白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
パプニカ王都を覆っていた黒煙は、夕暮れが近づいても消えることがなかった。
西へ傾き始めた陽光が崩れた城壁を赤く染め、焼け落ちた家々の間に長い影を落としている。魔王軍による襲撃から逃れた人々は、かろうじて残された建物や地下室に身を寄せ合い、不死騎団の巡回を避けながら、不安な時間を過ごしていた。
王都の外れにある古い集会所では、王城地下から救出された人々が、ほかの避難民たちと合流していた。負傷した兵士たちはヒルダの回復魔法によって容体が落ち着き、動ける者が率先して老人や子供たちの世話に当たっている。周辺の建物から集められた食料や水も、当面を凌ぐ程度には確保できていた。
ヒルダは最後の負傷者の治療を終えると、静かに立ち上がった。純白の衣服には王城地下で付着した土埃が残っていたが、彼女自身に目立った負傷はない。長い水色の髪を整えながら周囲を見回すと、疲れた表情の人々にも、少しずつ安堵の色が戻り始めていた。
「……皆さん、ひとまずは大丈夫そうですね」
彼女が穏やかに微笑むと、避難民たちをまとめていた王国軍の兵士が深々と頭を下げた。彼自身も地下牢から救出された1人であり、ヒルダがいなければ、仲間とともに生き埋めになっていたかもしれない。
「何から何まで、本当にありがとうございます。あなたのおかげで、これほど多くの者が助かりました」
「そんな……。皆さんも協力してくださいましたから。それよりも、まだ王都には魔物が残っています。見張りの方々も、決して無理はなさらないでくださいね」
兵士は力強く頷き、今夜の警戒は自分たちに任せてほしいと申し出た。ヒルダは少し迷ったが、周辺に魔物がいないことを確かめ、避難経路についても説明を終えると、その言葉に甘えることにした。
彼女には、どうしても気がかりなことがあった。
不死騎団長ヒュンケル。
つい先ほど、王城地下で剣を交えた銀髪の青年である。
彼はダイたちが王都へ現れたという知らせを受けると、明らかな敵意を滲ませて立ち去っていった。なぜそこまで強い憎しみを抱いているのか、ヒルダにはまだ分からない。けれど、彼の剣技が並外れていることだけは、自ら刃を合わせたことで十分に理解していた。
デルムリン島で出会った頃のダイとポップでは、あの青年には歯が立たないだろう。
もちろん、あれから2人も成長しているはずだった。しかし、その実力がどこまで伸びているのか分からない以上、安心することはできなかった。
「……ダイくんたち……」
思わず小さく呟いたとき、背後から声がかかった。
「ヒルダ殿。どこかへ向かわれるのですか?」
振り返ると、先ほどの兵士が心配そうにこちらを見ていた。
「……はい。知り合いの方々が、この王都へ来ているらしいんです。少し、探してきたいと思いまして」
兵士は事情を察したように頷き、集会所の守りについては心配しないでほしいと告げた。ヒルダは改めて礼を述べると、人目の届かない路地へ向かい、足元に風のマナを集めて静かに浮かび上がった。
王城地下でヒュンケルと別れてから、すでにいくらかの時間が経っている。
もしかしたら、もう戦いが始まっているかもしれない。ヒルダは胸の奥に広がる不安を押し込め、崩れた街並みの上を飛び越えていった。
◇ ◇ ◇
王都の外れにある荒れ果てた広場へ近づいたとき、激しい衝突音が聞こえてきた。
金属が打ち合う音とは異なる、重く鈍い響きだった。続いて何か巨大なものが地面へ倒れ込む音が響き、舞い上がった土埃が建物の隙間から流れ出してくる。
「……あちらですか!?」
ヒルダは飛行速度を上げ、広場を見下ろせる建物の屋根へ降り立った。
そして、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
広場の中央には、銀白色の鎧をまとった青年が立っていた。手にした剣を下げ、倒れた相手を見下ろしているその姿は、間違いなくヒュンケルだった。
その少し離れた場所に、見覚えのある少年たちがいた。
「……ダイくん! ポップさん……!」
思わず声が漏れた。
ダイは地面に倒れ、ぴくりとも動いていない。衣服は裂け、胸元には激しい攻撃を受けた痕が残されていた。直撃こそ免れたものの、その凄まじい衝撃によって意識を失っているらしく、傍らにいるポップが必死に声をかけても、反応する様子はなかった。
ポップもまた、満身創痍だった。
それでもダイを置いて逃げようとはせず、何かを叫びながら懸命に立ち上がろうとしている。その姿に、ヒルダが思わず身を乗り出したとき、広場の中央で巨大な影が動いた。
緑色の鱗に覆われた、屈強な獣人の戦士だった。
重厚な鎧をまとい、巨大な斧を携えたその姿は、ヒルダがこれまで出会ったどの魔物とも異なっている。しかし、今の彼は片膝をつき、片手で地面を支えるのがやっとという状態だった。
胸には深い傷があり、そこから流れ出た血が地面を濡らしている。
それでも獣人は、ダイたちを庇うようにヒュンケルの前へ立ちはだかっていた。すでに戦える状態ではないはずなのに、残された力を振り絞り、彼らを逃がそうとしているらしい。
そのとき、上空から巨大な翼の音が聞こえてきた。
ヒルダが顔を上げると、1羽の巨鳥が広場へ向かって急降下してくるところだった。
鳥は鋭い鳴き声を上げると、倒れているダイの身体を大きな爪で掴み上げた。さらに、すぐ傍にいたポップへも足を伸ばすが、彼は逃げようとはせず、巨鳥を振り払おうと必死に抵抗する。
「離せっ! おれはまだ……!」
遠くから、少年の叫び声が聞こえた。
しかし、巨鳥は構わずポップも掴み上げると、力強く翼を羽ばたかせた。ダイは意識を失ったまま運ばれていき、ポップは何度も広場を振り返りながら、仲間のもとへ戻ろうともがいている。
その様子を見たヒルダは、すぐに状況を理解した。
どうやら、あの獣人が巨鳥を呼び、ダイたちを逃がしたらしい。
少なくとも、2人はこの戦場から離れることができる。
一方、広場ではヒュンケルが1人の少女へ向き直っていた。
短い髪に旅装束をまとった、見知らぬ少女だった。彼女はヒュンケルへ険しい眼差しを向けて何かを訴えていたが、やがて不死騎団の兵士たちに取り囲まれ、身柄を拘束されてしまった。
ヒルダは眉を寄せた。
あの少女が誰なのかは分からない。しかし、ダイたちと一緒にいたのであれば、彼らの仲間なのだろう。
助けに行くべきか。
そう考えたとき、王城地下での出来事が脳裏に蘇った。
ヒュンケルは女性を相手にするとき、最後まで致命的な攻撃を避けようとしていた。あれが本心だったのなら、捕らえた少女をすぐに殺すことは考えにくい。
もちろん、魔王軍に捕らわれた以上、安全が保証されているわけではなかった。
しかし、今すぐ命を失いかねない者が、ほかにいた。
ヒルダは視線を戻した。
広場の中央では、巨大な獣人の戦士が倒れたまま、ほとんど動かなくなっていた。彼が何者なのかは分からないが、ダイたちを守るために命懸けで戦ったことは、十分に窺えた。
そして、その命は今まさに失われようとしている。
ヒルダはもう迷わなかった。
風をまとい、建物の屋根を蹴る。
長い水色の髪が大きく広がり、純白の衣服が夕陽を受けて翻った。
そして彼女は、瀕死の獣人が横たわる広場へ、一気に舞い降りていった。
◇ ◇ ◇
獣人の周囲には、ヒュンケルの命を受けた不死騎団の兵士たちが集まり始めていた。
彼らは倒れた戦士を取り囲みながらも、武器を振り下ろそうとはしていない。どうやら何らかの命令を受けているらしく、そのうちの1体は包帯のようなものを手にしていた。
しかし、ヒルダが近づいたことに気づくと、骸骨兵たちはすぐに武器を構え直した。
「……すみません。その方を、診せていただけませんか?」
ヒルダの呼びかけに、兵士たちは答えなかった。代わりに、槍を持った1体が前へ出て、彼女を追い払おうとするように穂先を向けてくる。
少女は小さく息をついた。
「……申し訳ありませんけど、少しどいてくださいね」
次の瞬間、足元から吹き上がった風が兵士たちをまとめて押し流した。骨と鎧が地面を転がり、骸骨兵たちは広場の反対側へ吹き飛ばされる。
ヒルダは彼らを追撃することなく、獣人の傍らへ膝をついた。
「……大丈夫ですか!? 聞こえますか?」
返事はなかった。
胸には、鋭い何かで深く貫かれたような傷があった。厚い鱗も頑丈な鎧も、その一撃を防ぎきれなかったらしい。傷口からはなお出血が続き、呼吸もひどく浅くなっていた。
ヒルダは傷の状態を確かめ、すぐに左手をかざした。
何の技を受けたのかは分からない。だが、これほどの巨体を持つ戦士を瀕死に追い込んだ以上、相当な威力の攻撃だったことは間違いなかった。
「……お願いです。もう少しだけ、頑張ってくださいね」
短い詠唱とともに、柔らかな光が掌に宿った。
回復のマナが傷口へ流れ込み、裂けた組織を少しずつ修復していく。ヒルダはまず出血を抑え、胸部の損傷を慎重に癒やしながら、乱れた呼吸を安定させようとした。
傷は予想以上に深く、身体の内部にも大きな損傷が及んでいた。彼女は集中を切らさずに治療を続け、呼吸が安定してきたところで、ようやくわずかに力を緩めた。
すると、獣人の胸が大きく上下した。
「……ぐっ……!」
低い呻き声が漏れ、巨大な身体がかすかに震える。
ヒルダは顔を上げた。
「……聞こえますか? もう少しですから、頑張ってください」
獣人は薄く目を開いた。
目の前にいる少女が何者なのか理解できないらしく、しばらく彼女を見つめたあと、苦しそうに唇を動かした。
「……誰だ……?」
「……ヒルダと申します。お怪我がひどかったので、治療をしています」
その答えに、獣人の目がわずかに見開かれた。
「……人間、が……俺を……?」
「はい。ですが、今はお話ししないでくださいね。まだ傷が塞がりきっていませんから」
ヒルダはそう告げると、再び治療へ意識を集中させた。獣人は何かを問いかけようとしたが、身体を巡る温かな力を感じながら、今は身を委ねるしかないと理解したのだろう。やがて静かに目を閉じ、荒かった呼吸も少しずつ落ち着いていった。
しばらくして、出血はようやく止まった。
命の危険はひとまず遠ざかったものの、まだ深い傷が残っている。ここで無理に動かせば、再び容体が悪化するおそれもあった。
しかし、いつ不死騎団の増援が現れるとも限らない場所に留まるわけにはいかなかった。
ヒルダは周囲を見回すと、獣人の身体を支えるように風のマナを広げた。
「……少し、安全な場所へ移りますね」
巨大な身体が、風に包まれてゆっくりと宙へ浮かび上がる。
獣人はかすかに目を開き、驚いたように少女を見つめたが、もはや問い返す力も残っていなかった。ヒルダは傷口へ負担がかからないよう慎重に風を操りながら、王都を離れ、丘陵地帯へ向かって移動を始めた。
◇ ◇ ◇
王都から少し離れた丘の中腹に、使われなくなった見張り小屋があった。
以前は城下町へ続く街道を監視するために使われていたのだろう。石造りの壁はまだ頑丈で、内部には古い寝台や木箱が残されている。周囲を背の高い樹木に囲まれているため、街道からは直接見通すことが難しく、しばらく身を隠すには都合のよい場所だった。
ヒルダは獣人を小屋へ運び込み、床に毛布を重ねて簡単な寝床を作った。彼の身体は人間の数倍も大きく、残されていた寝台では到底収まらなかったが、風の力で慎重に身体を下ろすことで、傷口へ負担をかけずに済んだ。
あらためて胸の傷を確かめると、出血はほとんど止まっていた。回復魔法によって内部の損傷も癒えつつあるが、大量の出血と激しい戦闘による消耗までは、すぐに取り戻せない。少なくとも今夜は安静にさせる必要があるだろう。
ヒルダは水を用意すると、意識を取り戻した獣人へ少しずつ飲ませた。
「……今夜は、できるだけ身体を休めてくださいね。傷は塞がってきましたけど、まだ無理をすると危険ですから」
「……うむ。世話になったな」
獣人は低く答え、しばらく少女を見つめていた。
恐ろしげな外見とは裏腹に、その眼差しには落ち着いた知性が感じられた。重傷を負ってなお失われない威厳は、長く戦士として生きてきた者ならではのものなのだろう。
「……俺はクロコダイン。百獣魔団長クロコダインだ」
「……クロコダインさん、ですね」
ヒルダが穏やかに頷くと、獣人は少し意外そうに目を細めた。
「百獣魔団という名に、聞き覚えはないか?」
「……いえ。すみません。こちらへ来てから、まだそれほど経っていないものですから」
「……そうか。百獣魔団は、魔王軍六大軍団の1つだ。俺は、その軍団長を務めていた」
ヒルダは驚いたように目を見開いた。
魔王軍の軍団長といえば、ヒュンケルと同じ立場である。しかし、クロコダインが過去形で語ったことに気づき、彼女はすぐに問い返すことをせず、続きを待った。
「俺はかつて、ロモス王国を攻めた。そのとき、ダイたちと敵として戦ったのだ」
「……ダイくんたちと……?」
「ああ。そして、敗れた。……だが、あの戦いで俺は、失っていた戦士としての誇りを取り戻すことができた」
クロコダインの声には、後悔と、それ以上に深い感慨が込められていた。
ヒルダは静かに耳を傾けた。
クロコダインが語ったのは、ロモス王国での戦いだった。
百獣魔団長としてダイたちを迎え撃ったこと。自分の武力に絶対の自信を持ちながら思わぬ苦戦を強いられ、勝利への執着から、ついには卑怯な策にまで手を染めてしまったこと。そして、そんな自分に対して、少年たちが最後まで勇気を失わずに立ち向かってきたこと。
とりわけ、クロコダインの声に強い感情が滲んだのは、ポップについて語ったときだった。
「……あの魔法使いの少年は、最初、俺を恐れて逃げ出した。だが、仲間が危機に陥ったと知るや、再び戦場へ戻ってきたのだ。自分では到底敵わぬと分かっていながらな」
ヒルダは静かに目を見開いた。
デルムリン島で出会ったポップの姿が、自然と脳裏に浮かんでくる。
ダイとは対照的に、厳しい修行を嫌がり、時には弱音を吐いていた少年。しかし、決して仲間への思いやりがないわけではなく、口では不平を言いながらも、困っている者を放っておけないところがあった。
そのポップが、魔王軍の軍団長を相手に、自ら戦場へ戻ってきたという。
「……ポップさんが……」
「うむ。恐怖を知らぬ者が敵へ向かっていくのは、ある意味では容易い。だが、恐ろしさを知ったうえで、それでも仲間のために立ち向かうのは容易なことではない。……あの少年の勇気は、俺の胸に深く突き刺さった」
クロコダインは静かに続けた。
「そしてダイもまた、最後まで正面から俺へ立ち向かってきた。あの2人に敗れたことで、俺はようやく、自分がどれほど愚かなことをしていたのか思い知らされたのだ」
彼は大きな手を握りしめた。
魔王軍の軍団長として、これまで幾度もの戦いを経験してきた。その中で得た勝利も、築き上げてきた誇りも、決して偽物だったわけではない。だからこそ、勝利に固執するあまり、自分自身でその誇りを汚してしまったことが許せなかった。
「……今さら過去を消すことはできん。だが、あの少年たちのおかげで、俺はもう一度、誇りを持って戦えるようになった。だからこそ、今度は俺が彼らの力になりたいと思ったのだ」
ヒルダは、しばらく何も言えなかった。
あの小さな島で出会った少年たちが、知らない場所で、知らない戦いを経験している。
しかも、強大な魔王軍の軍団長を倒しただけでなく、その心を動かし、今では命を懸けて助け合うほどの関係を築いているという。
彼女の胸に、温かなものが広がった。
「……ダイくんも、ポップさんも……本当に、頑張っていらっしゃるんですね」
嬉しそうに微笑むヒルダを見て、クロコダインは小さく頷いた。
「……ヒルダ殿は、ダイたちとどういう関係なのだ?」
「はい。少し前に、デルムリン島という場所でお会いしたんです。短い間でしたけど、一緒に過ごさせていただきまして……」
「……なるほど。それで、あの少年たちを心配していたというわけか」
クロコダインは納得したように頷いた。
そして、ふと表情を曇らせた。
「……それにしても、マァムを置いてきてしまったことが気がかりだ」
「……マァムさん?」
「今日、ヒュンケルに捕らえられた女戦士だ。ダイたちの仲間で、なかなか気丈な娘だぞ」
ヒルダは、広場でヒュンケルに連れ去られた少女の姿を思い出した。
「……あの方が、マァムさんだったんですね」
「うむ。ヒュンケルは人間を憎んでおるが、女子供に手を上げるような男ではない。もちろん、敵の手に捕らえられた以上、安心はできんがな」
「……はい。わたしも、そう思います」
ヒルダは頷き、王城地下での出来事を簡単に話した。
ヒュンケルと剣を交えたこと。そして、その戦いの中で、彼が女性を傷つけることをためらっていたこと。
クロコダインは驚いたように彼女を見つめた。
「……何? ヒュンケルと戦ったというのか?」
「はい。でも、互いに本気ではありませんでしたから、勝負はつかなかったんです」
その答えに、クロコダインはしばらく言葉を失った。
ヒュンケルの剣技は、自分が身をもって知っている。その相手と剣を交え、傷1つ負わずに戻ってきたというのだから、目の前の少女も相当な実力者なのだろう。
しかし、何より驚かされたのは、本人がそのことを特別なものと考えていないらしいことだった。
「……まったく、世の中は広いものだな」
クロコダインが感心したように呟くと、ヒルダは不思議そうに首を傾げた。
「……そうでしょうか?」
「はっはっは……。いや、何でもない」
獣王は思わず笑ったが、胸の傷が痛んだらしく、すぐに顔をしかめた。
ヒルダは慌てて彼の傍らへ寄った。
「……クロコダインさん! まだ無理をなさらないでくださいね」
「……う、うむ。そうだったな」
再び横になるよう促され、クロコダインは素直に身体を休めた。ヒルダは回復魔法で傷の状態を確かめると、毛布を整え、静かに小屋の窓へ視線を向けた。
外では、王都を囲む山々が夜の闇に包まれようとしている。
ダイとポップは、今頃どうしているのだろう。
あの2人が無事に逃げ延びたことを願いながら、ヒルダはしばらく窓の外を眺めていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、見張り小屋の前へ巨大な鳥が舞い降りた。
緑がかった羽毛と鋭い嘴を持つその鳥には、ヒルダも見覚えがあった。昨日、ダイとポップを戦場から連れ去った巨鳥である。
警戒するように首を持ち上げた鳥だったが、小屋の奥からクロコダインの声が聞こえると、すぐに落ち着いた様子で翼を畳んだ。
「……ガルーダ!」
クロコダインが呼びかけると、巨鳥は短く鳴いて主人のもとへ近づいた。
「……よく戻った。ダイたちは無事だったか?」
ガルーダは主人の言葉に応えるように鳴き、ゆっくりと頭を下げた。
クロコダインはその様子を確かめると、安堵したように大きく息をついた。
「……そうか。よくやったぞ、ガルーダ」
傍らで見守っていたヒルダも、嬉しそうに微笑んだ。
「……ダイくんたち、無事だったんですね」
「うむ。少なくとも、あの場からは逃げ切れたようだ。だが、マァムはまだ捕らわれたままだ。あいつらが、このまま引き下がるとは思えんな」
その言葉に、ヒルダは静かに頷いた。
ポップがガルーダに掴まれながらも、必死に抵抗していた姿が脳裏に蘇る。
きっと、マァムを置いて逃げることが嫌だったのだろう。そして、それはダイも同じはずだった。
再びヒュンケルに挑むつもりなのかもしれない。
そう考えると、胸の奥に不安が広がった。
しかし、彼女がその思いを口にする前に、クロコダインが静かに呟いた。
「……あの少年たちなら、また立ち上がるだろう。俺は、そう信じておる」
ヒルダはその言葉を聞き、少しだけ表情を和らげた。
昨日の戦いで重傷を負いながらも、なおダイたちを信じているクロコダイン。その姿は、彼がどれほど深く少年たちを認めているかを物語っていた。
ヒルダは小さく頷くと、窓の外へ目を向けた。
王都の上空には、まだ薄い雲が残っていた。
◇ ◇ ◇
その日の昼過ぎ、ヒルダは小屋から少し離れた丘の上に立っていた。
周囲には背の高い樹木が生い茂り、遠くにはパプニカ王都を囲む山々が連なっている。彼女は風のマナを薄く広げ、付近に魔物が近づいていないことを確かめながら、時折、王都の方角へ視線を向けていた。
やがて、遠くの空に奇妙な変化が現れた。
晴れていたはずの空に、雲が集まり始めたのである。
それも、広い範囲で天候が変わっているわけではなかった。ある一帯を中心に周囲の空気が引き寄せられ、雲が渦を巻くように集まっていく。自然の風とは明らかに異なる動きに、ヒルダは思わず目を細めた。
「……あれは……?」
風の流れに、何らかの魔法的な干渉が加わっている。
やがて雲の奥で稲光が走り、低い雷鳴が山々の間へ響き渡った。
ヒルダはしばらくその光景を見つめていた。
誰かが、魔法によって雷を呼び寄せようとしている。
そして、彼女には思い当たる人物がいた。
「……ダイくんたち、ですね……」
小さく呟いた声には、確かな実感が込められていた。
昨日の敗北を受けて、きっと2人は何かを始めているのだろう。ヒュンケルという強敵を倒すため、自分たちなりの方法で力を合わせようとしている。
その姿を想像すると、ヒルダの胸に温かなものが広がった。
同時に、心配も消えなかった。
ダイたちがどれほど成長しているとしても、ヒュンケルが並外れた剣士であることに変わりはない。再び戦えば、今度こそ取り返しのつかない結果になる可能性もあるのだ。
ヒルダはしばらく雲を見つめていたが、やがて静かに踵を返し、見張り小屋へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
「……なるほど。空に雲を集め、雷を呼び寄せようとしているのか」
ヒルダの話を聞いたクロコダインは、しばらく考え込んでいた。
彼は傷ついた身体を毛布の上へ横たえたまま、窓の外へ視線を向けている。昨日よりも顔色はよくなっていたが、胸にはまだ痛々しい傷痕が残っており、長く立っていることは難しそうだった。
「……はい。きっと、ダイくんたちが何かの特訓をしていらっしゃるんだと思います」
「うむ。ヒュンケルの鎧には、強力な呪文耐性がある。あの少年たちが再戦を考えているのなら、何らかの対抗策を探していても不思議ではあるまい」
ヒルダは静かに頷いた。
ヒュンケルが身につけていた鎧には、確かに通常の防具とは異なる魔力が宿っていた。自分との戦いでは主に剣を使っていたため、鎧の性質まで詳しく調べる機会はなかったが、ダイたちもその防御力に苦戦したのだろう。
その弱点を見つけようとしているのなら、きっと今も2人で力を合わせているはずだった。
しかし、彼女の胸には迷いが残っていた。
「……クロコダインさん」
ヒルダは少し躊躇ったあと、静かに問いかけた。
「……もし、ダイくんたちがもう一度ヒュンケルさんと戦うのでしたら……わたしも手伝った方がよいでしょうか?」
クロコダインは顔を上げた。
彼女が何を心配しているのか、十分に理解できたのだろう。自分もまた、ダイたちを守るために命懸けで戦い、今はこうして傷ついた身体を休めているのだから。
「……ヒルダ殿の気持ちは分かる。だが、俺はもう少し、あの少年たちを信じてやりたいと思っておる」
その言葉に、ヒルダは静かに目を伏せた。
クロコダインは穏やかな声で続けた。
「昨日の敗北を知ったうえで、それでも再び挑もうとしているのなら、あいつらにも覚悟があるのだろう。無論、命の危険が迫れば助けに入るべきだ。だが、最初から俺たちが代わりに戦ってしまっては、あの少年たちが自分の力で何を成し遂げようとしているのか、分からなくなってしまう」
ヒルダは黙って聞いていた。
自分が戦えば、ダイたちが再び傷つくことを防げるかもしれない。
けれど、その一方で、彼らが自分の意志で立ち向かおうとしていることも理解していた。
ヒルダは静かに目を閉じた。
すると、ふと以前に聞いた言葉が脳裏に蘇った。
デルムリン島を旅立つ前、アバンは彼女へ、弟子たちが本当に困ったときには力を貸してほしいと頼んでいた。ただし、自分たちの力で乗り越えられる試練ならば、その成長を信じて見守ってほしいとも。
あのときは、その言葉を自然に受け入れたつもりだった。
しかし今、実際に大切な人が傷つき、命を失うかもしれないと分かったとき、手を出さずに見守ることがどれほど難しいのか、少しずつ理解し始めていた。
ヒルダはゆっくりと目を開いた。
「……そうですね。わたしも、ダイくんたちを信じてみようと思います」
その表情には、まだわずかな不安が残されていた。
しかし、もう迷い続けているわけではなかった。
「……でも、本当に危ないときには、わたしも助けに行きます。それだけは、譲れませんから」
クロコダインは力強く頷いた。
「……当然だ。俺も動ける身体なら、同じことをするだろう」
ヒルダは穏やかに微笑み、再び窓の外へ目を向けた。
遠くの空では、集まっていた雲の奥で稲光が走っている。
あの雷は、ダイとポップが再び立ち上がろうとしている証なのだろう。
ヒルダはそう確信していた。
彼女は静かに両手を重ね、遠くにいる少年たちの無事を願った。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして、パプニカの山々に異変が起こった。
最初に気づいたのは、見張り小屋の前で羽を休めていたガルーダだった。巨鳥は突然鋭い声で鳴き、遠くの岩山へ向かって首を伸ばした。その様子を不審に思ったヒルダが外へ出ると、山の一角から黒い煙が立ち上っているのが見えた。
風の流れが変わっていた。
それまで穏やかに吹いていた風に、乾いた熱気が混じり始めている。距離が離れているため、まだわずかな変化でしかなかったが、山の方角から吹き下ろす空気には、硫黄に似た刺激臭も感じられた。
「……あちらで、何か起きているのでしょうか……?」
ヒルダが眉を寄せると、小屋の奥からクロコダインの声が聞こえた。
「……どの方角だ?」
ヒルダが岩山の位置を伝えると、クロコダインの表情が変わった。
「……あのあたりには、地底魔城がある」
「……地底魔城、ですか?」
「うむ。不死騎団の拠点だ。ヒュンケルがダイたちを迎え撃つとすれば、あそこが戦場になっていてもおかしくはない」
その言葉に、ヒルダは思わず山の方角へ目を向けた。
地底魔城。
ヒュンケルの本拠地であり、捕らえられたマァムも、おそらくそこにいるのだろう。もしダイとポップが彼女を助けるために再戦へ向かったのなら、今頃あの場所で戦っているのかもしれない。
そのとき、遠くの山の一角から青白い光が噴き上がった。
続いて、地面を震わせるような轟音が響いてくる。
「……っ!」
ヒルダは息を呑んだ。
距離が離れているため詳しいことは分からないが、何らかの強大な力が解放されたことだけは確かだった。
先ほどまで空に集まっていた雲。そして、そこから生まれた雷。
あの2人が、ついに何かを成し遂げたのかもしれない。
ヒルダは小さく息を吸い、クロコダインへ向き直った。
「……クロコダインさん。わたし、少し近くまで行ってきます」
「……ダイたちのところへか?」
「……はい。でも、今すぐ戦いに加わるつもりはありません。あの子たちが頑張っていらっしゃるのなら、まずは見守りたいと思います」
彼女はそこで言葉を切り、遠くの岩山へ視線を向けた。
「……ただ、何かあったときに、助けに入れる場所にはいたいんです」
クロコダインはその答えに、静かに頷いた。
「……分かった。頼む、ヒルダ殿。あの少年たちを見守ってやってくれ」
「……はい」
ヒルダは穏やかに微笑むと、クロコダインの傷の状態をもう一度確かめ、今は無理に動かないよう伝えた。獣王は少し不満そうな顔をしたものの、自分の身体がまだ戦える状態ではないことを誰よりも理解しており、最後には素直に頷いた。
ガルーダにも主人の傍にいるよう頼むと、ヒルダは小屋の外へ足を踏み出した。
風のマナが足元に集まり、純白の衣服がふわりと揺れる。
次の瞬間、彼女の身体は風に乗って浮かび上がり、遠くの岩山へ向かって飛び立っていった。
◇ ◇ ◇
地底魔城の周囲には、異様な熱気が漂っていた。
岩山の斜面には古い石造りの建造物が点在し、その一部は地面の奥深くへ続いているらしい。崩れた石柱や城壁には不気味な紋章が刻まれており、かつて大規模な城塞だったことを窺わせる造りになっていた。
ヒルダは岩陰へ静かに降り立つと、周囲を見渡した。
つい先ほどまで響いていた轟音は、すでに収まっている。しかし、地面には小さな振動が残り、岩の裂け目からは白い蒸気が立ち上っていた。しかも、周囲の空気は不自然に熱せられており、地中の深い場所で何かが動いているような、不気味な響きも聞こえてくる。
「……これは……?」
ヒルダは眉を寄せた。
単に激しい戦闘が行われたというだけでは、説明できない異変だった。
彼女は岩肌へ手を当て、しばらく様子を窺った。しかし、地下に広がる城の内部まで、風のマナで自由に探れるわけではない。岩盤に閉ざされた場所へ風を送り込むことは難しく、内部の状況を確かめるには、実際に通路や亀裂を見つける必要があった。
ヒルダは崖に沿って移動し、地底魔城へ通じる道を探し始めた。
その途中、突然、足元から大きな振動が伝わってきた。
「……っ!?」
地面が揺れ、岩山の斜面に亀裂が走った。続いて、地下深くから凄まじい轟音が響き、岩の隙間から大量の熱気が噴き上がってくる。
ヒルダは反射的に風をまとい、上空へ飛び上がった。
その直後、先ほどまで立っていた場所の岩盤が崩れ落ち、大きな裂け目が開いた。奥からは赤い光が漏れ出し、煮えたぎる溶岩が岩の隙間を満たしている。
「……まさか、噴火が……!?」
ヒルダは高度を上げ、崖の上から周囲の様子を確かめた。
地底魔城の各所から黒煙が噴き上がり、古い建造物が次々と崩れ始めている。地面の亀裂は急速に広がり、その奥ではマグマが石壁や岩盤を飲み込みながら上昇していた。
もし、ダイたちがまだ地下にいるのなら。
もはや戦いの勝敗など考えている場合ではなかった。
ヒルダはすぐに城の入口を探し始めたが、崩落は激しく、先ほどまで通れたはずの場所も次々と塞がれていく。地底魔城のどこにダイたちがいるのかも分からず、闇雲に飛び込むわけにはいかなかった。
そのとき、遠くの岩盤が大きく隆起した。
ヒルダは顔を上げた。
崩壊する城塞の一角がマグマに押し上げられるように傾き、その周辺では岩石が次々と落下している。
そして、その中心から、何か巨大なものが宙へ投げ出された。
「……えっ!?」
思わず目を見開いた。
それは、大きな岩盤だった。
分厚い石の塊が凄まじい勢いでマグマの上を飛び越えていく。普通ならば到底あり得ない光景だったが、さらに驚いたことに、その岩盤の上には3人の人間が乗っていた。
ヒルダは目を凝らした。
小柄な少年と、魔法使いの少年。そして、見覚えのある少女。
「……ダイくん! ポップさん! マァムさんも……!」
岩盤はマグマの広がる危険地帯を越え、離れた場所にある岩場へ向かって飛んでいった。
ヒルダは思わず後を追いかけようとしたが、すぐに動きを止めた。
3人とも傷ついているようだったが、自分の足で動いている。しかも、岩盤はすでにマグマの届かない場所へ向かっており、これなら無事に脱出できるだろう。
しかし、何かがおかしかった。
あれほど巨大な岩盤を、いったい誰が投げ飛ばしたのか。
ヒルダは、岩盤が飛び出してきた方向へ目を戻した。
そこには、今にも崩れ落ちそうな石造りの床が残されていた。
そして、その上に、1人の青年が立っていた。
銀色の髪。
砕けた鎧。
全身に深い傷を負い、立っていることさえ難しそうなその姿を、ヒルダは見間違えなかった。
「……ヒュンケルさん……?」
彼は、今まさに力を使い果たしたところだった。
腕を下ろし、激しく肩で息をしながら、遠ざかっていく岩盤を見送っている。足元には赤いマグマが迫り、周囲の床も少しずつ崩れ始めていた。
ヒルダは、その光景を見つめた。
ようやく理解したのである。
あの巨大な岩盤を、ヒュンケルが投げ飛ばしたのだ。
ダイたち3人を乗せたまま、マグマの届かない場所へ。
自分自身は逃げる力も残されていないというのに、最後の力を振り絞って、彼らを救ったのだった。
王城地下で剣を交えたとき、ヒュンケルはダイたちを倒すために向かうと言っていた。
その言葉には、明らかな憎しみが込められていた。
しかし、今の彼は違った。
自分が憎んでいたはずの少年たちを、生かすために戦っている。
この場所でどのような戦いがあり、何が語られたのかは分からない。けれど、最後にヒュンケルが何を選んだのか、それだけははっきりと見えた。
そのとき、岩盤の上にいたダイたちが、遠くから何かを叫んでいるのが見えた。
しかし、激しい地鳴りと噴火の轟音にかき消され、声は届かない。
ヒュンケルは遠ざかっていく3人を見つめたまま、わずかに片手を上げた。
そして、その足元へマグマが押し寄せた。
◇ ◇ ◇
「……ヒュンケルさん!!」
ヒルダはダイたちの姿が岩陰に隠れたのを確かめると、風のマナを全身にまとい、崩壊する地底魔城へ向かって飛び込んだ。
地中から噴き上がる熱風と黒煙を吹き払い、押し寄せるマグマを風圧で左右へ押しのけながら、ヒュンケルのもとへ一気に降下する。
青年はすでに意識を失っていた。
ダイとの戦いによって瀕死の重傷を負い、さらにマグマの凄まじい熱に晒されたことで、もはや自力で動くこともできなくなっていたのである。
ヒルダはすぐに風のマナで彼の身体を包み込むと、溶岩の中へ沈みかけていた身体を引き上げた。そして、落下する岩石を避けながら一気に上昇し、崩壊する地底魔城から脱出した。
背後で、凄まじい轟音が響く。
岩山の一角が大きく崩れ落ち、赤く煮えたぎるマグマが地表へ溢れ出していった。
ヒルダは安全な高度まで上がると、風に支えられたヒュンケルの容体を確かめた。呼吸は辛うじて続いているものの、全身の傷は深く、今すぐ治療しなければ危険な状態だった。
「……ヒュンケルさん。もう大丈夫ですよ……」
少女は小さく語りかけ、短い詠唱とともに回復のマナを流し込んだ。
それでも、青年が目を覚ますことはなかった。
ヒルダは心配そうに彼を見つめたが、やがて前方へ視線を戻すと、風の勢いを強めて飛び始めた。
まずは、安全な場所へ連れていかなければならない。
彼女が向かったのは、クロコダインの待つ見張り小屋だった。
◇ ◇ ◇
見張り小屋の前へ白い影が舞い降りたのは、山々が夕暮れの光に染まり始めた頃だった。
クロコダインは、外から響いた風の音に気づいて顔を上げた。傍らで羽を休めていたガルーダも何かを察したように首を持ち上げ、鋭い鳴き声を上げる。
「……ヒルダ殿か!?」
クロコダインは壁へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
傷はまだ完全には癒えていないものの、前日よりはかなり身体を動かせるようになっていた。しかし、戸口へ向かおうとしたところで、外から聞こえてきたヒルダの声に足を止めた。
「……クロコダインさん! すみません、少し手伝っていただけますか!?」
その声には、普段の穏やかさとは違う緊張が滲んでいた。
クロコダインはすぐに外へ出た。
そして、目の前に現れた光景に息を呑んだ。
ヒルダの傍らには、風に支えられた1人の青年が横たわっていたのである。
銀色の髪。砕けた鎧。全身に刻まれた痛々しい傷。
見間違えるはずがなかった。
「……ヒュンケル!?」
クロコダインの目が、大きく見開かれた。
「い、いったい何があった!? なぜ、こいつがここにいる!?」
「……詳しいお話は、あとでさせてください。ヒュンケルさん、ひどいお怪我をされているんです。まずは、治療をしないと……」
その言葉に、クロコダインはすぐに表情を引き締めた。
今は驚いている場合ではない。
彼は小屋の中へ戻ると、自分が使っていた毛布を脇へ寄せ、ヒュンケルを横たえられるだけの場所を作った。ヒルダは風の力で青年を慎重に運び込み、傷口へ負担がかからないように身体を下ろすと、すぐに治療を始めた。
間近で見るヒュンケルの姿は、想像以上に痛ましいものだった。
砕けた鎧の下には深い傷がいくつも残り、身体の各所には激しい戦闘の痕跡があった。さらに、マグマの熱に晒されたことで皮膚にも損傷が生じており、呼吸は浅く、体力も限界まで消耗している。
ヒルダは短い詠唱とともに両手をかざし、回復のマナを流し込んでいった。
クロコダインは、その様子を黙って見守っていた。
ヒルダ自身も、無事では済まなかったらしい。純白の衣服には煤が付着し、長い水色の髪もところどころ乱れている。しかし、彼女はそんなことには構わず、ただ目の前で傷ついている青年の命を救うことだけに意識を向けていた。
やがて、ヒュンケルの呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
ヒルダは傷の状態を確かめると、ようやく安堵の息をついた。
「……これで、ひとまず命の危険は脱したと思います。でも、まだ無理はできません。しばらくは身体を休ませてあげないと……」
その言葉を聞き、クロコダインも大きく息を吐いた。
「……そうか。助かったのだな……」
彼はゆっくりと膝を折り、眠るヒュンケルを見つめた。
つい先日、自分の胸を貫き、瀕死の重傷を負わせた相手だった。しかし、その顔を見つめるクロコダインの眼差しには、怒りも恨みもない。むしろ、深い安堵が浮かんでいた。
「……ヒルダ殿。いったい何があったのか、聞かせてくれないか?」
クロコダインが静かに尋ねると、ヒルダは少し考えてから頷いた。
そして、見てきたことを順に話し始めた。
地底魔城の周辺で激しい地鳴りが起こり、岩山の各所からマグマが噴き上がり始めたこと。崩壊する城塞の一角で、ダイとポップ、そしてマァムが大きな岩盤に乗せられ、危険地帯から脱出する姿を見つけたこと。
そして、その岩盤を投げ飛ばしたのがヒュンケルだったこと。
「……ヒュンケルさんは、ダイくんたちを助けてくださったんです」
ヒルダの言葉に、クロコダインの表情が変わった。
「……何?」
「……ご自分もひどい怪我をされていたのに、最後の力を振り絞って、あの子たちを安全な場所へ逃がして……。そのあと、マグマに飲み込まれそうになったんです」
クロコダインはしばらく言葉を失った。
ヒュンケルが、ダイたちを救った。
あれほど強い憎しみを抱いていた男が、今度はその少年たちを生かすため、自らの命を投げ出そうとしたという。
あの地底魔城で、いったい何があったのだろう。
クロコダインには分からなかった。
しかし、彼には思い当たることがあった。
かつて、自分も同じだった。
ダイたちに敗れたことで、力こそすべてと信じていた考えが覆された。少年たちの勇気と真っ直ぐな心に触れ、忘れかけていた戦士の誇りを思い出すことができたのである。
もし、ヒュンケルにも同じような変化が起きたのだとしたら。
「……そうか……」
クロコダインは低く呟いた。
そして、眠る青年へ視線を向けた。
「……お前も、あの少年たちに教えられたのか。ヒュンケル……」
その声には、深い感慨が込められていた。
ヒルダは少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
やがて、クロコダインがゆっくりと顔を上げた。
「……ヒルダ殿。礼を言う。よく、こいつを助けてくれた」
突然の言葉に、ヒルダは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……えっ?」
「俺も、ヒュンケルとは敵として戦った。だが、あいつは俺に止めを刺さなかった。……あれほどの傷を負わせておきながら、わざわざ部下に手当てまで命じていたのだ」
クロコダインは静かに続けた。
「敵である俺にさえ、武士の情けをかけてくれた。その恩を、いつか返したいと思っていた。だから、こうして生きていてくれることが、俺には嬉しいのだ」
ヒルダはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「……そうだったんですね」
そして、眠るヒュンケルへ視線を戻した。
王城地下で剣を交えたとき、ヒュンケルは自分を傷つけることをためらっていた。クロコダインを倒したあとも、止めを刺さずに手当てを命じている。そして、今度はダイたちを守るため、自らの命を投げ出そうとした。
それらを思い返すと、彼が決して冷酷なだけの人間ではないことが、少しずつ分かってきた。
もちろん、だからといって、彼がこれまでしてきたことまで消えるわけではない。
パプニカ王都は陥落し、多くの人々が傷ついた。ヒュンケルが不死騎団長として、その戦いに加わっていたことも事実だった。
けれど、だからこそ。
ヒルダは、彼に生きていてほしかった。
過ちを悔やむことも、失ったものと向き合うことも、これから何をするべきか考えることも、生きていなければできないのだから。
彼女は静かに毛布の端を整えた。
「……ヒュンケルさんが、これからどうされるのかは、まだ分かりません。でも……」
そこで言葉を切り、眠る青年を見つめる。
「……もう一度、お話しできたらいいなと思います」
クロコダインはその言葉を聞き、穏やかに頷いた。
「……ああ。俺も、そう願っている」
◇ ◇ ◇
夜が更ける頃には、パプニカの山々を覆っていた黒煙も、少しずつ薄くなり始めていた。
見張り小屋の中では、クロコダインが壁にもたれ、静かに身体を休めている。その近くにはヒュンケルが横たわっており、回復魔法によって傷は塞がりつつあったが、まだ意識を取り戻す様子はなかった。
ヒルダは2人の容体を確かめると、小屋の外へ出た。
空には星が瞬き、遠くの山々の向こうでは、地底魔城があった方角にわずかな赤い光が残っている。
彼女はその光を見つめながら、ここ数日の出来事を思い返していた。
ダイとポップがヒュンケルに敗れたこと。
その2人を守るため、クロコダインが命懸けで戦ったこと。
そして、再び立ち上がったダイたちがヒュンケルへ挑み、最後にはそのヒュンケル自身が彼らを救ったこと。
ヒルダは戦いのすべてを見たわけではない。
地底魔城でどのような戦いが繰り広げられ、何が語られたのかは分からなかった。あの青年がなぜ最後にはダイたちを救おうとしたのか、その詳しい事情も、まだ知らない。
それでも、確かなことがあった。
ダイとポップは、自分が想像していた以上に成長していた。
剣や魔法の腕前だけではない。かつて敵だったクロコダインが命を懸けて助けに来るほど、そして最後にはヒュンケルの心にまで変化をもたらすほど、彼らは多くのものを勝ち取っていたのだ。
「……本当に、すごいですね……」
ヒルダは小さく呟いた。
あの小さな島で出会った少年たちが、今ではこれほど立派に成長している。
そのことが、何より嬉しかった。
しかし、同時に胸の奥には、少しの迷いも残されていた。
もし、自分があの戦いへ割って入っていたら。
ダイたちがヒュンケルへ挑む前に、自分が代わりに戦っていたら。
もしかしたら、誰もあれほど傷つかずに済んだかもしれない。
けれど、その場合、ヒュンケルの心が変わることもなかったのだろうか。
クロコダインがダイたちを語ったときの、誇らしげな表情。そして、ヒュンケルが最後の力を振り絞り、3人を乗せた岩盤を投げ飛ばした姿。
それらを思い返すと、ヒルダには簡単に答えを出すことができなかった。
誰かを守ることと、誰かを信じること。
そのどちらも大切だと分かっている。いざ目の前に危険が迫れば、きっとまた迷ってしまうだろう。
それでも、今日のダイたちは、自分たちの力で困難を乗り越えた。
そして、ヒュンケルは彼らを守るために、自らの命を懸けた。
その命を、今度は自分が救うことができた。
ヒルダは静かに目を閉じた。
胸の奥に残っていた不安が、少しずつ和らいでいく。
やがて彼女は再び目を開き、小屋の中へ視線を向けた。
そこには、魔王軍の軍団長として戦ってきた2人の戦士がいる。
1人はダイたちとの戦いを通して誇りを取り戻し、もう1人は、その少年たちを救うために自らの命を投げ出そうとした。
そして今、2人とも生きている。
それが、何より大切なことだった。
「……クロコダインさんも、ヒュンケルさんも……早く元気になってくださいね」
ヒルダは小さく微笑んだ。
今頃、ダイとポップはどうしているのだろう。
マァムも無事に助かったのなら、きっと3人で一緒にいるのだろう。できることなら、すぐにでも会いに行きたかった。
しかし、彼らはまだ、ヒュンケルが生きていることを知らない。
おそらく、ヒュンケルはマグマに飲み込まれ、命を落としたと思っているのだろう。早く無事を知らせてあげたいと思う一方で、今はヒュンケルもクロコダインも、まだ十分に動ける状態ではなかった。特にヒュンケルは重傷を負っており、目が覚めるまで傍についていた方がよいだろう。
ヒルダは小屋の扉へ手をかけた。
そのとき、背後から穏やかな夜風が吹き抜けた。
長い水色の髪が静かに揺れ、純白の衣服の裾がふわりと広がる。
ヒルダは一度だけ振り返り、遠くの山々へ目を向けた。
地底魔城があった場所には、まだわずかな赤い光が残っている。
あの場所で何が起き、どのような戦いが繰り広げられたのか。それを詳しく知るのは、もう少し先のことになるだろう。
今はただ、ダイとポップが無事だったことを喜びたい。
そして、命を救うことができた2人の戦士にも、もう一度穏やかな朝を迎えてほしかった。
ヒルダは静かに微笑むと、見張り小屋の扉を開いた。
夜の静けさの中、遠くの森を抜ける風が、優しく吹き続けていた。
――第7話・了――