白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
パプニカ王都が陥落した翌日。
かつて多くの人々で賑わっていた大通りには瓦礫が散乱し、焼け落ちた家屋の間からは、今も細い煙が立ち上っている。美しい石造りの建物が並んでいた街並みは見る影もなく、崩れた城壁や破壊された門の周辺では、不死騎団の兵士たちが武器を手に巡回を続けていた。
王都を守っていた兵士たちは敗れ、逃げ遅れた人々は、今も崩れた建物や地下室に身を潜めている。陥落から間もないため、街の各所には戦闘の痕跡が生々しく残されており、不死騎団もまた、王都の完全な掌握へ向けて残存勢力の掃討を続けていた。
そして、その王都を制圧した不死騎団の指揮官は、王城の一室で新たな報告を受けていた。
「……水色の髪をした、大剣使いの女だと?」
ヒュンケルは、卓上に広げられた地図から顔を上げた。
その前に控えているのは、不死騎団の側近モルグだった。腐敗した身体を持つアンデッドでありながら、その物腰は丁寧で、主君に対する態度には深い敬意が込められている。
「はい。妖魔士団長ザボエラ様から、そのような情報が届いております。これまで各地で我が軍の部隊を撃退していた者と、同一人物である可能性が高いとのことです」
「……ふん。ようやく正体が分かったというわけか」
ヒュンケルは小さく鼻を鳴らした。
地方で不死騎団の部隊が相次いで撃退されていることは、すでに何度も報告を受けていた。しかし、その原因となっている相手については、これまで確かな情報が得られていなかったのである。
まさか、それが女1人によるものだったとは。
「ザボエラの奴は、ほかに何か言っていたか?」
「いえ。ただ、その女が王都へ向かっているらしいと。相当な腕の持ち主とのことですが、詳しいことまでは……」
「……あの老いぼれめ。何か知っているなら、全部話せばよいものを」
ヒュンケルは呆れたように呟いたが、それ以上ザボエラのことを追及しようとはしなかった。
他の軍団長が、自分の功績を増やすために情報を隠していることなど、別段珍しい話ではない。そもそも、妖魔士団長が何を企んでいようと、パプニカ王都を制圧したという事実は変わらなかった。
「……その女が現れたら知らせろ。どれほどの剣士か、俺が直接確かめてやる」
「かしこまりました。ですが、ヒュンケル様。相手が相当な手練れであるならば、どうかお気をつけくださいませ」
「ふっ。心配するな、モルグ。相手が誰であろうと、俺が簡単に後れを取るものか」
ヒュンケルが薄く笑うと、モルグは恭しく頭を下げた。
水色の髪をした、大剣使いの女。
それほどの実力者が、なぜ今になってパプニカへ現れたのか。単なる王国軍の生き残りなのか、それとも、何か別の目的を持っているのか。いずれにせよ、自分の軍団にこれほどの損害を与えた相手である。
王都へ現れるというのなら、わざわざ捜し回る必要もない。
ヒュンケルは地図を畳むと、傍らに置かれた鎧の魔剣へ視線を向けた。
◇ ◇ ◇
同じ頃、王都の外れでは、長い水色の髪を持つ少女が崩れた城壁を見下ろしていた。
ヒルダは風のマナを操って静かに降下すると、建物の陰へ足を下ろした。背中には、身長に匹敵するほどの巨大なミスリル銀の大剣《アストレア》を背負っている。純白の衣服と、水色の模様が施された軽鎧には、前日までの救援活動で付着した土埃がわずかに残っていた。
目の前に広がる光景を見て、彼女は静かに眉を寄せた。
「……こんなことに……」
王都が陥落したという知らせを受けてから、ヒルダはできるだけ早くこの場所へ向かっていた。昨日まで救援に当たっていた人々の安全を確かめたあと、風のマナを利用して長い距離を飛び、一夜を挟んで王都へ到着したのである。
しかし、実際に目にした惨状は、その言葉から想像していたものよりもはるかに深刻だった。
道端には壊れた荷車が放置され、倒れた建物の下には、まだ家財道具が埋もれたままになっている。家族を探す声も、商人たちの呼び込みも、今は聞こえてこなかった。代わりに響いているのは、不死騎団の兵士たちが石畳を踏み鳴らす、不気味な足音ばかりである。
ヒルダは周囲の風へそっとマナを広げながら、崩れた建物の間を進んでいった。
風の届く場所であれば、物の形や動きをある程度確かめることができる。瓦礫の陰に潜む魔物や、建物の屋上を移動するものの存在にも気づきやすくなるが、石壁の向こう側や地下深くまで見通せるわけではない。そのため、彼女は時折足を止め、壊れた家屋の中へ声をかけながら歩いていた。
やがて、大通りから外れた細い路地を通りかかったとき、建物の陰から小さな物音が聞こえた。
ヒルダが足を止めると、崩れた木箱の向こうで、何かがかすかに動いた。
「……どなたか、いらっしゃるんですか?」
問いかけても、すぐには返事がなかった。
しかし、しばらくすると、木箱の陰から1人の少年が恐る恐る顔を覗かせた。年齢は10歳ほどだろうか。衣服は土埃にまみれ、頬には涙の跡が残っている。
「……お姉ちゃん、人間……?」
「はい。ヒルダといいます。どうされたんですか?」
ヒルダが膝を折って目線を合わせると、少年はようやく安心したらしく、堪えていた涙をこぼし始めた。
「……お父さんが……。魔物に、連れていかれちゃった……」
途切れ途切れの説明によれば、王都が陥落したあとも、少年は家族とともに城下町へ隠れていたらしい。しかし、食料を探しに出た父親が不死騎団の兵士たちに捕まり、王城へ連行されてしまったのだという。
「……王城へ、ですか?」
ヒルダが尋ねると、少年は何度も頷いた。
「お城の下に、牢屋があるんだって……。ほかにも、いっぱい捕まってるって……」
その言葉に、ヒルダの表情が引き締まった。
王都が陥落してから、まだそれほど時間は経っていない。捕らえられた人々が今も生きているのであれば、助け出せる可能性は十分にある。
「……分かりました。わたしが確かめてきますから、もう少しだけ待っていてくださいね」
ヒルダは少年の頭を優しく撫でると、近くに隠れていた母親のもとへ送り届けた。親子には、ほかの避難民たちが身を寄せている場所まで移動するよう伝え、自分は王城へ向かって歩き出す。
もともとパプニカへ来たのは、元の世界へ帰るための手掛かりを探すためだった。
しかし、今はそれよりも優先すべきことがある。
ヒルダは王城の方角を見上げると、静かに息を整えた。
そして、風のマナをまとい、崩れた建物の屋根へ軽やかに飛び上がった。
◇ ◇ ◇
王城の地下には、古い石造りの牢獄が広がっていた。
陥落後、不死騎団は抵抗を続ける王国軍の兵士や、逃げ遅れた住民たちを捕らえ、その一部を地下牢へ収容していた。薄暗い通路の両側には鉄格子の扉が並び、奥からは時折、囚われた人々の話し声や、苦しそうに咳き込む音が聞こえてくる。
その通路へ、長い水色の髪をした少女が静かに姿を現した。
ヒルダは王城の外壁に残された破損箇所から内部へ入り、地下へ続く階段を見つけていた。途中で遭遇した骸骨兵は、いずれも風の魔法で撃退している。できるだけ騒ぎを大きくしないよう注意していたが、城内の巡回部隊が倒されたことは、いずれ不死騎団にも知られるだろう。
地下牢の入口には、数体の骸骨兵が配置されていた。
ヒルダはその姿を確かめると、通路の角から静かに右手を差し出した。圧縮された《ウインドブラスト》が足元を駆け抜け、兵士たちが武器を構えるよりも早く、その身体をまとめて粉砕する。
骨と鎧の破片が床へ散らばったあと、地下通路には再び静けさが戻った。
「……どなたか、いらっしゃいますか?」
ヒルダが声をかけると、牢の奥から驚いたような声が返ってきた。
「……だ、誰だ!?」
「外から来た者です。皆さんを助けに来ました!」
鉄格子の向こうには、数人の男性と、幼い子供を抱えた女性の姿があった。彼らは突然現れた少女を信じられない様子で見つめていたが、通路に散らばった骸骨兵の残骸を見ると、ようやく助けが来たことを理解したらしい。
ヒルダは牢の扉を調べ、鍵の部分へ細い風を送り込んだ。
内部の金具が小さな音を立てて動き、重い鉄格子が開く。彼女は人々の様子を確かめると、歩けない者には回復魔法を施し、先ほど通ってきた通路へ誘導した。
「……まだ奥にも人がいるんです!」
救出された男性の1人が、ヒルダへ声をかけた。
「王国軍の兵士や、逃げ遅れた住民が、あちらの牢にも捕まっています。どうか、あの人たちも……!」
「はい。必ず確かめてきます」
ヒルダは頷くと、脱出する人々へ道順を伝え、自分は牢獄のさらに奥へ進んだ。
しかし、しばらく歩いたところで、彼女は足を止めた。
前方から、誰かの足音が聞こえてきたのである。
それは骸骨兵たちのものとは明らかに違っていた。一定の間隔を保ちながらこちらへ近づいてくる、落ち着いた足取り。しかも、その足音には、まったく迷いが感じられなかった。
ヒルダは静かに背筋を伸ばした。
やがて、暗い通路の向こうから、1人の青年が姿を現した。
銀白色の鎧に、銀色の髪。鋭い眼差しを持つその青年は、手にした剣を静かに下げたまま、こちらを見つめている。
ヒルダは一目で、相手が並の戦士ではないことを察した。
無駄のない立ち姿と、自然な重心の置き方。剣を下げているにもかかわらず、どの方向へ動いても即座に攻撃へ移れる構えができている。
「……水色の髪に、大きな銀の剣か」
青年は彼女の姿を確かめると、薄く笑った。
「どうやら、待っていた相手に間違いないようだな」
ヒルダは静かに相手を見つめた。
「……あの、あなたは……?」
「俺はヒュンケル。魔王軍不死騎団長だ」
その名を聞いた瞬間、ヒルダの表情が変わった。
パプニカ王国を襲撃し、王都を陥落させた不死騎団。その軍団長が、今こうして自分の前に立っている。
「……あなたが、ヒュンケルさんなんですね」
青年はわずかに眉を動かした。
「……俺の名を知っていたか。ならば話が早い。各地で俺の部下を倒していたのは貴様だな?」
「……はい。ですが、村の方々を襲っていたので、止めるしかありませんでした」
「ふん。理由など聞いていない。俺の軍団にあれほどの損害を与えながら、今度は王城へ乗り込んでくるとはな」
ヒュンケルはそう言いながらも、すぐに斬りかかろうとはしなかった。
目の前にいるのは、まだ若い人間の少女である。巨大な剣を背負っているとはいえ、華奢な体つきや穏やかな表情からは、何体もの不死騎団の兵士を撃破してきた戦士の姿を想像しにくい。
しかし、その立ち姿を見れば、ただ者でないことは分かった。
「……なるほど。少しは腕が立つようだな」
ヒュンケルは剣を持ち直した。
「だが、ここはすでに魔王軍の支配下だ。貴様が何をしに来たのかは知らんが、勝手に人間どもを連れ出されては困る」
ヒルダは静かに首を横に振った。
「……ここには、まだ助けを待っている方々がいらっしゃいます。わたしが立ち去ったあとも、その方々が襲われるのでしたら……見過ごすことはできません」
「……くだらん。赤の他人のために、そこまで命を懸ける必要がどこにある」
「……助けられるかもしれない方を、見捨てる理由もありませんから」
あまりにも自然な返答だった。
ヒュンケルは一瞬だけ彼女を見つめたが、すぐに冷たい表情へ戻った。
「……ならば、力ずくで退かせるまでだ」
ヒルダはしばらく相手の様子を窺っていたが、やがて静かに息をついた。
どうやら、言葉だけで立ち去ってもらうことは難しいらしい。
彼女は背中からアストレアを抜き放ち、巨大な銀白色の刀身をゆっくりと構えた。
その姿を見たヒュンケルの目が、わずかに細められる。
「……ほう。面白い。そんな剣を、本当に使いこなせるというのか」
ヒルダは答えなかった。
ただ、相手の動きを静かに見つめていた。
そして次の瞬間、地下通路に鋭い金属音が響き渡った。
◇ ◇ ◇
最初に動いたのは、ヒュンケルだった。
鋭い踏み込みとともに、鎧の魔剣が下方から跳ね上がる。狙いはヒルダの身体ではなく、彼女が構えるアストレアの刀身だった。巨大な大剣を扱う相手ならば、その構えを崩して懐へ入り込むのが有効だと判断したのである。
しかし、ヒルダの反応は想像以上に速かった。
彼女は剣を無理に引き戻すことなく、手首をわずかに返して刀身の角度を変えた。鎧の魔剣はアストレアの側面を滑り、狙っていた位置から逸れていく。ヒュンケルが次の一撃へ移ろうとしたときには、すでに少女の足が半歩ほど横へ動き、正面からの攻撃を受け流せる位置へ移っていた。
澄んだ金属音が、地下通路へ響いた。
ヒュンケルは即座に剣を返し、今度は横薙ぎの斬撃を放った。ヒルダがそれを受け止めると、さらに踏み込んで下段から斬り上げ、相手の構えを崩そうとする。攻撃の切り替えには一切の無駄がなく、流れるように繰り出される連撃は、長年の鍛錬によって磨き上げられた剣技そのものだった。
だが、ヒルダも容易には崩れなかった。
彼女はアストレアの長大な刀身を巧みに操り、相手の剣が迫るたびに、その軌道をわずかに逸らしていく。大きく後退することも、力任せに打ち返すこともない。必要なときだけ足の位置を変え、巨大な剣の重さを感じさせない滑らかな動作で、ヒュンケルの連撃を受け流していた。
「……ほう」
ヒュンケルの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
女だからといって、侮れる相手ではない。それどころか、これほどの大剣を扱いながら、自分の連撃を難なく受け流す剣士など、そう多くはいないだろう。
彼は間合いを詰め、さらに鋭い突きを放った。
ヒルダは身体をわずかに傾けると、アストレアの鍔元で相手の刀身を受け流した。剣先が肩の横を通り過ぎた瞬間、彼女は左足を軸にして身体を回転させ、ヒュンケルの側面へ回り込む。そのまま剣を振り抜けば、相手の脇腹を捉えることもできたはずだった。
しかし、ヒルダは斬らなかった。
代わりにアストレアを返し、相手の武器へ軽く打ち込む。
硬質な金属音とともに、ヒュンケルの剣が外側へ弾かれた。彼は即座に身体を引き、相手の追撃に備えたが、ヒルダはその場から動こうとしなかった。
「……何のつもりだ?」
ヒュンケルが険しい表情で問いかけると、少女は少し不思議そうに首を傾げた。
「……いえ。わたしも、少し確かめたいことがありまして」
「……確かめたいこと、だと?」
「はい。とてもお上手な剣術ですね。これほど綺麗な剣筋を使う方には、なかなかお会いできませんから」
ヒルダは素直にそう答えた。
その言葉に、ヒュンケルの眉がわずかに動いた。
剣術を褒められたこと自体が気に入らないわけではない。しかし、今まさに自分と剣を交えていた相手が、まるで稽古でもしているかのように技量を評価している。その落ち着きが、どこか癇に障った。
「……俺を愚弄するつもりか?」
「えっ? い、いいえ! そんなつもりでは……!」
ヒルダは慌てて首を振った。
「本当に、素晴らしい剣術だと思ったんです。特に、先ほどの突きから次の動きへ移るときの足運びが……」
そこまで口にしたところで、彼女はふと何かに気づいた。
先ほどから、相手の剣筋に妙な既視感があったのである。
構えの基本となる姿勢。踏み込むときの重心の移し方。そして、斬撃から突きへ移る際の、独特な間合いの取り方。ヒュンケルの剣は非常に鋭く、攻撃的でありながら、いくつかの動作には、どこか見覚えのあるものが混じっていた。
ヒルダは記憶を辿った。
デルムリン島で過ごした、短い時間。
青い空の下で、剣を交えた1人の男性。
温厚で、どこか飄々としていながら、ひとたび剣を構えると驚くほど洗練された技を見せた、あの人。
「……アバンさん……?」
思わず口にした名前に、ヒュンケルの表情が変わった。
「……今、何と言った?」
その声には、先ほどまでとは違う、押し殺したような響きが混じっていた。
ヒルダは少し驚いたように顔を上げた。
「……あの、アバンさんという方を、ご存じなのでしょうか?」
ヒュンケルは答えなかった。
ただ、目の前の少女を見つめる眼差しが、明らかに鋭さを増していた。
アバン。
その名は、ヒュンケルにとって、決して忘れることのできないものだった。
かつて自分に剣を教え、人を守るための力について語っていた男。そして、育ての親であるバルトスを殺したと、今も信じている相手だった。
「……貴様、アバンの何だ?」
ヒュンケルが問いかけると、ヒルダは少し考えてから答えた。
「……お友達、と言ってよいのでしょうか。以前、デルムリン島という場所でお会いしたんです。短い間でしたけど、とてもお世話になりました」
「……デルムリン島だと?」
「はい。ダイ君やポップさんという方もいらっしゃって、アバンさんは、そのお2人へ剣や魔法を教えていらっしゃいました」
ヒュンケルはしばらく無言になった。
ダイという名前には聞き覚えがある。魔王ハドラーに傷を負わせ、百獣魔団長クロコダインをも打ち破ったという、勇者アバンの弟子である。
どうやら、目の前の少女はその少年たちとも面識があるらしかった。
「……なるほど。貴様も、あの男の関係者というわけか」
ヒュンケルは冷たく呟いた。
しかし、ヒルダは彼の反応を不思議に思っていた。
アバンの名を口にした瞬間、明らかに雰囲気が変わったのである。剣筋には共通する部分があるというのに、彼の態度からは尊敬や親しみではなく、強い憎しみのようなものが感じられた。
「……ヒュンケルさんも、アバンさんに剣を教わったことがあるんですか?」
その問いに、ヒュンケルはわずかに目を細めた。
「……だったら、どうする?」
「いえ……。剣の使い方が、少し似ているように思いましたので」
ヒュンケルはしばらく彼女を見つめていたが、やがて冷たい笑みを浮かべた。
「……ふん。よく見ているようだな。確かに、俺はかつてアバンの弟子だった」
ヒルダは驚いたように目を見開いた。
「……そうだったんですか」
「だが、俺があの男に師事したのは、あいつに教わった剣で、いつかあいつ自身を殺すためだったのだ」
ヒルダの表情が変わった。
その言葉は、単なる敵意や反発ではなかった。自分に剣を教えてくれた師を殺すために、その剣術を学んだというのである。目の前の青年が、どれほど深い憎しみを抱いてきたのか、彼女には想像することも難しかった。
「……アバンさんを、殺すために……?」
「そうだ。あの男がどれほど立派なことを語ろうと、俺にとっては憎むべき仇に過ぎん。教わった剣も、いつかその喉元へ突き立てるためのものだった」
ヒュンケルは冷たく言い放った。
しかし、ヒルダはすぐに反論しようとはしなかった。
アバンがどのような過去を持ち、何をしてきたのか、彼女はすべてを知っているわけではない。デルムリン島で過ごした時間は短く、彼の旅について詳しく聞いたこともなかった。
それでも、彼がどのような人物だったのかについては、確かな印象を持っていた。
ダイとポップを見守る優しい眼差し。弟子たちの成長を信じ、危険なときには自分が盾になることも厭わない姿勢。そして、あの島で自分へ語ってくれた、これから育っていく者たちへの思い。
「……わたしが知っているアバンさんは、とても優しい方でした」
ヒルダは静かに答えた。
「でも、ヒュンケルさんがそこまで憎んでいらっしゃるのなら……。何か、わたしの知らないことがあったのかもしれませんね」
ヒュンケルは一瞬だけ目を細めた。
反論されると思っていた。アバンは立派な人物だ、そんなはずはないと、頭ごなしに否定してくるものだと思っていた。
しかし、この少女は違った。
自分が知っているアバンを信じながらも、こちらの言葉を無視しようとはしない。その態度は決して弱気なものではなく、むしろ、相手の事情を知らないまま決めつけることを避けているように見えた。
それが、かえって不愉快だった。
「……貴様に、何が分かる」
ヒュンケルは低く吐き捨てた。
しかし、ヒルダは静かに首を横に振った。
「……分かりません。だから、できればお話を聞かせていただきたいんです」
あまりにも真っ直ぐな返答だった。
ヒュンケルはその言葉に一瞬だけ沈黙したが、やがて再び剣を構えた。
「……ならば、もう少し見せてやろう。貴様が知っているアバンの剣と、俺の剣がどれほど違うものなのかをな」
◇ ◇ ◇
再び、銀の剣と銀の大剣が激突した。
先ほどよりも、ヒュンケルの動きは鋭くなっていた。踏み込みの速さが増し、斬撃の間隔も短くなる。さらに、相手の反撃を誘う細かな動きが加わり、一撃ごとの狙いがより正確になっていた。
ヒルダはその変化を感じ取り、静かに目を細めた。
先ほどまでの攻防でも、この青年が優れた剣士であることは十分に理解していた。しかし、今はさらに複雑な剣筋を使い、こちらの動きを読みながら間合いを変えてくる。その技量は、デルムリン島で出会ったアバンと比較しても、決して見劣りするものではなかった。
むしろ、純粋な剣の技術だけならば、ヒュンケルの方が上かもしれない。
そう思わせるほどに、その動きは研ぎ澄まされていた。
ヒュンケルが右へ踏み込むと見せかけ、逆方向から鋭い斬撃を放つ。ヒルダはアストレアをわずかに傾けてその軌道を逸らし、相手が間合いを詰める前に足の位置を変えた。次いで繰り出された突きにも、刀身の根元を使って対応し、互いの剣が幾度も火花を散らす。
それでも、ヒルダは攻め込もうとしなかった。
相手の剣技が優れていることは間違いない。だが、先ほどから気になっていることがあった。
ヒュンケルの剣には、決定的なところで不自然な遠慮がある。
攻撃そのものは鋭く、間合いの取り方も巧みだった。しかし、彼が狙っているのは、ほとんどがアストレアの刀身や鍔元であり、身体を直接斬りつけようとする動きは少ない。隙が生まれた瞬間にも、致命傷を与えられる位置から剣筋を変え、武器を弾こうとすることがあった。
ヒルダは、その違和感を確信へと変えつつあった。
「……ヒュンケルさん。もしかして、わたしに手加減していらっしゃいますか?」
剣を受け流しながら尋ねると、ヒュンケルの眉がわずかに動いた。
「……何?」
「先ほどから、わたしの身体を狙っていらっしゃいませんよね。何度か、斬ろうと思えば斬れる位置にいらっしゃったのに……」
ヒュンケルは一瞬だけ沈黙した。
そして、少し面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「……ふん。俺は女に剣を振るう趣味などない。たとえ敵であろうと、できれば傷つけずに退かせたいだけだ」
その答えに、ヒルダは静かに目を見開いた。
目の前にいるのは、王都を陥落させ、多くの人々を苦しめている魔王軍の軍団長である。それなのに、彼自身は相手が女性であるという理由で、本気の斬撃をためらっている。
その矛盾が、ヒルダには不思議だった。
同時に、彼の中には、まだ何か大切にしているものが残っているのかもしれないとも思った。
「……そうだったんですね」
ヒルダは小さく頷いた。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとうございます。ですが、わたしもあなたを傷つけたいわけではありませんから」
ヒュンケルはその言葉を聞き、わずかに眉をひそめた。
「……何だと?」
「はい。ですから、わたしも本気では戦っていません」
あまりにも自然な返答だった。
ヒュンケルは一瞬、言葉を失ったように少女を見つめたが、その表情はすぐに険しいものへ変わった。
「……なるほど。どうやら、互いに同じことを考えていたらしいな」
彼は剣を持ち直すと、ゆっくりと間合いを取った。
「……ならば、これならどうだ?」
ヒュンケルは鎧の魔剣を構え、静かに闘気を集中させ始めた。
その構えを見た瞬間、ヒルダの表情が変わった。
剣を身体の近くへ引き寄せ、力を溜める独特の姿勢。そして、全身から剣へと流れ込んでいく、強烈な闘気。
それは、デルムリン島でアバンと手合わせしたときに見た構えと、あまりにもよく似ていた。
「……あれは……!」
ヒルダは思わず息を呑んだ。
ヒュンケルは彼女の反応を見逃さなかった。
「……ふっ。どうやら、知っているようだな」
その口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「見せてやろう。俺があの男から学び、そして自分のものとした剣技をな」
地下通路の空気が、急激に張り詰めた。
◇ ◇ ◇
ヒュンケルの全身から、鋭い闘気が立ち上った。
その力は鎧の魔剣へと集中し、銀白色の刀身を包み込んでいく。先ほどまでの剣戟とは明らかに異なる圧力が生まれ、地下通路の床に散らばっていた小石が、かすかに震え始めた。
ヒルダはアストレアを構え直した。
デルムリン島でアバンが見せてくれた、あの奥義の構えによく似ている。
しかし、まったく同じというわけではなかった。
アバンの剣には、力の流れがひとつにまとまるような、不思議な調和があった。それに対し、目の前の青年が放つ闘気は、より鋭く、激しい。まるで自分の持つ力のすべてを剣へ叩き込むかのような、荒々しい迫力が感じられた。
「……アバンさんの、あの技……?」
ヒルダが小さく呟くと、ヒュンケルは薄く笑った。
「……よく見ておけ。これが、俺の《アバンストラッシュ》だ!」
次の瞬間、ヒュンケルが踏み込んだ。
「《アバンストラッシュ》!!」
凄まじい勢いで振り抜かれた剣から、強烈な闘気をまとった斬撃が放たれた。
それは、まさしくヒルダが以前に目撃した奥義の軌道だった。身体の捻りと踏み込みをひとつの動作へまとめ、剣へ集中させた力を一気に解き放つ。その技は未完成でありながら、込められた闘気の強大さによって、威力だけならばアバン本人の一撃にも迫るものがあった。
しかし、ヒュンケルはその刃を、ヒルダの身体へ直接向けようとはしなかった。
狙いは、少女が構えているアストレアだった。
真正面から強烈な一撃を叩き込み、その大剣を弾き飛ばす。そうして戦闘を終わらせるつもりだったのである。
だが、ヒルダもその意図を察していた。
彼女は剣を構え直すと、足元に風のマナを集中させた。
凄まじい衝撃が迫る。
アストレアの刀身がわずかに傾き、闘気をまとった斬撃と激突した。
轟音が地下通路へ響き渡った。
2人の間で生まれた衝撃が周囲へ広がり、床に亀裂が走る。壁に取り付けられていた燭台が吹き飛び、天井から細かな石片が降り注いだ。
しかし、ヒルダはその場から吹き飛ばされることはなかった。
彼女はアストレアで相手の一撃を受けながら、同時に風のマナを操り、衝撃の方向をわずかに変えていた。まともに受け止めれば、地下通路そのものを破壊しかねないほどの力である。だからこそ、真正面から押し返すのではなく、攻撃の軌道を逸らすことを選んだ。
闘気をまとった斬撃はアストレアの側面を滑り、少女の身体から外れた。
そして、牢獄から離れた方向にある石壁へ激突した。
凄まじい破砕音が響き、分厚い石壁が大きく砕け散る。
ヒュンケルは思わず目を見開いた。
「……何っ!?」
自分が放った奥義を、目の前の少女は受け止めた。
いや、正確には違う。受け止めながら、その力を逸らされたのだ。
剣の技量だけでなく、強烈な闘気をまとった一撃に対して、正面から力比べをすることなく対処してみせた。その判断と技術は、ヒュンケルにとっても驚くべきものだった。
しかし、彼がさらに驚いたのは、その後だった。
ヒルダはアストレアを構えたまま、静かにこちらを見つめていた。
息を切らしている様子もなければ、恐怖に身体を強張らせているわけでもない。それどころか、その表情には、どこか感心したような色さえ浮かんでいる。
「……すごい……。アバンさんの技を、ここまで……」
ヒルダは思わず呟いた。
そして、少し不思議そうに首を傾げた。
「……でも、何かが少し違うような……」
その言葉に、ヒュンケルの眉が動いた。
「……違う、だと?」
「……はい。うまく説明できないのですが……。アバンさんの技とは、力の流れが少し違っているように感じました」
ヒルダは、決して相手の技を否定するつもりで言ったわけではなかった。
実際、目の前で見せられた一撃は凄まじいものだった。アバンの技と比べても遜色のない威力を持ち、並の剣士であれば、受け止めることすら難しかっただろう。
しかし、彼女が以前に目撃したものとは、どこか異なる。その違いが何なのかまでは、まだ分からなかった。
ヒュンケルはしばらく少女を見つめていた。
アバンストラッシュには、地・海・空の技を極めることが必要とされる。しかし、ヒュンケルはまだ空裂斬を修めておらず、今の一撃も完全な奥義ではなかった。それでも、卓越した剣術と自らの闘気によって、完成形にも劣らぬ破壊力を生み出してきたのである。
それを、わずかな攻防だけで感じ取ったというのか。
「……ふん。どうやら、ただの怪力自慢ではないらしいな」
ヒュンケルはそう呟くと、剣を構え直した。
目の前の少女が、どれほどの力を隠しているのか。
今の一撃を受け流したということは、少なくとも自分が想像していた以上の実力者であることは間違いない。それも、まだ本気を出していない可能性が高かった。
彼はかすかに口元を歪めた。
「……面白い。ならば、もう少し本気で――」
そのときだった。
地下通路の奥から、鈍い振動が伝わってきた。
◇ ◇ ◇
最初は、足元をかすかに揺らす程度の振動だった。
しかし、間もなく天井から小さな石片が落ち始め、通路の奥にある柱から不気味な軋みが響いてきた。王都が襲撃された際に傷んでいた地下構造へ、先ほどの激しい衝撃が加わったことで、石材を支えていた部分が耐えきれなくなったらしい。
ヒルダはすぐに顔を上げた。
天井に走っていた亀裂が、少しずつ広がっていく。
しかも、その先には、まだ避難できていない人々がいる牢獄があった。
「……いけない!」
彼女は剣を下げ、通路の奥へ視線を向けた。
このままでは、地下牢の一部が崩れ落ちてしまうかもしれない。すぐに人々を救出する必要があった。
しかし、ヒュンケルもまた、別の異変に気づいていた。
王城側の通路から、慌ただしい足音が聞こえてきたのである。
「……ヒュンケル様!」
現れたのは、不死騎団の伝令兵だった。
彼は崩れかけた地下通路の様子に驚いたようだったが、すぐにヒュンケルのもとへ駆け寄った。
「ご報告いたします! 王都の沿岸部に、勇者ダイと思われる一行が現れたとの知らせが入りました!」
その言葉に、ヒュンケルの表情が変わった。
「……何?」
「はっ! ロモス王国で百獣魔団長クロコダインを破った、あの少年と思われます! 現在、王都方面へ移動しているとのことです!」
ヒュンケルはしばらく黙っていた。
しかし、やがて口元に冷たい笑みを浮かべた。
「……そうか。ようやく来たか」
その声には、明らかな期待が込められていた。
アバンの弟子。自分が憎む男の教えを受け継いだ者。その少年が、ついにパプニカへ現れたという。
ヒュンケルにとっては、目の前の少女よりも優先すべき相手だった。
一方、ヒルダもまた、その報告に驚いていた。
「……ダイ君たちが、もうパプニカへ……?」
思わず呟いたヒルダの声を聞き、ヒュンケルが振り返った。
「……ふん。先ほど貴様が話していた、あのアバンの弟子だ。どうやら、わざわざ俺のところへ来てくれたらしいな」
ヒルダは少し嬉しそうに微笑んだ。
ダイが無事に旅を続け、ここまでやって来たというのなら、きっとポップも一緒なのだろう。デルムリン島で別れて以来、2人がどうしているのか気になっていたが、こうして消息を知ることができただけでも嬉しかった。
しかし、次にヒュンケルが口にした言葉で、その表情が変わった。
「……ならば、貴様に構っている暇はない。俺には、あの小僧を倒さねばならん理由がある」
ヒルダは静かに眉を寄せた。
「……ダイ君を、ですか?」
「そうだ。アバンの教えを受け継いだ者は、俺がこの手で叩き潰す」
その言葉に、ヒルダの表情から笑みが消えた。
「……どうして、そこまで……」
ヒュンケルは答えなかった。
彼は剣を引き、王城へ続く通路へ向き直った。
ヒルダはすぐに声をかけた。
「……待ってください!」
ヒュンケルが足を止める。
「……何だ」
「……ダイ君たちには、手を出さないでいただけませんか? あの子たちは、あなたに何かしたわけでは……」
「……黙れ」
ヒュンケルは冷たく言い放った。
「貴様には関係のないことだ」
そのとき、再び大きな振動が響いた。
天井を支える石柱の1つが、鈍い音を立てて折れ始めたのである。大きな亀裂が牢獄の奥へと広がり、向こう側からは石材の崩れる音と、人々の悲鳴が聞こえてきた。
ヒルダは反射的に顔を上げた。
今ここでヒュンケルを追いかければ、ダイたちとの戦いを防げるかもしれない。しかし、そのために地下牢の人々を放置するわけにはいかなかった。
中には、まだ助けを必要としている人がいる。
彼女は短く息を吸った。
「……分かりました。ですが、どうか覚えておいてください」
ヒュンケルが振り返る。
ヒルダは静かに彼を見つめた。
「……わたしは、あなたが人を憎む理由を、まだ知りません。でも、そのためにダイ君たちを傷つけようとするのなら……わたしは、やっぱり止めたいと思います」
その言葉に、ヒュンケルはしばらく黙っていた。
やがて、冷たく笑う。
「……ならば、次に会うときは、遠慮なく斬りかかってこい」
そう告げると、彼は伝令兵を伴い、王城側の通路へ姿を消した。
ヒルダはその背中を見送ったが、追いかけることはしなかった。
直後、地下牢の奥から激しい崩落音が響いたからである。
◇ ◇ ◇
「……皆さん!」
ヒルダはすぐに踵を返し、まだ人々が閉じ込められている牢獄へ向かった。
通路の天井からは大量の石材が落下し始めており、進路を塞ぐように瓦礫が積み重なっている。彼女は足元へ風のマナを集中させ、崩れかけた石柱の間を駆け抜けた。
その途中、頭上から巨大な石塊が落下してきた。
ヒルダはアストレアを構え直すと、片手で鋭く振り抜いた。銀白色の刀身が石塊を正確に捉え、厚い岩を一撃で断ち切る。分断された石材は左右へ逸れ、そのまま壁際へ落下した。
しかし、地下牢の入口付近では天井を支える構造そのものが崩れ始めており、このままでは牢獄全体が押し潰されてしまう危険があった。奥の方からは人々の悲鳴が聞こえてくるが、すでに通路の一部が塞がれ、自力で脱出することは難しいらしい。
ヒルダは静かに息を整え、左手を頭上へ向けた。
風のマナが通路全体へ広がっていく。
しかし、今回は単純な衝撃波ではなかった。
彼女は崩れかけた天井の下に幾重もの風の層を作り出し、落下しようとする石材を受け止めた。さらに、周囲の壁へ力を分散させることで、天井全体が一気に崩れるのを防いでいく。巨大な石材が不気味な音を立てながら軋み、やがてゆっくりと動きを止めた。
「……これで、少しは持ちそうですね」
ヒルダは安堵したように呟いたが、すぐに牢獄の奥へ向かって駆け出した。
風で天井を支えることはできても、崩落しかけた地下構造を元どおりにすることはできない。しかも、これほど広い範囲を支え続けるには相応のマナが必要であり、救出に時間をかければ、それだけ負担も大きくなっていく。
今は、一刻も早く人々を外へ連れ出す必要があった。
地下牢の奥には、まだ数十人ほどの人々が閉じ込められていた。鉄格子の向こうでは、崩れ落ちる天井に怯えた人々が身を寄せ合い、幼い子供を抱きしめた母親が必死に助けを求めている。負傷した王国軍の兵士たちも混じっていたが、その多くは武器を取り上げられ、抵抗することもできない状態だった。
「……大丈夫です! 今、扉を開けますから!」
ヒルダは声をかけると、次々と牢の扉を開いていった。
ようやく解放された人々は、信じられないという表情で彼女を見つめていた。しかし、天井から響く不気味な軋みが、その場に留まることの危険を告げている。ヒルダは彼らへ落ち着いて行動するよう呼びかけ、歩けない者には回復魔法を施しながら、出口へ向かうよう促した。
最後の牢を開いたとき、1人の男性が彼女のもとへ駆け寄ってきた。
「……す、すまない! あなたは、外から来た人なのか!?」
「はい。どうかなさいましたか?」
「城下町に、妻と息子を残してきたんだ! まだ10歳の子供で、俺が捕まったときには、あいつらだけでも逃げろと言ったんだが……!」
その言葉に、ヒルダは思わず目を見開いた。
王都へ入って間もなく出会った、泣いていた少年。父親が魔物に連れていかれたと訴えていた、あの子の姿が脳裏に浮かんだのである。
「……もしかして、崩れた建物の近くに隠れていらっしゃったんですか?」
「あ、ああ! そうだが……まさか、あいつらに会ったのか!?」
男性の顔に、切実な期待が浮かんだ。
ヒルダは穏やかに頷いた。
「……はい。お子さんも、奥様もご無事でしたよ。今はほかの方々と一緒に、安全な場所へ避難していただいています」
その言葉を聞いた瞬間、男性は大きく息を呑んだ。
「……そうか……。よかった……!」
力が抜けたように膝をつき、両手で顔を覆う。ヒルダはその姿を見て胸が温かくなるのを感じたが、すぐに通路の奥から響いた崩落音に顔を上げた。
「……詳しいお話は、外へ出てからにしましょう。皆さん、もう少しですから頑張ってくださいね!」
ヒルダは男性へ手を差し伸べ、再び人々の避難を促した。
通路の奥では、すでに一部の天井が崩れ落ちていた。風によって支えられた石材も大きく軋み始めており、これ以上長く留まるのは危険だった。彼女は最後尾から人々を見守り、歩くことのできない者を風で支えながら、地下牢の出口へ向かって進んでいく。
やがて、最後の一団が階段を上りきったところで、背後から激しい音が響いた。
天井の一部が崩れ落ち、地下牢の奥が完全に塞がれてしまったのである。
ヒルダは人々を守るように風を広げ、舞い上がった砂埃を押し戻した。崩落そのものを止めることはできなかったが、幸い、全員が巻き込まれる前に脱出することができたようだった。
「……よかった……」
ヒルダはようやく安堵の息をついた。
しかし、王城の外へ出たところで、まだ安心するわけにはいかなかった。周辺には不死騎団の兵士たちが残っており、逃げ出した捕虜が発見されれば、再び襲われる可能性もある。
ヒルダは人々を連れて城下町へ向かうと、途中で遭遇した骸骨兵を撃退しながら、比較的被害の少ない街区を目指した。昨日までの戦闘で崩れた建物が多く、道を選ぶのにも苦労したが、救出された王国軍の兵士たちが協力してくれたおかげで、避難は思ったよりも順調に進んでいった。
やがて、城下町の外れにある避難場所へ到着すると、先ほどの男性が人々の間に目を走らせ始めた。
そして、ほどなくして、その足が止まった。
「……父ちゃん!!」
聞き覚えのある幼い声が響いた。
振り返った男性のもとへ、1人の少年が駆け寄ってくる。男性は目を見開いたまま数歩進み、次の瞬間には、飛び込んできた小さな身体を両腕で抱きしめていた。
「……お前……! 無事だったのか……!」
少年は父親の胸に顔を埋め、声を上げて泣き始めた。
少し遅れて駆け寄ってきた母親も、2人を抱きしめながら涙を流している。周囲にいた避難民たちは、その光景を見て安堵の笑みを浮かべ、中には自分のことのように涙ぐむ者もいた。
ヒルダは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
ほんの少し前まで、あの少年は父親を失ったと思い込んで泣いていた。もし自分が王城へ向かわなかったら、あるいは地下牢の崩落に間に合わなかったら、こうして家族が再会することもできなかったかもしれない。
そう考えると、胸の奥に温かなものが広がっていく。
しかし、同時に彼女は思った。
この王都には、まだ助けを必要としている人々が大勢いるはずだ。
自分が救い出せたのは、そのほんの一部に過ぎないのだろう。
ヒルダは静かに目を伏せた。
そして、遠くに見える王城へ視線を向けたとき、地下通路で出会った青年の姿が脳裏に蘇った。
不死騎団長ヒュンケル。
あれほど優れた剣の腕を持ちながら、相手が女性であるという理由で、本気の斬撃をためらっていた。しかも、アバンの弟子だったという過去を持ちながら、その師を殺すために剣を学んだと語ったのである。
いったい、彼に何があったのだろう。
ヒルダには、まだ分からなかった。
ただ、1つだけ確かなことがある。
ヒュンケルは、ダイたちを倒すために動き始めている。
そのことを思い出すと、せっかく再会を喜べるはずだった気持ちにも、かすかな不安が差し込んだ。
できれば、すぐにでもダイやポップと会いたかった。
しかし、彼らが今どこにいるのかは分からず、王都の各地にはまだ不死騎団の兵士たちが残っている。救出した人々をこのまま放置するわけにもいかなかった。
ヒルダは小さく息をつくと、背中のアストレアへ手を添えた。
今は、できることをするしかない。
そう自分に言い聞かせながら、彼女は避難民たちのもとへ戻っていった。
◇ ◇ ◇
一方、王城の一室では、ヒュンケルがモルグから報告を受けていた。
「……そうか。あの女は、捕らわれていた人間どもを連れて王城を出たというわけか」
「はい。地下牢の一部は崩落いたしましたが、捕虜たちはほとんど逃げ延びた模様です。申し訳ございませぬ、ヒュンケル様……」
モルグは恐縮したように頭を下げたが、ヒュンケルはそれを責めようとはしなかった。
「……構わん。王都はすでに制圧した。今さら、あの程度の人間を逃がしたところで戦況は変わらん」
そう答えると、彼は静かに剣を握り直した。
あの女の剣には、まだ底が見えていない。
ヒュンケルは、地下通路での攻防を思い返していた。
あれほどの大剣を自在に操り、自分の剣技にも遅れることなく対応してみせた少女。しかも、最後まで互いに本気を出さなかったとはいえ、自分のアバンストラッシュさえ受け流してしまったのである。
あの女が、並外れた実力者であることは間違いない。
しかし、ヒュンケルが気にしているのは、戦闘能力のことだけではなかった。
自分を倒すだけの力を持ちながら、相手を傷つけようとしなかったこと。アバンの名を聞いても、こちらの事情を頭ごなしに否定しなかったこと。そして、赤の他人を守るために、平然と危険へ飛び込もうとすること。
それらが、どうにも理解しがたかった。
ヒュンケルはしばらく黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。
あの少女について考えるのは、今は後回しでよい。
アバンの弟子たちが王都へ現れたという知らせが、すでに届いているのだ。自分が果たすべき復讐を前にして、見知らぬ女剣士のことばかり考えている場合ではなかった。
そうして気持ちを切り替えようとしたとき、部屋の隅に置かれた通信の水晶が、不意に淡い光を帯び始めた。
モルグがすぐに近づこうとしたが、それよりも早く、水晶の向こうから聞き覚えのあるしゃがれ声が響いてきた。
「……くっくっく。どうやら、随分と面白いことになっておるようじゃのう、ヒュンケル」
その声を聞いた瞬間、ヒュンケルの表情が険しくなった。
「……ザボエラか。何の用だ?」
「いや、なに。少々気になる話を耳にしたのでな。おぬしが、あの水色の髪をした女剣士と戦ったそうではないか」
水晶の向こうから、ザボエラの不気味な笑い声が響いた。
「しかも、わざわざ自分で相手をしておきながら、最後には逃がしてしまったというではないか。くっくっく……天下の不死騎団長ともあろう者が、女1人を取り逃がすとはのう」
その言葉に、モルグが不快そうに顔を上げた。
「ザボエラ様! ヒュンケル様は決して、そのような……!」
「……よせ、モルグ」
ヒュンケルは片手を上げ、側近を制した。
そして、水晶へ向かって冷たく言い放つ。
「……何が言いたい、ザボエラ。俺があの女を逃がしたことが、そんなに気に入らんのか?」
「くっくっく。別に責めておるわけではないわい。ただ、あの女はおぬしの軍団に相当な損害を与えておる。そんな相手を、みすみす逃がしてよいものかと思っただけじゃ」
「……ふん。俺は女を斬る趣味などない。それに、あの女は単なる雑兵ではなかった。無理に追い詰めれば、こちらも無駄な損害を出すだけだ」
ヒュンケルは平然と答えたが、その言葉にザボエラは一瞬だけ沈黙した。
どうやら、あの若造も少女の実力をある程度は把握したらしい。
しかし、その程度であれば、まだ利用する余地はある。
「……ほう。つまり、おぬしもあの女の力を認めたというわけか」
「……少なくとも、並の剣士ではない。それだけは確かだ」
「くっくっく……。それほどの力を持つ女ならば、殺してしまうのは惜しいのう。うまく捕らえることができれば、ワシの研究にも役立つかもしれん」
ザボエラの声には、隠しきれない期待が込められていた。
しかし、ヒュンケルはその言葉を聞き、わずかに眉をひそめた。
「……研究、だと?」
「うむ。あの女の魔法には、なかなか興味深いところがあってのう。少々調べてみたいと思っておるのじゃ」
そこで、ヒュンケルの目が細められた。
「……なるほど。やはり、貴様は最初からあの女について、もっと詳しく知っていたというわけか」
ザボエラは一瞬、言葉を詰まらせた。
しかし、すぐにいつもの調子を取り戻し、わざとらしく笑った。
「くっくっく……。まあ、細かいことはよいではないか。おぬしが逃がしてしまったのなら、今度はワシの方で少しばかり相手をしてみようかのう」
「……好きにしろ」
ヒュンケルは興味を失ったように答えた。
「だが、あの女を甘く見るなよ。貴様の小細工がどこまで通用するかは知らんが、少なくとも、簡単に捕らえられるような相手ではない」
その言葉に、ザボエラの笑みがわずかに引きつった。
ヒュンケルはそれ以上話を続けるつもりもないらしく、通信を切ろうとした。
しかし、その直前。
「……くっくっく。まあよい。せいぜい気をつけることじゃな、ヒュンケル。女相手に手加減するなどという甘い考えが、いずれ命取りにならねばよいがのう」
ザボエラの嫌味が、水晶の向こうから響いた。
ヒュンケルは冷たく鼻を鳴らした。
「……余計なお世話だ、老いぼれ」
そう言い放つと、彼は通信を切った。
水晶の光が消え、部屋に静けさが戻る。
モルグはしばらく黙っていたが、やがて心配そうに口を開いた。
「……ヒュンケル様。あの女剣士のことは、よろしいのでございますか?」
ヒュンケルは静かに首を振った。
「……今は構わん。あの女のことよりも、優先すべき相手がいる」
そう答えると、彼は鎧の魔剣を握り直した。
アバンの弟子たち。
自分が憎む男の教えを受け継いだ者たちが、ついにこの王都へやって来たのだ。あの女剣士の実力には興味が残るものの、今のヒュンケルにとって、それ以上に重要なのは彼らとの決着だった。
ヒュンケルは静かに目を細めた。
「……待っていろ、ダイ」
低い声が、王城の暗闇へ溶けていった。
◇ ◇ ◇
一方、遠く離れた魔王軍の拠点では、ザボエラが通信を終えた水晶を見つめながら、不気味な笑みを浮かべていた。
「……くっくっく。まったく、融通の利かん若造じゃわい」
あの女を逃がしたヒュンケルには、いささか腹も立つ。
しかし、それ以上に、少女の実力を知ったうえでなお、自分から積極的に捕らえようとしない若造の態度が気に入らなかった。あれほどの力を持つ人間を手中に収めることができれば、魔王軍内での自分の評価も大きく変わるかもしれないというのに、ヒュンケルにはその程度の計算もできないらしい。
もっとも、今すぐ再び手を出すつもりもなかった。
先に送り込んだ斥候たちは敗れ、人質を利用した罠も破られてしまった。それでも、少女が逃げ遅れた人間を見捨てず、救助に多くの時間を費やしたことは確かであり、今回もまた、捕虜たちを助けるためにヒュンケルとの戦闘を切り上げている。
あれほどの力を持ちながら、なぜ自分とは無関係な人間どものために危険を冒すのか。
ザボエラには理解できなかったが、その性格が利用できることだけは、すでに十分確かめていた。
「……まあ、よかろう。今は好きにしておくがよい、ヒルダとやら」
ザボエラは薄く笑いながら、卓上の地図へ視線を落とした。
「……いずれ、その力をワシのものにしてくれるわい」
水晶の淡い輝きが消え、部屋には再び不気味な静寂が戻った。
――第6話・了――