白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
パプニカの山々を包んでいた夜の闇は、いつになく深かった。
遠くのヴィオホルン山では、崩壊した地底魔城から今も赤い光が漏れ、夜空の一角を不気味に染めている。時折、低い地鳴りが丘陵地帯まで伝わってきたが、王都から離れた古い見張り小屋の周囲には、ようやく静けさが戻り始めていた。
ヒルダは小屋の扉を閉めると、室内へ目を向けた。
毛布の上には、銀髪の青年が静かに横たわっている。全身に深い傷を負い、マグマの熱に晒されたヒュンケルだったが、先ほどまで乱れていた呼吸は落ち着き、青白かった顔にもわずかながら血色が戻り始めていた。
その傍らでは、クロコダインが壁にもたれながら休んでいた。彼もまた、胸を深く貫かれるほどの重傷を負っていたものの、ヒルダの治療によって命の危険を脱し、今では短い距離なら自分の足で歩けるまでに回復している。
「……ヒュンケルさんのご様子は、いかがですか?」
ヒルダが尋ねると、クロコダインは静かに頷いた。
「うむ。先ほどから呼吸も安定しておる。どうやら峠は越したようだな」
「……よかったです」
少女は安堵したように微笑み、ヒュンケルの傍らへ歩み寄った。傷の状態を確かめようと手を伸ばしかけたが、すでに致命的な損傷は塞がっていることを思い出し、今は休ませておくことにする。
ヒルダ自身、少し休息が必要だった。
王都での救助活動から始まり、クロコダインの治療、地底魔城でのヒュンケルの救出、そして命をつなぎ止めるための集中治療。ここ数日、彼女はほとんど休む間もなく動き続けていた。
風の力を扱うことには慣れており、飛行や小規模な魔法なら、それほど大きな負担にはならない。しかし、瀕死の重傷者を癒やすとなれば話は別だった。傷ついた身体の状態を慎重に見極め、細心の注意を払いながらマナを送り込み続ける治療は、決して彼女の得意分野ではない。
まして、クロコダインとヒュンケルは、どちらも命を失いかねないほどの深手を負っていた。2人を救うために力を惜しまなかった結果、気づかぬうちにマナの消耗が重なり、身体にも相当な疲労が蓄積していた。
それでも、目の前に救える命がある以上、途中で手を止めることなど考えられなかった。
「……クロコダインさんも、もう少しお休みになってくださいね。まだ完全には治っていませんから」
「はっはっは。俺の心配までしてくれるのか。ヒルダ殿には、まったく頭が上がらんな」
クロコダインは豪快に笑いかけたが、すぐにその表情を改めた。
ヒルダが小さくよろめいたのである。
「……ヒルダ殿?」
「あ……。すみません。大丈夫です……」
少女は苦笑しながら答え、近くの椅子へ手を伸ばした。しかし、その指先が椅子の背に触れるよりも早く、膝から力が抜けた。
視界が大きく揺れ、足元の床が遠ざかっていく。
「……あれ……?」
自分の身体が傾いていると気づいたときには、もう踏みとどまることができなかった。
「ヒルダ殿ッ!」
クロコダインが反射的に身を乗り出した。
胸の傷に鋭い痛みが走ったが、それに構っている余裕はない。彼は大きな腕を伸ばし、床へ倒れかけた少女の身体を、寸前のところで受け止めた。
そのあまりの軽さに、思わず息を呑む。
「……おい、しっかりしろ! ヒルダ殿!」
呼びかけに返事はなかった。
少女の顔は青白く、額には冷たい汗が浮かんでいる。目立った外傷こそないものの、身体は力なくぐったりとしていた。つい先ほどまで自分たちの傷を気遣っていた少女の突然倒れた姿に、クロコダインは胸騒ぎを覚えた。
彼は慎重にヒルダを抱え上げ、室内に残されていた寝台へ運んだ。
今まで何度となく死地をくぐり抜けてきた獣王だったが、このときばかりは途方に暮れた。敵の攻撃による負傷ならば対処のしようもある。しかし、目の前の少女には傷ひとつなく、自分に何ができるのか、すぐには思いつかなかった。
ただ、心当たりはあった。
「……そういうことか……」
クロコダインは低く呟き、眠る少女を見つめた。
自分が致命傷を負ったとき、ヒルダは長い時間をかけて治療を続けてくれた。さらに今日、あれほどの重傷を負ったヒュンケルをマグマの中から救い出し、再び大量のマナを使って傷を癒やしていた。
あれだけの治療を立て続けに行えば、いかに優れた魔法使いであろうと、無事で済むはずがない。
それなのに彼女は、一度として自分の疲労を訴えなかった。
「……まったく。人のことばかり心配しおって……」
思わずこぼれた言葉に、責めるような響きはなかった。
クロコダインは静かに寝台の脇へ腰を下ろすと、ヒルダの額へ濡らした布を置いた。自分の傷が疼くのを感じながらも、今夜は彼女の傍にいてやろうと決める。
幸い、ヒルダの呼吸は安定していた。おそらく、限界近くまでマナを使い続けた反動なのだろう。ならば、今は無理に目覚めさせず、十分に休ませるべきだった。
クロコダインは部屋の奥へ目を向けた。
そこではヒュンケルが、まだ意識を取り戻さないまま眠っている。
自分も含め、ここにいる3人のうち、まともに動ける者は誰もいなかった。
「……世話になったのは、こちらの方だというのにな」
獣王は苦笑し、静かに目を伏せた。
かつて魔王軍六大軍団の一角を率い、多くの人間たちと戦ってきた自分が、今では人間の少女に命を救われ、その少女を案じている。
ロモスでダイたちと出会う前ならば、想像さえできなかったことだった。
しかし、不思議と悪い気分ではない。
むしろ、誰かの命を守るために力を使えることが、今は誇らしく思えた。
「……安心して休むがいい、ヒルダ殿。今度は俺がお前を守ってやる」
クロコダインはそう呟くと、見張り小屋の扉へ視線を向けた。
夜はまだ長い。
だが、少なくとも今夜は、この場所にいる誰の命も失わせるつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
ヒルダが次に目を開いたとき、窓からは柔らかな朝の光が差し込んでいた。
しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない木造の天井。身体に掛けられた厚手の毛布。そして、すぐ近くから聞こえてくる、低く落ち着いた寝息。
ゆっくりと顔を動かすと、寝台の傍らでクロコダインが腕を組んだまま眠っていた。
「……クロコダインさん……?」
小さく声をかけると、獣王はすぐに目を開いた。
「……む。おお、ヒルダ殿! 気がついたか!」
彼は大きく身を起こしかけたが、胸の痛みに気づいて動きを緩めた。その様子を見たヒルダは慌てて身体を起こそうとしたものの、今度は自分の頭がふらつき、思わず寝台へ手をついた。
「……あ、あの……わたし……」
「無理に起きるな。昨夜、突然倒れたのだぞ」
クロコダインの声は穏やかだったが、そこには普段よりも強い調子があった。
ヒルダは驚いたように目を瞬かせ、少しずつ昨夜の出来事を思い出した。ヒュンケルの治療を終え、クロコダインの傷を確かめ、それから急に目の前が暗くなって――。
「……すみません。ご心配をおかけしてしまいましたね……」
「謝る必要などない。それよりも、ヒルダ殿は自分の身体を少し軽く考えすぎではないか?」
思いがけない言葉に、ヒルダは小さく首を傾げた。
「……そうでしょうか?」
「うむ。少なくとも、昨夜の様子を見ればそう思わずにはいられん。俺たちを助けるために、相当な無理をしたのだろう?」
その問いに、ヒルダは少し困ったように微笑んだ。
「……確かに、回復魔法を使いすぎてしまったかもしれません。でも、お二人とも助かりましたから……」
「だからといって、助けた当人が倒れてしまっては元も子もあるまい」
クロコダインはそう告げると、傍らに置いていた水差しを手に取った。
ヒルダはまだ何か言いたげだったが、差し出された水を素直に受け取る。冷たい水が喉を通ると、ひどく乾いていたことに初めて気づき、ゆっくりと何口か飲み干した。
「……ありがとうございます」
「うむ。食べられそうなら、少し腹にも入れた方がよい。ガルーダに頼んで、食料も調達してある」
クロコダインが視線を向けた先には、パンや干し肉、果物が置かれていた。どれも飾り気のないものだったが、今のヒルダには十分にありがたい。
もっとも、そこまで世話をかけてしまったことには、少しばかり申し訳なさを感じた。
「……あの、クロコダインさんのお怪我は……」
「心配無用だ。お前のおかげで、だいぶ楽になった。それに、こうして看病するくらいなら問題ない」
獣王は自分の胸を軽く叩こうとして、途中で思いとどまった。
その仕草に、ヒルダは思わず小さく笑ってしまった。
「……ふふっ。そうですね。でも、どうか無理はなさらないでください」
「それはこちらの台詞だぞ、ヒルダ殿」
クロコダインが苦笑すると、ヒルダも少し照れくさそうに微笑んだ。
不思議なものだった。
少し前まで互いの名前さえ知らなかったというのに、今ではこうして冗談を交わせるほど、心の距離が近づいている。
ヒルダはしばらく穏やかな気持ちでいたが、ふと部屋の奥へ視線を向けた。
「……ヒュンケルさんは……?」
「まだ眠っておる。ただ、昨夜よりも顔色はよくなった。お前の治療が効いているのだろう」
その言葉を聞き、ヒルダは安堵したように息をついた。
そして、もう1つ気になっていたことを思い出した。
「……ダイくんたちは……」
「うむ。気になるだろうな」
クロコダインは頷くと、窓の外へ目を向けた。
「ガルーダには、あの少年たちの行方を探ってもらっている。今のところ新しい知らせはないが、何か分かればすぐに戻ってくるはずだ」
「……そうだったんですね。ありがとうございます」
ヒルダは嬉しそうに微笑み、寝台から足を下ろそうとした。
「……それでしたら、わたしも少し探して――」
「待て待て!」
クロコダインが慌てて制した。
「つい先ほど目を覚ましたばかりではないか。今の身体で出歩いてどうする」
「……でも、ダイくんたちも、お怪我をされていましたから……」
「それは俺も承知している。だが、あの少年たちは自分の足で地底魔城から脱出したのだろう? 少なくとも、お前が今すぐ駆けつけねば命が危ないという状態ではないはずだ」
ヒルダは口を閉じた。
確かに、地底魔城から脱出した3人は、岩盤の上で自分の身体を支えていた。負傷していたことは間違いないものの、すぐに命を失うほどの重傷には見えなかった。
それに比べて、ヒュンケルはまだ意識すら取り戻していない。
クロコダインも、無理に動けば傷が開くおそれがある。
自分が今すべきことは、何なのだろう。
ヒルダは少し考えたあと、静かに頷いた。
「……分かりました。もう少し、休ませていただきますね」
「うむ。それがよい」
クロコダインは満足そうに頷き、食料の入った袋を彼女の傍らへ置いた。
「まずは腹ごしらえだ。俺もここで休んでおるから、何かあれば遠慮なく言ってくれ」
「……はい。ありがとうございます、クロコダインさん」
ヒルダは柔らかく微笑み、差し出されたパンを手に取った。
久しぶりに、誰かのためではなく、自分自身の身体を休ませる時間だった。
そのことに少し戸惑いながらも、彼女は素直にクロコダインの厚意に甘えることにした。
◇ ◇ ◇
ヒュンケルが意識を取り戻したのは、その翌日のことだった。
初めに感じたのは、胸の奥に残る鈍い痛みだった。身体を動かそうとすると、背中から肩にかけて強い違和感が走り、思わず眉を寄せる。
しかし、その痛みは、彼が最後に覚えていたものとは比べものにならないほど軽かった。
地底魔城での戦い。
ダイの放った《ライデインストラッシュ》。
そして、フレイザードによって引き起こされた火山の噴火。
崩れ落ちる岩盤の上で、最後の力を振り絞ってダイたちを逃がしたところまでは覚えている。あの少年たちだけでも生き延びてほしいと願い、迫り来るマグマを見つめていた。
最後に感じたのは、全身を焼き尽くさんばかりの凄まじい熱だった。
あのとき、自分は死んだはずだった。
「……ここは……?」
掠れた声が漏れた。
薄暗い天井を見つめながら、ヒュンケルはゆっくりと身体を起こそうとした。しかし、胸から腹部にかけて鋭い痛みが走り、思わず片手をつく。
「……目が覚めたか、ヒュンケル」
聞き覚えのある低い声がした。
顔を向けると、部屋の隅に巨大な獣人が腰を下ろしていた。
クロコダインだった。
ヒュンケルは一瞬、言葉を失った。
「……クロコダイン……? お前、生きていたのか……」
「うむ。おかげさまでな」
クロコダインは穏やかに答え、ゆっくりと立ち上がった。胸の傷にはまだ痛みが残っていたが、休養と治療のおかげで、以前よりもずっと楽に動けるようになっている。
ヒュンケルはその様子を見つめ、表情を曇らせた。
「……俺は、お前を……」
「傷のことなら、今さら気にするな。お前も俺も、あの戦いでは敵同士だったのだ」
クロコダインはそう告げると、近くに置かれていた水差しを手に取った。
「それより、まずは水でも飲め。随分と長く眠っていたからな」
差し出された器を、ヒュンケルはしばらく見つめていた。
自分が剣で貫いた相手が、何事もなかったかのように水を差し出している。怒鳴るでもなく、責めるでもなく、ただ昔からの戦友に接するような態度だった。
ヒュンケルはゆっくりと器を受け取り、水を口に含んだ。
乾ききっていた喉が潤うと、少しずつ思考がはっきりしてくる。ここが地底魔城ではないことは明らかだったが、なぜ自分が生きているのか、どうしてクロコダインが傍にいるのか、分からないことばかりだった。
「……なぜ、俺は生きている?」
その問いに、クロコダインは静かに頷いた。
「俺がここにいることも、お前が助かったことも、ある者のおかげだ」
「……ある者?」
「ヒルダ殿という、人間の娘だ。お前も一度、会っているはずだが」
その名前を聞いた瞬間、ヒュンケルの表情が変わった。
水色の長い髪。
純白の軽鎧と、背中に負った巨大な銀白色の剣。
王都地下で出会い、短い時間ながらも剣を交えた少女の姿が脳裏に蘇った。
「……あの女剣士か……」
「うむ。俺が瀕死の重傷を負っていたところを助けてくれたうえ、お前までマグマの中から救い出してくれたのだ」
「……何だと……?」
ヒュンケルは目を見開いた。
最後に覚えているのは、崩れ落ちる岩盤と、全身を呑み込んだ灼熱のマグマだった。あの状況から生きて戻れるはずなどないと思っていたのに、王都地下で剣を交えたあの少女が、わざわざマグマの中へ飛び込み、自分を救い出したという。並外れた腕を持つ剣士であることは分かっていたが、まさかそこまでの力を秘めていたとは、思いもしなかった。
まして、致命傷に近い深手を負った自分が、今こうして生きている。
クロコダインは、そんな青年の表情を見ながら静かに続けた。
「お前の傷は、俺のものよりもはるかに深かったそうだ。それを長い時間かけて癒やしてくれた。……ただし、ヒルダ殿自身も、かなり無理をしたようだがな」
「……どういうことだ?」
「俺たちの治療で、大量のマナを消耗してしまったのだ。お前をここへ運んできたあと、とうとう倒れてしまった」
ヒュンケルは何も答えなかった。
王城地下で剣を交えたとき、あの少女は自分との戦いよりも、逃げ遅れた人々を救うことを優先していた。今度は、かつて刃を向けた相手の命を救うために、自分自身が倒れるほど力を使ったという。
彼女が何を思ってそこまでしたのか、ヒュンケルには分からなかった。
けれど、今だからこそ、少しだけ理解できることもあった。
あの地底魔城で、自分が最後に選んだこと。
ダイたちを生かすためならば、自分がどうなっても構わないと思った、その瞬間の気持ち。
彼女もまた、同じような思いで行動したのだろうか。
「……そのヒルダは、今どこにいる?」
「少し前まで休んでいたが、今は外へ出ておる。身体を動かせるようにはなったものの、まだ顔色はよくない。……お前が目覚めたと知れば、きっと喜ぶだろう」
クロコダインの言葉に、ヒュンケルは静かに目を伏せた。
喜ぶ。
その言葉が、胸の奥へ奇妙な重さを伴って落ちてきた。
人々を苦しめ、魔王軍の軍団長として剣を振るってきた自分が、生きていることを喜ばれる。
そんなことが、あってよいのだろうか。
「……俺は……」
ヒュンケルは口を開きかけた。
しかし、続く言葉が見つからなかった。
クロコダインはしばらく彼を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「ヒュンケル。お前が地底魔城で何を思い、ダイたちを救ったのか、俺には詳しいことは分からん。だが、あの少年たちを守るために命を懸けたことだけは、ヒルダ殿から聞いておる」
ヒュンケルは顔を上げた。
「……ダイたちは、無事なのか?」
「うむ。3人とも、マグマの届かぬ場所へ脱出したそうだ」
その返答を聞き、ヒュンケルはようやく小さく息をついた。
目を閉じると、最後に見た少年たちの姿が浮かんだ。
自分へ向かって何かを叫んでいたダイ。
懸命に身を乗り出していたポップ。
そして、最後まで自分を信じようとしてくれたマァム。
あの3人が助かったのなら、少なくとも最後に選んだ行動は無駄ではなかった。
「……そうか。ならば、よかった……」
その声に、クロコダインはわずかに微笑んだ。
そして、傷ついた身体を支えながら、ヒュンケルの前へ腰を下ろした。
「……お前が何を背負っているのか、俺にも少しは分かるつもりだ。俺とて、ダイたちに出会うまでは、魔王軍の一員として数えきれぬ人間と戦ってきたのだからな」
ヒュンケルは黙って聞いていた。
「だが、過去に犯した過ちが消えぬからといって、これから先も同じ道を歩まねばならぬわけではあるまい。生き残ったのなら、その命を何に使うかは、お前自身が決めればよい」
クロコダインの言葉は、飾り気のないものだった。
慰めようとしているわけでも、許しを与えようとしているわけでもない。
ただ、同じように魔王軍へ身を置き、少年たちによって心を動かされた戦士として、今の自分にできることを語っていた。
ヒュンケルはしばらく俯いていたが、やがて静かに頷いた。
「……ああ。分かっている」
その声には、まだ苦しさが残っていた。
しかし、少なくとも、かつてのような冷たい憎しみは感じられなかった。
◇ ◇ ◇
ヒルダが小屋へ戻ってきたのは、それから間もなくのことだった。
近くの沢で汲んできた水を手に、静かに扉を開いた彼女は、毛布の上で身体を起こしている青年の姿を見つけると、驚いたように目を見開いた。
「……ヒュンケルさん……!」
その声に、ヒュンケルが顔を向けた。
王城地下で見たときと同じ、長い水色の髪と純白の衣服。背中には、巨大な銀白色の剣《アストレア》が背負われている。
しかし、あのときとは少し違っていた。
少女の顔色は青白く、どことなく疲れが残っている。足取りも普段ほど確かではなく、戸口からこちらへ歩いてくる間に、一度だけ壁へ手を添えていた。
ヒュンケルはその姿を見つめ、眉を寄せた。
「……お前が、俺を助けたのか」
「……はい。ご無事で、よかったです」
ヒルダは嬉しそうに微笑むと、水差しを机へ置き、青年の傍らへ膝をついた。
「……お身体はいかがですか? まだ痛むところはありませんか?」
「……多少はな。だが、動けぬほどではない」
「そうですか。よかったです……」
そう言って、ヒルダは彼の胸元へ手を伸ばした。
傷の状態を確かめ、必要ならばもう一度回復魔法を施すつもりだったのだろう。しかし、その指先が淡く輝き始めたところで、ヒュンケルが静かに口を開いた。
「……待て」
ヒルダは不思議そうに顔を上げた。
「……はい?」
「俺の傷なら、もう十分だ。それ以上、無理をする必要はない」
彼女は少し驚いたように瞬きした。
ヒュンケルはそんな少女を見つめながら、言葉を続けた。
「クロコダインから聞いた。俺たちを治療したせいで、お前自身が倒れたそうだな」
「……あ……。それは、少しマナを使いすぎてしまっただけですから……」
「少し、ではあるまい」
その言葉に、ヒルダは思わず口を閉じた。
声を荒らげたわけではなかった。しかし、ヒュンケルの眼差しには、これ以上無理をさせまいとする強い意志があった。
「……俺は、お前に命を救われた。その恩は忘れん。だが、俺のためにお前が倒れることまで望んではいない」
ヒルダはしばらく青年を見つめていた。
王城地下で対峙したとき、彼の眼差しには冷たい敵意が宿っていた。自分へ向けられたものではなかったとはいえ、その奥には、何かを深く憎む者だけが持つ険しさがあった。
しかし、今のヒュンケルには、そのときとは違う表情が浮かんでいた。
むしろ、目の前の自分を心配しているように見える。
「……ありがとうございます、ヒュンケルさん」
ヒルダは穏やかに微笑んだ。
「でも、わたしは大丈夫です。少し休めば、マナも戻りますから」
「……その言葉は、今の顔色が戻ってから言うことだな」
思いがけない返答に、ヒルダは目を丸くした。
傍らで聞いていたクロコダインが、たまらず笑い声を漏らす。
「はっはっは! まったくだ! ヒルダ殿は、自分のことになると少々頑固らしい」
「……えっ? そ、そんなことは……」
慌てて否定しかけたヒルダだったが、2人の視線を受けると、それ以上言葉を続けられなくなった。
確かに、昨夜は倒れてしまった。
今も、身体が万全でないことは自分でも分かっている。
「……うぅ……。そうですね。少し、反省します……」
しょんぼりと肩を落とす少女の姿に、クロコダインはまた笑った。
ヒュンケルも、口元をわずかに緩めた。
それはほんの一瞬のことだったが、彼が王城地下で見せたことのない、穏やかな表情だった。
ヒルダはその変化に気づき、少し嬉しくなった。
けれど、何も言わなかった。
ただ、目の前の青年がこうして生きていることを、静かに喜んでいた。
しばらくして、ヒュンケルが再び口を開いた。
「……ヒルダ」
「はい。何でしょう?」
「……なぜ、俺を助けた?」
その問いは、先ほどの礼とは違う響きを持っていた。
ヒルダは静かに青年を見つめた。
ヒュンケルの視線は、まっすぐ彼女へ向けられている。自分が何をしてきたのかを忘れていないからこそ、彼には尋ねずにいられなかったのだろう。
「……お前は、パプニカの人々を助けていた。ならば、俺がこの国で何をしてきたのか、知らぬはずはない」
「……はい」
ヒルダは小さく頷いた。
崩れた王都。
魔物に怯えながら地下へ隠れていた人々。
失われた命と、帰らぬ家族を待ち続ける者たち。
それらを思い出すと、今でも胸が痛んだ。
「……わたしも、王都でたくさんの方とお会いしました。ヒュンケルさんが率いていらした不死騎団の方たちとも、何度も戦いました」
その答えを聞き、ヒュンケルの表情がわずかに曇った。
「……ならば、なぜだ」
ヒルダは少し考えたあと、静かに答えた。
「……あのとき、ヒュンケルさんは、ダイくんたちを助けてくださいました」
「…………」
「ご自分が逃げられないと分かっていても、あの子たちを守ろうとして……。わたしは、その姿を見ていました」
彼女はそこで言葉を切り、目の前の青年へ穏やかな眼差しを向けた。
「……だから、助けたかったんです。せっかく誰かを守ろうとされたのに、そのまま亡くなってしまうなんて……悲しいですから」
ヒュンケルは何も答えなかった。
その沈黙を、ヒルダは無理に埋めようとはしなかった。
彼が犯してきたことを、たった1度の行動で帳消しにできるとは思っていない。しかし、あの地底魔城でヒュンケルが示した思いも、確かに彼自身のものだったはずだ。
「……わたしは、ヒュンケルさんがこれからどうされるのか、まだ分かりません。でも、もしお話を聞かせていただけるなら……いつか、ゆっくりお聞きしたいと思っています」
ヒュンケルはゆっくりと目を伏せた。
王城地下で剣を交えたとき、自分はこの少女に何を語っただろう。
人間への憎しみ。
師に対する恨み。
そして、復讐のために剣を振るうことへの執着。
今となっては、それらの言葉を思い返すことさえ苦しかった。
いずれ、彼女にもすべてを話さなければならないだろう。
しかし、今はまだ、自分の中で整理しきれていないものがあまりにも多かった。
「……そうか」
しばらくして、ヒュンケルは小さく答えた。
「……そのときが来たら、話そう」
ヒルダは嬉しそうに微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます」
その笑顔を見つめながら、ヒュンケルは静かに息をついた。
自分が生き残ったことに、まだ戸惑いはある。
だが、少なくとも、この命をどう使うべきか考える時間は与えられた。
それを無駄にしてはならない。
ヒュンケルは、そう心に誓った。
◇ ◇ ◇
それからの短い日々、見張り小屋では穏やかな時間が流れた。
もっとも、3人が何もせずに休んでいたわけではない。
クロコダインは自分の傷を労わりながら、食料や水の確保に努めていた。ヒュンケルも少しずつ身体を動かし始め、最初は立ち上がることさえ難しかったものの、日を追うごとに歩ける距離を伸ばしていった。
そしてヒルダは、2人の傷の回復を確かめながら、必要な治療を続けていた。
ただし、以前のように無理を重ねることは許されなかった。
「……ヒルダ殿。そのくらいにしておけ。今日はもう十分だろう」
クロコダインが声をかけると、ヒルダは少し困ったように微笑んだ。
「……でも、もう少しで傷が塞がりそうなんです。あと少しだけ……」
「昨日も同じことを言っておったぞ」
「……あ……」
ヒルダが言葉に詰まると、傍らにいたヒュンケルが静かに口を開いた。
「……傷が多少残っていても、戦うことはできる。俺たちを完治させるために、お前が動けなくなっては意味がない」
その言葉に、クロコダインも深く頷いた。
「うむ。ヒュンケルの言うとおりだ。そもそも、俺たちは元々身体が頑丈なのだ。そう簡単にくたばりはせん」
ヒルダは2人の顔を交互に見つめた。
どちらも、自分よりはるかに大きな身体を持つ屈強な戦士だった。とりわけクロコダインは、まだ胸に傷痕が残っているというのに、すでに豪快な笑い声を取り戻している。
確かに、2人とも驚くほどの回復力を持っているらしい。少なくとも、命をつなぎ止めるために必死で治療を続けていた頃とは、明らかに状態が違っていた。
「……そうですね。それでは、今日はここまでにしましょうか」
ヒルダがようやく手を下ろすと、クロコダインは満足そうに頷いた。
ヒュンケルも何も言わなかったが、その表情にはわずかな安堵が浮かんでいる。
もっとも、ヒルダには少し不思議だった。
つい数日前まで魔王軍の軍団長として戦っていた2人が、今では揃って自分の身体を心配してくれている。しかも、どちらも一度言い出したら簡単には譲らない性格らしく、治療を続けようとするたびに止められてしまうのだ。
少し困ってしまうこともあったが、それでも嫌な気分にはならなかった。
誰かから気遣われることの温かさを、彼女もよく知っていたからである。
その日の午後、ヒルダは小屋の外へ出ると、近くの木陰に腰を下ろした。
丘の向こうには、パプニカ王都へ続く街道が見える。以前より魔物の姿は少なくなっていたものの、まだ完全に安全になったわけではなく、遠くの山道を進む人影を見つけるたびに、彼女は慎重に様子を確かめていた。
ふと、背後から足音が聞こえた。
「……ここにいたのか」
振り返ると、ヒュンケルが立っていた。
彼はすでに自分の足で歩けるほどに回復しており、傷ついた身体を庇う様子こそ残っていたものの、以前のような危うさはほとんど感じられなくなっていた。
「……ヒュンケルさん。もう歩いていらっしゃるんですか?」
「……ああ。いつまでも寝ているわけにはいかん」
青年はそう答えると、少し離れた岩へ腰を下ろした。
ヒルダはその様子を見つめ、安堵したように微笑んだ。
「……よかったです。もう少しで、以前のように動けるようになりそうですね」
「……お前のおかげだ」
短い返答だったが、その声には心からの感謝が込められていた。ヒルダは少し照れくさそうに微笑み、遠くの景色へ視線を戻した。
しばらく、2人は黙って丘の向こうを眺めていた。
風が木々の間を通り抜け、柔らかな葉擦れの音を響かせている。遠くには小鳥の鳴き声も聞こえ、つい数日前まで激しい戦いが行われていたとは思えないほど、穏やかな午後だった。
「……ヒルダ」
やがて、ヒュンケルが口を開いた。
「……お前は、これからどうするつもりだ?」
ヒルダは少し考えたあと、静かに答えた。
「……まずは、ダイくんたちにお会いしたいと思っています。皆さん、お怪我をされていましたから……」
「……あいつらなら、大丈夫だろう」
ヒュンケルの言葉に、ヒルダは顔を向けた。
「……そうでしょうか?」
「……少なくとも、簡単に倒れるような連中ではない。俺はあいつらと、実際に剣を交えたからな」
彼はそう言って、遠くの空へ目を向けた。
ダイの剣。
ポップの魔法。
そして、マァムが最後まで自分へ向けてくれた言葉。
あの3人には、それぞれに強さがあった。
単に戦いの腕前だけではない。どれほど追い詰められても、簡単には諦めようとしない心。そして、仲間を信じ、守ろうとする意志。
それらがなければ、自分は今も憎しみに囚われたままだったかもしれない。
「……あいつらには、俺も教えられたことがある。だから、今度は俺が力になりたいと思っている」
ヒュンケルは静かに続けた。
「……この身体が動くようになったら、俺もダイたちを探すつもりだ」
ヒルダはその横顔を見つめた。
彼が何を思い、どのような覚悟を決めたのか、詳しいことまでは分からない。しかし、王城地下で初めて会ったときとは明らかに違っていた。
今のヒュンケルは、誰かを倒すためではなく、誰かの力になるために剣を握ろうとしている。
その変化が、ヒルダには嬉しかった。
「……そうなんですね」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「……それでしたら、きっとダイくんたちも喜んでくれると思います」
ヒュンケルは何も答えなかった。
しかし、しばらくして、その口元にわずかな笑みが浮かんだ。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻、ガルーダが見張り小屋へ戻ってきた。
大きな翼が丘の上へ影を落とし、力強い羽ばたきとともに巨鳥が地面へ降り立つ。その様子を見ていたクロコダインはすぐに立ち上がり、嬉しそうに声をかけた。
「……おお、ガルーダ! 戻ったか!」
ガルーダは主人へ近づくと、短く鳴きながら大きな頭を上下させた。
ヒルダとヒュンケルも、何事かと小屋の外へ出てくる。
「……クロコダインさん。何か分かったんですか?」
「うむ。少し待ってくれ」
クロコダインは巨鳥の首へ手を添え、しばらくその様子を確かめていた。
ガルーダは何度か鳴き声を上げ、翼を広げて北の空を指し示す。主人の問いかけに応えるように首を動かす仕草から、どうやら何らかの情報を伝えようとしているらしかった。
やがて、クロコダインの表情が変わった。
「……なるほど。そういうことか」
「……何があった?」
ヒュンケルが尋ねると、クロコダインは2人へ向き直った。
「ガルーダが、ダイたちの姿を見つけたらしい。どうやら、小舟に乗って北方の海へ向かっているようだ」
「……小舟、ですか?」
ヒルダは少し驚いたように目を見開いた。
「うむ。しかも、普通の船とは思えぬ速さで、海面すれすれを飛んでいたそうだ。どうやら、何らかの魔法の力で動いているらしい」
クロコダインの言葉を聞き、ヒルダは北の空へ目を向けた。
小舟に乗って海を渡っているということは、きっと何か急ぐ理由があるのだろう。少なくとも、ダイたちが無事に行動を続けていると分かったことに、彼女は胸を撫で下ろした。
しかし、クロコダインの表情は真剣だった。
「それだけではない。ガルーダの話では、北の島に魔王軍の兵が集結しているらしい。ダイたちの向かう先も、どうやらその島のようだ」
「……魔王軍が……?」
ヒュンケルが眉を寄せた。
魔王軍の動きを知る彼には、ダイたちの向かう先に兵が集結していることが、単なる偶然とは思えなかった。もし魔王軍が彼らの行動を察知しているのだとすれば、何らかの罠を仕掛けて待ち構えている可能性もある。
「……妙だな。あいつらが魔王軍の動きを知らずに向かっているとすれば、かなり危険な状況だ」
「うむ。魔王軍が待ち構えている可能性があるなら、なおさら放ってはおけんな。俺たちも急いで後を追おう。今度はあの少年たちに、恩を返す番だ」
クロコダインの言葉に、ヒュンケルは静かに頷いた。
「……ああ。俺も行く」
ヒルダは2人を見つめた。
クロコダインの胸の傷は、すでにほとんど塞がっている。ヒュンケルも自分の足で歩き、剣を握れるほどに回復していた。
まだ完全に以前と同じ状態ではないものの、2人とも戦士としての力を取り戻しつつある。
一方、ヒルダ自身は、まだ万全とはいえなかった。
休息によって一度は回復しかけたマナも、2人の傷を治療するたびに消耗している。特にヒュンケルの深手を癒やすためには相当な力を使っており、今朝も治療を終えたあと、しばらく立ち上がることができなかった。
それでも、目の前の2人が再び戦えるようになったことは、何より嬉しかった。
クロコダインは、そんな少女の様子を見て静かに頷いた。
「……ヒルダ殿」
「……はい?」
「俺たちは、ダイたちの後を追うつもりだ。だが、お前はここで身体を休めていてくれ」
思いがけない言葉に、ヒルダは目を瞬かせた。
「……えっ?」
「お前には、もう十分すぎるほど世話になった。俺もヒュンケルも、こうして動けるようになったのは、お前のおかげなのだ」
クロコダインは穏やかな声で続けた。
「今度は、俺たちがあの少年たちの力になる番だ。ヒルダ殿は何も心配せず、ゆっくり休んでいるがよい」
その言葉に、ヒュンケルも頷いた。
「……俺も同じ考えだ。お前はまだ回復しきっていない。これ以上無理をする必要はない」
ヒルダはしばらく2人を見つめていた。
自分を気遣ってくれていることが、よく分かる。
クロコダインもヒュンケルも、彼女がどれほどの力を持っているか、そのすべてを知っているわけではない。しかし、少なくとも命を救ってもらったことへの感謝と、これ以上無理をさせたくないという思いは、言葉にしなくても伝わってきた。
「……ありがとうございます」
ヒルダは柔らかく微笑んだ。
そして、少しだけ目を伏せた。
休息が必要であることは、自分でも分かっている。
無理に治療を続ければ、また倒れてしまうかもしれない。今の身体では、普段と同じように戦えるかどうかも分からなかった。
それでも、胸の奥に残る不安を拭い去ることができなかった。
ガルーダが見つけたという、北方の海へ向かったダイたち。
その周辺に集まり始めている魔王軍の兵士たち。
別々に聞けば、どちらも不思議な話ではない。ダイたちはレオナ姫を探しているのだろうし、魔王軍が各地で活動していることも、今さら驚くようなことではなかった。
しかし、なぜか気になった。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚がある。
理由をはっきり説明することはできない。それでも、このまま2人だけを見送ってしまえば、何か大切なものを見落としてしまうような気がしてならなかった。
ヒルダはゆっくりと顔を上げた。
「……あの、クロコダインさん。ヒュンケルさん」
2人が彼女へ視線を向ける。
「……わたしも、ご一緒させていただけませんか?」
クロコダインは、少し困ったように眉を寄せた。
「……ヒルダ殿。先ほども言ったが、お前はまだ……」
「……はい。分かっています」
ヒルダは静かに頷いた。
「まだ本調子ではありませんし、無理をしてはいけないことも、分かっているつもりです。でも……」
そこで言葉を切り、遠くの北の空へ目を向けた。
「……何だか、嫌な予感がするんです」
クロコダインとヒュンケルは、互いに顔を見合わせた。
ヒルダは少し困ったように微笑んだ。
「……上手く説明できなくて、すみません。でも、ダイくんたちのことが、どうしても気になってしまって……」
その声は穏やかだったが、眼差しには確かな意志が宿っていた。
クロコダインは小さく息をついた。
目の前の少女が、ただの思いつきで同行を申し出ているわけではないことは分かる。彼女自身、今の身体で無理をすることが危険だと理解しているのだろう。
それでも、何かを感じ取り、行かずにはいられない。
そんな性格なのだと、彼もこの数日で十分に思い知らされていた。
「……まったく。ヒルダ殿には、どうにも敵わんな」
苦笑したクロコダインへ、ヒルダは少し不思議そうに首を傾げた。
その傍らで、ヒュンケルが静かに口を開いた。
「……分かった。だが、無理はするな」
ヒルダは顔を上げた。
「……ヒュンケルさん……」
「お前がどうしても行くと言うのなら、止めはせん。だが、今度は俺たちが戦う。お前まで無理をして倒れる必要はない」
その言葉に、クロコダインも力強く頷いた。
「うむ。俺たちが前へ出る。ヒルダ殿は、まず自分の身体を大切にしてくれ」
ヒルダは、しばらく2人を見つめていた。
そして、静かに微笑んだ。
「……はい。ありがとうございます」
その笑顔には、心からの安堵が浮かんでいた。
クロコダインは満足そうに頷き、傍らのガルーダへ目を向けた。
「……さて、そうと決まれば出発の準備だな。ガルーダ、もう一度頼むぞ」
巨鳥は力強く翼を広げ、鋭い鳴き声を上げた。
その様子を見て、ヒルダも静かに立ち上がった。
しかし、その瞬間、わずかな目眩が襲った。
「……っ……」
彼女は一瞬だけ足を止めた。
すぐ傍にいたヒュンケルは、その変化を見逃さなかった。
「……ヒルダ」
「……あっ。大丈夫です。少し立ちくらみがしただけですから」
慌てて微笑む少女を見て、ヒュンケルは小さく眉を寄せた。
しかし、それ以上は責めなかった。
代わりに、彼女の傍らへ歩み寄ると、静かに告げた。
「……何かあれば、すぐに言え。俺たちに遠慮する必要はない」
ヒルダは驚いたように青年を見上げた。
王城地下で初めて会ったときには、想像もできなかった言葉だった。
けれど、今はその気遣いが素直に嬉しかった。
「……はい。ありがとうございます」
ヒルダはそう答えると、改めて北の空を見つめた。
◇ ◇ ◇
出発の準備を終えた頃には、太陽が西へ傾き始めていた。
クロコダインは残されていた食料や水をまとめ、持ち運べるように荷物を整えていた。ヒュンケルも身支度を済ませ、傷ついた身体の具合を確かめている。
かつて身につけていた《鎧の魔剣》は、ダイとの戦いによって大きく損傷していた。それでも、ヒュンケルの心に迷いはなかった。
再び剣を握る。
その意味は、以前とはまったく違っていた。
誰かを憎み、復讐を果たすためではない。
今度こそ、自分の意志で誰かを守るために。
その決意を胸に、ヒュンケルは小屋の外へ歩み出した。
一方、ヒルダは小屋の前に立ち、周囲の風を確かめていた。
軽く手をかざすと、空気が彼女の意志に応えるように流れ始める。これくらいの風を操ることなら、今の状態でも難しくはなかった。
しかし、身体の奥に残る疲労までは消えていない。激しい戦闘が続けば、普段のように動けるかどうか分からなかったし、誰かが重傷を負ったとしても、すぐに十分な治療を施せるとは限らなかった。
今は、これ以上無理を重ねないこと。
必要なときには、2人を頼ること。
そう約束したのだから、今度こそ守らなければならない。
「……ヒルダ殿。準備はよいか?」
クロコダインの声に、ヒルダは顔を上げた。
「……はい。大丈夫です」
「うむ。では、行くとしよう」
クロコダインは荷物をまとめると、ガルーダへ向かって大きく片手を上げた。
巨鳥は主人の呼びかけに応えるように翼を広げ、力強く地面を蹴って舞い上がる。そのままクロコダインの頭上で大きく旋回すると、両脚を伸ばし、鎧に覆われた肩を左右からしっかりと掴んだ。
次の瞬間、ガルーダの翼が力強く羽ばたき、クロコダインの巨体がゆっくりと地面から浮かび上がった。
「よし、その調子だ! 頼むぞ、ガルーダ!」
クロコダインの声に応えるように、巨鳥は鋭く鳴いた。
その様子を見ていたヒルダは、安堵したように微笑んだ。クロコダインの傷が再び開くことを心配していたが、ガルーダは慣れた様子で主人の身体を支え、安定した姿勢で飛行している。
ヒルダは続いて、傍らのヒュンケルへ顔を向けた。
「……ヒュンケルさん、準備はよろしいですか?」
「……ああ。いつでもいい」
「……分かりました。それでは、ふわっといきますね」
ヒルダは穏やかに微笑み、両手を軽く広げた。
次の瞬間、柔らかな風がヒュンケルの身体を包み込み、足元からゆっくりと持ち上げていく。
突然の浮遊感に、ヒュンケルは思わず目を見開いた。
「……何!?」
「……あっ、すみません。少し驚かせてしまいましたね」
ヒルダは申し訳なさそうに微笑んだ。
「ガルーダさんにはクロコダインさんを運んでいただきますので、ヒュンケルさんは、わたしと一緒に飛んでいただこうかと思いまして……」
「……そういうことは、先に言ってくれ」
ヒュンケルが呆れたように答えると、少し上空からクロコダインの笑い声が響いた。
「はっはっは! よいではないか、ヒュンケル! なかなか経験できることではないぞ!」
「……お前は、少し黙っていろ」
そのやり取りを聞き、ヒルダも思わず小さく笑った。
ほんの数日前まで敵同士だった者たちが、今はこうして同じ目的のために並んでいる。
不思議な縁だった。
けれど、そのことを喜んでいるのは、きっと自分だけではないだろう。
ヒルダはそう思いながら、ゆっくりと高度を上げた。
ガルーダもクロコダインを吊り下げたまま、力強く翼を羽ばたかせる。3人と1羽は高度を揃えると、北方の海へ向かって飛行を始めた。
眼下では、古い見張り小屋が少しずつ小さくなっていく。
ここで過ごした数日間。
命を救い、救われ、互いに言葉を交わした時間。
それは、3人にとって決して長いものではなかったが、確かな変化をもたらしていた。
ヒルダは遠ざかる小屋を一度だけ振り返り、静かに微笑んだ。
そして、北へ向かって飛行を続けた。
遥か遠くには、青い海が広がっている。
その先で何が待っているのか、今はまだ分からない。ただ、ヒルダの胸に残る小さな不安は、海へ近づくにつれて少しずつ強くなっていた。
彼女はそっと胸元へ手を添えた。
「……ダイくん……。ポップさん……」
小さく呟いた声は、風の中へ消えていった。
その傍らでは、ヒュンケルが静かに前方を見つめている。
そして、少し先では、ガルーダに肩を掴まれたクロコダインが、北の海へ鋭い眼差しを向けていた。
かつて魔王軍に身を置いた2人の戦士。
異なる世界から訪れた、白き薔薇の聖女。
それぞれに傷を負い、それぞれに異なる思いを抱きながら、3人は同じ空を進んでいく。
その行く先に、彼らの想像を超える激しい戦いが待ち受けていることを、3人はまだ知らなかった。
――第8話・了――