高度育成高等学校には、普通の高校ではまずお目にかかれない設備がいくつも存在している。
広大な敷地の中には大型商業施設や映画館、カラオケ、スポーツ施設まで揃っており、
生徒たちは卒業まで原則として外部との接触を制限される代わりに、
学校の中だけで一つの街と呼べるほど充実した生活環境を与えられている。
生徒寮についても例外ではなく、各生徒には個室が用意され、
共同スペースや各種設備も一般的な高校の寮とは比較にならないほど整っている。
そんな恵まれた環境にあっても、普通の生徒なら滅多に足を運ばない場所というものは存在する。
寮の屋上も、その一つだった。
夕暮れ時。沈みかけた太陽が校舎の窓を赤く染め、遠くの空には夜の色が少しずつ混ざり始めている。
昼間には多くの生徒で賑わっていた学校も、この時間になると徐々に静けさを取り戻し、
部活動を終えた生徒たちの声が遠くから微かに聞こえてくる程度になっていた。
その屋上に、一人の少女が立っていた。
天沢一夏。
一年生でありながら、上級生を相手にしても物怖じすることなく、
むしろ相手が困惑する様子を楽しむような少女だった。
ツインテールに結んだ髪を風になびかせながら、天沢は屋上から学校の敷地を見渡している。
「いやぁ絶景絶景。ここから見るとみんなちっちゃくて雑魚っぽいね」
フェンスに手を添えながら楽しそうに笑った天沢だったが、
もちろん景色を眺めるためだけに屋上まで来たわけではない。
足元には、小さなケースが置かれている。
学校で販売されている商品ではなく、ましてや一般の高校生が所有しているようなものでもない。
天沢はしゃがみ込み、ケースの蓋を開けた。
中には特殊な容器が一本だけ収められている。
「まさかこんなのまで残ってるとは思わなかったなぁ」
それはホワイトルームにおいて研究資料として保管されていた、
女性の情動や対人態度に一時的な変化を生じさせる試験用サンプルだった。
攻撃性を増幅させるわけでも、人格そのものを書き換えるわけでもない。
理性や記憶、判断能力などにも大きな影響はなく、一定時間が経過すれば作用は自然に消失する。
ただし効果が続いている間だけ、一つの特徴的な変化が起こる。
普段よりも自己主張が強くなり、
相手をからかったり見下したり挑発したりすることへの心理的な抵抗が著しく薄くなるのだという。
ホワイトルームでは、そんな状態をもちろんもっと無機質な研究用語で呼んでいた。
だが天沢は資料を読んだ瞬間、それをもっと分かりやすい言葉へ置き換えていた。
「つまり――女の子を全員メスガキにしちゃうってことだよね♪」
あまりにも雑な要約だった。
研究者が聞けば頭を抱えそうな解釈ではあったものの、天沢にとって重要なのは専門的な分類などではない。
面白いか、面白くないか。
判断基準はそれだけだった。
そして天沢一夏という少女にとって、
面白そうなものを見つけた時に何もしないという選択肢は、最初から存在していなかった。
「さてさてどうしようかなぁ」
天沢は容器を指先で弄びながら学校を見下ろした。
もし、この学校の女子たちが一斉に普段より生意気になったらどうなるのだろう。
一之瀬帆波のような誰にでも優しい少女が、
にこにこしたまま相手を「よわよわ♡」と煽るようになったら。
軽井沢恵のような女子グループの中心人物が、
普段以上に容赦なく相手を見下して弄るようになったら。
櫛田桔梗ならどうなるだろう。
元々人当たりの良い表の顔と、
遠慮のない本音を抱えた裏の顔を持っている彼女の場合、妙な方向へ化学反応を起こすかもしれない。
そして堀北鈴音。
天沢は想像しただけで肩を震わせた。
「堀北先輩とか絶対面白いじゃん。あの真面目ぶった顔で調子に乗ったら、ウザいを通り越してウケるんだけど」
本人が聞いていれば間違いなく怒られる評価だったが、天沢の興味はすでに別の人物へ移っていた。
綾小路清隆。
天沢が「お兄ちゃん」と呼びたい、この学校で唯一と言っていい特別な存在だった。
ホワイトルームという特殊な環境で育てられた少年であり、
天沢にとっては先輩であり、目標であり、興味の対象でもある。
普段の綾小路は滅多なことでは動揺しない。
驚かせようとしても大きな反応を見せず、からかっても淡々と受け流す。
こちらが面白半分に距離を詰めても、まるで天気の話でもしているかのような顔で対応される。
それが天沢には少し不満だった。
「でもさぁ……」
天沢の口元が、悪戯を思いついた子供のように吊り上がる。
「学校中の女の子に一日中よわよわ扱いされたら、さすがのお兄ちゃんでも泣いちゃうんじゃない?」
堀北に絡まれ、軽井沢に絡まれ、一之瀬に絡まれ、櫛田に絡まれる。
逃げた先に椎名ひよりがいて、さらに坂柳有栖まで現れる。
普段なら決して成立しない光景だ。
それを想像した瞬間、天沢の中で最後まで残っていた僅かな自制心が、実にあっさりと仕事を放棄した。
「決まり♪」
もっとも、ホワイトルーム由来のものとはいえ、危険なものを無差別に使用するつもりはなかった。
天沢は改めて資料を確認し、作用が一時的なものであること、
健康上の重大な影響が想定されていないことを確かめる。
少なくとも資料上では。
「明日になったら面白いことになってるかなぁ」
天沢は楽しそうに笑った。
そして翌朝。
綾小路清隆は、自分の身に降りかかろうとしている災難など知る由もなく、いつも通りの時間に目を覚ました。
顔を洗い、制服に着替え、簡単に身支度を済ませる。
携帯を確認しても特別な連絡は入っていない。
普段と何一つ変わらない朝だった。
寮を出ると、同じように登校する生徒たちの姿がある。
空は晴れており天候にも問題はない。
少なくとも綾小路には、昨日と今日の間に学校全体を巻き込むような変化が起きたとは思えなかった。
校舎へ向かって歩いていると、後ろから聞き慣れた声がした。
「おはよ、清隆」
振り返ると、軽井沢恵がいた。
「ああ。おはよう」
いつも通り返事をする。
軽井沢は綾小路の隣まで来ると、しばらく顔を覗き込んできた。
「何だ?」
「別にぃ?清隆の寝起き顔、観察してあげてるだけ」
そう言いながら、軽井沢は妙に楽しそうに笑っている。
何かがおかしい。
綾小路がそう感じたのは、長年の経験によって培われた観察力が働いたからではない。
明らかに軽井沢の態度がおかしかったからだ。
「清隆、今日ちょっと髪ハネてない?だっさ」
「そうか?」
「え、自分じゃ分かんないの?鏡見たの?それとも鏡すら見る余裕なかった系?」
「見たつもりだが」
「ぷっ。なにそれ。朝からみっともな~い♪ウケる」
綾小路は歩きながら軽井沢を見る。
軽井沢もこちらを見る。
数秒間、沈黙が続いた。
「……何?」
先に耐えられなくなったのは軽井沢だった。
「いや」
「いやって何よ」
「珍しいことを言うと思ってな」
「はぁ?別に普通だし。清隆がざこなのが悪いんでしょ?自覚持ちなよ」
「そうなのか」
「そうそう。そんなことも分かんないとか、やっぱざぁこ♡可愛くてごめんね」
軽井沢は妙に嬉しそうだった。
少なくとも怒っているようには見えない。
機嫌が悪いどころか、むしろ普段以上に機嫌がいい。
だが、その機嫌の良さがすべて綾小路を見下す方向へ使われている。
「恵」
「なに?」
「何かあったのか?」
「何かって?」
「朝から少し様子がおかしい」
その言葉を聞いた瞬間、軽井沢は立ち止まった。
「はぁぁ?」
心外だと言わんばかりに眉を寄せる。
「女の子に向かって様子がおかしいとか言う?そういうところだよ清隆。デリカシーなさすぎ」
「どういうところだ?」
「そういうところがキモいの。分かる?」
「分からないな」
「うわ、認めちゃった。雑魚確定♡ ほんと世話焼けるなぁ清隆は」
どうやら会話を続ければ続けるほど、同じ結論へ戻ってくるらしい。
綾小路は原因究明を一旦諦めた。
軽井沢にも気分の波くらいある。
今日はたまたま人を見下したい気分なのかもしれない。
そう判断して教室へ向かった綾小路だったが、
その考えが間違っていたことを理解するまで、それほど時間はかからなかった。
教室へ入る。
すでに多くの生徒が登校しており、それぞれ友人たちと話している。
綾小路が自分の席へ向かおうとすると、窓際から声が飛んできた。
「おはよう、綾小路くん」
堀北だった。
「おはよう」
普段通りの挨拶だった。
やはり軽井沢だけがおかしかったのだろう。
そう考えた直後、堀北がこちらを見ながら僅かに口元を緩めた。
「随分のんびりした登校ね。もしかして朝の支度にも時間がかかるの?それとも単純に動きが鈍い?」
「いつもと同じくらいだ」
「そう。だったら単純に行動が遅いのね。哀れ」
「……」
「何か言いたそうね?」
「いや」
「反論もできないの?情けないわね綾小路くん。そういうところ本当に雑魚っぽい」
何かがおかしい。
軽井沢とは方向性が違う。
しかし根本にあるものは非常によく似ている。
堀北は元々他人に対して厳しい部分を持っているため、
最初の数言だけなら普段との違いに気づかなかったかもしれない。
だが、今日は明らかに楽しんでいる。
人の欠点を指摘することではなく、綾小路がどう反応するかを見ることそのものを楽しんでいるようだった。
「堀北」
「何かしら?」
「おまえも何かあったのか?」
「私も?」
その一言を聞いた堀北の目が僅かに細くなる。
「なるほど。朝から別の女子にも同じことを言ったのね。手当たり次第って感じ」
妙なところで勘が鋭い。
「軽井沢の様子が少しおかしかった」
「朝から軽井沢さんと一緒だったの?」
「途中で会っただけだ」
「わざわざ説明しなくてもいいわよ。誰も聞いてないもの」
「聞いたのはおまえだろ」
「そうだったかしら?」
堀北はしれっとした顔で視線を逸らした。
明らかに普段より面倒くさい。
その時だった。
「おっはよー」
明るい声とともに櫛田が教室へ入ってきた。
いつもの櫛田だ。
少なくとも第一印象はそうだった。
クラスメイトへ次々と挨拶し、笑顔を振りまきながら自分の席へ向かってくる。
途中で綾小路に気づいた。
「あ、綾小路くん。おはよう」
「おはよう、櫛田」
櫛田は足を止める。
そして綾小路の顔をじっと見つめた。
「……?」
「綾小路くんってさ」
「何だ?」
「よく見ると朝から眠そうな顔してるよね。生気ない系?」
「そうかもしれないな」
「もしかして夜更かししたの?」
「普通に寝たと思う」
「ちゃんと寝たのにその顔なの?終わってるじゃん」
櫛田がクスクス笑う。
「それってもっとダメじゃない?ざこざこじゃん♡ 寝ても治らないとか重症」
「何をだ?」
「それを聞いちゃうところが雑魚いんだよ?察してよ」
会話が成立しているようで成立していない。
しかも堀北まで隣で小さく笑っている。
「朝から大変ね綾小路くん」
「他人事みたいに言っているが、おまえも似たような状態だからな」
「私を櫛田さんと一緒にしないでもらえる?」
「堀北さん、それどういう意味?」
「言葉通りだけれど?」
「へぇー。堀北さんって朝から生意気だね?負けず嫌いすぎ」
「あなたにだけは言われたくないわ」
なぜか今度は二人が睨み合い始めた。
綾小路は自分の席に座りながら考える。
軽井沢。
堀北。
櫛田。
三人とも共通しているのは女性であること。
そして普段より明らかに人を見下すような態度になっていること。
単なる偶然として処理するには、人数が多すぎる。
教室を見渡す。
男子たちには特に変化がない。
池はいつも通り友人と話しており、須藤も普段と変わらない。
一方、女子たちは妙に騒がしい。
誰かが笑い、誰かが友人を小馬鹿にし、それに別の女子が言い返している。
普段から活気のある教室ではある。
しかし今日は、明らかに空気が違う。
全体的に女子の自己主張が強くなっている。
「……集団的な変化か?」
小さく呟いた。
感染症。
薬物。
食事。
環境要因。
いくつかの可能性が浮かぶ。
ただ、症状が「全員が急にメスガキ化する」だけの感染症など聞いたことがない。
少なくとも普通の世界には。
そこで綾小路の思考が止まった。
普通の世界には。
この学校には、普通ではない世界を知っている人間が何人か存在する。
そして、その中でもこういうくだらないことを面白がって実行しそうな人物を、綾小路は一人だけ知っていた。
「まさかな……」
同じ頃。
一年生の教室。
天沢一夏は机に頬杖をつきながら携帯を眺めていた。
すでに学校内では小さな変化が起こり始めている。
女子同士の会話がいつもより騒がしくなり、普段なら飲み込むような一言を遠慮なく口にする者が増えている。
天沢自身にも影響があるはずだった。
しかし本人には、ほとんど自覚できる変化がなかった。
「……あたし全然変わってなくない?」
少し考える。
元々、人を見下すのが好きだ。
元々、生意気だと言われる。
元々、お兄ちゃんにマウントを取りに行っている。
そう考えると、変化が分からないのも当然なのかもしれない。
「えー。それちょっと損じゃん」
自分で騒動を起こしておきながら不満そうに頬を膨らませた。
その時、携帯が震えた。
画面を見る。
メッセージの送り主を確認した瞬間、天沢の表情が止まった。
『天沢』
たった二文字。
送り主は綾小路清隆。
「……早すぎない?」
思わず声が漏れる。
まだ一時間目すら始まっていない。
もう少しくらい混乱してくれてもいいはずだった。
天沢は恐る恐る続きを確認する。
『今日、時間はあるか』
直接問い詰めるつもりなのか。
それとも単なる偶然か。
天沢は数秒考えた後、いつもの笑顔を取り戻した。
むしろ好都合だ。
ここで知らないふりをしながら、お兄ちゃんがどれくらい情けなく困っているのか観察すればいい。
『あるよ~♪なになに?もしかしてデートのお誘い?それとも降参の報告?』
送信。
すぐ既読がついた。
そして返事が来る。
『聞きたいことがある』
「こわっ。真面目か」
そう言いながらも、天沢の顔には笑みが浮かんでいた。
さすがお兄ちゃん。
もう何かがおかしいことには気づいている。
だが、原因まで特定できているとは限らない。
何より騒動はまだ始まったばかりだ。
堀北鈴音。
軽井沢恵。
櫛田桔梗。
一之瀬帆波。
椎名ひより。
坂柳有栖。
天沢が知る限り、綾小路の周囲には個性的な女子がこれでもかというほど揃っている。
今日一日でどれだけお兄ちゃんが情けなくなるのか。
想像するだけで楽しくなってくる。
「せいぜい頑張ってね、雑魚お兄ちゃん♡」
携帯の画面に表示された綾小路の名前を指先で軽く叩きながら、天沢は楽しそうに微笑んだ。
「今日からこの学校、女の子が全員ちょーっとだけメスガキになるからさ♪」
この時の天沢一夏は、まだ知らなかった。
自分が軽い悪戯のつもりで始めたこの騒動が、綾小路清隆を困らせるどころか、
やがて彼を取り巻く女子たちの関係まで妙な方向へ変えてしまうことを。
そして何より、自分自身が一番大きな誤算に直面することになるなど、この時点では想像すらしていなかった。
◯
一時間目の授業が始まってからも、綾小路清隆が覚えた違和感は消えるどころか、
時間の経過とともに確信へ変わりつつあった。
教室そのものは、いつもと大きく変わっているわけではない。
教師が黒板へ数式を書き、生徒たちはそれをノートへ写しながら説明を聞いている。
池が途中で欠伸を噛み殺し、須藤が難しそうな顔で教科書と黒板を交互に見ている光景も普段通りだった。
問題なのは女子たちだった。
教師に注意されるほど騒いでいるわけでもなければ、授業を妨害しているわけでもない。
しかし休み時間になるたび、女子同士の会話には普段より明らかに遠慮がなくなり、
些細な失敗を見つけては楽しそうにからかい合う場面が増えている。
そして、その変化が特に顕著なのが、自分の周囲にいる女子たちだった。
二時間目が終わった直後、綾小路が携帯を確認していると、隣から視線を感じた。
「綾小路くん」
堀北だった。
「何だ?」
「さっきの問題、解けた?」
質問そのものは珍しくない。
堀北とはこれまで何度も勉強について話しているため、
授業内容について確認されること自体に不自然な点はなかった。
「最後の問題なら解けた」
「そう」
堀北は素っ気なく返事をすると、自分のノートをこちらへ向けた。
「なら、答えを言ってみて。間違えたら笑ってあげる」
綾小路は問題を確認して答えを告げる。
堀北は自分のノートを見る。
答えは一致していた。
「正解ね。意外とやるじゃない」
「それだけか?」
「それだけだけれど?褒めてほしいの?」
そう言いながらも、堀北はこちらから視線を逸らさない。
何か言いたそうだった。
綾小路が黙っていると、堀北は僅かに眉を寄せた。
「……何よ」
「いや。まだ何かあるのかと思ってな」
「随分と自意識過剰なのね。私があなたに話しかけたからって、そんなに嬉しかった?単純すぎ」
昨日までの堀北なら、まず言わない。
「別に嬉しいとは言ってない」
「あら、強がらなくてもいいのよ? 可愛いげがないんだから」
「強がる理由もない」
「そういうところが可愛くないのよね。素直に『堀北に話しかけてもらえて嬉しい』って言えばいいのに」
「そんなことを言った覚えはないんだが」
「言えないの?」
堀北が少しだけ身を乗り出した。
そして、勝ち誇ったように口元を釣り上げる。
「ざぁこ♡あなたって本当に素直じゃない生き物よね」
綾小路は黙った。
昨日までの堀北鈴音という人物像と、目の前にいる少女がどうしても一致しない。
見た目は間違いなく堀北だ。
声も同じであり、記憶や知識にも問題はない。
授業では普段通り正確に問題を解き、教師から指名されれば完璧に回答している。
つまり知的能力や記憶が変化しているわけではない。
変わったのは対人態度だ。
より正確に言えば、他人を見下し挑発することへの心理的な抵抗が極端に薄くなっている。
「堀北」
「何?」
「昨日の夜は何をしていた?」
「急に何よ。やましいことでもあるの?」
「普通に答えてくれればいい」
堀北は不審そうな顔をしながらも記憶を辿った。
「夕食を食べて、少し勉強して、お風呂に入ってから寝たわ。それがどうしたの?」
「食事は?」
「自炊したものよ」
「何か普段と違うものを食べたか?」
「食べてないわ」
「体調に変化は?」
「ないけれど」
「頭痛や吐き気は?」
「全くないわ」
堀北はそこで一度言葉を切り、呆れたように息を吐いた。
「もしかして私の体調を心配しているの?ふぅん、意外と優しいところあるんだ」
「確認しているだけだ」
「ふぅん」
堀北の口元が再び上がった。
嫌な予感がする。
「綾小路くんって、意外と私のこと気にしてるのね。可愛いところあるじゃない」
「そういう意味じゃない」
「はいはい。照れなくてもいいわよ」
「照れてない」
「必死に否定しちゃって。そういうのを強がりって言うのよ、雑魚くん」
明らかに面倒な方向へ進んでいる。
「堀北」
「何?」
「一つ聞いていいか?」
「答えてあげてもいいわよ。私に聞かないと何も分からないんでしょう?哀れな人」
「今日のおまえ、自分で少し生意気だとは思わないか?」
その瞬間、堀北の笑顔が消えた。
数秒間、沈黙が続く。
どうやら自覚がなかったらしい。
堀北は自分の発言を思い返すように視線を落とした。
「……そうかしら?」
「少なくとも昨日までのおまえは、三分間で二回もオレに『ざぁこ』とは言わなかった」
「そんな細かいこと数えてたの?気持ち悪」
「原因を調べている」
「暇なのね」
「そう返すところも含めてだ」
堀北は黙った。
やがて自分の胸元へ手を当て、少し真剣な表情になる。
「言われてみれば……確かに今日は妙に気分がいいわね」
「気分がいい?」
「ええ。普段なら口に出さずに終わるようなことでも、今日は素直に言えるというか……」
「例えば?」
「あなたを見ていると、無性にいじめたくなる」
「それは困った症状だな」
「どうして?」
「対象が俺だからだ」
「良かったじゃない。私に構ってもらえるのよ?光栄に思いなさい」
「その発想自体が昨日までのおまえと違う」
「細かい男ね。そういうとこ本当に雑魚い」
堀北はそう言って笑った。
本人にも異変そのものは認識できるらしい。
ただし、それを異常だと判断する部分が弱くなっている。
性格そのものを別人へ変えるのではなく、
元々持っている感情や衝動の一部を増幅させていると考えた方が自然だった。
そう考えれば、軽井沢と堀北の変化に違いがあることにも説明がつく。
軽井沢は元々友人を弄ったり、冗談を言ったりすることが多いため、それが露骨に強くなっている。
一方の堀北は理屈で相手の弱点を指摘する傾向があるため、それが挑発という形になって現れている。
つまり全員が同じ人格になるわけではない。
元の性格を土台にして、生意気さだけが増幅されている。
綾小路がそこまで考えたところで、前の席から軽井沢が振り返った。
「ねえ、清隆」
「何だ?」
「さっきから鈴音さんと何話してんの?浮気?」
「軽井沢さん、誰が鈴音さんよ」
「えー、いいじゃん。堀北さんって呼ぶより可愛いし」
「勝手に呼ばないでもらえる?」
「もしかして恥ずかしいの? あはは雑魚っぽい」
軽井沢が楽しそうに笑う。
「鈴音ちゃん♪」
堀北の眉が動いた。
「軽井沢さん」
「なに?」
「喧嘩を売っているのなら買うわよ」
「怖ぁい。でも今の鈴音ちゃん全然怖くないんだけど」
「あなたも随分と調子に乗っているようね」
「そっちこそ、鏡見た方がいいよ?」
二人が睨み合う。
普段なら交わることの少ない二人が、今日は異様なほど積極的に絡み合っている。
しかも不思議なことに、本気で険悪になっているわけではない。
口では互いを挑発しているのに、どこか楽しそうですらあった。
「ねえ、清隆」
軽井沢がこちらを見る。
「どっちが可愛いと思う?」
「何の話だ?」
「あたしと鈴音ちゃん」
「どうしてオレに聞く」
「いいから答えてよ。逃げんなし」
「くだらない質問ね」
堀北はそう言いながらも、こちらを見る。
明らかに答えを待っている。
「堀北も気にしているように見えるが」
「気にしてないわよ。ただ、あなたがどれだけ見る目のない男なのか確認してあげようと思っただけ」
「じゃあ私で決まりじゃん」
「どうしてそうなるの?」
「だって私の方が可愛いし?当たり前じゃん」
「随分と自己評価が高いのね」
「鈴音ちゃんに言われたくないんだけど」
二人の視線が同時に綾小路へ向く。
答えないという選択肢は許されないらしい。
「比較する必要はないだろ」
「逃げた」
軽井沢が即答した。
「逃げたわね。よわよわ♡」
堀北まで同意する。
「こういう時だけ意見が一致するんだな」
「だって清隆、女の子二人に挟まれたくらいで答えられないんでしょ?だっさ」
軽井沢が机に手をつき、顔を近づけてくる。
「ざぁこ♡」
反対側から堀北も口を開いた。
「本当に情けないわね、綾小路くん♡哀れで涙出そう」
「おまえまで乗るのか」
「事実を指摘しただけよ」
教室の数人がこちらを見ている。
この状況を放置していると、余計な注目を集めることになりそうだった。
「分かった」
綾小路は二人を見る。
「答えればいいんだな?」
「うん」
「どうぞ。逃げたら一生言い続けるから」
二人とも自信満々だった。
「軽井沢は明るくて親しみやすい。堀北は整った顔立ちをしている。
それぞれ方向性が違う以上、単純に比較する意味はないと思う」
軽井沢の動きが止まった。
堀北も黙る。
「……なにそれ」
軽井沢が最初に反応した。
「普通に褒めてくるのズルくない?」
「質問に答えただけだ」
「もっとこう、困るとかあるじゃん」
「困ってほしかったのか?」
「そういうわけじゃないけど!」
軽井沢が顔を逸らす。
耳が僅かに赤い。
堀北も咳払いをしながら教科書へ視線を戻した。
「まあ……及第点ね。次からもっと褒め方練習しときなさい」
「堀北」
「何よ」
「顔が赤いぞ」
「赤くないわ」
「そうか」
「何よ、その反応」
「別に」
「絶対馬鹿にしてるでしょ」
「してない」
「むかつくわね……」
どうやら挑発する側になったからといって、挑発されることへの耐性まで高くなるわけではないらしい。
むしろ普段より感情が表へ出やすくなっている。
これは一つの重要な情報だった。
昼休みになる頃には、綾小路の中で異変に関する仮説がかなり固まり始めていた。
女子だけに発生している。
身体的な異常は見られない。
記憶や判断能力にも問題はない。
個人差はあるものの、共通して自己主張や挑発的な態度が強くなっている。
そして発症時期は、ほぼ同じ。
自然現象とは考えにくい。
ならば誰かが意図的に引き起こした可能性を考えるべきだ。
そして、その候補についてはすでに見当がついている。
綾小路は携帯を取り出した。
天沢とのメッセージ画面を開く。
朝に送った連絡には、相変わらず軽い調子の返事が返ってきている。
『放課後なら暇だよ~♪お兄ちゃんと二人きりならどこでもいいけど? 覚悟しときなよ』
普段通りの天沢だった。
むしろ普段通りすぎる。
もし今回の異変が女子全体へ影響しているのなら、天沢にも何らかの変化が起きている可能性が高い。
しかし元々の性格があれでは、変化していても判別が難しい。
「綾小路くん」
携帯から顔を上げる。
堀北がこちらを見ていた。
「今度は何だ?」
「今度は、とは失礼ね」
「朝から何度も絡まれているからな」
「私があなたに構ってあげているのよ。感謝したら?」
「どうして俺が感謝するんだ?」
「私と話せるんだから当然でしょう? 身に余る光栄だと思いなさい」
「ずいぶん自信があるんだな」
「事実だもの」
堀北は平然と言い切った。
ここまで堂々としていると、逆に感心する。
「それで、何の用だ?」
「お昼、一緒に食べるわよ」
「誘っているのか?」
「違うわ」
「なら何だ?」
「命令よ」
「断ったら?」
「一人で寂しく食べればいいんじゃない?よわよわさんは」
堀北は勝ち誇ったように笑う。
「まあ、あなたみたいなざぁこ♡には一人がお似合いかもしれないけれど♡」
完全に楽しんでいる。
「分かった」
「え?」
「一緒に食べよう」
予想外だったのか、堀北の表情が僅かに固まった。
「……随分素直ね」
「おまえから誘ったんだろ」
「命令だと言ったはずよ」
「どちらでも同じだ」
「もっと嫌がりなさいよ」
「どうしてだ?」
「その方が……」
堀北は途中で言葉を止めた。
自分でも何を言おうとしていたのか分からなくなったらしい。
「何だ?」
「何でもないわ」
「そうか」
「……本当に可愛くないわね」
そう呟きながらも、堀北の表情はどこか満足そうだった。
綾小路はその様子を見ながら、ふと一つのことに気づいた。
確かに面倒ではある。
昨日までとは明らかに違うため、原因については調べる必要がある。
しかし、相手の感情が非常に分かりやすい。
普段の堀北なら、昼食を一緒に食べようと思っても何らかの理由をつける可能性がある。
あるいは自分から誘うことそのものを避けるかもしれない。
ところが今は違う。
言葉こそ生意気だが、何を望んでいるのかは明白だった。
そう考えると、意外と対応しやすい。
「……なるほど」
「何がなるほどなの?」
「いや、何でもない」
「変な綾小路くん」
堀北が首を傾げる。
綾小路は携帯へ視線を戻した。
放課後、天沢に話を聞く必要がある。
今回の件に関与しているかどうか。
もし関与しているのなら、目的は何なのか。
そして何より、この状態がいつまで続くのか。
確認すべきことは多い。
ただ一つだけ、現時点で確かなことがあった。
朝の段階では軽井沢と堀北、櫛田だけだった異変が、時間の経過とともに学校中へ広がりつつある。
そしてその頃、別の教室では一之瀬帆波が友人たちに囲まれながら、
本人自身が一番困惑するような笑顔を浮かべていた。
「もう、みんなそんなことも分からないの? しょうがないなぁ」
いつもの優しい声。
いつもの柔らかな笑顔。
しかし、その口から続いて出てきた言葉だけは、
昨日までの一之瀬帆波からは到底想像できないものだった。
「私が教えてあげる。みんな、よわよわなんだから♡ 仕方ないよね、そういう生き物だもん」
白波千尋たちが揃って固まった。
そして一之瀬自身も、自分が今何を言ったのかを理解したらしく、僅かに目を見開いた。
「……あれ?」
学校を包み込んだ異変は、まだ始まったばかりだ。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると幸いです。