白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
夕暮れのデルムリン島に、涼やかな潮風が吹き始めていた。昼間の騒ぎもすっかり収まり、森のあちこちからは、いつもの穏やかな魔物たちの声が聞こえてくる。アバンの破邪結界によって島全体が守られているためか、ヒルダが朝から感じていた不穏な気配も、今ではほとんど感じられなくなっていた。
そんな森の中を、ヒルダはアバンたちと共に歩いていた。向かう先はブラスの家から少し離れた場所にある広場で、普段はダイが魔物たちと遊んだり、ヒルダと剣の稽古をしたりしている場所だった。木々に囲まれているものの、中央には十分な空間があり、軽い手合わせをする程度なら問題はなさそうだった。
「いやあ、突然こんなお願いをしてしまって、申し訳ありませんね。ダイくんの剣術を拝見しているうちに、どうしてもあなたの剣を見てみたくなりまして」
アバンは相変わらずのんびりとした口調でそう言った。ヒルダは首を横に振り、むしろこちらこそ勉強させてもらいたいのだと答える。先ほどの修行を見ただけでも、彼が優れた剣士であることは十分に伝わってきていた。
「それにしても、ダイくんには驚かされました。あの年齢で、あれほどの身体能力と吸収力を持っているとは……。ヒルダさんも、教えていて楽しかったのではありませんか?」
「はい。ダイくんは本当に飲み込みが早いんです。わたし、教えるのはあまり上手ではないのですが、少し説明しただけで、すぐに覚えてしまって……」
「なるほど。ですが、あの子の動きには、きちんとした基礎が感じられましたよ。特に足運びや間合いの取り方などは、実戦を経験した方から教わったのでしょうね」
アバンがさらりと告げると、ヒルダは少し困ったように笑った。自分ではそれほど大したことを教えたつもりはないのだが、どうやらこの男性には、ダイの動きから多くのことが分かってしまうらしい。改めて、優れた指導者なのだろうと思った。
そんな2人の会話を、後ろから聞いている少年がいた。
「なあなあ、先生! 早くやろうぜ! オレ、もう待ちきれないよ!」
ダイは先ほどまでの修行で疲れていたことも忘れ、期待に目を輝かせていた。何週間も稽古をつけてもらっているヒルダと、今日から自分を勇者に育ててくれるアバン。その2人が剣を交えるというのだから、興奮するなという方が無理な話だった。
「ははは。そう慌てなくても、もうすぐですよ。もっとも、今日は軽く剣を合わせるだけですから、あまり派手なことはしませんけどね」
「それでもいいよ! 先生がどんなふうに戦うのか、すっげえ楽しみなんだ!」
ダイが嬉しそうに答えると、アバンは満足そうに頷いた。一方、その隣ではポップが少々面白くなさそうに口を尖らせている。島へ来てからというもの、ダイは何かにつけてヒルダの強さを自慢しており、先生もまた、その少女に随分と興味を持っているようだった。
「……ったく。先生もダイも、あの姉ちゃんのことばっかりだな」
小さくぼやいたポップは、ちらりとヒルダへ視線を向けた。彼女に悪い印象を抱いているわけではない。むしろ、初めて会ったときから、その整った容姿や物腰の柔らかさには少なからず好感を持っていた。ただ、ダイがあまりにも彼女を褒めちぎるものだから、少しばかり対抗心が芽生えていたのである。
「なあ、先生。本当にあの姉ちゃんと手合わせするんですか?」
「ええ。もちろん、本気の戦いではありませんよ。お互いの剣術を少し確かめるだけです」
「ふうん……。でも先生、剣だって相当強いんでしょう? 俺、先生が本格的に剣を使ってるところって、あんまり見たことないんですよね」
「おや、そうでしたか? では、ちょうどよい機会かもしれませんね」
アバンがにこやかに答えると、ポップはますます興味を引かれたようだった。優れた魔法使いであると同時に、剣術にも長けた人物だということは知っている。しかし、普段の飄々とした態度もあって、先生の本当の実力については、まだ分からない部分も多かった。
「それにさ、姉ちゃん。本当にその背中の剣を使えるのかよ? どう見ても、姉ちゃんにはでかすぎるだろ」
ポップはヒルダの背中にある巨大な大剣を指差した。刀身の大部分は鞘に収まっているものの、その長さと大きさは、どう見ても普通の剣とは思えない。ヒルダの華奢な身体と比べれば、なおさら奇妙な組み合わせだった。
「えっ? あ、はい。少し大きいですけど、もう慣れていますから……」
「慣れてるって……いや、慣れりゃ使えるってもんじゃねえだろ!」
思わず突っ込んだポップは、改めてヒルダの背中にある大剣を見つめた。どう考えても、あの華奢な身体で振り回せるような代物には見えない。それをあまりにも当たり前のように答えるものだから、ますます訳が分からなくなってしまった。
「使えるなんてもんじゃないぜ! ヒルダ姉ちゃん、あの剣をずっと背負ってるんだからな!」
横から口を挟んだダイは、なぜか自分のことのように得意げだった。ポップはそんな少年を呆れたように見つめたが、ヒルダは2人のやり取りに小さく笑う。自分にとっては長年使い慣れたアストレアだが、初めて見る人からすれば相当に変わった剣なのだろう。
「まあまあ、ポップ。武器というものは、使い手によって適した形が違うものです。見た目だけで判断してはいけませんよ」
「分かってますって。でも、やっぱり気になるじゃないですか」
アバンの言葉にポップが肩をすくめると、ヒルダは少し照れくさそうに微笑んだ。その隣では、ダイが何か言いたそうにアストレアを見つめている。どうやら彼も、今の話を聞いて以前から抱いていた好奇心を思い出したらしい。
やがて一行は、目的の広場へと到着した。
◇ ◇ ◇
アバンは周囲を軽く見渡すと、木陰に立てかけてあった稽古用の木剣を2本手に取った。片方をヒルダへ差し出すと、彼女は丁寧に礼を述べて受け取る。普段使っているアストレアとは長さも重さも大きく異なるため、何度か軽く振り、その感触を確かめていた。
「さすがに真剣では危険ですからね。今日はこれでお願いできますか?」
「はい。ありがとうございます」
「それにしても……ヒルダさんは、普段からあの大きな剣を使っていらっしゃるんですよね?」
「はい。アストレアは、ずっと一緒に旅をしてきた大切な剣なんです」
ヒルダはそう言いながら、背中の大剣へ軽く手を添えた。その表情には、単なる武器への愛着とは少し違う、長年苦楽を共にしてきた相棒への親しみが感じられる。
アバンは静かに頷いた。彼女が剣を扱うことに慣れているのは、ダイの動きを見ただけでも分かる。しかし、あの巨大な剣をどのように振るうのかについては、まだ想像がつかなかった。
「では、ポップ。あなたには審判をお願いしましょうか」
「えっ、俺が?」
「ええ。せっかくですから、あなたもよく見ていてください。剣士の間合いや動きを知ることは、魔法使いにとっても大切ですからね」
「分かりましたよ。ちゃんと見てますからね!」
ポップが広場の端へ下がると、ダイも慌ててその隣へ駆け寄った。いつもなら自分が立っている場所に、今日はアバンが剣を持っている。それだけで、少年の胸は期待に大きく膨らんでいた。
「なあ、ポップ。どっちが勝つと思う?」
「そりゃ先生に決まってるだろ! あの姉ちゃんも剣には自信があるみたいだけど、相手は先生だぜ?」
「えーっ? でもさ、ヒルダ姉ちゃんだってすっげえ強いんだぞ!」
「だからって、先生に勝てるとは限らねえだろ。まあ、見てりゃ分かるって!」
ポップは自信たっぷりに答えた。ヒルダの剣術を実際に見たことはないものの、アバンがどれほど優れた人物であるかは、この1年以上の修行で十分に知っている。いくらダイが褒めちぎっているとはいえ、あの少女が先生と互角に渡り合えるなどとは、さすがに思えなかった。
2人の少年が見守る中、アバンとヒルダは互いに向かい合った。木々の間を抜ける風が、2人の髪を静かに揺らしている。先ほどまでの穏やかな雰囲気は変わらないものの、木剣を手にした瞬間から、双方の立ち姿にはわずかな変化が生まれていた。
アバンは自然な姿勢で剣を構えた。決して力んではおらず、全身のどこにも余計な緊張が見られない。ヒルダはその構えを見ただけで、相手が相当に熟練した剣士であることを改めて理解した。
一方のアバンも、ヒルダの立ち姿に注目していた。
彼女の構えは、決して奇抜なものではない。むしろ非常に素直で、基本に忠実な姿勢だった。しかし、その重心の置き方や剣先を向ける角度には、不思議なほど無駄がなかった。
「それでは、始めましょうか」
アバンが穏やかに告げると、ヒルダも小さく頷いた。
最初に動いたのはアバンだった。大きく踏み込むことなく、間合いを測るように1歩だけ前へ出る。ヒルダもそれに応じて木剣を構え、相手の動きを注意深く観察した。
アバンは軽く剣先を動かし、右肩を狙うように見せかけてから、素早く胴へと攻撃を切り替えた。ヒルダは木剣を斜めに動かしてその一撃を受け流し、続く横薙ぎには半歩だけ後退して対応する。そして相手が剣を戻す瞬間に、手首を返して軽く突きを繰り出した。
アバンはその突きを受け止め、互いに距離を取った。
「ほう……。なかなか見事ですね」
「ありがとうございます。アバンさんも、とてもお上手です」
2人は穏やかに言葉を交わしたが、その視線は相手から外れていなかった。アバンは再び踏み込み、今度は少しだけ攻撃の速度を上げる。斜め上からの一撃を放ち、ヒルダが受け止めると、すぐに下段へと剣を切り替え、さらに身体の向きを変えて反対側から攻撃を繰り出していった。
ヒルダはその一連の攻撃に、落ち着いて対応した。剣を受け止め、あるいは身体を動かしてかわし、ときには自分から軽く打ち込む。アバンが攻撃の速度を変えれば、彼女もそれに合わせて動きを調整し、互いの木剣が小気味よい音を立てて交差していった。
「おおっ! すげえじゃん!」
傍らで見ていたポップは、すっかり目を輝かせていた。先生の剣術をこれほどじっくり見るのは初めてだったが、流れるような攻撃の連続は見事なもので、相手に反撃の機会を与えないよう細かな動きを組み合わせていることが分かる。しかも、ヒルダも予想以上に上手な剣の使い手らしく、アバンの攻撃を受けても慌てることなく、ときには逆に攻め込んでいた。
「へえ……あの姉ちゃん、結構やるじゃねえか」
ポップは思わず感心したように呟いた。もちろん、先生が本気を出しているわけではないことくらい分かっている。それでも、あれほど鋭い攻撃を次々と受け流しているのだから、ダイが強いと騒いでいたのも、あながち大げさではなかったらしい。
だが、その隣にいたダイは、ポップとは少し違う驚きを感じていた。
「……すっげえ……!」
思わず漏れた声に、ポップがちらりと顔を向ける。しかし、ダイはそんなことにも気づかず、目の前の攻防に見入っていた。
アバンの剣が速いことにも驚いたが、それ以上に目を奪われたのは、ヒルダの動きだった。毎日のように稽古をつけてもらっているはずなのに、今の彼女はまるで別人のように見える。いつものヒルダは、ダイがどれほど勢いよく斬りかかっても、ほんの少し身体を動かすだけで攻撃をかわし、細い枝で軽く受け流してしまう。それが今は、自分でも追い切れないほどの速さで木剣を振り、ときには鋭く踏み込み、アバンと互いに攻撃を繰り出していた。
「ヒルダ姉ちゃん……あんな動きもできたんだ……!」
「おいおい。お前、毎日あの姉ちゃんと剣の稽古してたんだろ?」
「うん! でも、こんなの初めて見たよ! 姉ちゃん、オレとやるときは全然違うんだ!」
ダイは興奮した様子で答えた。ヒルダが自分に合わせてくれていたことは、もちろん分かっていたつもりだった。しかし、実際に別の剣士と戦う姿を見ると、これまで目にしていたものが彼女の剣術のほんの一部に過ぎなかったことを、改めて思い知らされる。
しかも、そんなヒルダとアバンは互いに剣を交え、ときには相手の攻撃を押し返しているのだ。
「やっぱり先生もすっげえ強いんだな!」
「そりゃそうだろ。先生は勇者を育てる先生なんだぜ?」
ポップは得意げに答えたが、内心では自分も驚いていた。いつものアバンからは想像しにくい鋭い動きもさることながら、それに平然と対応しているヒルダの技量は、どうやら本物らしい。
もっとも、ポップの目には、2人の力量はほとんど互角に映っていた。どちらも決定的な一撃を与えられず、攻防を繰り返している。ヒルダがときおり押される場面もあれば、アバンが後退する場面もあり、一見すると実力の近い剣士同士の手合わせに見えた。
しかし、アバンの認識は少し違っていた。
剣を交えるうちに、彼はヒルダの技術にいくつもの興味深い特徴を見つけていた。彼女は攻撃の際、必要以上に踏み込まない。防御でも力任せに打ち返すことはなく、常に次の動作へ移れるだけの余裕を残している。
さらに、その判断が驚くほど速かった。
アバンが剣先をわずかに動かすだけで、ヒルダは次の攻撃を予測するように姿勢を変える。もちろん、必ずしもすべてを先読みしているわけではない。しかし、攻撃が始まったあとに慌てて対応している様子もなかった。
これは、単なる反射神経だけでは説明できない。
数多くの実戦を経験し、相手の動きから危険を見極める技術を、長い年月をかけて磨いてきた者の動きだ。しかも彼女には、その技術を十分に生かせるだけの、優れた身体能力も備わっているようだった。
アバンはそこで、少しだけ攻め方を変えてみることにした。
上段から剣を振り下ろすと見せかけ、途中で手首を返して突きへと切り替える。さらに踏み込みの深さを変え、相手の重心が動いた瞬間を狙って次の攻撃を放つ。いずれも本格的な殺傷を目的とした技ではないが、相手の反応を見るには十分なものだった。
ヒルダは最初の突きを木剣で受け止め、次の攻撃には横へ身体を開いて対応した。そして、アバンがさらに1歩踏み込もうとしたとき、彼女の木剣が滑らかに動いた。
アバンの剣先を軽く外し、そのまま肩口へ向かって打ち込む。
だが、木剣が届く直前、ヒルダはわずかに手首を返した。攻撃はアバンの肩ではなく、彼の木剣の側面を軽く叩くに留まった。アバンもそれに応じて剣を引き、再び互いの間合いを取り直す。
ポップから見れば、ただの攻防の1つだった。ダイも、ヒルダが素早い打ち込みを見せたことには気づいていたが、なぜ途中で剣の向きを変えたのかまでは分からなかった。
しかし、アバンには分かった。
今の一撃は、肩へ当てようと思えば当てられたはずだった。それも、ぎりぎりで手加減したのではない。ヒルダは最初から、どこへ剣を運ぶかを完全に制御していたのである。
アバンは内心で感嘆した。
とはいえ、軽い手合わせである以上、相手が決定打を避けること自体は珍しくない。アバンもまた、自分から本格的な技を使うつもりはなかった。重要なのは、彼女がどれだけ余裕を残しているかということだった。
剣の速さだけなら、まだ比較できる。技術についても、多少の違いはあれど評価できるだろう。しかし、彼女の身体の使い方には、それらとは別の何かが感じられた。
踏み込みの瞬間、地面を蹴る力がほとんど見えない。剣を受け止めたときにも、細い腕が衝撃で揺れることはない。そして何より、あれだけの攻防を続けながら、彼女の呼吸はまったく乱れていなかった。
まるで、今の動きそのものが、彼女にとっては大した負担になっていないかのようだった。
「……なるほど」
アバンは小さく呟いた。
ヒルダは不思議そうに彼を見つめたが、アバンはそれ以上何も言わなかった。代わりに、もう数合だけ剣を交え、頃合いを見計らってゆっくりと木剣を下ろす。
「いやあ、ありがとうございました。実に楽しい手合わせでしたよ」
「こちらこそ、ありがとうございました。とても勉強になりました」
ヒルダも構えを解き、丁寧に頭を下げた。
2人とも息を切らしておらず、汗もほとんどかいていない。傍から見れば、熟練した剣士同士が軽く身体を動かしただけの、ごく平和な稽古だった。
しかし、アバンの胸中には、確かな興味が残っていた。
この少女は、相当に強い。
そして、おそらく今の手合わせでは、その実力の一部しか見せていない。
自分も本気ではなかったとはいえ、彼女の余裕を完全に測ることはできなかった。少なくとも、今日のような軽い手合わせだけで、彼女の力量を判断するのは早計だろう。
◇ ◇ ◇
「先生! 今の、どうだったんですか!?」
2人が広場の端へ戻ってくると、ダイとポップが待ちきれない様子で駆け寄ってきた。とりわけダイの興奮は収まらないらしく、アバンとヒルダの顔を交互に見つめながら、矢継ぎ早に質問を始める。
「どっちが勝ったの!? オレ、2人ともすっげえ強くて、全然分かんなかったよ!」
「そうですねえ。今日は勝ち負けを決める手合わせではありませんでしたから、引き分けということでいかがでしょう?」
「はい。わたしも、それでよいと思います」
アバンがにこやかに答えると、ヒルダも素直に頷いた。しかし、それを聞いたポップは少し不満そうに眉を寄せる。せっかく先生と謎の女剣士が戦うというから、何かすごい技でも見られるのではないかと期待していたのだ。それが結局、勝敗もつかないまま終わってしまったことに、少々拍子抜けしていた。
「ええーっ!? なんだよ、それ! せっかく見てたのに、勝負つかないのかよ!」
「ははは。ポップ、手合わせというのは必ずしも勝敗を決めるものではありませんよ。それに、今日はお互いの剣術を見せ合うことが目的でしたからね」
アバンは弟子の反応を楽しそうに眺めていたが、やがて少しだけ表情を改めた。
「では、ポップ。あなたにはどう見えましたか?」
「へっ? 俺に聞くんですか?」
「ええ。最初によく観察するようにと言ったでしょう? せっかくですから、感想を聞かせてください」
ポップは少し考え込んだ。正直なところ、剣術について詳しいわけではない。魔法使いとして修行している自分には、細かな技術の違いなど分からないことも多かった。
「……まあ、先生が上手いのは分かりましたよ。攻撃してる途中で急に剣の向きが変わったりするし。でも、姉ちゃんも結構上手かったっすね。ダイが強いって騒いでたのも、ちょっと分かった気がします」
「なるほど。それで、ほかには?」
「うーん……。俺には、やっぱりどっちが上なのかは分かんなかったですね。先生も姉ちゃんも、あんまり本気じゃなかったみたいだし」
ポップが正直に答えると、アバンは満足そうに頷いた。剣術を専門に学んでいない彼が、今の手合わせだけで正確な実力差を見抜けるとは思っていない。むしろ、自分に分からないことを無理に判断せず、素直に認めているのは悪くなかった。
「ええ。そのとおりです。実際の戦いでは武器も状況も違いますし、剣術だけで勝敗が決まるとも限りませんからね」
「ふうん……。まあ、魔法だってそうですもんね」
「おや。いいところに気づきましたね」
アバンに褒められると、ポップは少しだけ得意げな顔になった。その隣ではダイが何かを考えるように首を傾げていたが、やがてヒルダの方へ向き直る。
「なあ、姉ちゃん。いつもオレと稽古するとき、あんな動きしないよな?」
「えっ? あ、はい。ダイくんと稽古するときは、少しゆっくり動くようにしていますから……」
「やっぱり! すっげえなあ! 先生も姉ちゃんも、オレにはまだまだ知らない剣の使い方がいっぱいあるんだな!」
ダイは心底嬉しそうに笑った。自分の力がまだ2人に及ばないことを悔しがるよりも、これから覚えられる技術がこれほどあるのだと知ったことの方が嬉しいらしい。その素直な反応に、ヒルダもつられて微笑んだ。
「ふふっ。ダイくんも、これからたくさん勉強できますよ。アバンさんは、とてもお上手ですから」
「うん! オレ、絶対にもっと強くなるからな!」
そう宣言してから、ダイはふとヒルダの背中へ目を向けた。
先ほどまでの手合わせでは木剣を使っていたが、彼女が普段背負っているのは、自分の身長と同じくらいもある巨大な大剣だ。これほど見事な剣術を使うヒルダが、あの大剣を手にしたらどのような動きを見せるのか、以前にも増して気になってきた。
「そうだ、姉ちゃん! やっぱり、そのでっかい剣も見せてくれよ!」
突然のお願いに、ヒルダは目を瞬かせた。
「アストレア、ですか?」
「うん! 前からずっと気になってたんだ。なあなあ、ちょっとだけでいいから!」
「そういえば、ダイくんは何度か見せてほしいとおっしゃっていましたね」
ヒルダは少し考え込んだ。アストレアは彼女にとって大切な剣であると同時に、扱い方を誤れば危険な武器でもある。実際に振るわせるわけにはいかないが、近くで眺める程度なら問題はないだろう。
「分かりました。でも、刃には触れないでくださいね?」
「やったあ!」
ダイが嬉しそうに声を上げると、ヒルダは背中からアストレアを外した。長大な刀身を収めるための特殊な鞘ごと大剣を慎重に支え、少年たちから少し距離を取る。周囲の安全を確かめてから、慣れた手つきで鞘から刀身を外し、その銀白色の輝きをあらわにした。
現れたのは、月の光を思わせる銀白色の刀身だった。幅広い剣身は先端へ向かうにつれてわずかに細くなり、滑らかな表面が夕暮れの光を受けて美しく輝いている。鍔の中央には小さな宝玉が埋め込まれており、その姿は武器というより、何かの儀式に用いられる美しい宝物のようにも見えた。
「うわあ……!」
ダイは思わず感嘆の声を漏らした。普段は鞘に収まっているため分からなかったが、こうして刀身を見ると、その大きさと美しさが一層際立っている。ポップも目を丸くし、先ほどまで半信半疑だったことも忘れて身を乗り出していた。
「すっげえ……! これ、銀でできてるのか?」
「ミスリル銀という金属なんです。わたしの世界では、魔法の武具にも使われることがあるんですよ」
「へえーっ! そんな金属があるのかよ……!」
ポップは興味深そうに刀身を眺めた。彼にとっても見慣れない材質らしく、その銀白色の輝きには思わず目を奪われたようだった。
アバンもまた、剣の造りを注意深く観察していた。単に大きいだけではなく、刀身や鍔の細部に至るまで丁寧に作られている。これほどの大剣を実際に使うには、並外れた技術と身体能力が必要になることだろう。
ヒルダはしばらく皆に刀身を見せたあと、慎重に鞘へ収め直した。
「なあ、姉ちゃん! ちょっと持ってみてもいい!?」
「えっ? あ、あの……。持つだけなら大丈夫だと思いますけど……」
ヒルダは少し困ったように微笑んだ。ダイが普通の子供よりずっと力持ちなのは知っているが、それでもアストレアの重さは並大抵のものではない。万が一、手を滑らせて足元へ落としてしまえば危険だった。
「危ないので、少し持つだけですよ。わたしもそばにいますからね」
「うん! 分かった!」
ヒルダが鞘に収めたアストレアを地面にそっと置くと、ダイは両手で柄を握りしめた。いつもの木剣と同じように持ち上げようとしたものの、その瞬間、予想をはるかに超える重量が腕にのしかかってくる。
「……うおっ!? お、重てえっ!!」
思わず声を上げたダイだったが、すぐに諦めるつもりはなかった。両足を大きく開いて踏ん張り、腰を落として、今度は全身の力を込めて持ち上げようとする。ヒルダはすぐに支えられる位置で見守りながら、少年が無理な姿勢にならないよう注意を払っていた。
「ぐぐぐ……! うおおおおっ!!」
最初はびくともしなかった大剣が、少しずつ動き始めた。ダイは歯を食いしばりながらさらに力を込め、ついには鞘の先端まで地面から浮かせることに成功する。
「も、持てた……! うわあっ、すっげえ重い!!」
その光景に、ヒルダは思わず目を丸くした。
ダイが並外れた身体能力を持っていることは知っていたが、まだ12歳の少年がアストレアを持ち上げられるとは思っていなかった。彼女自身、同じ年頃にはこの剣を完全に持ち上げることができず、引きずるようにして運んでいたのだ。それを思えば、少年の力には改めて驚かされる。
しかし、喜んだのも束の間、巨大な剣の重心がわずかに傾いた。ダイは慌てて踏ん張ろうとしたが、今度はその重量に腕を引っ張られ、危うく体勢を崩しかける。
「あっ、ダイくん! 危ないですよ」
すぐそばで見守っていたヒルダが、そっとアストレアを支えた。その手が添えられた途端、ダイが必死に持ち上げていた大剣はぴたりと動きを止め、彼女は少年の手元へ心配そうな視線を向ける。
「大丈夫ですか? 無理をなさらないでくださいね」
「う、うん……! でも姉ちゃん、こんな重い剣をいつも背負ってるのかよ!?」
「ふふっ。長い間使っていますから、もう慣れているんです」
「いやいやいや! だから、慣れてどうにかなる重さじゃねえだろ、これ!」
ポップが思わず声を上げると、ダイも大きく頷いた。自分だって力には相当な自信があったが、実際に持ってみたアストレアは、想像していた以上に重く、長かった。これを自由に振り回して戦うなど、今のところ想像もつかない。
その一方で、アバンはダイが剣を持ち上げたことにも感心していた。あの年齢で、成人した剣士でも苦労しそうな重量を持ち上げてみせたのだから、少年の力はやはり並外れている。そして、それほどの剣を普段から自然に背負っているヒルダについても、改めて認識を深めることになった。
「はい。そろそろお返しいただいてもよろしいですか?」
「あっ、うん! ありがとな、姉ちゃん!」
ダイが名残惜しそうに柄から手を離すと、ヒルダは大剣を受け取り、慣れた動作で背中へ戻した。その一連の動きはあまりにも自然で、先ほどまで必死に剣を持ち上げていたダイが、改めて感心したように見上げる。
「なあ、姉ちゃん! 今度はそれを振ってるところも見せてくれよ!」
「えっ? でも、あまり近くで振ると危ないですから……」
「じゃあ、遠くからでいいよ! だって、絶対すっげえんだろ!?」
ダイの期待に満ちた眼差しを受け、ヒルダはどう答えたものかと困ったように笑った。せっかくの平和な島で、アストレアを振るわなければならないような事態が起きないことは、むしろ喜ばしいことだと思っている。しかし、少年の純粋な好奇心を無下にするのも忍びなかった。
「ふふっ。そうですね。また機会があれば、そのときに」
「ほんと!? よーし、約束だぜ!」
ダイは嬉しそうに飛び跳ねた。ポップもそんな2人を眺めながら、あの巨大な剣が実際に振るわれたらどんな光景になるのだろうかと、少しだけ想像を巡らせていた。
◇ ◇ ◇
手合わせが終わる頃には、広場にも夕暮れの影が濃くなっていた。ダイはまだ興奮が冷めない様子で、アバンとヒルダの動きを真似しながら木剣を振っていたが、やがてブラスに呼ばれ、名残惜しそうに家へ戻っていった。朝から続いた騒ぎと修行で疲れているはずなのに、最後まで元気な少年だった。
アバンはその後ろ姿を微笑ましく見送ると、木剣を元の場所へ戻した。ヒルダも手伝おうとしたが、そこへポップが歩み寄ってきたため、少し足を止める。
「そういえば、ポップさんは魔法使いなんですよね?」
ヒルダが尋ねると、ポップは待っていましたとばかりに胸を張った。
「ああ! これでも先生について、もう1年以上修行してるんだぜ!」
「まあ、そうなんですね。では、いろいろな魔法をご存じなんでしょうね」
「へへっ。まあな! 火の呪文とか氷の呪文とか、結構いろいろ使えるぜ!」
自慢げに語るポップを見て、ヒルダは興味深そうに目を輝かせた。彼女自身も魔法を使えるが、この世界の魔法についてはまだ知らないことが多い。ブラスから基本的な説明は受けていたものの、実際に人間の魔法使いが呪文を使用するところは、ほとんど見たことがなかった。
「でしたら、少し見せていただいてもよろしいですか? わたし、こちらの世界の魔法にも興味があるんです」
「おっ、いいぜ! 任せとけって!」
ポップは嬉しそうに杖を握り直した。先ほどまではアバンとヒルダの剣術に圧倒されていたが、魔法の話となれば自分の得意分野だ。しかも、ヒルダは本当に興味を持っているらしく、期待に満ちた眼差しでこちらを見つめている。
「じゃあ、ちょっと離れててくれよな。今から火の呪文を見せてやるからさ!」
彼は周囲を確認すると、広場の端にある小さな岩へ杖を向けた。木々に燃え移らないよう、岩の向こうには土が露出した場所を選んでいる。普段は調子に乗りやすい少年だが、魔法を扱う際の基本的な注意については、アバンからしっかり教わっているようだった。
「メラ!」
短い詠唱と共に、小さな杖の先から火の玉が放たれた。炎はまっすぐ岩へ向かって飛び、表面にぶつかると軽い爆発音を立てて消える。岩肌には黒い焦げ跡が残り、周囲にわずかな熱気が漂った。
「どうだ! 今のがメラっていう火の呪文だ!」
ポップが得意げに振り返ると、ヒルダは興味深そうに岩を眺めていた。彼女にとって炎を生み出す魔法自体は珍しくないが、短い呪文と共に魔力が動き、炎を形作る様子は、自分の知る魔法とは少し異なっているようだった。
「なるほど……。呪文を唱えることで、炎を生み出して飛ばすんですね」
「そうそう! まあ、今のは初歩の呪文だけどな。俺はもっと強い呪文だって使えるぜ!」
「本当ですか?」
「ああ! メラゾーマっていう、もっと強力な呪文も使えるんだ。でも、さすがにここで撃ったら危ねえからな」
ポップは自慢げに胸を張った。ヒルダは素直に感心し、今度は呪文の詠唱について尋ねてみる。彼女自身、回復魔法などでは短い詠唱を行うこともあるが、風をはじめとする元素魔法はマナの直接操作によって発動させることが多い。そのため、決まった呪文を唱えることで魔法を発動させるという仕組みには、興味を引かれるものがあった。
「ねえ、ポップさん。今の魔法は、呪文を覚えれば誰でも使えるようになるんですか?」
「いや、そりゃ無理だって。ちゃんと魔法の修行をして、魔力の使い方を覚えないと。呪文によって難しさも違うしさ」
「そうなんですね……。では、呪文を覚えるだけではなく、魔力を制御する練習も必要なんですね」
「そういうこと! まあ、俺くらいになればメラなんて簡単だけどな!」
ポップは得意げに笑ったが、その直後、少しだけ考えるようにヒルダを見た。
「そういや姉ちゃん、魔法も使えるんだっけ? ダイから聞いたぜ」
「はい。こちらの世界の魔法とは少し違うようですけど……」
「へえ。どんな魔法が得意なんだ?」
「そうですね……。風を操る魔法が、1番得意でしょうか」
その答えに、ポップは興味深そうに目を輝かせた。
「風かあ。じゃあ、バギ系の呪文みたいなもんか?」
「バギ……ですか?」
「知らないのかよ!? 風の呪文だよ! こう、真空の刃で敵を斬り裂くようなやつ!」
ポップは身振りを交えながら説明を始めた。ヒルダはその様子を真剣に眺め、何度か頷きながら話を聞いている。どうやら同じ風を扱う魔法でも、発動方法や仕組みには違いがあるらしい。
「なるほど……。こちらの世界にも、風を刃のようにして攻撃する魔法があるんですね」
「もちろん! ほかにもいろいろあるぜ。姉ちゃんの風の魔法も、ちょっと見てみたいな」
「えっ? わたしのですか?」
ヒルダは少し考え込んだ。自分の使う風の魔法にはさまざまな種類があるが、この場で攻撃用の術を披露する必要はないだろう。そこで、彼女は掌を上に向け、近くに落ちていた小さな木の葉を拾い上げた。
「では、こんなものでよろしいでしょうか?」
ヒルダが静かに意識を向けると、掌の上に置かれた木の葉が、ふわりと宙に浮かび上がった。葉は彼女の指先をゆっくりと回りながら舞い、やがてポップの目の前へと漂っていく。最後に小さく円を描くと、まるで見えない手に支えられているかのように、静かにヒルダの掌へ戻った。
「おおっ! なんだそれ!?」
ポップは思わず身を乗り出した。派手な攻撃魔法ではなかったが、呪文を唱える様子もなく、風を思いどおりに操っていることには驚かされたらしい。
「今、呪文なんか唱えてなかったよな?」
「はい。わたしの場合は、風のマナを直接動かせますので、こういうことなら呪文は必要ないんです」
「へえーっ! そんな使い方もできるのかよ!」
ポップは感心したように木の葉を見つめた。先ほどのメラと比べれば、ヒルダが見せたのはほんの小さな術にすぎない。しかし、呪文を使わずに風を思いどおりに操れるというのは、魔法使いとしてなかなか興味深いことだった。
「なあ、姉ちゃん。それって、もっと重いものでも浮かせられるのか?」
「ええと……。重さや大きさにもよりますけど、ある程度ならできますよ」
「へえ。便利だなあ。俺もそんな魔法が使えたら、いろいろ楽できそうなのに」
ポップが感心したように呟くと、アバンが横から口を挟んだ。
「おやおや、ポップ。楽をするために魔法を覚えようとするのは、あまり感心しませんねえ」
「げっ! 先生! いや、そういう意味じゃなくて!」
「ふふふ。では、明日から風の呪文の修行も少し増やしてみましょうか」
「ええーっ!? 勘弁してくださいよ!」
ポップが悲鳴を上げると、ヒルダは思わず笑ってしまった。アバンも楽しそうに微笑んでおり、どうやら弟子の扱いにはずいぶん慣れているらしい。
こうして、夕暮れの広場には再び賑やかな声が響き始めた。
ヒルダにとっても、ポップとの魔法談義は楽しい時間だった。彼は少々調子に乗りやすいところがあるものの、魔法について話しているときの表情は生き生きとしている。知識も豊富で、少なくともこの世界に来たばかりの彼女にとっては、頼りになる案内役だった。
そしてポップもまた、ヒルダに対する印象を少しずつ変え始めていた。
最初は、ダイがやたらと褒める剣の上手な女の人。しかし、実際に話してみると、こちらの魔法について真剣に耳を傾け、知らないことは素直に尋ねてくる。少し天然なところもあるが、決して人を馬鹿にしたり、自分の腕前をひけらかしたりする人物ではなかった。
何より、自分の知識を頼りにしてくれることが、ポップには少し嬉しかった。
◇ ◇ ◇
その夜、ダイが眠りについたあと、ポップは家の外で杖を握っていた。
昼間の修行ですっかり疲れているはずだったが、なぜか今夜はなかなか眠る気になれない。森の向こうからは夜行性の魔物たちの声が聞こえ、空には数え切れないほどの星が輝いていた。
「……ふう」
ポップは小さく息をつき、杖を肩に担いだ。
島へ来てからというもの、ダイの才能には何度も驚かされていた。まだ正式な修行を始めたばかりだというのに、先生の指導を次々と吸収し、目に見えて成長している。もともと身体能力が優れているとはいえ、その上達ぶりは少々羨ましくなるほどだった。
一方、自分はどうだろうか。
アバンについて1年以上修行しているものの、厳しい訓練から逃げ出そうとしたことは1度や2度ではない。呪文の腕前にはそれなりの自信があるが、先生からはまだまだ修行が足りないと言われ続けている。
「……ちぇっ。俺だって、もうちょっと頑張りゃ……」
そこまで呟いたところで、背後から穏やかな声が聞こえた。
「ポップさん?」
振り返ると、ヒルダが家の扉を開けて立っていた。どうやら水を汲みに出てきたらしく、小さな桶を手にしている。ポップが慌てて杖を下ろすと、彼女は少し不思議そうに首を傾げた。
「まだ起きていらしたんですね。何か練習をしていたんですか?」
「べ、別に! ちょっと外の空気を吸ってただけだよ!」
「そうでしたか。今日は大変でしたものね。あまり無理をなさらないでくださいね」
ヒルダはそう言って微笑んだが、ポップは何となく居心地の悪さを覚えた。彼女に悪気がないことは分かっている。それでも、ダイと同じように優しく接されると、少しばかり複雑な気分になってしまうのだ。
「……なあ、姉ちゃん」
「はい?」
「ダイってさ、やっぱりすげえ才能があるんだろ?」
唐突な質問に、ヒルダは少し驚いたようだった。しかし、ポップの表情を見て、すぐに何かを察したらしい。彼女は桶を足元へ置き、少年の話を聞く姿勢になった。
「はい。ダイくんには、とても優れた才能があると思います」
「……そっか。やっぱりな」
ポップは苦笑した。分かっていたことではあるが、改めて言われると、やはり少し悔しい。
「俺さ、先生についてもう1年以上になるんだ。でも、ダイは今日来たばっかりなのに、あんなに期待されてるだろ? なんかさ……俺が今までやってきたことって、何だったんだろうなって思っちまうんだよ」
ポップはそこまで言ってから、しまったという顔をした。まだ出会って間もない相手に、何を情けないことを話しているのだろう。慌てて冗談めかそうとしたが、ヒルダは笑わなかった。
それどころか、少し考えるように視線を落としていた。
「……そうですね。ダイくんは、確かに剣の才能があります。でも、ポップさんにも、ダイくんにはない素晴らしいところがあると思いますよ」
「へっ? 俺に?」
「はい。先ほど魔法を見せていただいたとき、とても感心しました。あんなふうに炎を生み出すだけでも、きっとたくさん練習されたのでしょう?」
ヒルダの言葉に、ポップは少しだけ目を見開いた。
確かに、初めて呪文を成功させたときは嬉しかった。何度も失敗し、先生に教えてもらいながら、ようやく火の玉を生み出せるようになった。今では当たり前のように使っているが、最初から簡単にできたわけではない。
「……まあ、そりゃあな。俺だって、これでも結構修行してるし」
「ふふっ。でしたら、その努力は決して無駄ではなかったと思います。ダイくんが剣を上手に使えるようになったことと、ポップさんが魔法を使えるようになったことは、どちらも素晴らしいことですから」
ヒルダは穏やかにそう告げた。ダイの才能を否定することも、ポップの力を必要以上に持ち上げることもせず、ただ少年が積み重ねてきた努力を認めていた。
その言葉に、ポップはしばらく何も答えなかった。
彼女は自分の才能がダイより優れているなどとは言わなかったし、これから必ず立派な魔法使いになれると約束したわけでもない。ただ、これまで積み重ねてきた努力を、きちんと認めてくれた。
それが、思いのほか嬉しかった。
「……姉ちゃんってさ、なんか変わってるよな」
「えっ? そ、そうでしょうか……?」
ヒルダが困ったように瞬きをすると、ポップは思わず笑った。
「いや、悪い意味じゃねえよ。なんつーか……。剣だって上手いし、魔法も使えるのに、偉そうなところが全然ないっていうかさ」
「そ、そんな……。わたしなんて、まだまだですよ」
「またそれだよ! ダイも言ってたけど、姉ちゃんって、いっつもそうやって謙遜するんだな!」
ポップが呆れたように笑うと、ヒルダもつられて微笑んだ。彼女にとって、自分の強さを誇示しないことは特別な美徳ではなく、ごく自然なことだった。むしろ、これまで幾度も仲間たちに助けられてきた経験があるため、自分1人の力で何でもできるとは考えていなかった。
「わたしにも、苦手なことはたくさんありますから。魔法のことだって、ハンスさんに教えていただくことがあるんですよ」
「ハンス?」
「はい。わたしの仲間です。魔法についてとても詳しい方で……。こちらの世界へ来る直前まで、シヴァさんやマリンさんと一緒に旅をしていたんです」
ヒルダは少し懐かしそうに微笑んだ。
彼らと離れ離れになってから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。ほんの数週間前まで、当たり前のように顔を合わせ、言葉を交わしていたというのに、今ではその何気ない時間がひどく遠いものに感じられることがあった。
ポップはそんな彼女の横顔を見て、少しだけ表情を変えた。
「……そっか。姉ちゃん、仲間とはぐれちまったんだっけ」
「はい。ですから、いつかまた皆さんと会えるように、帰る方法を探したいと思っています」
ヒルダはそう答え、夜空へ目を向けた。デルムリン島の空には、数え切れないほどの星が輝いている。しかし、その星々の並びは、彼女が慣れ親しんだ世界のものとは違っていた。
ポップはしばらく考え込んでいたが、やがて少し照れくさそうに口を開いた。
「……だったらさ、先生に相談してみればいいじゃねえか。先生、いろんなこと知ってるし、きっと何か手掛かりを見つけてくれるぜ」
「ありがとうございます、ポップさん。わたしも、そうしてみようと思っていたところです」
「へへっ。まあ、俺も魔法のことなら少しは分かるからさ。何かあったら聞いてくれよな!」
ポップは得意げに胸を張った。
ヒルダはその言葉を嬉しく思い、素直に頭を下げた。少年の少し照れくさそうな表情を見ていると、先ほどまで胸の内に抱えていた寂しさも、ほんの少し和らいでいくようだった。
「はい。そのときは、よろしくお願いしますね」
◇ ◇ ◇
翌朝、デルムリン島にはいつもと変わらない朝日が差し込んでいた。昨日の騒ぎが嘘のように島は穏やかで、森の中では魔物たちが元気に活動している。ブラスの家でも早くから朝食の準備が始まり、アバンとポップはすでにその日の修行について話し合っていた。
ヒルダもいつもより早く起き、旅の荷物を整理していた。まだ行き先をはっきりと決めているわけではないが、そろそろ島の外へ出なければならない。ブラスから借りた地図を広げ、周辺の大陸の位置を確かめながら、どこから情報を集めるべきか考えていた。
「姉ちゃん! 今日は先生が、すっげえ技を見せてくれるんだって!」
朝食の席で、ダイが興奮した様子で声を上げた。どうやら昨日の手合わせを見たことで、アバンの剣術に対する興味がますます強くなったらしい。ヒルダが顔を上げると、少年は木剣を抱えるようにして、嬉しそうに笑っていた。
「そうなんですか? それは楽しみですね」
「うん! オレ、絶対に覚えてやるんだ!」
その意気込みに、アバンは満足そうに頷いた。しかし、教える本人は相変わらずのんびりとした様子で、どうやらダイが想像しているほど簡単な修行にはならないらしい。
「ははは。まずは基本からですけどね。強い技というものは、いきなり形だけを真似しても、なかなか上手く使えないものですから」
その言葉にダイは少しだけ首を傾げたものの、すぐに元気よく返事をした。ヒルダはそんな2人のやり取りを微笑ましく眺めながら、昨日の手合わせで感じたアバンの技量を思い返していた。
昼前になると、ダイの修行は一段と本格的なものになった。
アバンはまず自らの剣術を披露し、ダイに《アバンストラッシュ》という奥義を見せてやった。剣に込められた力が凄まじい勢いで解き放たれると、見ていたダイは目を丸くし、思わず歓声を上げる。ヒルダもその場に居合わせており、独特の構えから繰り出される鋭い斬撃に、感心したように目を細めていた。
しかし、アバンはそこで修行を終わりにはしなかった。
彼が教えようとしている《アバンストラッシュ》は、大地・海・空を斬るアバン流刀殺法を修得して初めて完成する技なのだという。その説明を聞いたダイは、初めこそ難しそうな顔をしていたものの、アバンの指導を受けるうちに、少しずつその意味を理解し始めた。
ヒルダはその様子を見守りながら、改めてアバンの指導の上手さに感心していた。単に技を見せるだけではなく、何を理解し、どのように身体を動かすべきなのかを、ダイの習熟度に合わせて教えている。自分が感覚的に身につけてきたことを相手へ伝える難しさを知っているだけに、彼の指導から学べることは多かった。
そして夕方までには、ダイは最初の技である《大地斬》をものにしていた。
「やったあ! できたぞ、先生!」
喜び勇んで駆け寄るダイに、アバンは満足そうに頷いた。まだ完全に使いこなせるわけではないが、教わったことを驚くほどの速さで吸収していく少年の才能には、改めて驚かされるばかりだった。
「いやあ、お見事です。まさか、これほど早く覚えてしまうとは思いませんでしたよ」
「へへっ! どうだ、姉ちゃん! オレ、また強くなっただろ!?」
ダイが得意げに振り返ると、ヒルダは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。とても立派でしたよ、ダイくん。アバンさんの教え方も、本当にお上手ですね」
「ははは。いえいえ。ダイくん自身が一生懸命頑張ったからこそですよ」
アバンはそう言って、少年の頭へ軽く手を置いた。ダイは照れくさそうに笑ったが、その表情には昨日までとは違う自信が浮かんでいた。
そんな2人の様子を眺めながら、ヒルダは静かに胸を撫で下ろした。ダイには、これから本格的に剣術を教えてくれる先生がいる。自分が島を離れたあとも、この少年ならきっと多くのことを学び、成長していけるだろう。
それは、彼女が島の外へ目を向けるうえでも、大きな安心につながっていた。
◇ ◇ ◇
その夜、ヒルダはアバンと2人で話をする機会を得た。
ブラスの家から少し離れた丘の上。そこには海を見渡せる小さな岩場があり、昼間は島の魔物たちが日向ぼっこをする場所になっていた。今は夜風が静かに吹き抜けるだけで、遠くから聞こえる波の音が心地よい。
「いやあ、昨日はありがとうございました。おかげで、久しぶりに楽しい手合わせができましたよ」
アバンは穏やかに笑いながら、隣に立つヒルダへ声をかけた。彼女もまた、楽しそうに微笑みながら頷く。
「こちらこそ、ありがとうございました。アバンさんの剣術、とても勉強になりました。特に、相手の動きを誘うような剣の使い方は、わたしにはあまりない発想でしたから」
「おや、それは光栄ですね。ですが、あなたにはあまり必要のない技術かもしれませんよ」
「えっ?」
ヒルダが不思議そうに首を傾げると、アバンは少しだけ表情を改めた。
「……ヒルダさん。ひとつ、正直にお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「はい。何でしょう?」
「あなたは昨日、どの程度の力で私と剣を交えていたのですか?」
その質問に、ヒルダは少し戸惑った。まさか、そんなことを尋ねられるとは思っていなかったのだ。もちろん、手合わせだったので本気で戦ったわけではない。しかし、相手に失礼にならないよう、できるだけ丁寧に剣を交えたつもりだった。
「ええと……。その、軽い手合わせでしたので、あまり強く打ち込まないようにはしていましたけど……」
「なるほど。やはり、そうでしたか」
アバンは小さく頷いた。
それ以上、彼女を問い詰めるつもりはなかった。実際、ヒルダがどの程度の力を持っているのか、今の自分には判断できない。昨日の手合わせから分かるのは、彼女が非常に優れた剣術を身につけているということだけだった。
だが、ひとつ確信していることがある。
もし本気で戦っていたなら、自分はあれほど余裕を持って剣を交えることなどできなかっただろう。
「ヒルダさん。あなたは、ずいぶんと多くの戦いを経験してこられたようですね」
アバンが静かに告げると、ヒルダの表情がわずかに変わった。
「……はい。いろいろなことがありました」
「そうですか」
アバンはそれ以上、詳しく尋ねなかった。彼女の口調には、容易に言葉にできない経験を積んできた者特有の重みが感じられたからだ。それに、アバン自身も数多くの戦いを経験している。誰かの剣に刻まれた年月の重みを、軽々しく言葉にするべきではないことくらい理解していた。
代わりに、彼は話題を変えた。
「ところで、ヒルダさん。あなたは、いずれこの島を離れるおつもりなのでしょう?」
「……はい。ブラスさんにもお話ししたのですが、そろそろ大陸へ渡ってみようと思っています」
「なるほど。何か、探しているものがあるのですか?」
ヒルダは少し迷ったあと、静かに頷いた。
「実は……わたし、ここよりもずっと遠いところから来たんです。どうしてこちらへ来てしまったのか、自分でもよく分からなくて……。元の場所へ帰る方法を探しているんです」
アバンは驚いた様子を見せなかった。
もちろん、彼女の話が普通ではないことは理解している。しかし、世界には自分の知らない魔法や現象が数多く存在する。突然見知らぬ場所へ転移してしまうような出来事が、絶対にあり得ないとは言い切れなかった。
「……それは、さぞ心細いことでしょうね」
「いえ。デルムリン島の皆さんが、とても親切にしてくださったので……。それに、今は少しずつですが、この世界のことも分かってきましたから」
ヒルダは穏やかに微笑んだ。
その様子を見て、アバンはしばらく考え込んでいたが、やがてひとつの提案を口にした。
「でしたら、パプニカ王国を訪ねてみてはいかがでしょうか。あそこには優れた学者や魔法使いもおりますし、古い文献も数多く残されています。何か手掛かりが見つかるかもしれませんよ」
「パプニカ王国……ですか?」
「ええ。もちろん、必ず見つかるとは限りませんが、何も分からないまま旅をするよりはよいでしょう」
ヒルダはその提案を聞き、嬉しそうに頷いた。アバンはさらに周辺の地理や大陸への渡り方についても説明し、手持ちの地図を広げていく。彼の話は分かりやすく、初めてこの世界を旅するヒルダにとって、非常にありがたいものだった。
「ありがとうございます、アバンさん。行き先も決められずにいたので、とても助かりました」
「いえいえ。少しでもお役に立てたのなら何よりです。旅の途中で分からないことがあれば、その土地の方々にも尋ねてみるとよいでしょう」
ヒルダは地図に記された地名をもう1度確かめ、アバンの説明を忘れないように頭に入れた。元の世界へ帰る方法が見つかる保証はない。それでも、こうして具体的な行き先が決まっただけで、少し前へ進めたような気がしていた。
しばらくして地図を畳んだアバンは、ふとヒルダの背中へ視線を向けた。
そこには、昨日から気になっていた巨大な大剣が背負われている。夕方の広場では刀身も見せてもらったが、あの長大な剣を彼女が実際に振るうところは、まだ目にしていない。ダイでさえ扱いに苦労していたことを思い出すと、やはり1度、その剣術を確かめてみたいという思いが湧いてきた。
「……ヒルダさん。もうひとつだけ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい。何でしょう?」
「実は、昨日の手合わせで少々気になったことがありましてね。もし差し支えなければ、あなたの本来の剣を使ったところを、1度拝見させていただけませんか?」
思いがけない申し出に、ヒルダは目を瞬かせた。
「アストレアを、ですか?」
「ええ。もちろん、無理にとは申しません。ただ……昨日の木剣では、あなたの剣術を十分に理解できなかったように思いまして」
アバンは穏やかな口調を保っていたが、その眼差しは真剣だった。ヒルダは少し考え込んだものの、彼が単なる好奇心で尋ねているわけではないことを察し、静かに頷いた。
「……分かりました。でも、ここでは少し危ないかもしれませんね」
「おや。やはり、あの剣はそれほどのものですか?」
「ええと……。その、少しだけ周りに気をつけないといけなくて……」
ヒルダは困ったように笑った。
アバンはその反応を見て、ますます興味を深めた。昨日の手合わせでも相当な技量を見せていたというのに、本来の武器を使うとなると、周囲への影響まで気にしなければならないという。
単に大きな剣だからという理由だけではなさそうだった。
「では、少し場所を変えましょうか。島の北側に、あまり人の寄りつかない岩場があります。海に面していますから、周囲を確かめたうえでなら手合わせもできるでしょう」
「はい。それなら大丈夫だと思います」
こうして2人は、月明かりの下、島の北側へ向かうことになった。
◇ ◇ ◇
北側の海岸は、昼間の穏やかな森とはまったく異なる景色を見せていた。
切り立った岩壁が海へ突き出し、その先には広大な水平線が広がっている。波が岩肌へぶつかるたびに白い飛沫が舞い上がり、月明かりを受けて淡く輝いていた。周囲には魔物の気配もほとんどなく、少なくとも誰かが巻き込まれる心配はなさそうだった。
アバンは岩場の中央で足を止めると、ゆっくりとヒルダへ向き直った。
「さて。では、改めてお願いできますか?」
「はい。……あの、アバンさん。本当に軽い手合わせでよろしいんですよね?」
「もちろんです。ただ、今度は少しだけ、あなたの本来の動きを見せていただければと思いまして」
ヒルダは小さく頷き、背中へ手を伸ばした。
長年使い続けてきた大剣アストレア。慣れた手つきで特殊な鞘から刀身を外すと、月明かりを受けた銀白色の輝きが静かに姿を現した。大きく幅広い剣身は、細身のヒルダが扱うにはあまりにも不釣り合いに見える。
しかし、その剣を手にした瞬間、アバンの表情がわずかに変わった。
先ほどまでのヒルダとは、明らかに雰囲気が違っていた。
何か特別な構えを取ったわけではない。威圧するような気配を放っているわけでもない。ただ、自分の剣を握り、自然に立っているだけだった。
それなのに、アバンには妙な感覚があった。
昨日の木剣を持った彼女は、熟練した剣士だった。だが、今のヒルダには、そのとき以上に揺るぎのない落ち着きが感じられる。握られたアストレアは彼女の身体に対してあまりにも大きいにもかかわらず、その姿には少しの違和感もなかった。
まるで、剣そのものが身体の一部であるかのように見えた。
「……なるほど。これは、なかなか……」
アバンは思わず呟いた。
ヒルダはそんな彼の反応を不思議そうに眺めていたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「では、よろしくお願いします」
「ええ。こちらこそ」
アバンも剣を抜き、静かに構えた。
最初は昨日と同じように、互いの間合いを確かめるような攻防から始まった。アバンが1歩踏み込めば、ヒルダも自然に身体を動かす。剣同士が触れ合うたびに澄んだ金属音が響き、月明かりを受けた刃が幾度も交差した。
だが、アバンはすぐに違いを感じ取った。
剣の重量が、まるで違う。
ヒルダの振るうアストレアは、見るからに重厚な大剣だった。普通ならば、その重量に振り回され、攻撃のあとには大きな隙が生まれるはずである。
ところが、彼女の動きには、それがまったくなかった。
大剣が滑らかに動き、鋭く斬り込んだかと思えば、次の瞬間には別の角度へと切り返されている。しかも、その動きには無理がなく、ヒルダ自身はほとんど力を込めているように見えなかった。
アバンは試しに、真正面から剣を合わせてみた。
金属音が響き、2本の剣が交差する。
その瞬間、彼は目を見開いた。
重い。
いや、単に剣の重量が重いのではない。
ヒルダがごく軽く押し返しただけで、アバンの剣は自分の意思とは無関係に外側へ押し流されてしまった。慌てて体勢を立て直したものの、彼女がその気になれば、今の一瞬で勝負は決まっていただろう。
「……これは驚きました」
アバンは静かに息をついた。
彼女はまだ、ほとんど力を使っていない。それなのに、剣を交えるだけで、これほどの差を感じるとは。
アバンは改めてヒルダを見つめた。
彼女は相変わらず穏やかな表情を浮かべており、自分がどれほど驚かれているのか、あまり理解していないようだった。
「ヒルダさん。少しだけ、強い技を使わせていただいてもよろしいでしょうか?」
「えっ? はい。構いませんけど……」
「ありがとうございます。もちろん、あなたを傷つけるつもりはありません。ただ、私の剣術の中でも、少々特別な技でしてね」
アバンはそう告げると、ゆっくりと剣を構え直した。
それまでの穏やかな雰囲気が、静かに変化していく。
ヒルダはその変化を見逃さなかった。アバンの身体から、先ほどまでとは異なる力が立ち上がり始めている。昼間、ダイの修行で披露された《アバンストラッシュ》と同じものだと気づき、彼女は静かに目を細めた。
あのときは、あくまでダイに奥義を見せるための実演だった。しかし、今こうして向かい合ってみると、剣へ集まっていく力の鋭さが一層はっきりと感じられる。どうやらアバンは、昼間よりも踏み込んだ一撃を見せようとしているらしかった。
ヒルダは自然な姿勢でアストレアを構え、相手の動きを見守った。
「では……参ります!」
アバンが地面を蹴った。
先ほどまでとは比較にならない鋭い踏み込み。剣へ込められた力が一気に高まり、その刃が月明かりの下で強烈な輝きを放つ。
「アバンストラッシュ!!」
轟音と共に、凄まじい斬撃が放たれた。
剣から解き放たれた力が巨大な衝撃波となり、一直線にヒルダへ迫る。それは単に風を切り裂くような攻撃ではなく、剣士自身の力を極限まで高め、斬撃と共に放出する、アバン流刀殺法の奥義だった。
その威力は、並の魔物ならば一撃で斬り伏せられるほどのものだった。
しかし、ヒルダは動じなかった。
迫り来る斬撃を見つめ、ほんのわずかに目を細める。昼間に見た技の鋭さは覚えていたが、実際にその力を自分へ向けられると、また違った印象を受ける。剣に込められた力が非常に密度の高い一撃となっていることを感じ取り、ヒルダは静かにアストレアを構え直した。
「……なるほど」
小さく呟いた次の瞬間、彼女は剣を振るった。
それは、特別な奥義ではなかった。
迫り来る斬撃の力を見極め、アストレアの刃に風のマナを沿わせながら、必要な角度へと振り抜いたのである。
しかし、その一撃はアバンの予想を大きく超えていた。
迫り来る《アバンストラッシュ》の斬撃が、ヒルダの振るった剣によって真正面から捉えられたのである。凄まじい衝突音が響き、2人の間に強烈な風圧が生まれる。しかし、ヒルダは足元の岩場を砕くこともなく、その場に踏みとどまっていた。
アストレアの角度が、ほんのわずかに変わる。
その動きに合わせるように、刃へ沿わせた風の流れも変化した。正面から受け止めていた斬撃の力が少しずつ横へ流され、ヒルダが剣を振り抜いた次の瞬間、《アバンストラッシュ》は彼女の身体を外れて沖合の海上へ向かっていった。
轟音が響き渡る。
海面が大きく割れ、巨大な水柱が空へと立ち上がった。激しい波が周囲へ広がり、月明かりを受けた飛沫が、まるで白い雨のように降り注いでいく。
その光景を、アバンは呆然と見つめていた。
「……な……」
思わず声が漏れた。
「……すごいですね、アバンさん」
ヒルダの声に、アバンは我に返った。
彼女はアストレアを下ろし、沖合に立ち上った水柱を眺めながら、心から感心したように微笑んでいた。
「今の技、剣に込めた力を斬撃と一緒に放つんですね。わたしの使う風の刃と、少し似ている気がします」
「……風の、刃……ですか?」
「はい。わたしの場合は風のマナを刃のようにして飛ばすことがあるんですけど、今の技はそれとは少し違う力を使っているみたいですね。とても鋭くて、強い斬撃でした」
ヒルダは感心したように説明したが、アバンにとってはそれどころではなかった。
彼女は今、自分の奥義を真正面から捉え、その威力を受け流してしまったのだ。それも、周囲への被害を抑えながら、ほとんど無理のない動きで。
「ヒルダさん。……今の一撃、まともに受け止めれば無事では済まないはずですが、いったいどうやってあの威力を逸らしたのですか?」
アバンが静かに、しかし探るような眼差しで問うと、ヒルダは困ったように視線を泳がせた。
彼女にとって、先ほどの防御は長年の経験から身につけた感覚による部分が大きかった。剣を受ける角度や風を送り込む位置は自分なりに理解しているものの、それを初めて見る相手へ言葉で説明するとなると、なかなか難しい。
「ええと……真っ直ぐに強い力が向かってきたので、ぶつかる直前に、少しだけ力を流しやすいところを探したんです。そこに風の刃を、こう……『チョン』と入れて……」
「……チョン、と?」
「はい。そうすると力の向きが少し変わるので、あとはそのまま横へ『フワッ』と流すようにして……海の方へ飛んでいくようにしたんです」
ヒルダは至って真面目な顔で答えた。
彼女が言っているのは、相手の力に正面から抗うのではなく、その向きを変えることで受け流すという技術だった。剣術と風の操作を組み合わせたものだと理解することはできる。しかし、それをあの一瞬で実行するには、並外れた判断力と精密な力の制御が必要になる。
「……チョン、と流し込んで、フワッと……ですか」
「はい。アバンさんの技はとても綺麗にまとまっていたので、力の流れが分かりやすかったです」
穏やかに微笑むヒルダを見て、アバンは一瞬呆気にとられ、やがてたまらず小さく吹き出した。
これほど底知れぬ実力を持つ少女が、自分の奥義を受け流した方法を、あまりにも自然に説明している。その言葉自体は何とも感覚的だったが、実際に目の前で起こったことを思えば、彼女にとってはそれが最も分かりやすい説明なのかもしれなかった。
「……ヒルダさん。あなたには、本当に驚かされましたよ」
「えっ? そ、そうでしょうか……?」
「ええ。実に、頼もしいことです」
ヒルダは少し照れくさそうに笑い、アストレアをゆっくりと鞘へ収めた。
その仕草を見ながら、アバンは改めて確信していた。
この少女は、自分よりもはるかに強い。
純粋な身体能力や剣術の技量だけでなく、状況に応じて魔法を組み合わせる判断力にも、並外れたものがある。まして彼女が、今の手合わせでどこまで力を抑えていたのかは、依然として分からなかった。
アバンは静かに海を見つめた。
先ほどの斬撃によって立ち上がった水柱は、すでに消えていた。海面には再び穏やかな波が戻り、何事もなかったかのように月明かりが揺れている。
こんな少女が、これほどの力を持っているとは。しかも、彼女自身はその力を誇示することもなく、ただ相手への敬意を忘れずに剣を交えている。
アバンはしばらく黙っていたが、やがて静かに微笑んだ。
この少女になら、託せるかもしれない。
まだ小さな可能性を秘めた、自分の弟子たちを。
◇ ◇ ◇
2人は海を見渡せる岩場に腰を下ろし、しばらく静かな時間を過ごしていた。
月明かりが海面を照らし、遠くからは波の音が聞こえてくる。先ほどまで剣を交えていたことが嘘のように、穏やかな夜だった。
「……それにしても、ダイくんには驚かされました」
アバンが静かに呟くと、ヒルダも微笑んだ。
「はい。あの子は、本当にすごい才能を持っていますね」
「ええ。私もこれまで何人かの弟子を教えてきましたが、あれほどの素質を持つ子はそうそういません。しかも、あなたから基本的な剣術を教わっていたおかげで、修行の進み方も予想以上に早いようです」
アバンはそう言って、少しだけ目を細めた。
ダイの才能は、確かに並外れている。しかし、それ以上に重要なのは、彼が人々を守りたいという純粋な気持ちを持っていることだった。どれほど強い力を持っていても、それを何のために使うのかを見失ってしまえば、勇者とは呼べない。
その点について、アバンはすでに一定の確信を抱いていた。
「ヒルダさん。あなたは、ダイくんがこれからどうなると思いますか?」
「……そうですね」
ヒルダは少し考え込んだ。
ダイと出会ってから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。それでも、彼がどれほど優しく、勇敢な少年であるかは十分に理解していた。自分より小さな魔物が困っていれば迷わず助けに向かい、誰かが悲しんでいれば、自分のことのように心を痛める。
そんな少年が、優れた指導者のもとで成長していく。それはきっと、素晴らしいことなのだろう。
「……きっと、とても強くなると思います。でも、それ以上に……誰かを守れる、優しい勇者になってほしいですね」
ヒルダが穏やかに告げると、アバンは満足そうに頷いた。
「ええ。私も、まったく同じことを考えています」
2人はしばらく、静かな海を眺めていた。
やがてアバンが、少しだけ真剣な口調で話し始めた。
「ヒルダさん。もし、いつかダイくんやポップが大きな困難に直面することがあったら……。そのときは、どうか力を貸してあげてください」
突然の言葉に、ヒルダは少し驚いた。
「……わたしが、ですか?」
「ええ。もちろん、彼らにも自分の力で乗り越えてほしいと思っています。ですが、これから先、どのような敵が待ち受けているのか、私にも分かりませんからね」
アバンはそう言って、静かに微笑んだ。
「ただし、ひとつだけお願いがあります」
「はい」
「できれば、彼らが自分で乗り越えられる試練については、少しだけ見守ってあげてほしいのです」
ヒルダは黙って耳を傾けた。
「あなたほどの力を持つ方が、いつもそばにいて助けてしまえば、彼らはきっと安心するでしょう。ですが、それでは自分自身の力で困難に立ち向かう機会が少なくなってしまうかもしれません」
アバンの言葉には、単なる教育論以上の重みがあった。
彼自身、これまでに幾度も困難を乗り越え、その中で多くのことを学んできた。だからこそ、誰かが強くなるためには、ときに自分自身の力で苦難に立ち向かわなければならないことを理解している。
ヒルダもまた、その意味を十分に理解できた。
シヴァ、マリン、ハンス。彼らと共に旅をしてきた中で、ヒルダは何度も仲間たちに助けられてきた。誰か1人がすべての問題を解決するのではなく、それぞれが自分にできることを考え、ときには失敗しながらも、力を合わせて困難を乗り越えてきたのである。
その経験は、今のヒルダにとっても大切なものだった。
「……分かりました。ダイくんもポップさんも、自分の力で成長していくことが大切なんですね」
「ええ。もちろん、本当に危険なときには、迷わず助けてあげてください。私も、彼らを無理に危険へ追いやりたいわけではありませんから」
「はい。それなら、わたしにもできます」
ヒルダは穏やかに微笑んだ。
「わたしも、あの2人には立派になってほしいと思っていますから。もし、わたしの力が本当に必要になったときには、必ずお手伝いします」
その言葉を聞き、アバンは満足そうに頷いた。
「ありがとうございます。……これで、少し安心できました」
ヒルダはその表情を見つめ、ふと不思議な感覚を覚えた。
アバンは、今すぐ自分がいなくなることを考えているわけではないだろう。それでも彼の言葉には、いつか自分の手を離れて旅立つ弟子たちを、誰かに託そうとするような響きがあった。
しかし、そのことを尋ねる前に、アバンはいつもの穏やかな笑顔へ戻っていた。
「さて。明日も厳しい修行が待っていますからね。そろそろ戻るとしましょうか」
「はい。今日は本当に、ありがとうございました」
ヒルダは丁寧に頭を下げ、アバンもまた静かに一礼した。短い時間ではあったが、2人は互いの力量だけでなく、その剣が何のために振るわれるのかについても、少しずつ理解を深めていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、デルムリン島には、いつもと変わらない穏やかな朝日が差し込んでいた。森の中からは魔物たちの元気な声が聞こえ、ブラスの家では朝食の支度が進められている。
ヒルダはいつもより少し早めに起き、旅の準備を整えていた。昨夜、アバンから教えてもらったパプニカ王国へ向かうことを決めたため、地図の確認や荷物の整理はすでに済ませている。ブラスにも事情を説明しており、彼も寂しがりながら、彼女の旅立ちを応援してくれていた。
もっとも、1人だけ納得していない者がいた。
「ええーっ!? ヒルダ姉ちゃん、もう行っちゃうの!?」
ダイである。
彼は朝食の途中で旅立ちの話を聞くと、驚いたように立ち上がった。最近では毎日のように剣の稽古をしてもらっていたため、ヒルダがいなくなるなど考えてもいなかったのだろう。
「はい。そろそろ、わたしも旅を続けようと思いまして……」
「でもさ! まだ全然、姉ちゃんに剣を当てられてないんだぜ!? もうちょっと一緒にいてくれよ!」
ダイは不満そうに口を尖らせた。
ヒルダは困ったように笑いながら、少年の前にしゃがみ込んだ。自分の旅立ちを残念に思ってくれることは嬉しかったが、だからといって、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。それに、今のダイにはアバンという優れた先生がいるのだから、剣術についてはもう心配する必要もなかった。
「ふふっ。ダイくんには、アバンさんがいらっしゃるでしょう? あの方は、わたしなんかよりずっと教えるのがお上手ですから。きっと、これからもっと強くなれますよ」
「……でもさあ」
「それに、わたしも帰る方法を探さなくてはいけませんから。いつまでもブラスさんのお世話になっているわけにはいきませんし……」
ヒルダがそう告げると、ダイはようやく事情を思い出したらしい。彼女がこの世界へ来た理由も、元の場所へ帰る方法も分からないことは、最初に出会ったときから聞いていた。
それでも、寂しいものは寂しい。
「……そっか。姉ちゃんにも、帰らなきゃいけないところがあるんだもんな」
「はい。でも、また会えないと決まったわけではありませんよ」
ヒルダはそう言って、優しく微笑んだ。
「ダイくんが立派な勇者になった頃に、また会えるかもしれませんね」
「……ほんと!?」
「はい。そのときは、もっと強くなったダイくんと、また剣の稽古をしましょう」
その言葉に、ダイはぱっと表情を輝かせた。
「よーしっ! だったら、次に会うときは絶対に姉ちゃんに勝ってやるからな!」
「はい。楽しみにしていますね」
ヒルダは微笑みながら頷いた。
その隣では、ポップが少しだけ複雑な表情を浮かべていた。ダイほど長い付き合いではないものの、一昨日の魔法談義や夜の会話を通じて、ヒルダに対する印象は大きく変わっていたからだ。
「……姉ちゃん、本当に行っちまうのかよ」
「はい。ポップさんも、お元気で」
「……ああ。まあ、俺は先生についてるから大丈夫だけどさ」
ポップは少し照れくさそうに頭を掻いた。
それから、ふと思い出したように杖を持ち上げる。
「そうだ! 姉ちゃん、魔法のことで分かんねえことがあったら、俺に聞けよな! 次に会うときまでには、もっとすげえ呪文を覚えとくからさ!」
「ありがとうございます。では、わたしももっと勉強しておきますね」
ヒルダが嬉しそうに答えると、ポップも満足そうに笑った。
しかし、そこでダイが何かを思いついたように、勢いよく口を開いた。
「あっ! そうだ! ヒルダ姉ちゃん、今度会ったときは、あのでっかい剣を振ってるところも見せてくれよ!」
「えっ? アストレアですか?」
「そう! この前、持たせてもらっただろ? あんな重くてでっかい剣を、姉ちゃんがどうやって振るのか、オレすっげえ見てみたいんだ!」
ダイは目を輝かせながら、彼女の背中にある巨大な大剣を指差した。先日の手合わせで、ヒルダの剣術が普段の稽古とはまるで違うことを知ったばかりだ。さらに、アストレアの重さまで体験したとなれば、実際に振るう姿への興味が一層強くなるのも無理はなかった。
「そうですね……。では、またお会いしたときに、機会があれば」
「やったあ! 約束だぜ!」
ダイは嬉しそうに笑った。
その様子を見ていたポップも、興味深そうに口を挟んだ。
「俺も見てみたいな。あんなでっかい剣、本当に振れるのか気になるし」
「ふふっ。では、そのときはポップさんにもお見せしますね」
「よっしゃ! 楽しみにしてるぜ!」
2人の少年が嬉しそうに笑うのを見て、ヒルダも自然と頬を緩めた。アストレアを実際に振るうところを見せるには、周囲の安全に十分気をつける必要がある。それでも、こうして興味を持ってもらえることは、彼女にとっても少し嬉しいことだった。
朝食を終えると、一行はヒルダを見送るため、島の海岸へと向かった。
朝のデルムリン島には爽やかな潮風が吹き、白い砂浜の向こうには、どこまでも青い海が広がっている。波打ち際から少し離れた場所には、アバンたちが島へ渡ってきた際に使った小舟が置かれていた。ヒルダはその舟に一瞬だけ目を向けたものの、特に乗り込む様子はなく、皆と並んで砂浜を歩いていた。
やがて海辺へ到着すると、ブラスがしみじみとした様子で口を開いた。
「ヒルダ殿。短い間じゃったが、本当に世話になりましたな。ダイだけでなく、わしらもずいぶん助けられました」
「そんな……。わたしのほうこそ、皆さんには本当にお世話になりました。ありがとうございました、ブラスさん」
ヒルダは深く頭を下げた。
見知らぬ世界へ突然迷い込み、不安を抱えていた自分を、何の疑いもなく迎え入れてくれた人々。彼らと過ごした穏やかな日々は、ヒルダにとってかけがえのないものになっていた。
そして、その少し後ろにはアバンが立っていた。
「ヒルダさん。どうか、お気をつけて。旅の途中で何か困ったことがあれば、遠慮なく頼れる方を探してくださいね」
「はい。ありがとうございます、アバンさん」
ヒルダは穏やかに微笑んだ。
それから、ほんの一瞬だけ、2人の視線が交わる。
昨夜の会話を、互いに思い出していた。ダイとポップが自ら成長していくことを尊重し、もし本当に助けを必要とする日が来たなら、そのときには力を貸すという約束を。
ヒルダは静かに頷き、背中のアストレアを確かめた。
「それでは、皆さん。本当にお世話になりました」
そう言ってもう1度頭を下げたところで、ダイが不思議そうに首を傾げた。
「そういえば、ヒルダ姉ちゃん。どうやって海を渡るんだ?」
尋ねられたヒルダは、少しだけ目を瞬かせた。ダイは砂浜に置かれた小舟と、沖合に広がる海を交互に眺めている。ポップも同じことが気になっていたらしく、彼女の荷物へ視線を向けた。
「そういえばそうだな。姉ちゃん、船なんか持ってないだろ? 先生たちが乗ってきた小舟を使うのか?」
ヒルダは2人の顔を見比べ、穏やかに微笑んだ。
「ふふっ。大丈夫ですよ。わたしは風のマナを使って、空を飛べますから」
「……えっ?」
あまりにも自然に告げられた言葉に、ダイとポップは揃って目を丸くした。ヒルダは何でもないことのように微笑んでいたが、少年たちにとって、人間が風を操って自由に空を飛ぶという話は、そう簡単に想像できるものではなかった。
「えええーっ!? 姉ちゃん、空を飛べるのかよ!?」
「はい。そんなに驚くことですか?」
「そりゃ驚くって! すっげえじゃん! なあなあ、どんなふうに飛ぶんだ!?」
たちまち目を輝かせたダイが、興奮した様子でヒルダへ詰め寄った。ポップも驚きを隠せないようで、先ほどまでの別れを惜しむ表情はどこへやら、興味深そうに彼女を見つめている。
「風のマナで飛ぶって……。そんなことまでできるのかよ? 姉ちゃんの世界じゃ、普通なのか?」
「いえ、誰でも簡単にできるわけではありませんけど……。わたしは風を操るのが得意なので、こういうこともできるんです」
ヒルダは少し照れくさそうに答えた。彼女にとっては使い慣れたマナの操作だが、こちらの世界では珍しいことなのかもしれない。ポップがあまりにも驚くので、かえって少し恥ずかしくなってしまった。
そんな2人のやり取りを、アバンは興味深そうに眺めていた。
「なるほど。それは実に興味深いですね。ぜひ、拝見させていただきましょう」
アバンが穏やかに告げると、ヒルダは小さく頷いた。そして改めて皆の顔を見渡すと、別れを惜しむ気持ちを胸に抱きながらも、いつもの柔らかな笑顔を浮かべた。
「それでは、そろそろ行きますね。皆さんも、どうかお元気で」
「うむ。ヒルダ殿も、くれぐれも気をつけるのじゃぞ」
「姉ちゃん! また絶対に会おうな!」
「はい。楽しみにしていますね」
ダイに笑顔で頷くと、ヒルダは砂浜を少し進み、皆から十分に離れた場所で立ち止まった。そして静かに目を閉じ、周囲を流れる風のマナへ意識を向ける。
最初に変化したのは、彼女の足元だった。
穏やかだった潮風がヒルダの周囲で渦を巻き始め、砂浜に落ちていた細かな砂粒が、風に押されてさらさらと流れていく。水色の長い髪が大きく揺れ、白い衣装の裾がふわりと持ち上がった。やがて彼女を包む風の流れが一段と強まり、背中のアストレアを含めた身体全体が、ゆっくりと地面から浮き上がる。
「おおおっ!? 本当に浮いた!!」
ダイが歓声を上げた。先ほどまで砂浜に立っていたヒルダが、今では何の支えもなく宙に浮かんでいる。しかも、その姿勢は驚くほど自然で、まるで大地の上に立っているかのように安定していた。
「す、すげえ……! 本当に風だけで飛んでやがる……!」
ポップも呆気に取られたように見上げていた。ヒルダはそんな2人の反応に少し照れくさそうな笑みを浮かべると、空中からもう1度、丁寧に頭を下げる。
「それでは、行ってきます!」
その言葉と共に、彼女を包む風が一段と強まった。
次の瞬間、ヒルダの身体が滑らかに上昇を始めた。水色の長い髪が風になびき、朝日に照らされた白い衣装が青空に映える。ゆっくりと高度を上げていた彼女は、やがて海の方角へ身体を向けると、そのまま風に乗るように滑り出した。
「うわああっ! すっげえええっ!!」
ダイは両手を大きく振りながら、遠ざかっていくヒルダの姿を追いかけた。その隣ではポップも驚いたように空を見上げ、ブラスは目を細めながら静かに杖を握っている。アバンもまた、朝の光の中を飛んでいく少女を、どこか感慨深げな表情で見送っていた。
ヒルダは沖合へ出たところで1度だけ振り返り、小さく手を振った。それから再び進行方向へ向き直ると、風をさらに強め、青い海原の上を一直線に飛んでいく。白い姿はみるみる小さくなり、やがて水平線の彼方へと見えなくなった。
しばらくの間、誰もが空を見上げたままだった。
やがて、アバンが小さく息をついた。
「……本当に、不思議な方でしたね」
「先生?」
ポップが不思議そうに顔を向けると、アバンは少しだけ笑みを深めた。
「いえ、何でもありませんよ。さて、ダイくん。今日も修行を始めましょうか」
「よーしっ! 今日は絶対、もっと強くなってやる!」
ダイは元気よく答え、砂浜に置いていた木剣を握り直した。
その姿を見て、アバンは満足そうに頷いた。しかし、彼の胸中には、昨夜の手合わせで感じた衝撃が、まだ鮮明に残っていた。
アバンストラッシュ。
自らが編み出し、幾多の戦いを共に乗り越えてきた必殺の剣技。
それを初めて目にした翌日には、あれほど正確に受け止め、周囲への被害まで抑えながら海上へと逸らしてしまった少女がいた。しかも、彼女がそのとき使ったのは、自らの奥義ですらなかったという。
アバンは、静かな海の向こうへ目を向けた。
ヒルダは、自分の使う風の刃と少し似ていると言っていた。ならば、彼女自身が本来の力を使い、あの巨大な大剣から斬撃を放ったなら、どれほどの威力になるのだろうか。
想像しようとして、アバンは小さく苦笑した。
おそらく、今の自分には正確に推し量ることなどできないだろう。しかし、彼女が自らの力を誇示するために剣を振るうような人物ではないことは、短い付き合いの中でも十分に理解できた。
そして今、目の前には自分の教えを待っている少年たちがいる。
「……さて」
アバンは小さく息をつき、いつもの穏やかな笑顔を取り戻した。すでに昨日のうちに《大地斬》を覚えてしまったダイには、今日も新しい課題を用意している。しかも、今度は昨日までの修行とは少々勝手が違うものだった。
「さあ、ダイくん。今日は少し難しいことに挑戦してもらいますよ」
「えっ!? 何だよ、先生!」
「ふふふ。それは、やってみてのお楽しみです」
アバンはいつもの飄々とした笑顔を浮かべた。その隣ではポップが早くも嫌な予感に顔をしかめ、嬉しそうに木剣を握りしめるダイを横目で見つめている。
「……先生。まさか、俺まで巻き込まれるんじゃないでしょうね?」
「おや、ポップ。あなたも参加したいのですか? それは素晴らしい心がけですねえ」
「ち、違いますって! そういう意味じゃなくて!」
慌てるポップをよそに、アバンは楽しそうに笑った。
その横では、ダイが待ちきれない様子で木剣を振っている。ヒルダとの稽古で覚えた足運びを確かめながら、少年は新しい修行への期待に胸を膨らませていた。
朝のデルムリン島には、今日も穏やかな風が吹いていた。
――第3話・了――