理想を抱いて溺死した七星剣王 作:いーと
人は、いったいどこまで強くなれば満足するのだろう。
百人に勝てばいいのか。
千人に勝てばいいのか。
それとも、世界中の誰もが膝を折り、誰ひとりとして逆らうことのできない、絶対無二の強さを手に入れればいいのか。
最強と呼ばれること。
誰にも負けないこと。
誰もが自分を認め、称賛し、目標にすること。
それだけを追い求めて、ひたすらに剣を振るい続けた先に、いったい何があるのだろう。
東雲希は、その答えを知っている。
少なくとも、知っているつもりだった。
だからこそ、今日という日を目指してきたのだ。
血の滲むような鍛錬も、骨が軋むほどの激闘も、眠れない夜も、何度も舐めた敗北の味も。
すべては、この瞬間のためにあった。
「――七星剣王、東雲希!」
名を呼ばれた瞬間、世界が沸いた。
地鳴りのような拍手。耳をつんざく歓声。
幾千、幾万もの声が重なり合い、巨大な波となって会場を揺らす。
天井に反響する熱狂が観客席を駆け抜け、壇上に立つ少女へと押し寄せていた。
誰もが彼女を見ていた。
誰もが彼女の名を呼んでいた。
誰もが、彼女の勝利を祝福していた。
――そのすべてが、ひどく遠かった。
壇上の中央に立つ少女。
白を基調とした制服の胸元に、優勝章が眩しく輝く。艶やかな黒髪は肩で揺れ、整った顔立ちには、年相応のあどけなさが残っている。
細い手足も、小柄な身体も、どこにでもいる少女と大差ない。街を歩けば誰もが振り返る美少女ではあっても、ひと目で「人類の頂点」と見抜けるほどの風格はなかった。
彼女はあまりにも普通だった。
ただひとつ、その身に冠された称号を除けば。
七星剣武祭、優勝者。
日本最強の学生騎士。
そして――七星剣王。
魔導騎士を志す者なら、誰もが夢見る栄冠。
全国の強者たちが技術と誇り、人生のすべてを懸けて争う舞台の頂点に、一人の一年生が立っていた。
破軍学園から出場した東雲希は、歴戦の強豪も、将来を嘱望された天才たちも、ことごとく打ち破ったのだ。
『勝てる気がしなかった』
『こちらの動きをすべて見透かされているようだった』
『どれほど磨こうと、彼女との間の隔たりは広がるばかりだった』
敗者たちは異口同音にそう語った。
史上稀に見る逸材。魔導騎士界の未来を担う、至高の騎士の卵。
人々は期待を寄せ、彼女の栄光を信じて疑わなかった。
そして、誰もが見落としていた。
少女が何を代償にして、ここまで辿り着いたのかを。
「……あれ」
希は、小さく首を傾げた。
隣に立つ人物の顔が、思い出せない。
つい先ほどまで話をしていたはずなのに。「優勝おめでとう」と笑いかけてくれたはずなのに。
声も、顔も、まるで霧に覆われたように曖昧だった。
「あの、すみません」
希は、困ったように微笑んだ。
「あなた、お名前なんでしたっけ?」
一瞬、相手の表情が凍りついた。
けれどそれはすぐに、穏やかな笑顔へと塗り替えられる。
「ははは、緊張しているのかな。無理もないよ。一年生で優勝なんて、普通じゃ考えられないことだからね」
「ああ……そう、ですよね」
素直に頷く。
そうだ、緊張しているのだ。これほどの大歓声なのだから、頭がうまく働かなくなってもおかしくない。
そうでなければ、こんな簡単なことを忘れるはずがないのだから。
希は笑みを深めた。
誰から見ても何の問題もない、七星剣王にふさわしい完璧な笑顔で。
そして、ふと自分の手を見下ろす。
白い手袋に包まれた指先。幾度となく剣を握り、傷つき、それでも離さなかった手。
今はもう、微かに震えることすら用意されていない。
(……おかしい)
胸の奥で小さな声がした。
だが、押し寄せる歓声があっさりとそれを押し潰す。
心臓は動いている。息もできる。手足も動く。痛みも苦しみもない。
それなのに。
――呼吸をしているという実感だけが、どこにもなかった。
まるで、厚い硝子の向こうから景色を眺めているかのように。
自分だけが世界から切り離されてしまったかのように。
(私、いま……水の中にいるのかな)
深い、深い水の底。
はるか頭上には、青く透き通った水面が揺れている。そこから差し込む温かな光。ずっと憧れていた、眩しい世界の光。
あそこに行けば、きっと報われる。流した血も、耐えてきた痛みも、すべてに意味があったと信じられる。
だから、泳がなければ。
もっと強く。もっと速く。
手を伸ばし、必死に水を掻く。あと少し、もう少しで届くはずなのに――。
足掻くたび、強くなるたびに、水面は遠ざかっていく。
どうして?
こんなにも頑張ったのに。誰よりも高い場所に立ったのに。
どうして、まだ届かないの?
「……あれ?」
頬を、温かいものが伝った。
透明な雫が顎先を滑り落ち、制服の襟元へと染み込んでいく。
涙だった。
悲しいことなど何もないのに。念願の優勝を果たし、日本一になったのに。
「……おかしいな」
希は指先で涙を拭い、何事もなかったかのように顔を上げた。
大丈夫、何もおかしくない。自分は今、最高の幸せの中にいるのだから。
「私、こんなに嬉しいのに」
つぶやきは歓声の渦に呑まれ、誰にも届くことなく消えた。
壇上に立つのは、史上最年少で栄冠を手にした天才。
誰もが「彼女ならもっと強くなれる」「世界の頂点すら超えられる」と胸を躍らせていた。
だから、気づかない。
勝利を重ねるたびに、彼女の中から何かがこぼれ落ちていたことに。
昨日食べた夕食の味。
友人と言葉を交わした時間。
大切な人の顔や、幼い日に交わした約束。
そして――強くなろうと決意した、あの日の自分自身すらも。
失うたびに、彼女は「もっと強くならなければ」と自らを追い詰めた。
立ち止まれば、これまで犠牲にしてきたすべてが無意味になると知っていたから。
ただ恐怖から逃げるように剣を振り続け、いつしか「何を求めていたのか」さえ分からなくなっていた。
それでも手だけは止まらなかった。心は死んでも、勝利を求める本能だけが残骸のように駆動し続けていた。
誇らしい壇上で、希は微笑み続ける。
その美しい瞳は、自分を称える人々も、手に入れた栄光も、自分自身の姿さえ映してはいなかった。
息が途絶えていることにも気づかず、彼女は今も深い水の底で手を伸ばしている。
――誰も気づかない。
七星剣王という称号を手にした少女が、すでに溺死していることに。
彼女が求めた「最強」という理想が、最後の一片まで彼女を喰らい尽くしたのだということに。
鳴り止まない拍手。終わらない歓声。
世界は永遠の栄光を信じ、少女を祝福し続ける。
少女もまた、自分が何を失ったのかも知らず、何者であったのかも思い出せないまま、完璧な笑顔を咲かせ続ける。
――理想を抱いて溺死した七星剣王。
それが、いつか彼女に与えられる名だった。
栄光の頂点に立ちながら、誰よりも深い場所へ沈んでいった少女。
誰もが羨む夢を叶え、その夢の中で息絶えた少女。
それが、東雲希という人間の末路。
もっとも、その頃にはもう――当の本人は、自分が何を成し遂げたのかさえ忘れてしまっているのだろうけれど。