ずっと一緒に暮らしてきた家族だろ!? そんなみんなを置いて、オレだけ逃げるなんて絶対に嫌だ!」

 

 ダイの声は、怒っているというよりも悲痛な響きを帯びていた。自分を育ててくれたブラスも、幼い頃から共に暮らしてきた魔物たちも、少年にとっては何より大切な存在なのだ。たとえ危険が迫っていても、その仲間たちを見捨てるという選択肢は、最初から彼の中にはなかった。

 

 ヒルダはそんなダイを見つめ、それからブラスへと視線を戻した。

 

「ブラスさん、ダイくんの気持ちも分かります。わたしも、皆さんをこのままにしておくことはできません」

「し、しかし……!」

「大丈夫です。今はわたしもここにいますから。まずは、皆さんを元に戻す方法を考えましょう」

 

 その声は穏やかだったが、決して安易な楽観から出た言葉ではなかった。原因が分からない以上、すぐに解決できるとは限らない。それでも、目の前にいる大切な人々を助けたいという気持ちは、ヒルダもダイと同じだった。

 

 ブラスは何か言いかけたものの、結局言葉を呑み込んだ。少女がただ強がっているわけではないことは、この数週間の暮らしで十分に理解していたからだ。

 

 だが、そのときだった。

 

「おやおや。どうやら、少々大変なことになっているようですね」

 

 突然、背後からのんびりとした男の声が聞こえた。

 

 振り返ると、そこには2人の旅人が立っていた。1人は眼鏡をかけた長髪の男性で、どこか飄々とした雰囲気を漂わせている。もう1人は緑色の服を着た少年で、小さな杖を手に、落ち着かない様子で周囲を見回していた。

 

「な、なんだよ、この島! 魔物がそこらじゅうで暴れてるじゃねえか! 先生、本当にこんなところで大丈夫なんですか!?」

「まあまあ、ポップ。落ち着きなさい。まずは、この島を元の状態に戻してあげなければいけませんね」

 

 眼鏡の男性は、慌てる弟子を軽くいなしながら周囲を見渡した。その口調は実に穏やかで、目の前で起きている異変にも動じていない。ヒルダは彼の立ち居振る舞いを見て、普通の旅人ではないことを感じ取っていた。

 

 身体に余計な力が入っておらず、周囲の魔物たちを警戒しながらも、必要以上に身構えている様子がない。その自然な落ち着きには、相応の実戦経験を積んだ者だけが持つ余裕が感じられた。

 

 男性もまた、ヒルダに気づいたようだった。彼女の背中にある巨大な大剣へ一瞬だけ視線を向け、それから穏やかに微笑みかける。

 

「こんにちは。あなたも、この島の方ですか?」

「あ、はい。今は少し、こちらでお世話になっていまして……。あの、あなたは?」

「これは失礼しました。私はアバンと申します。……詳しいお話は、皆さんが落ち着いてからにしましょうか」

 

 アバンと名乗った男性は、そう言うとブラスへ視線を向けた。相手の苦しげな様子を確かめ、周囲に漂う不穏な気配に気づいたのか、軽く頷く。

 

「なるほど。やはり、魔王の邪悪な力が影響しているようですね」

「な、何と……! では、本当に魔王が復活したというのか!?」

「残念ながら、そのようです。ですが、ご安心を。この島の皆さんが悪いわけではありませんからね」

 

 アバンは穏やかにそう告げると、腰に差していた剣へ手を伸ばした。そして鞘を手に取ると、何を思ったのか、その先端を地面に押し当てた。

 

「さて、それでは始めましょうか。少々忙しくなりますよ」

 

 そう言った次の瞬間、アバンの姿が勢いよく飛び出した。

 

「えっ!?」

 

 ヒルダが驚いて目を向けると、アバンは剣の鞘を地面に引きずりながら、凄まじい速さで森の向こうへ駆け抜けていくところだった。鞘の先端が土を削り、一本の線が地面に刻まれていく。あっという間に木々の間へ姿を消したかと思うと、今度は離れた場所から魔物たちの驚いた声が聞こえてきた。

 

「な、なんだあいつ!? いきなり走っていっちまったぞ!」

「……すごいですね……」

 

 思わず呟いたヒルダの目には、純粋な驚きが浮かんでいた。アバンの走る速さそのものにも感心したが、何より、その身のこなしに無駄がない。しかも、あれほどの速度で走りながら、地面には途切れることなく線を引いているらしい。

 

 やがて、島の各所で何かが起こっているような気配が伝わってきた。ヒルダが意識を向けると、アバンの通った場所には魔力の流れが生まれ、次第に大きな広がりを見せ始めている。

 

 あの人は、いったい何をしているのだろうか。

 

 ヒルダが不思議に思っていると、ほどなくしてアバンが戻ってきた。先ほどまでの猛烈な動きが嘘のように、涼しい顔で眼鏡の位置を直している。

 

「さて、これで準備は整いました」

 

 アバンは満足そうに頷くと、地面に刻まれた線の前へ立った。その周囲で魔力が大きく動き始めたことに気づき、ヒルダは思わず息を呑む。

 

 先ほど島の各所に広がっていった魔力の流れが、ひとつの大きな力となってまとまり始めている。それも、ただ大量の魔力を集めているのではない。島全体を覆うほどの広大な範囲に、驚くほど安定した力が満ちていくのが感じられた。

 

「……これは……」

 

 ヒルダ自身も大規模な魔法を扱うことはできる。しかし、これほど広範囲にわたって結界を形成するような術は、彼女の専門とするところではない。目の前の男性が何をしようとしているのか、その全容は分からなかったものの、並外れた技術を持っていることだけは十分に伝わってきた。

 

 アバンは静かに片手を掲げた。

 

「邪なる威力よ、退け! 破邪呪文――《マホカトール》!」

 

 その声が響いた瞬間、地面に刻まれた魔法陣から眩い光が立ち上った。

 

 光は瞬く間に周囲へと広がり、森を越え、島の隅々まで駆け巡っていく。空気を満たしていた禍々しい気配が、その光に触れた場所から次々と消え去り、先ほどまで騒いでいた魔物たちが、まるで夢から覚めたように動きを止めた。

 

「こ、これは……!?」

 

 ブラスが驚いた声を上げた。あれほど苦しげに震えていた身体が静まり、杖を握りしめていた手からも力が抜けていく。彼はしばらく呆然としていたが、やがて自分の手を見つめ、信じられないという表情を浮かべた。

 

「じいちゃん! 大丈夫なのか!?」

「お、おお……。どうやら、元に戻ったようじゃ……!」

 

 ダイが嬉しそうに駆け寄ると、ブラスはようやく安心したように笑った。その様子を見ていたヒルダも、胸を撫で下ろす。周囲に漂っていた異質な魔力はすっかり消え、島全体を包む新たな力が、外からの干渉を遮るように働いていた。

 

「……すごい……」

 

 思わず零れた言葉に、アバンが顔を向けた。

 

「おや、どうかなさいましたか?」

「あ、いえ……。こんなに広い範囲を、一度に守れるなんて……。とても素晴らしい魔法ですね」

 

 ヒルダは心から感嘆していた。強大な魔力を使うだけならば、自分にもできる。しかし、島全体を覆う結界を作り出し、魔物たちに影響していた邪悪な力だけを取り除くというのは、まったく別の技術だった。

 

 その見事な魔法を目にして、彼女の脳裏にふと懐かしい人物の姿が浮かんだ。

 

 ハンスもまた、魔法の扱いに関しては非常に優れた技術を持つ魔道士だった。もちろん、魔法の仕組みは違うのだろうが、複雑な術を正確に操るという点では、どこか通じるものがあるように思えた。

 

「……ハンスさんが見たら、きっと驚くでしょうね……」

 

 ヒルダは小さく呟き、思わず微笑んだ。それから改めてアバンへ向き直り、丁寧に頭を下げる。

 

「アバンさん。皆さんを助けてくださって、ありがとうございます」

「いえいえ。皆さんが無事に元へ戻ってくれて、何よりです。これでしばらくは、魔王の邪悪な力から島を守ることができるでしょう」

 

 アバンはいつもの穏やかな笑顔で答えた。あれほどの魔法を使ったというのに、誇るような素振りは少しも見せない。その自然な態度にも、ヒルダは好感を覚えていた。

 

 一方のアバンも、目の前の少女に小さな興味を抱いていた。

 

 魔法の規模に驚く者は珍しくないが、ヒルダは光の大きさよりも、魔法が広がっていく様子に注意を向けていたようだった。詳しいことは分からないものの、彼女自身も相応の魔法の心得があるのだろう。

 

 それに、先ほどから気になっていることがもうひとつある。

 

 彼女の背中に背負われた、あまりにも大きな剣だった。あの華奢な身体でまともに扱えるとは思えないほどの代物だというのに、少女の立ち姿には少しも無理が感じられない。むしろ、長年使い慣れた武器であるかのように、自然に背負っている。

 

 アバンはしばらくその剣へ視線を向けていたが、今はそれを尋ねる場面ではないと思い直し、改めてダイたちへ向き直った。

 

◇ ◇ ◇

 

 その日の午後、アバンは自分がデルムリン島を訪れた理由を説明した。

 

 魔王が復活し、再び世界に危機が迫っていること。そして、パプニカ王国からの依頼を受け、ダイを勇者として育てるためにやってきたこと。突然の話に、ダイはもちろん、ブラスも大きな驚きを隠せなかった。

 

「勇者の家庭教師……ですか?」

「はい。少々変わった仕事ですが、私はこれでも勇者を育てることを生業にしておりましてね」

 

 ヒルダの問いに、アバンはにこやかに答えた。その隣では、弟子のポップがいかにも面倒くさそうな顔をしている。どうやら先生が新しい弟子を取ることについて、何か思うところがあるらしい。

 

 一方、ヒルダは先ほどの魔物たちの異変を思い返していた。あれほど広範囲に邪悪な力が及んでいたのなら、魔王の復活という話にも十分な信憑性がある。この世界にも大きな災厄が迫っているらしいことに、彼女は少なからず胸を痛めていた。

 

 しかし、そんなヒルダの思いとは裏腹に、ダイは目を輝かせていた。

 

「本当にオレを勇者にしてくれるの!? すっげえ! やったあ!」

「ええ、もちろんです。ただし、修行はなかなか厳しいですよ。途中で泣き言を言っても、簡単にはやめさせてあげませんからね」

 

 アバンがにこやかに告げると、ダイは勢いよく頷いた。剣の稽古が好きでたまらない少年にとって、本格的に勇者になるための修行を受けられるという話は、まさに夢のような出来事だったのだろう。

 

 その様子を眺めながら、ヒルダは静かに微笑んだ。

 

 先ほどの魔法を見ただけでも、アバンが並外れた術者であることは分かる。立ち居振る舞いから察するに、剣術についても相当な実力者なのだろう。何より、ダイに対する接し方には、ただ強いだけではない、相手を導くことに慣れた者の落ち着きが感じられた。

 

 この人なら、ダイくんに多くのことを教えてくださるかもしれない。

 

 そう思うと、少し前までダイの剣術の指導について悩んでいたことが、何だかおかしくなってきた。

 

 やがて修行が始まると、ヒルダはアバンの教え方にますます興味を惹かれることになった。

 

 アバンの指導は実に的確だった。ダイの動きを少し見ただけで長所と短所を見抜き、必要なことを分かりやすく教えていく。ときには冗談を交えながら少年の緊張をほぐし、失敗したときには理由を説明して、次の挑戦へとつなげていた。

 

 ヒルダは少し離れた木陰に腰を下ろし、その様子を興味深く眺めていた。

 

 自分がダイに教えていたのは、実戦経験の中で自然と身につけた感覚的な部分が多い。一方、アバンはそれらを分かりやすく整理し、相手の理解度に合わせて伝えている。教える内容だけでなく、どう伝えるかという点にも細やかな配慮があり、ヒルダは思わず感心してしまった。

 

 しばらく稽古を続けたところで、アバンがふと動きを止めた。

 

「……おや?」

 

 彼は少し不思議そうな顔をして、ダイを見つめた。少年は木剣を構えたまま、次の指示を待っている。アバンはその姿勢を眺め、それから改めて足元へ目を向けた。

 

「ダイくん。ひとつ聞いてもよろしいですか?」

「ん? なんだよ、先生?」

「あなた、以前に誰かから剣術を習ったことがありますか?」

 

 突然の質問に、ダイは目を丸くした。しかし、すぐに何かを思い出したように顔を輝かせると、木陰にいるヒルダのほうへ勢いよく振り返った。

 

「あっ! そうだ! ヒルダ姉ちゃんに教えてもらってたんだ!」

「……ヒルダさんに?」

「うん! すっげえ強いんだぜ! 何回やっても全然剣が当たらないんだ! でも、足の動かし方とか、相手の動きを見ることとか、いろいろ教えてもらったんだよ!」

 

 ダイは嬉しそうに話し続けたが、ヒルダは突然話題を振られ、少し慌てて立ち上がった。

 

「あ、あの……。そんなに大したことは教えていないんです。わたしも、人に剣術を教えるのはあまり得意ではなくて……」

「いえいえ。これは驚きました」

 

 アバンは穏やかに笑いながら、ダイの姿勢をもう1度確認した。確かに、まだ技術は未熟で、力任せなところも残っている。しかし、足の運びや間合いの取り方には、誰かから教わった形跡がある。しかも、それが単なる型の模倣ではなく、実際の動きの中に自然と取り込まれているのだ。

 

「なるほど。どうりで、初めて剣術を習うにしては、ずいぶんと動きがよいと思いました。特に、攻撃のあとに身体が流れすぎないよう気をつけているところなど、なかなか感心ですね」

「へへっ! ヒルダ姉ちゃんにも言われたんだ! 剣を振ったあと、次の動きに移れるようにしろって!」

「ほう。そうでしたか」

 

 アバンは感心したように頷き、それからヒルダへ視線を向けた。

 

 彼女は相変わらず少し困ったように笑っている。ダイの上達を褒められるのは嬉しいらしいが、自分の指導を評価されるとなると、どうにも落ち着かないようだった。

 

 もっとも、アバンが興味を持ったのは、その反応だけではなかった。

 

 ダイの身体能力が優れていることは、すでに見て取れた。しかし、相手の動きを観察する姿勢や、攻撃後に体勢を整えようとする意識には、明らかに実戦的な考え方が見られる。少年自身の才能によるところも大きいだろうが、その基本を教えた人物が相応の経験を積んだ剣士であることは想像できた。

 

 それが、目の前で穏やかに微笑んでいる少女だというのだから、興味を惹かれないわけがない。

 

「ヒルダさん。もしよろしければ、あとで少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「えっ? わたしに、ですか?」

「ええ。ダイくんのこともそうですが、あなたご自身のことも、少々興味がありまして」

 

 ヒルダは不思議そうに首を傾げたが、特に断る理由もなかった。むしろ、自分としてもアバンに尋ねてみたいことがいくつもある。彼が使った破邪結界のことや、この世界の魔法について、できれば詳しく聞いてみたかった。

 

「はい。わたしでよければ、喜んで」

「ありがとうございます。では、修行が一段落しましたら、ぜひ」

 

 アバンはにこやかに答え、再びダイへ向き直った。

 

 そんな2人のやり取りを見ていたポップは、少し離れた場所で首を傾げていた。先生が初対面の旅人に興味を持つこと自体は珍しくないが、今回はどこか様子が違うように思えたのだ。

 

 もっとも、彼にとっては、それ以上に気になることがあった。

 

 ヒルダの背中にある、巨大な剣である。

 

 あんなものを本当に振り回せるのだろうか。見たところ、彼女は自分とそれほど年齢が離れているようにも見えないし、腕も細い。ダイがやたらと強いと言っているものの、さすがに少し大げさなのではないかと思えてならなかった。

 

 ポップはしばらく大剣を眺めていたが、結局、何も言わずに肩をすくめた。少なくとも今のところ、先生が何をそこまで気にしているのか、彼にはさっぱり分からなかった。

 

◇ ◇ ◇

 

 夕暮れが近づく頃、アバンはようやくその日の修行を終えた。

 

 ダイは疲れ果てた様子で地面に座り込み、ポップもまた、厳しい修行の内容を聞かされてすっかり尻込みしている。一方、ヒルダはそんな2人を微笑ましく見守りながら、休憩用に用意していた水を差し出していた。

 

「お疲れさまでした、ダイくん。今日はずいぶん頑張りましたね」

「はあっ、はあっ……。うん……。でも、すっげえ楽しかった!」

 

 ダイは息を切らしながらも、満足そうに笑った。初めて本格的な勇者の修行を受けた疲れは相当なものらしいが、その表情には満足感が溢れている。ヒルダはそんな少年を見て、アバンに指導を任せられることを改めて嬉しく思った。

 

 その様子を少し離れた場所から眺めていたアバンが、静かに歩み寄ってきた。

 

「ヒルダさん。先ほどのお話ですが、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」

「はい。もちろんです」

 

 ヒルダは立ち上がり、アバンへ向き直った。

 

 夕日に照らされた森の広場には、穏やかな風が吹いている。遠くからは魔物たちの声が聞こえ、先ほどまでの修行の熱気も、少しずつ静かな夕暮れの空気へと溶け込んでいた。

 

 アバンはそんな景色を1度眺めてから、ヒルダへ穏やかな笑みを向けた。

 

「実は、ひとつお願いがあるのですが……」

「お願い、ですか?」

「ええ。もし差し支えなければ、私と少しだけ剣を交えていただけませんか?」

 

 思いがけない申し出に、ヒルダはぱちぱちと瞬きをした。

 

 目の前にいる男性が優れた剣士であることは、すでに察している。しかし、突然手合わせを申し込まれるとは思っていなかった。しかも、相手はダイの家庭教師としてやってきたばかりで、今日は島全体を覆うほどの大魔法まで使っている。

 

「えっ? あ、あの……。わたしでよろしいのでしょうか?」

「もちろんです。実を言いますと、ダイくんの動きを見て、あなたの剣術に少々興味が湧きましてね。ほんの軽い手合わせで結構ですよ」

 

 アバンはいつもの柔らかな笑顔でそう告げた。しかし、その瞳には、先ほどまでとは少し違う鋭い光が宿っていた。

 

 ヒルダもまた、その変化を感じ取っていた。表情こそ穏やかなままだが、目の前の男性が自分の力量を確かめようとしていることは、何となく理解できる。もっとも、それは彼女にとっても興味深い申し出だった。

 

 アバンの身のこなしは、魔法使いとしてだけでなく、剣士としても相当な鍛錬を積んでいることを窺わせる。これほど優れた人物と剣を交える機会は、ヒルダにとっても貴重なものだった。

 

「……はい。わたしでよろしければ、お相手します」

 

 ヒルダが静かに頷くと、アバンは満足そうに微笑んだ。

 

「ありがとうございます。では、少し休憩してから始めましょうか」

「はい。よろしくお願いします、アバンさん」

 

 そう言ってヒルダが丁寧に頭を下げると、アバンもまた優雅な仕草で一礼した。

 

 2人の会話を聞いていたダイは、疲れていたことも忘れて勢いよく立ち上がった。

 

「ええーっ!? 先生とヒルダ姉ちゃんが戦うの!? オレも見たい!」

「ははは。もちろん、構いませんよ。せっかくですから、ダイくんにも見学してもらいましょうか」

「やったあ! すっげえ楽しみだ!」

 

 ダイが嬉しそうに飛び跳ねる一方、ポップは少し呆れたように肩をすくめていた。しかし、先生がわざわざ手合わせを申し込んだということは、あの少女には何かあるのかもしれない。ダイがいくら強いと言っても、あんな華奢な女の子が本当に剣を振るえるのか半信半疑だったが、実際に見られるというのなら興味はある。

 

 ヒルダはそんな2人を眺めながら、困ったように微笑んだ。できれば人前で剣を振るうのは遠慮したかったのだが、ダイがあれほど楽しみにしているのでは、今さら見学を断るのも気が引ける。それに、アバンがどのような剣術を使うのか、彼女自身も興味を抱いていた。

 

 夕暮れの森には穏やかな風が吹き、木々の間から差し込む西日が広場を赤く染め始めていた。そんな中、アバンとヒルダは互いに穏やかな笑みを交わす。初めて出会ってからまだ半日ほどしか経っていないものの、2人はそれぞれの立ち居振る舞いや言葉の端々から、相手が相応の経験を積んだ人物であることを感じ取っていた。

 

 もっとも、実際に剣を交えなければ分からないことも多い。

 

 ヒルダは目の前の男性を改めて見つめた。魔法の腕前もさることながら、先ほど島を駆け回っていたときの身のこなしは、今も鮮明に記憶に残っている。あれほどの人物が、剣を手にしたときにはどのような戦い方を見せるのだろうか。

 

 少しばかり緊張しながらも、ヒルダはこれから始まる手合わせを楽しみにしていた。

 

――第2話・了――

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。