白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
パプニカ王国の各地で、不死騎団の部隊が相次いで撃退されている。
その原因が、たった1人の人間の少女にあると知った妖魔士団長ザボエラは、これまで以上にホルキア大陸の動向へ関心を向けるようになっていた。水色の髪の大剣使いの女。悪魔の目玉を通して目撃したその少女は、巨大な銀の剣を自在に操り、強力な風の魔法まで使いこなしていた。
しかも、あれほどの威力を持つ攻撃を放ちながら、周囲の村人や建物にはほとんど被害を与えていない。通常の人間の戦士とは比較にならない実力であることは間違いなかったが、ザボエラが興味を抱いたのは、その戦闘能力だけではなかった。
「……あれほどの力を持ちながら、わざわざ村人どもの世話まで焼くとはのう」
魔王軍の拠点に設けられた一室で、ザボエラは監視を通じて目にした光景を思い返していた。骸骨兵を容赦なく粉砕した少女は、戦いが終わると、今度は傷ついた人々の治療に奔走していたのである。そんな行動に何の利益があるのか、ザボエラには理解しがたいものがあったが、彼女が人間を守るために戦っていることだけは明らかだった。
さらに気になることがもう1つある。
監視の終わり際、少女は悪魔の目玉が潜む方向へ視線を向けた。偶然だった可能性も否定できないが、その直前まで村人と穏やかに話していた少女が、突然周囲を探り始めたことを考えると、何らかの方法で監視の存在を察知したと考える方が自然だった。
「剣術、魔法、それに気配を探る能力まで持っておるか。くっくっく……ますます面白い女じゃ」
ザボエラは不気味な笑みを浮かべながら、卓上の地図へ目を落とした。
すでに妖魔士団から斥候を選ばせている。まずは少女の行動を追跡し、その能力を詳しく調べるつもりだったが、先日の戦闘だけでは、まだ実力の底が見えていなかった。強力な風魔法を使ったあとでも疲労した様子はなく、巨大な大剣の扱いにも一切の無理が感じられない。あれほどの戦闘能力を持つ人間が、どこから現れたのかも不明だった。
やがて部屋の扉が開き、配下の魔物が姿を現した。
「ザボエラ様。ご命令どおり、斥候の準備が整いました」
「ふむ。では、早速向かわせろ。あの女がどこへ向かい、誰と接触し、どのような力を使うのかを調べてこい。決して余計な手出しはするでないぞ」
「はっ。承知いたしました」
配下が深く頭を下げると、ザボエラは思い出したように呼び止めた。
「それと、この件については、ほかの軍団にはまだ知らせるな。ヒュンケルの若造にもじゃ」
「……不死騎団にも、でございますか?」
「無論じゃ。あの女を捕らえ、その力をワシのものにできれば、それだけで大きな手柄になる。わざわざ他人に分けてやる必要などなかろう」
ザボエラは満足げに頷き、再び悪魔の目玉へ意識を向けた。
今のところ、ヒュンケルは地方での損害を大きな問題とは考えていないらしい。ならば、あの女の正体を先に掴む機会は十分にある。場合によっては、ヒュンケルがその存在を詳しく知る前に、自分の手で始末することも可能だろう。
もっとも、ザボエラは必ずしも少女を殺したいと考えているわけではなかった。
むしろ、あの特殊な魔法や身体能力を研究できるのであれば、生け捕りにした方がはるかに価値がある。そう考えると、配下へ無闇な攻撃を禁じたのも、単なる慎重さだけが理由ではなかった。
◇ ◇ ◇
それから幾日かが過ぎた。
ヒルダはパプニカ王国の各地を巡り、魔王軍の襲撃を受けている村や町の救援を続けていた。王都への道を尋ねながら移動していたものの、行く先々で避難民や負傷した兵士と出会い、そのたびに足を止めていたのである。
村の周囲に現れた骸骨兵を撃退し、逃げ遅れた人々を安全な場所まで送り届ける。ときには、壊された橋の代わりに風のマナで荷車を支え、負傷者を運ぶ兵士たちを手伝うこともあった。彼女自身なら空を飛んで移動できるが、大勢の人々を連れてとなれば話は別であり、避難先の確保や食料の手配など、剣や魔法だけでは解決できない問題も少なくなかった。
それでも、ヒルダの救援によって救われた命は確実に増えていた。
魔王軍に襲われた集落では、水色の髪の女剣士の噂が広まり始めていた。巨大な銀の大剣を背負い、強力な風の魔法で不死の魔物を退ける少女。その姿を実際に目撃した者たちは、彼女が戦闘を終えたあと、負傷者へ優しく声をかけて治療してくれたことまで、口々に語るようになっていた。
しかし、その噂を追っていたのは人間たちだけではなかった。
ザボエラが送り込んだ妖魔士団の斥候たちは、ヒルダの行動を密かに監視し、時折その姿を確かめていた。だが、相手は驚くほど勘が鋭く、魔力を抑えて接近しても、こちらの存在に気づいているような素振りを見せることがあった。
ある日の夕暮れ、とうとう斥候の1体が我慢できず、ヒルダへ攻撃を仕掛けてしまった。
毒を塗った小さな刃物が、木陰から彼女へ向かって放たれる。しかしヒルダは振り返ると同時に風を操り、刃物を空中で受け止め、そのまま地面へ落としてしまった。続いて姿を現した魔物が爪を振りかざしても、彼女は軽く身をかわし、足元から吹き上げた風で相手を転倒させる。
ほかの斥候たちも慌てて加勢したが、結果は変わらなかった。
ヒルダはアストレアを抜くことすらせず、風のマナだけで3体を無力化してしまったのである。しかも、魔物たちがそれ以上戦おうとしないことを確認すると、追撃を加えることなく、その場から退くよう静かに告げた。
「……もう、やめませんか? わたしは、あなた方と争いたいわけではありません」
その言葉を聞いた斥候たちは、しばらく呆然としていた。
つい先ほどまで自分たちを圧倒していた少女は、こちらへ攻撃する意思がないと知ると、穏やかな表情に戻っていた。もし本気で殺すつもりならば、抵抗する暇すら与えられなかっただろう。それほどの実力差がありながら、彼女は倒れた魔物にとどめを刺そうとはしなかったのである。
斥候たちは、それ以上の戦闘を諦めた。引き返す間際、斥候の1体が名前を尋ねると、少女は自分をヒルダだと名乗った。
そして、妖魔士団へ帰還した彼らが報告した内容は、ザボエラにとって非常に興味深いものだった。
「……ほう。あの女、お前たちを見逃したというのか?」
「はっ。こちらから攻撃を仕掛けたにもかかわらず、命を奪おうとはしませんでした。あの女はヒルダと名乗り、これ以上人々を襲わないようにと……」
「ヒルダ、か。ふむ……」
ザボエラは腕を組み、しばらく考え込んだ。
不死騎団の骸骨兵は、すでに生命を失った存在である。だが、妖魔士団の魔物たちは、それぞれに意思を持ち、生命を宿している。どうやら、あの女はその違いを理解したうえで、相手によって戦い方を変えているらしかった。
しかも、避難民の護衛や負傷者の救助には、相変わらず熱心だという。
「……くっくっく。なるほどのう。どうやら、随分とお人好しな娘のようじゃな」
ザボエラの口元が、ゆっくりと歪んだ。
剣も魔法も強力でありながら、相手の命を奪うことには慎重になる。そして、助けを求める人間がいれば、危険を承知で駆けつける。
そんな性格ならば、いくらでも利用する方法はある。
「力で倒せぬのなら、別の方法を考えればよいだけじゃ。くっくっく……あの女がどこまで人間どもを大切にしておるのか、試してやろうではないか」
ザボエラは地図を広げ、パプニカ王都へ続く街道へ視線を向けた。
そこには、魔王軍の侵攻によって孤立しつつある集落と、避難民が集まる中継地点がいくつも記されていた。王国軍が守備を続けている場所もあったが、いずれも兵力は不足しており、不死騎団の進撃を食い止めるだけでも精一杯という状況だった。
その中から、ザボエラは谷間に築かれた古い宿場町へ指を置いた。
近隣の村々から逃れてきた人々が集まり、王都方面へ避難するための準備を進めている場所である。周辺には山道と狭い街道しかなく、道を塞がれれば大勢の避難民が身動きを取れなくなることも、すでに調べがついていた。しかも、不死騎団が近日中に襲撃する予定の町だった。ザボエラはそれを利用し、自分の配下を先回りさせるつもりでいた。
「……ここがよかろう。少々、手の込んだ仕掛けを用意してやるとするかのう」
◇ ◇ ◇
それからさらに数日が過ぎ、パプニカ王国の戦況はいよいよ厳しさを増していた。
王都へ通じる街道では、王国軍の部隊が不死騎団と激しい戦闘を繰り返していたが、各地の守備隊からは撤退の報告が相次いでいた。地方の町や村を守る兵力は日に日に減少し、王都の防衛に戦力を集中させなければならないという声も強まっていた。
そんな中、ヒルダはある町で、王国軍の兵士から知らせを受けた。
「……谷間の宿場町が、魔王軍に襲われているんです。近隣から逃れてきた人々も大勢集まっていて、このままでは……!」
兵士は息を切らしながら、卓上に広げられた地図の1か所を指差した。
そこは王都から離れた山間部にあり、周囲を切り立った崖と深い谷に囲まれた小さな町だった。近くを流れる川に沿って街道が続いているものの、道幅は狭く、大軍が自由に移動できるような場所ではない。
「避難している方は、どれくらいいらっしゃるんですか?」
「少なくとも数百人はいるはずです。町の守備隊も残っていますが、敵の数が多く、すでに街道が封鎖されたと聞いています」
ヒルダは地図へ視線を落とし、しばらく考え込んだ。
本来であれば、そろそろ王都へ向かうつもりだった。各地の避難民を守りながら進んできたものの、王国軍の敗走が続いている以上、王都の状況も確かめておく必要がある。場合によっては、そこで自分にできることを探したいとも考えていた。
しかし、今この瞬間にも数百人もの人々が襲われているというのであれば、放っておくことはできなかった。
「……分かりました。わたしが行ってみます」
「本当ですか!? ですが、あの辺りは魔王軍の部隊が集まっていると聞いています。お1人では危険では……」
「大丈夫です。まずは状況を確かめてきますから、こちらでも避難民を受け入れる準備をお願いできますか?」
ヒルダがそう頼むと、兵士はすぐに頷いた。
それを見届けた彼女は町の外へ出ると、背中のアストレアの位置を確かめ、風のマナを操って空へ舞い上がった。
雲の下を滑るように飛びながら、ヒルダは谷間の町がある方角へ視線を向けた。遠くの山々の向こうには黒い煙が立ち上っており、すでに何らかの戦闘が始まっていることが分かる。
ただ、その光景を見たとき、彼女はわずかな違和感を覚えた。
これまで魔王軍の部隊を何度も撃退してきたが、最近は妙に避難民の集まる場所が狙われているような気がする。それも、彼女が向かおうとしている場所とは別の地域で襲撃が起こることが多く、気づけば王都へ近づくどころか、あちこちを行き来することになっていた。
偶然かもしれない。
しかし、妖魔士団の斥候たちが自分を監視していたことを思い出すと、どうしても気にかかった。
ヒルダは少しだけ表情を引き締めた。
もしこれが罠だとしても、本当に助けを求めている人々がいるのであれば、見捨てることはできない。だが、だからといって無防備に飛び込むつもりもなかった。
彼女は飛行速度を落とし、まず上空から町の様子を確かめることにした。
◇ ◇ ◇
谷間の宿場町は、すでに魔王軍によって包囲されていた。
町へ通じる街道には骸骨兵が集まり、王国軍の守備隊が築いた簡素な防柵を突破しようとしている。周囲には戦闘の跡がいくつも残され、町の入口付近では、数人の兵士が負傷した仲間を運びながら後退していた。
しかし、ヒルダが気になったのは、そこだけではなかった。
町の背後にある古い石造りの倉庫。その周囲にも魔物の姿があり、建物の入口には、何かを封じ込めるように複数の魔法の印が刻まれていた。しかも、倉庫の内部からは大勢の人間の気配が感じられる。
ヒルダは状況を確認すると、町の守備隊が戦っている場所へ降下した。
突然空から現れた少女に、兵士たちは一瞬驚いたようだったが、その背中にある巨大な銀の大剣を見て、すぐに表情を変えた。
「……もしかして、あなたが……!」
「お話はあとでお願いします。まず、魔物を退けますね!」
ヒルダは地面へ降り立つと、左手を骸骨兵の群れへ向けた。
次の瞬間、《ウインドブラスト》が放たれた。
圧縮された風が街道を駆け抜け、先頭にいた骸骨兵たちをまとめて粉砕する。後方の魔物たちも次々と吹き飛ばされ、周囲に散らばっていた骨の残骸まで、風の圧力によって細かく砕かれていった。
その凄まじい威力に、守備隊の兵士たちは呆然と立ち尽くした。
「……な、なんだ、今の魔法は……?」
「すごい……。あれだけの魔物を、一瞬で……!」
しかし、ヒルダは兵士たちの驚きに構うことなく、周囲にまだ敵が残っていないかを確かめていた。やがて街道側の安全を確認すると、近くにいた隊長らしい兵士へ歩み寄る。
「あの、避難している方々はどちらにいらっしゃるんでしょうか?」
「あ、ああ……。町の奥にある古い倉庫です。ですが、敵に出入口を押さえられてしまい、我々も近づけなくなっているんです」
「……そうですか。では、そちらへ向かってみます」
ヒルダは頷くと、すぐに倉庫へ向かおうとした。
だが、その背後から兵士が慌てて声をかけた。
「お待ちください! あの倉庫には、妙な魔法が仕掛けられているんです。中へ入ろうとした兵士が、突然倒れてしまって……!」
ヒルダは足を止めた。
どうやら、単に魔物が入口を塞いでいるだけではないらしい。
「……分かりました。慎重に調べてみます。皆さんは、負傷した方々を安全な場所へ運んでください」
「は、はい!」
兵士が仲間へ指示を出し始めると、ヒルダは倉庫へ続く通路へ向かった。
建物の入口付近には、骸骨兵とは異なる魔物が数体立っていた。いずれも杖や短剣を持ち、ヒルダが近づくのを見ると、互いに顔を見合わせて何かを話している。
その様子を見て、ヒルダはすぐに気づいた。
あの魔物たちには、明らかに意思がある。
これまで襲撃してきた不死騎団の骸骨兵とは違い、彼らは状況を判断しながら行動しているようだった。
「……あなた方が、ここにいる人々を閉じ込めたんですか?」
ヒルダが尋ねると、先頭に立っていた魔族が不気味な笑みを浮かべた。
「くっくっく……。ようやく来たか。水色の髪の大剣使いの女」
「……やはり、わたしを待っていたんですね?」
ヒルダは静かに問い返した。
魔族は少し驚いたようだったが、すぐに口元を歪めた。
「ふん。そこまで分かっておるなら話は早い。あの倉庫には人間どもが大勢閉じ込められておる。中には老人も子供もいるが……まあ、お前には関係のないことかもしれんな」
「……何が目的なんですか?」
ヒルダの声が、わずかに低くなった。
魔族はその反応を楽しむように笑うと、倉庫の入口に刻まれた魔法の印へ視線を向けた。
「あそこには、特別な毒を仕掛けてある。下手に入口を壊したり、魔法を使ったりすれば、倉庫の中へ毒が流れ込む仕組みじゃ。人間どもを助けたければ、せいぜい慎重に動くことだな」
ヒルダは、倉庫の入口を見つめた。
魔法の印が刻まれているだけではない。壁の上部には細い管のようなものが何本も取り付けられ、建物の奥へ続いている。窓や裏口も塞がれており、どうやら、その管を通して毒を流し込む仕掛けになっているらしい。
しかも、倉庫の内部には大勢の避難民がいる。
もし本当に毒が流れ込むのであれば、強力な攻撃魔法で入口を破壊するわけにはいかなかった。
「……そんなことをして、何になるんですか?」
「知れたこと。お前が大人しく捕まれば、余計な犠牲を出さずに済むというだけの話よ」
魔族はそう言って、手にした杖を掲げた。
その先端には小さな宝玉が埋め込まれており、周囲に刻まれた魔法の印と微弱な魔力でつながっている。どうやら、あの杖が毒の仕掛けを操作するための道具になっているようだった。
ヒルダはしばらく黙っていた。
やはり、罠だった。
だが、予想していたとはいえ、実際に多くの人々を人質に取られてしまえば、簡単には動けない。相手がどのような仕組みを用意しているのかも、まだ十分には分かっていなかった。
それでも、彼女は慌てて剣を抜こうとはしなかった。
「……分かりました。ですが、その前に、中の方々が無事かどうか確かめさせてください」
「ふん。余計な真似をするな。お前が大人しく従えば、それで済む話だ」
魔族がそう答えたとき、ヒルダはすでに周囲の風へ意識を向けていた。
入口から入ることができないのであれば、ほかの方法を考えればよい。倉庫の内部へ続く細い管や、壁の隙間を流れる空気。その動きを慎重に探っていくと、どうやら毒を送り込むための管は、建物の外側にある複数の容器へつながっているらしい。
そして、その容器の1つが、倉庫の裏手に隠されていることも分かった。
ヒルダは表情を変えず、魔族へ静かに問いかけた。
「……もし、わたしが捕まったら、本当に皆さんを解放してくださるんですか?」
「くっくっく……。それは、お前の態度次第じゃな」
その答えを聞いた瞬間、ヒルダは相手に人々を解放する意思がないことを察した。
仮に自分が大人しく捕まったとしても、彼らが約束を守る保証などどこにもない。むしろ、自分が抵抗できなくなったあとで、避難民たちをどう扱うかも分からなかった。
ヒルダは静かに息を整えた。
そして、相手に気づかれないよう、倉庫の裏手へわずかな風を送り込んだ。
次の瞬間、魔族が持つ杖の宝玉が鈍く明滅した。
「……なっ!?」
魔族が驚いたように杖を見つめると、周囲に刻まれていた魔法の印が不規則に揺らぎ始めた。ヒルダは毒を送り込む管の流れを逆転させ、内部の圧力を外側へ逃がしていたのである。さらに、風のマナを細かく分けて容器の周囲へ送り込み、毒が建物の内部へ流れ込まないよう慎重に制御していた。
しかし、仕掛けはそれだけではなかった。
魔族が慌てて杖へ魔力を込めると、別の管からも毒が流れ始めたのである。
「小娘め……! そんなことで、この仕掛けを破れると思うなよ!」
ヒルダはわずかに眉を寄せた。
どうやら、毒を送り込む経路は複数用意されているらしい。しかも、そのすべてが同じ場所へつながっているわけではなく、倉庫の奥にも別の容器が仕掛けられているようだった。
これでは、外側から1つずつ処理していても間に合わないかもしれない。
ヒルダは一瞬だけ考えたあと、周囲の風をさらに細かく操り始めた。
まず、毒の流れを倉庫の外へ押し戻し、人のいない谷へ逃がす。同時に、建物の別の隙間から新鮮な空気を送り込み、内部の人々が呼吸できるようにする。そのうえで、毒の容器へつながる管を慎重に探り、内部へ流れ込む経路を1つずつ遮断していった。
魔族たちは、その様子を呆然と見つめていた。
普通の魔法使いであれば、強力な風を起こすことはできても、これほど複雑な流れを同時に制御することなど容易ではない。まして、建物の内部には大勢の人間がいる。少しでも操作を誤れば、毒が人々のいる場所へ流れ込んでしまう危険があった。
「……馬鹿な……! こんなことができるはずが……!」
魔族が慌てて杖を振り上げた。
だが、その瞬間、ヒルダの目つきが鋭くなった。
杖の先端へ向けて放たれた細い風が、宝玉を正確に打ち砕く。
「ぐあっ!?」
魔族の手から杖が弾き飛ばされ、地面へ転がった。続いて足元へ吹き付けた風が身体を大きく揺さぶり、そのまま近くの石壁へ叩きつける。
ほかの魔物たちも慌てて攻撃を仕掛けようとしたが、ヒルダが右手を軽く振ると、足元から巻き起こった風が彼らをまとめて吹き飛ばした。
ほんの数瞬の出来事だった。
ヒルダは倒れた魔物たちへ警戒を向けながら、倉庫の入口へ歩み寄った。
魔法の印は、すでにほとんど力を失っている。しかし、内部へ流れ込んだ毒が完全に消えたわけではなく、建物の中からは苦しそうに咳き込む声も聞こえていた。
ヒルダは、すぐに倉庫の扉を開けようとはしなかった。
内部に残っている毒が外へ一気に流れ出せば、周囲の兵士たちにも危険が及ぶ。まずは風を操って毒を安全な方向へ排出し、十分に薄まったことを確かめてから、慎重に扉を開ける必要があった。
そうして、ようやく倉庫の内部が見えるようになると、ヒルダは思わず息を呑んだ。
そこには、数百人もの人々が身を寄せ合っていた。
老人や子供、負傷した兵士、そして家族を守るように抱きしめている母親たち。暗い倉庫の中では、恐怖と疲労によって動けなくなっている者も少なくなく、毒を吸い込んだらしい人々が苦しそうに身体を丸めていた。
「……大丈夫ですか!?」
ヒルダが声をかけると、近くにいた女性が顔を上げた。
「た、助けて……。子供が、息を……!」
その腕には、顔色を失った幼い子供が抱かれていた。
ヒルダはすぐに膝をつき、子供の様子を確かめた。呼吸は浅く、毒の影響で意識も朦朧としているようだった。彼女は短い詠唱を行い、回復魔法で子供の衰弱を和らげながら、周囲の人々へ落ち着いて呼吸するよう声をかけた。
幸い、まだ命を失った者はいないようだった。
だが、毒の影響を受けている者は多く、倉庫の外へ出ることすら難しい人々もいた。ヒルダはその場で治療を続けると同時に、外で待機していた王国軍の兵士たちへ救援を求めた。
「すみません! 中に負傷した方が大勢いらっしゃいます。運び出すのを手伝っていただけませんか!?」
その声に、兵士たちはすぐに駆けつけた。
倉庫の周囲から魔王軍の姿が消えたことを確認すると、彼らは担架や毛布を運び込み、避難民の救出を始めた。ヒルダも治療を続けながら、特に症状の重い者を優先して運び出していく。
しかし、すべての人々を助け出すには、相当な時間が必要だった。
毒の影響で歩けなくなった者も多く、町の外へ続く街道も一部が破壊されている。さらに周辺では不死騎団の部隊が活動を続けており、ようやく倉庫から救い出した人々を、そのまま町に留めておくわけにもいかなかった。
ヒルダは状況を確かめると、守備隊の隊長へ声をかけた。
「……避難できる場所は、どこかありますか?」
「ここから少し離れた場所に、王国軍の中継拠点があります。ただ、そこへ向かうには、崩された街道を通らなければなりません」
「分かりました。では、まず道を通れるようにしましょう。運べる方から順番に、避難を始めてください」
隊長が頷くと、ヒルダは再び人々の治療へ戻った。
王都のことが、気にならないわけではなかった。
むしろ、王国軍の兵士たちから聞かされていた戦況を考えれば、できるだけ早く王都へ向かった方がよいのかもしれない。しかし、目の前には自分の助けを必要としている人々が大勢いる。ここで彼らを置き去りにすれば、再び魔王軍の襲撃を受けたとき、逃げ延びることは難しいだろう。
ヒルダは小さく唇を結ぶと、負傷した子供の身体へそっと手をかざした。
今、自分にできることをする。
それが、彼女の選んだ答えだった。
◇ ◇ ◇
それから、避難民の救出と移送には丸2日近くを要した。
ヒルダは崩された街道の障害物を取り除き、負傷者を運ぶ兵士たちを手伝いながら、周辺に現れる魔物を撃退していった。ときには不死騎団の部隊が接近してくることもあったが、彼女が風のマナを操って進路を遮り、必要に応じてアストレアを振るうことで、避難民たちへ被害が及ぶのを防いだ。
そうして、最後の一団が王国軍の中継拠点へ到着した頃には、ヒルダもさすがに疲労を感じ始めていた。
戦闘そのものは、彼女にとって大きな負担ではなかった。しかし、大勢の人々を守りながら移動し、毒に侵された者たちへ繰り返し回復魔法を使い、夜間も魔王軍の襲撃を警戒していたのである。満足に休む暇もないまま活動を続けていれば、いかに豊富なマナを持つ彼女であっても、疲労を完全に避けることはできなかった。
それでも、避難民たちが無事に保護されたことを確認すると、ヒルダの表情には安堵が浮かんだ。
「……よかった。皆さん、無事に避難できたんですね」
彼女がそう呟いたとき、近くにいた王国軍の隊長が歩み寄ってきた。
「本当にありがとうございました。あなたが来てくださらなければ、あの町の人々は……」
「いえ。皆さんが協力してくださったからですよ。わたし1人では、あれだけの方々を助けることはできませんでしたから」
ヒルダは穏やかに微笑んだ。
しかし、隊長はその笑顔を見つめたあと、何かを言いかけて口を閉ざした。
そして、少し迷うような様子を見せてから、静かに尋ねた。
「……あなたは、これからどちらへ向かわれるのですか?」
「王都へ行こうと思っています。ずっと気になっていたんですけど、なかなか向かうことができなくて……」
ヒルダがそう答えると、王都の厳しい戦況を案じていたのか、隊長の表情が曇った。
「……王都、ですか」
その声には、先ほどまでとは違う重苦しさがあった。
ヒルダは不思議そうに顔を上げた。
「……何かあったんですか?」
隊長はすぐには答えなかった。
しかし、その沈黙が長く続くことはなかった。
中継拠点の入口から、1人の兵士が駆け込んできたのである。
「た、大変です! 王都からの伝令が……!」
兵士は激しく息を切らしながら、集まってきた人々へ向かって叫んだ。
「パプニカ王都が……! 王都が、魔王軍の手に落ちたそうです!!」
その言葉に、周囲の空気が凍りついた。
王国軍の兵士たちは呆然と立ち尽くし、避難民たちの間からも悲鳴に似た声が上がる。王都が陥落したという知らせは、ただ1つの都市を失ったというだけではない。パプニカ王国そのものが、魔王軍によって滅ぼされかねない状況に追い込まれたことを意味していた。
ヒルダもまた、しばらく言葉を失っていた。
王都が、陥落した。
つい数日前まで、各地の兵士たちは必死に守っていると言っていた。自分も、避難民たちを安全な場所へ送り届けたら、王都へ向かうつもりだった。
しかし、間に合わなかったのだ。
「……そんな……」
ヒルダは小さく呟き、遠くにあるはずの王都の方角へ目を向けた。
そこでは、どれほど多くの人々が傷ついたのだろう。今もなお、逃げることのできずにいる者たちがいるのかもしれない。
助けられなかった命がある。
そう考えると、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。
それでも、彼女はすぐに自分が救助してきた人々の姿を思い返した。
あの倉庫に閉じ込められていた人々を、そのままにしておくことはできなかった。もし王都へ向かうことを優先していたならば、彼らの命がどうなっていたか分からない。
だからといって、王都が陥落したという現実を、簡単に受け入れられるわけでもなかった。
ヒルダは静かに目を伏せた。
そして、しばらくしてから顔を上げると、王国軍の隊長へ向き直った。
「……王都には、まだ人が残っているんですよね?」
「……おそらくは。ですが、詳しい状況はまだ分かっておりません」
「では、わたしが行って確かめてきます」
ヒルダの声は、静かだった。
しかし、その言葉には揺るぎない決意が込められていた。
「もし、まだ助けを待っている方がいるなら……。今度こそ、間に合うようにしたいんです」
隊長はしばらくヒルダを見つめていたが、やがて深く頭を下げた。
「……どうか、お気をつけて」
ヒルダは頷くと、背中のアストレアへ手を添えた。
そして、避難民たちが休んでいる建物へもう一度目を向けてから、静かに歩き出した。
◇ ◇ ◇
その頃、魔王軍の拠点では、ザボエラが悪魔の目玉を通じて届いた報告に耳を傾けていた。
「……ふむ。あの女、結局人間どもを全員助け出したというわけか」
ザボエラは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
生け捕りにするための仕掛けは失敗し、送り込んだ妖魔士団の配下も撃退されてしまった。しかも、わざわざ用意した毒の仕掛けまで、あの女はほとんど力任せに破壊することなく解除してみせたという。
その報告を聞いたザボエラは、改めて少女の能力を認識していた。
あれほどの魔法制御能力があるとは、さすがに予想していなかったのである。
「……まったく、忌々しい小娘じゃわい。ワシの仕掛けを、あそこまで簡単に破るとはのう」
しかし、ザボエラの表情には、怒りだけではなく、どこか満足げな笑みも浮かんでいた。
なぜなら、別の意味では、今回の作戦は十分な成果を上げていたからだ。
少女は人質を見捨てなかった。
罠であることを察していながら、なおも人々を助けるために行動し、その救出と避難に多くの時間を費やした。あれほどの力を持ちながら、戦場を自由に駆け巡ることもできず、たった1つの町へ足止めされたのである。
そして、その間にパプニカ王都は陥落した。
もちろん、それは不死騎団が進めていた侵攻の結果であり、ザボエラ自身が王都を攻略したわけではない。しかし、もしあの女が王都へ向かっていたならば、多少は面倒なことになっていたかもしれない。
少なくとも、その可能性を潰すことはできた。
「……くっくっく。なるほどのう。あれほど強い女でも、守るものが多ければ、いくらでも動きを封じられるというわけじゃ」
ザボエラは地図へ視線を落とし、満足げに頷いた。
正面から戦えば、あの女を倒すのは容易ではないだろう。しかし、人質を取り、救援を必要とする場所を作り出せば、その行動を制限することができる。
しかも、彼女は自分を襲った妖魔士団の兵士たちにさえ、必要以上の殺傷を加えようとしなかった。
ならば、利用できる方法はいくらでもある。
「……よかろう、ヒルダとやら。今は好きにしておくがよい。いずれ、ワシの手でその力をいただくとするかのう」
ザボエラは不気味な笑みを浮かべると、卓上の報告書へ再び目を落とした。
王都陥落によって、パプニカ方面の戦況は大きく動き始めている。あの女が今後どのような行動を取るのかは分からないが、少なくとも不死騎団の侵攻を妨害していた正体不明の戦士が、王都へ向かおうとしていることだけは確かだった。
そして、その王都には、魔王軍不死騎団長ヒュンケルがいる。
ザボエラは一瞬だけ考え込んだが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「……まあよい。あの若造がどう出るか、見物させてもらうとするかのう」
そう呟くと、彼は再び悪魔の目玉へ視線を向けた。
水色の髪の女剣士が、これからどのような運命をたどるのか。
今はまだ、そのすべてを知る者はいなかった。
――第5話・了――