白き薔薇の聖女 × ダイの大冒険 作:AmethystBlue
北方の海を越え、ヒルダたちの前方にバルジ島の姿が見えてきた。
日差しを受けて輝く海の向こうには、ひときわ高い石造りの塔がそびえ、その左右には、赤く輝く塔と青白い光を放つ塔が建っている。島の各所には魔物の気配が満ちており、すでに何者かが激しく戦っているらしい魔力の揺らぎも感じられた。
ヒルダは飛行速度を緩め、島の周囲を流れるマナへ意識を向けた。隣ではヒュンケルが彼女の生み出した風に身体を支えられ、少し先ではガルーダがクロコダインを吊り下げながら、力強く翼を羽ばたかせている。
「……あの左右の塔から、中央へ向かって魔力が流れています。どうやら、3本の塔が何らかの術式でつながっているようですね」
「……結界か?」
ヒュンケルの問いに、ヒルダは少し考えてから頷いた。
「その可能性は高いと思います。ただ、どのような効果があるのかまでは分かりません。わたしの知っている魔法とは、少し違うようですから……」
左右の塔から放たれる魔力は、それぞれ炎と氷の性質を帯びていた。それらが中央の塔を挟み込むように広がり、周辺のマナの流れへ不自然な干渉を及ぼしている。しかし、術式の構造がある程度見えたところで、内部へ入った者にどのような影響が生じるのかまでは判断できなかった。
「……フレイザードの仕業か」
ヒュンケルが低く呟いた。
「……ご存じの方ですか?」
「ああ。魔王軍六大軍団長の1人、氷炎魔団長フレイザード。炎と氷を操る、残忍な男だ」
その名前を口にしたヒュンケルの表情には、険しいものが浮かんでいた。地底魔城でダイたちを逃がそうとした際、地下へマグマを流し込み、自分を死に追いやろうとしたのもフレイザードだったのである。
「……うむ。あやつならば、このような仕掛けを用意していても不思議ではない」
クロコダインも同意した。
「しかも、左右の塔には別の軍団長の気配がある。ダイたちが戦っているのなら、一刻も早く加勢せねばなるまい」
ヒルダは静かに頷いた。島の各所では、強大な魔力が幾度もぶつかり合っている。誰がどこで戦っているのかまでは分からなかったが、ダイたちがすでに危険な状況に置かれている可能性は高かった。
「……俺は氷の塔へ向かう。クロコダイン、お前は炎の塔を頼めるか?」
「うむ。ガルーダがいれば、すぐにたどり着けよう」
2人の判断は早かった。かつて魔王軍の軍団長として数々の戦場を経験してきた彼らには、敵の戦力が分散している状況で、どこへ向かうべきかを考えることにも慣れがあった。
「それでは、わたしは中央の塔へ向かいますね。フレイザードさんがいらっしゃるのであれば、そちらの様子を確かめてみます」
「……ヒルダ殿」
クロコダインが表情を引き締めた。
「フレイザードは勝つためなら手段を選ばぬ男だ。しかも、お前の身体はまだ万全ではない。くれぐれも無理をしてはならんぞ」
「……はい。ありがとうございます」
ヒルダは素直に頷いたものの、クロコダインはなおも心配そうだった。数日前、自分たちの命を救うためにマナを使い果たし、意識を失った少女である。もし中央の塔に助けを求める者がいたなら、たとえ相手がフレイザードでも、簡単には引き下がらないだろう。
「……ヒルダ。危険だと思ったら、すぐに退け。俺たちも、できる限り早く合流する」
「はい。ヒュンケルさんも、お気をつけて」
ヒルダは微笑むと、両手を軽く広げた。
ヒュンケルの身体を支えていた風がゆっくりと向きを変え、氷魔塔へ向かう新たな気流を形成していく。彼女は塔の近くまで風が流れるように軌道を整えると、最後にゆっくり高度を下げるよう調整した。
「……これで大丈夫です。あちらの塔の近くまで、風に乗って移動していただけますから」
「……ああ。助かる」
「ふふっ。少しは空を飛ぶのにも慣れていただけましたか?」
ヒュンケルは何とも言えない表情を浮かべた。つい先ほど、初めて風で身体を浮かされたときのことを思い出したらしい。自分の意志とは関係なく宙へ運ばれる感覚には、まだ多少の抵抗があるようだった。
「……慣れたかどうかはともかく、お前の腕は信用している」
そう答えると、彼は氷魔塔へ向かう風の流れに身を委ねた。
ヒュンケルの姿が徐々に遠ざかると、クロコダインもガルーダへ声をかけた。巨鳥は力強く翼を広げ、炎魔塔の方角へ飛び去っていく。
「では、ヒルダ殿! また後で会おう!」
「……はい。お2人とも、どうかご無事で!」
彼らを見送ったヒルダは、改めて中央の塔へ視線を向けた。
周囲を覆う奇妙な魔力の流れは、先ほどと変わらず存在している。何が起きるか分からない以上、慎重に近づく必要がありそうだった。
「……さて。それでは、わたしも参りましょうか」
ヒルダは足元へ風を集め、中央のバルジの塔へ向かって飛行を再開した。
◇ ◇ ◇
異変が起きたのは、塔の屋上が目前に迫ったときだった。
それまで身体を支えていた風が、突然、何かに遮られたように乱れたのである。ヒルダは反射的に気流を整えようとしたが、いつもなら自然に応えてくれるマナが、まるで指の間から滑り落ちるように散ってしまった。
「……えっ!?」
次の瞬間、身体を支えていた力が急激に弱まり、ヒルダの高度が下がり始めた。
慌てて風を集め直そうとする。しかし、周囲のマナは思いどおりに動かず、それどころか、体内を巡っていたマナの流れまで不自然に滞り始めていた。手足は鉛を詰め込まれたように重く、姿勢を立て直そうとしても、普段なら何ということもない動作にさえ大きな負担がかかる。
「……まさか、これが結界の影響……?」
ヒルダは苦しげに眉を寄せたが、今はその仕組みを考えている余裕などなかった。眼下には塔の屋上が迫っており、このまま落下すれば、石造りの外壁へ激突しかねない。
彼女は直前まで身体を運んでいた風の勢いを利用し、辛うじて進行方向を変えた。新たな風を生み出すことはできなかったが、すでに作り出していた気流と飛行の勢いが、完全に失われたわけではない。
どうにか屋上の縁を越えると、ヒルダは着地に備えて両脚を伸ばした。
「……くっ……!」
白い靴が石床を捉えたものの、衝撃を受け止めようとした脚に思うように力が入らなかった。ヒルダは膝から崩れ落ち、そのまま肩を石床へ打ちつけながら、数歩分の距離を転がった。
「……いたた……。驚きました……」
ようやく身体を起こした彼女は、小さく苦笑した。普段ならどれほど強い風の中でも、姿勢を崩さずに着地することなど難しくない。それなのに今回は、塔の屋上へ降りることさえ満足にできなかった。
ヒルダは慎重に立ち上がり、自分の手を見つめた。体内にはまだマナが残っているものの、身体の外へ送り出そうとすると、不自然な抵抗によって流れが途切れてしまう。さらに、普段なら意識せずに行っている身体強化も、ほとんど機能していなかった。
「……魔法だけでは、ないんですね……」
どうやら、身体能力そのものが大幅に制限されているらしい。しかも、クロコダインとヒュンケルの治療による消耗から回復していない状態では、少し動くだけでも普段以上の負担がかかっていた。
ヒルダはしばらく呼吸を整え、屋上を見渡した。幸い近くに魔物の姿はなく、塔の内部へ通じる降り口を見つけると、慎重にそちらへ向かった。
◇ ◇ ◇
塔の最上階は、予想していたよりもずっと開放的な空間だった。
高い天井を支える太い石柱が幾つも並んでいるものの、周囲は大きく開けており、外の青空や遠くの海まで見渡すことができる。吹き抜ける風には潮の香りが混じり、明るい日差しが石床へ幾つもの柱の影を落としていた。
しかし、その中央には、周囲の穏やかな景色とは不釣り合いなものが存在していた。
「……あれは……?」
ヒルダは思わず足を止めた。
巨大な氷の塊が、広間の中央に置かれていたのである。日差しを受けたその表面は、まるで青白い宝石のように輝いていたが、内部からは異様なほど冷たい魔力が感じられる。
そして、その中心には、金色の髪を持つ少女が閉じ込められていた。
「……女の子……?」
華やかな衣服をまとった少女は、まだ幼さを残しているものの、どこか気品を感じさせる顔立ちをしていた。その目は静かに閉じられ、氷の中で微動だにしていない。
ヒルダは急いで近づき、内部の様子を確かめた。幸い、かすかながら生命の気配は残っている。しかし、その反応はひどく弱々しく、氷の内部を巡る魔力によって、生命活動そのものが異常な状態へ置かれているようだった。
「……よかった。まだ、生きていらっしゃるんですね……」
安堵したものの、すぐに胸が締めつけられる思いがした。どれほど長い間、この冷たい氷の中に閉じ込められていたのだろう。少女の顔には苦痛の表情さえ浮かんでいなかったが、それがかえって痛ましく感じられた。
「……大丈夫ですよ。今、助けますからね」
ヒルダは氷の前へ膝をつき、慎重に右手を掲げた。
炎の魔法で少しずつ氷を溶かすことを考えたが、やはりマナは思うように動かず、小さな炎さえ生み出せなかった。しかも、間近で確かめると、この氷は単なる冷気の塊ではなく、内部を巡る魔力が少女の生命活動と複雑に絡み合っているようだった。
強引に砕けば、その影響が少女へ及ぶかもしれない。今の状態では安全に解放する方法が思いつかず、ヒルダは困ったように眉を寄せた。
「……どうしたものでしょう……」
何か方法はないだろうかと考えながら、氷へ触れていた手を下ろす。
そのときだった。
「……あぁ? 何だ、てめえは?」
背後から、荒々しい声が響いた。
振り返ったヒルダの目に、異形の魔物の姿が映った。身体の半分は燃え盛る炎、もう半分は鋭い氷によって形作られている。相反する2つの力をひとつに宿したその姿と、全身から放たれる強大な魔力を感じ取った瞬間、彼女は先ほど聞いた名前を思い出した。
「……もしかして、フレイザードさんですか?」
「……あぁ? 何だ、俺様のことを知ってんのか?」
「はい。先ほど、お知り合いの方からお名前を伺いました」
その答えに、フレイザードは訝しげに目を細めた。しかし、少女の長い水色の髪と、背中に負われた巨大な剣を認めた途端、不気味に口元を吊り上げた。
「……水色の髪に、それに、ばかデケェ剣……。てめぇが噂の女剣士か!」
「……噂、ですか?」
「パプニカで不死騎団の連中を手こずらせた女がいるって話だ。まあ、あんな骨どものことなんざ俺様の知ったことじゃねえが、わざわざ俺様のところまで来たってんなら話は別だ!」
フレイザードは愉快そうに笑ったが、ヒルダはすぐに氷の中の少女へ視線を戻した。目の前の魔物が自分の噂をどう思っているかよりも、今はこちらの方が気にかかっていた。
「……あの、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「あぁ?」
「……この方を氷の中に閉じ込めたのは、あなたですか?」
その問いに、フレイザードは一瞬だけ目を丸くした。
「……何だ、てめえ。レオナ姫を助けに来たんじゃねえのかよ?」
「……レオナ、姫……?」
「ああ、パプニカの王女様だよ! 俺様がわざわざ氷漬けにしてやったのさ! 勇者どもをおびき寄せるには、これ以上ねえ餌だろうが!」
フレイザードは得意げに笑った。
その言葉を聞き、ヒルダの表情が静かに引き締まった。王女という身分の少女をわざと氷漬けにし、その命を利用して勇者たちをおびき寄せようとしている。目の前の魔物は、自分が何をしているのか十分に理解したうえで、それを楽しんでいるらしかった。
「……フレイザードさん。どうか、この方を解放していただけませんか?」
一瞬の沈黙が訪れたあと、フレイザードは腹を抱えるように笑い始めた。
「……くっ、ははははっ! 何だそりゃ! 俺様がわざわざ人質にしてやった姫を、頼まれたくらいで返すと思ってんのかよ!」
「……そう、ですか……」
ヒルダは小さく息をついた。素直に応じてくれるとは思っていなかったが、それでも話し合いで済むのであれば、その方がよかった。
「……でしたら、せめて、これ以上この方を傷つけないでください」
「……へっ! だったら、力ずくで止めてみな!」
フレイザードの身体から、激しい熱気と冷気が同時に噴き出した。
ヒルダはゆっくりと背中へ手を伸ばし、大剣《アストレア》を引き抜いた。普段なら片手で軽々と扱える剣だったが、今は両手で支えなければならないほど重く感じられる。
それでも、彼女の構えに大きな乱れはなかった。
氷の中の少女を背後に庇いながら、ヒルダは静かに剣先を向けた。
◇ ◇ ◇
フレイザードの攻撃は、激しかった。
炎の拳が石床を焼き焦がし、鋭い氷の刃が周囲の石柱を削り取る。ヒルダはアストレアを操り、迫り来る攻撃を辛うじて捌いていたが、その動きは普段とは比較にならないほど鈍かった。最初の炎を避けようとした際には、踏み出した脚が思うように動かず、危うく直撃を受けかけたほどだった。
「……へえ。思ったよりやるじゃねえか!」
フレイザードは愉快そうに笑い、さらに氷の拳を振り下ろした。ヒルダはその軌道を見極め、アストレアの鍔元で受け流そうとしたが、衝撃を完全には殺しきれず、膝が大きく沈み込む。
「……くっ……!」
「だがよ、てめえも気づいてるだろ? 身体が思うように動かねえってことによ!」
「……やはり、あなたの魔法だったんですね」
「ご名答だ! 俺様の《氷炎結界呪法》は、敵の呪文を封じるだけじゃねえ! 身体の力まで普段の5分の1に落としちまうんだよ!」
フレイザードは誇らしげに胸を張った。どれほど腕の立つ戦士であろうと、強大な魔法使いであろうと、自分の結界の中ではまともに戦えない。それこそが、この氷炎将軍が勝利のために用意した切り札だった。
「……そんな魔法が、あるんですね……」
「へっ! 今さら怖くなったって遅えんだよ!」
フレイザードは再び襲いかかった。
ヒルダは呼吸を整え、相手の拳へ意識を集中させた。今の自分では攻撃を力で押し返すことも、身体強化によって素早く回避することも難しい。だからこそ、相手がどこへ力を向けようとしているのかを見極め、必要最小限の動きで受け流すしかなかった。
しかし、その剣技はフレイザードの予想を大きく上回っていた。
少女の踏み込みには力がなく、剣を振るうたびに苦しそうな表情を浮かべている。それなのに攻撃が決定的な一撃にならず、強引に距離を詰めれば、今度はこちらの拳の内側へ鋭い切っ先が滑り込んでくる。
「……何なんだよ、てめえの剣は……!」
苛立たしげに叫んだフレイザードが、氷の拳を横薙ぎに振るった。ヒルダは刃の角度をわずかに変えてその軌道を逸らし、相手の勢いを利用するように横へ踏み込むと、無防備になった腕の根元へアストレアを走らせた。
「……ぐおっ!?」
氷の表面に深い亀裂が刻まれ、砕けた破片が石床へ散らばった。
フレイザードは慌てて腕を引いたが、その顔には驚きと怒りが入り混じっていた。結界によってこれほど弱体化させているにもかかわらず、目の前の少女は攻撃を見切り、こちらに傷まで負わせているのである。
「……てめえ、いったい何者なんだ!?」
「……そう言われましても……。長い間、剣の修行は続けてきましたから……」
「そんな答えで納得できるかよ!」
怒りに任せて放たれた炎が、広間を横切った。
ヒルダはとっさに身を引いたが、その一部が背後の氷へ向かうのを見て、反射的に剣を振り上げた。辛うじて炎の直撃を防いだものの、熱気が頬を焼き、衝撃によって身体が大きくよろめく。
彼女は改めて氷の中の少女へ視線を向けた。
このまま戦い続ければ、フレイザードの攻撃がレオナへ及ぶかもしれない。しかも、今の自分では氷を解くこともできず、目の前の強敵を倒せる見込みもほとんどなかった。
せめて、戦う場所を変えなければならない。
そう判断したヒルダは、開け放たれた石柱の間を抜け、外周へ続く通路へ退いた。フレイザードは逃げ出したのだと思い込んだらしく、嘲るような笑い声を上げながら、その後を追ってくる。
「……へっ! とうとう逃げ出す気になったか!」
塔の外壁に沿って続く石段を下り、やがて2人は塔の側面にある小広場へ出た。そこは崩れかけた石壁や太い柱が点在する場所で、正面入口とは建物の角を挟んだ位置にある。
その先には、大量の爆弾岩が配置されていた。
フレイザードが勇者たちを迎え撃つため、あらかじめ用意しておいた罠だった。岩石の魔物たちは塔の入口を埋め尽くすように並び、いつでも爆発できるよう命令を待っている。
ヒルダはその異様な光景を横目に見たが、詳しく確かめる余裕はなかった。背後からフレイザードが迫り、巨大な拳を振り下ろしてきたのである。
「……もう逃げ場はねえぞ、女剣士!」
ヒルダは辛うじて剣を合わせ、その軌道を逸らした。しかし、もはや腕には十分な力が残されておらず、受け流した衝撃だけで身体が大きく揺らいでしまう。踏みとどまろうとした足にも力が入らず、彼女はアストレアを石床へ突き立てて、ようやく姿勢を保った。
目の前の魔物を、このまま自由に動かすわけにはいかなかった。少しでも長く注意を引きつけられれば、ダイたちが島のどこかで戦っている間、わずかでも助けになるかもしれない。
しかし、身体はすでに限界へ近づいていた。
攻撃の軌道を見極める判断力は残されていても、それに身体が追いつかなくなり始めている。最初は十分に受け流せていた拳も、今では剣を合わせるたびに腕が痺れ、足元を支えることさえ難しくなっていた。
それでも少女が剣を手放さないことに、フレイザードは苛立ちを募らせた。
「……いい加減にくたばりやがれ!」
炎と氷の拳が、再びヒルダへ襲いかかった。
◇ ◇ ◇
少し時間を遡る。
氷魔塔で繰り広げられた戦いは、すでに決着がつきかけていた。ハドラーの放った《ベギラゴン》は凄まじい威力を誇り、ポップとマァムはその直撃を受け、ほとんど動けないほどの傷を負っていたのである。
ポップは倒れたまま、霞む視界の中で必死に顔を上げた。
その視線の先で、ハドラーがマァムを掴み上げていた。彼女もすでに抵抗する力を失っており、ぐったりとした身体を抱え上げられても、ほとんど反応を示さない。
「……マァム……!」
ポップは必死に手を伸ばしたが、焼かれた身体が言うことを聞かなかった。
ハドラーはそんな少年を一瞥すると、無造作に腕を振りかぶった。狙いは、すぐ近くにそびえる氷魔塔。その頂には、巨大な槍を思わせる鋭い氷の尖端が、天へ向かって突き出していた。
次の瞬間、マァムの身体が宙へ放り投げられた。
「――マァムッ!!」
ポップの絶叫が響き渡った。
少女の身体は弧を描いて宙を舞い、氷魔塔の尖端へ向かっていく。このままでは、鋭く尖った氷に身体を貫かれてしまう。助けなければならないと分かっているのに、ポップは必死に手を伸ばすことしかできなかった。
そして、マァムの身体が氷の尖端へ到達しようとした、その瞬間だった。
凄まじい破砕音が響き、氷魔塔の根元に巨大な亀裂が走った。
「……なっ!?」
直後、塔全体を揺るがす衝撃とともに、天へ伸びていた鋭い尖端が砕け散った。支えを失った氷の破片が四方へ飛び散る中、銀色の鎧をまとった青年が飛び上がり、落下するマァムの身体を抱きとめる。
青年は彼女を胸に抱えたまま、崩れ落ちる氷魔塔から素早く離脱した。背後では巨大な氷の塊が次々と地面へ激突し、凄まじい轟音とともに、白い破片と土煙が周囲を覆い尽くしていく。
やがて、その騒音が収まり始めた頃、ポップは霞む視界の中で、信じられないものを見た。
砕け散った氷魔塔を背に、銀色の鎧をまとった青年が立っている。その腕の中には、先ほどまで死を覚悟するほかなかったマァムが、大切そうに抱きかかえられていた。
「……ヒュンケル……?」
地底魔城の崩壊とともにマグマへ呑み込まれ、二度と会えないと思っていた男が、今、マァムを抱きかかえて立っていたのである。
その声に反応したのか、マァムもかすかに目を開けた。
「……ヒュン……ケル……?」
青年は静かに頷き、信じられないという表情で見上げるマァムへ、わずかに微笑んだ。彼女の身体は傷だらけだったが、こうして声を聞くことができた。その事実が、彼の胸へ深い安堵をもたらしていた。
「……生きていたのね……。本当に……」
マァムの目に涙が浮かんだ。
ヒュンケルは彼女を慎重に地面へ下ろすと、倒れているポップの状態も確かめた。2人ともひどい傷を負っているものの、幸い命は取り留めているようだった。
「……ここは俺が引き受ける。お前たちは中央の塔へ向かえ」
「……でも、ヒュンケル! お前は……!」
ポップは思わず声を上げたが、青年の眼差しを見て言葉を飲み込んだ。そこには以前のような冷たい憎しみではなく、何かを守り抜こうとする揺るぎない決意が宿っていた。
「……それと、ポップ。中央の塔にはヒルダも向かっている。お前も知っているはずだな」
「……えっ!? ヒルダが、この島に来てるのか!?」
「ああ。だが、まだ身体が十分に回復していない。フレイザードと遭遇していれば、危険な状況になっているかもしれん」
ポップの表情が変わった。
デルムリン島で出会った、水色の髪を持つ女剣士。そのヒルダが、今この島に来ているという。彼女の剣の腕ならば、並の魔物が相手であれば心配する必要もないだろうが、フレイザードとなれば話は別だった。
「……分かった! だったら、なおさら急がねえとな!」
ポップは傷ついた身体をどうにか起こし、マァムへ手を貸した。2人が動けることを確かめたヒュンケルは、改めてハドラーへ向き直る。
氷魔塔はすでに崩壊し、そこから中央へ送られていた魔力も失われつつあった。しかし、目の前には、どうしても越えなければならない敵が残されている。
ヒュンケルは《鎧の魔剣》を構え直し、魔軍司令へ向かって静かに踏み込んだ。
◇ ◇ ◇
一方、炎魔塔でも激しい戦いが続いていた。
ダイとバダックは、ザボエラとミストバーン、そして彼らが率いる魔王軍の兵士たちに包囲されていた。強大な軍団長が2人もいるうえ、周囲を埋め尽くす魔物たちの数も多く、いかに勇者としての力を持つダイといえど、容易に突破できる状況ではなかった。
そんな彼らの前に、突然、巨大な岩が落下してきた。
「ぎょええええっ!」
魔物たちが悲鳴を上げる間もなく、巨岩の下へ押し潰される。
「……だっ、だれじゃっ!? こんなマネをするやつはっ!?」
ザボエラが驚いて叫ぶと、近くから力強い声が返ってきた。
「オレだっ!」
「……クロコダイン!?」
ダイが驚愕の声を上げた。
かつてロモスで死闘を演じ、その後は自分たちの味方となってくれた獣王。そのクロコダインが、巨大な斧を手に、魔王軍の兵士たちを押しのけながら近づいてきたのである。
「……生きてたんだね!」
「見てのとおりよ。」
クロコダインは豪快に笑い、ダイの前へ立ちはだかった。
ザボエラが驚きの声を上げ、周囲の魔物たちも一瞬だけ動きを止めた。百獣魔団長だった男が、よりにもよって勇者を助けるために現れたのである。
しかし、クロコダインは彼らに構わず、巨大な斧を握り直した。
「……ダイ。ヒュンケルも生きているぞ。そして、ヒルダ殿もこの島へ来ておる」
「……えっ!? ヒルダ姉ちゃんも!?」
ダイの顔に、驚きと喜びが広がった。
デルムリン島で出会い、アバンが訪れるまでの1か月あまり、毎日のように剣の稽古をつけてくれた少女。そのヒルダが、自分たちを助けに来てくれたというのだ。
「……うむ。中央の塔へ向かったはずだ。だが、まだ身体が十分に回復しておらん。できることなら、早く合流したいところだが……」
クロコダインはそう言いかけ、ふと氷魔塔の方角へ顔を向けた。
遠くにそびえていた青白い塔が、凄まじい音を立てて崩れ落ちていたのである。
「……ヒュンケルがやったか!」
クロコダインの表情が引き締まった。
氷魔塔は破壊された。ならば、残る炎魔塔さえ倒せば、島を覆う結界も解除できるはずだった。
「……ダイ! お前は先に中央の塔へ向かえ! ここは俺が引き受けよう!」
「……でも、クロコダイン!」
「心配するな! この塔を破壊したら、俺もすぐに後を追う!」
その力強い声に、ダイは一瞬だけ迷ったものの、やがて大きく頷いた。
「……分かった! 絶対に来てよ!」
「うむ! 任せておけ!」
ダイが中央の塔へ向かって走り出すと、クロコダインは改めて炎魔塔へ向き直った。バダックもその場へ残り、敵の動きを警戒しながら獣王の背後を守る。
周囲にはまだ数多くの敵が残されていたが、これ以上時間をかけている余裕はなかった。クロコダインは巨大な斧を構え直すと、身体の奥から闘気を練り上げる。
「……おおおおおっ!!」
獣王の咆哮が、炎魔塔の周囲へ響き渡った。巨大な腕へ集中した闘気が、凄まじい勢いで解き放たれる。
「――《獣王痛恨撃》!!」
大地を揺るがす衝撃が、炎魔塔の根元を捉えた。
次の瞬間、赤熱した岩石の表面へ巨大な亀裂が走り、塔全体が激しく震え始めた。周囲の魔物たちが驚愕して逃げ惑う中、炎魔塔は支えを失い、轟音とともに崩れ落ちていく。
空へ向かって伸びていた赤い魔力の柱が急速に弱まり、ついに完全に消失した。
「……おおっ! やったぞ!」
バダックが歓声を上げた。
クロコダインも大きく息をついたが、まだ戦いが終わったわけではない。ザボエラとミストバーンは健在であり、周囲には多くの魔物が残されている。
しかし、そんな状況にもかかわらず、バダックはふと何かを思い出したように顔を上げた。
「……それにしても、なんちゅうすごい技じゃ! しかし、《獣王痛恨撃》という名前は、いささか物騒ではないかのう?」
「……む?」
「どうせなら、《獣王会心撃》とでも改めたらどうじゃ?」
思いがけない提案に、クロコダインは一瞬だけ目を丸くした。しかし、すぐに豪快な笑い声を上げた。
「……ワッハッハ! そいつはいいな! ありがとよ、じいさん!」
かつて魔王軍の軍団長として、数多くの敵を打ち倒してきた自分の技。今はその力を、誰かを守るために使っているのだと思えば、新たな名前も悪くない。
クロコダインは満足そうに頷くと、改めて斧を握り直した。周囲には依然として敵が残されており、ダイたちが中央の塔へ到達するまで、その追撃を食い止めなければならなかった。
◇ ◇ ◇
炎魔塔が崩壊した、その瞬間だった。
バルジ島の大部分を覆っていた異質な魔力が、大きく揺らいだ。左右の塔から供給されていた力が途絶え、それまで維持されていた巨大な術式が、急速に崩れ始めたのである。
「……あぁ?」
フレイザードは攻撃の手を止め、左右の塔の方角へ顔を向けた。
氷魔塔の力が途絶えたことには、すでに気づいていた。しかし、今度は炎魔塔から流れ込んでいた魔力まで完全に消失しようとしている。
「……ちっ! せっかくの結界が消えちまいやがった……!」
フレイザードは忌々しげに舌打ちした。
「……まったく、ハドラー様も何やってんだか! 助太刀を買って出たくせに、このざまとはな!」
氷魔塔にはハドラーが、炎魔塔にはザボエラとミストバーンがいた。それほどの戦力を配置していたにもかかわらず、両方の塔を破壊されたのは大きな誤算だったが、フレイザードはやがて別の可能性に気づき、口元を歪めた。
考えてみれば、これは悪い話ばかりではない。他の軍団長たちが勇者を倒せなかったということは、ここで自分が仕留めれば、その手柄を独占できるということでもある。
「……へっ! まあいいさ。こうなりゃ勇者どもをまとめて片づけて、俺様の大金星にしてやるぜ!」
不敵な笑みを浮かべ、再びヒルダへ向き直った。
しかし、その表情が凍りついた。
「…………?」
目の前の少女から感じられる魔力が、先ほどまでとはまるで違っていたのである。
結界の中では呪文が封じられ、魔力の働きそのものが大きく制限される。だからこそ、フレイザードは彼女を、異常なほど剣の腕が立つ人間としてしか認識していなかった。
ところが今、その少女の身体の内側に、信じがたいほどのマナが存在していることに気づいてしまったのである。
しかも、その力はただ大量に蓄えられているだけではなかった。身体の隅々まで自然に巡り、まるで彼女自身の一部であるかのように、完全に一体化している。
「……な……何だ……?」
フレイザードは思わず呻いた。
ヒルダは答えなかった。
彼女自身は、ようやくマナの流れが正常に戻ったことに安堵していただけだった。身体を押さえつけていた重苦しい感覚が消え、周囲の風も再び自分の意志へ応えるようになっている。
しかし、体力まで回復したわけではない。
クロコダインとヒュンケルの治療に費やしたマナも、結界の中で無理を重ねたことで蓄積した疲労も、そのまま残されている。むしろ、異常な重圧から解放されたことで、それまでどうにか抑え込んでいた消耗が、一気に押し寄せてきたようだった。
「……はぁ……はぁ……」
ヒルダは大きくよろめき、アストレアを石床へ突き立てた。もはや剣を支えにしなければ、立っていることさえ難しかった。
そのとき、少女の周囲で、ほんのわずかに風が動いた。
激しい風圧が生じたわけでも、目を見張るほどのオーラが立ち上ったわけでもない。ただ、結界によって乱されていたマナの流れが本来の状態へ戻り、彼女の身体の周囲に小さな気流が生まれただけだった。
しかし、フレイザードには、そのわずかな変化が何を意味するのか分かってしまったのである。
「……てめえ……」
氷炎将軍の声が震えた。
「……てめえ、何者なんだ……?」
ヒルダは少し不思議そうに顔を上げた。
「……はい……?」
その返答を聞き、フレイザードはかえって言葉を失った。
結界の中でさえ、あれほどの剣技を見せた少女。その少女が、魔法使いとしても常識外れの力を秘めていたというのか。
もし万全の状態で、剣も魔法も自由に使えるとしたら。
そこまで考えた瞬間、フレイザードは自分の中に生まれた恐怖を、はっきりと自覚した。
目の前の少女は満身創痍であり、今にも倒れそうな状態である。あと一撃でも叩き込めば、それで終わるはずだというのに、踏み込もうとした足が動かなかった。
「……くそっ……!」
フレイザードは歯を食いしばった。
勝つためならどんな手段でも使い、敵の弱点を突いて確実に勝利を手にする。それが自分の戦い方であり、何よりも誇りにしてきたことだった。
それなのに、死にかけの人間の少女を前にして、攻撃をためらっている。
その事実が、たまらなく屈辱だった。
一方のヒルダも、相手の様子がおかしいことには気づいていた。しかし、その理由までは分からず、今はアストレアを支えにして意識を保つだけで精一杯だった。
互いに相手を見つめながら、どちらも次の一歩を踏み出せない。奇妙な膠着状態が、しばらく小広場を支配していた。
◇ ◇ ◇
一方、左右の塔を突破したダイ、ポップ、マァムの3人は、ようやく合流を果たしていた。
結界が消えたことで身体の重さがなくなり、ダイは驚くほど自由に動けるようになっていた。試しに地面を蹴ると、これまでとは比較にならないほど高く身体が跳び上がり、思わず歓声が漏れる。
「……すごい! 身体が軽い!」
「へへっ! あとはフレイザードを倒すだけだな!」
ポップも嬉しそうに笑ったが、マァムの表情にはまだ不安が残されていた。
つい先ほど、氷魔塔の方角から凄まじい生命エネルギーの奔流が放たれたのである。それは通常の呪文とは明らかに異なり、まるで術者自身の命を爆発させたかのような、恐ろしい気配を伴っていた。
「……ヒュンケル……」
マァムは思わず呟いた。
あれほどの力を放てば、術者自身も無事では済まないかもしれない。ヒュンケルが命を懸けてハドラーと戦っていることを思うと、今すぐにでも引き返したい気持ちになった。
しかし、彼は自分たちに中央の塔へ向かえと言った。その言葉を無駄にするわけにはいかなかった。
「……行きましょう。ヒュンケルのためにも、私たちはレオナ姫を助けなきゃ」
「……うん!」
ダイが力強く頷いた。
そのとき、ポップがふと思い出したように顔を上げた。
「……そういや、ヒュンケルが言ってたぜ。ヒルダも、この島に来てるんだってよ!」
「……えっ!? お前も聞いたのか!」
ダイが驚いて振り返った。
「クロコダインも同じこと言ってたんだ! ヒルダ姉ちゃんは中央の塔へ向かったって!」
「……じゃあ、先に着いてるかもしれねえな!」
2人は顔を見合わせた。
デルムリン島で出会った少女が、まさかこんなところまで来てくれているとは思わなかった。しかも、ヒュンケルの話では、まだ十分に回復していないという。
マァムは、そんな2人の様子を不思議そうに見つめていた。
「……ねえ、そのヒルダって人は、前に話してくれた、デルムリン島にいた女の子のこと?」
「……うん! オレ、アバン先生が来る前から、ずっと剣を教えてもらってたんだ!」
ダイが嬉しそうに答えた。
「すっごく強くて、魔法も使えるんだよ! でも、どうしてここにいるんだろう……?」
「さあな。けど、オレたちのことを心配して、助けに来てくれたんじゃねえか?」
ポップはそう答えたものの、その表情には心配そうなものが浮かんでいた。
「……ただ、あんまり身体の調子がよくねえらしいんだ。フレイザードと鉢合わせしてなきゃいいけどよ……」
その言葉に、マァムも表情を引き締めた。
まだ会ったことのない相手だったが、ダイとポップがこれほど心配しているのだから、大切な知り合いなのだろう。
「……だったら、なおさら急ぎましょう!」
3人は頷き合うと、中央のバルジの塔へ向かって走り始めた。
◇ ◇ ◇
やがて、ダイたちの前方にバルジの塔が姿を現した。
しかし、その周囲を見た瞬間、3人は思わず足を止めた。
「……何だよ、こりゃあ……!?」
ポップが驚愕の声を上げた。
塔の正面には、大量の爆弾岩がびっしりと並べられていたのである。周囲にはフレイムやブリザードも配置され、勇者たちが近づけば、いつでも襲いかかれるような布陣が敷かれていた。
しかし、肝心のフレイザードの姿は見えなかった。
「……あいつ、どこにいやがるんだ……?」
ポップが周囲を見渡したが、返事はない。
その代わり、目の前の爆弾岩たちがゆっくりと動き始めた。身体の内部には不安定な魔力が蓄えられており、下手に攻撃すれば、その場で爆発してしまう危険がある。
「……気をつけて! こいつら、普通の魔物じゃないわ!」
マァムが叫んだ。
ダイは剣を構え直し、ポップも杖を掲げた。しかし、敵の数はあまりにも多く、爆弾岩を迂闊に刺激すれば、周囲を巻き込んで大爆発を起こしかねない。
3人が慎重に位置を変えながら、突破口を探していたときだった。
「――ふざけんじゃねえぞッ!!」
凄まじい怒号が響いた。
ダイたちは驚いて顔を上げた。声は塔の正面ではなく、建物の側面から聞こえてきたのである。
3人は顔を見合わせると、爆弾岩が密集する正面入口を避け、外側から回り込むように駆け出した。
やがて、太い石柱と崩れかけた外壁の向こうに、炎と氷でできた巨大な魔物の姿が見えた。その正面には、白い衣装をまとい、長い水色の髪を風になびかせた少女が立っている。
「……ヒルダ姉ちゃん!?」
ダイが目を見開いた。
しかし、再会を喜ぶ余裕などなかった。
少女は全身に傷を負い、巨大な剣を支えにして、今にも倒れそうな状態で立っている。その彼女へ向かって、フレイザードが激しい怒りを露わにしていたのである。
◇ ◇ ◇
フレイザードは、目の前の少女を睨みつけたまま動けずにいた。
結界が失われた瞬間に感じ取った、信じがたいほどのマナ。その力を思い出すたびに、踏み込もうとした足が止まり、振り上げようとした拳にも迷いが生じてしまう。
だが、相手の姿を改めて見れば、どう考えても勝負はついているはずだった。
少女は剣を支えに辛うじて立っているだけで、顔色は青白く、呼吸も乱れている。握りしめた手は震え、今にもその場へ崩れ落ちそうな有様だった。
「……くそっ……! 何をビビってやがるんだ、俺様は……!」
フレイザードは苛立たしげに歯を食いしばった。
どれほど強大な力を秘めていようと、使えなければ意味がない。目の前の女が満身創痍なのは明らかであり、あと一撃でも叩き込めば、それで終わるはずなのだ。
それなのに、得体の知れない力を感じ取ったというだけで、攻撃することさえためらっている。そんな自分自身が、たまらなく腹立たしかった。
「……ふざけんじゃねえぞ……! この俺様が、てめえみてえな死にかけの小娘に……!」
フレイザードの身体を覆う炎が、激しく燃え上がった。
「――ビビってたまるかァァァッ!!」
怒号とともに、氷炎将軍が地面を蹴った。
その巨体からは想像もつかないほどの速度で、一気に間合いを詰める。振り上げられた巨大な拳には激しい炎が渦巻き、今度こそ目の前の少女を叩き潰そうと、凄まじい勢いで振り下ろされた。
「……危ないッ!!」
遠くから、ダイの叫び声が響いた。
少年はすぐに駆け出したが、2人の間にはまだ相当な距離があった。ポップも咄嗟に杖を掲げ、マァムがその後を追うものの、フレイザードの拳は、すでにヒルダの頭上へ迫っている。
どう考えても、間に合わなかった。
「……ヒルダ姉ちゃーーんッ!!」
ダイの絶叫が広場へ響き渡る。
しかし、その声を聞きながら、ヒルダは静かに目を細めていた。
避けるだけの力は、もう残されていなかった。相手の攻撃をまともに受け止めることもできず、魔法によって押し返すことも難しい。
それでも、彼女にはまだ、長い年月をかけて磨き続けてきた剣技があった。
何度も剣を交えるうちに、ヒルダはフレイザードの身体を巡る力の流れを見極めていた。炎と氷という相反する力が互いを補い、強固な肉体を維持している。しかし、攻撃のために全身の力を拳へ集中させた今、その均衡には一瞬だけ、ごく小さな綻びが生じていた。
力で打ち破る必要はない。
ただ、その綻びへ刃を通せばいい。
ヒルダはアストレアを静かに引き寄せた。
刀身に沿って、淡い風のマナが流れる。普段の彼女が使う力とは比較にならないほど微弱なものだったが、そのすべてが、刃の先端へ向かって極めて細く研ぎ澄まされていく。
フレイザードには、それが最後の抵抗にしか見えなかった。
「――くたばりやがれェェッ!!」
炎の拳が振り下ろされる。
その一瞬。
「――《断罪》」
ヒルダの剣が、静かに閃いた。
激しい爆発も、巨大な衝撃波も起こらなかった。ただ一筋の鋭い剣閃が走り、フレイザードの身体を維持する力の、ほんのわずかな隙間を正確に貫いた。
「……な……?」
フレイザードの表情が凍りついた。
振り下ろそうとしていた拳が、少女へ届く直前で止まる。何が起きたのか理解できずにいる間に、その身体の中央へ細い亀裂が生じ、頭部から胴体へと一直線に走り抜けた。
「……ば……馬鹿なァァァッ!!」
絶叫とともに、氷炎将軍の巨体が左右へ断ち割られた。
炎と氷が激しく飛び散り、2つに分かれた身体が轟音を立てて石畳へ崩れ落ちた。
――第9話・了――