理想を抱いて溺死した七星剣王 作:いーと
破軍学園の朝は、騒がしい。
訓練場から響く、木剣と木剣がぶつかり合う乾いた音。
校舎を行き交う生徒たちの、賑やかな話し声。
魔力の制御に失敗した誰かが起こした、小さな爆発音と悲鳴。
廊下の窓から差し込む朝日を浴びながら、生徒たちはそれぞれの日常を過ごしている。
昨日と同じように。今日も同じように。そして、明日もきっと同じように。
ここは、魔導騎士を育成する名門校――破軍学園。
才能ある者が集い、互いに競い合い、己の限界を超えるために剣を振るう場所だ。
強くなりたい。誰にも負けたくない。いつか、誰もが認める騎士になりたい。
そんな夢と野心を抱いた少年少女たちが、今日も汗を流している。
だからだろう。この学園では、ある話題が尽きることがなかった。
「なあ、聞いたか?」
「何を?」
「東雲希の話」
「ああ、あの『七星剣王』の?」
「そう。史上初、一年生で七星剣武祭を制した怪物」
「怪物って……まあ、否定はできないけどさ」
廊下の片隅。教室へ向かす人の流れから少し外れた場所で、二人の男子生徒が声を潜めていた。周囲に聞かれて困る話でもないのだろう。その声には、隠しきれない興奮が滲んでいた。
「いや、実際そうだろ。Aランクの連中を相手に勝ち抜いたんだぞ。しかも、ほぼ無傷だったって話だ」
「無傷? さすがに盛ってるだろ」
「俺も最初は疑ったよ。でも試合を見てた先輩が言ってたんだ。あいつ、相手の技を一度見たら、次からは全部完璧に対処してきたって」
「……何それ、怖すぎるだろ」
「だろ? 剣速も反応速度も魔力制御も、全部が規格外。しかもまだ一年生だぜ?」
「将来は歴代最強の剣王になるんじゃないかって噂もあるな」
「将来どころか、もうそうなんじゃないか?」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
自分たちと同じ制服を着た少女が、同じ校舎に通っている。それなのに、彼女が立つ場所はあまりにも遠い。
憧れと、畏怖と、かすかな嫉妬。それらが混ざり合った視線を、彼らはまだ見ぬ少女へと向けていた。
――東雲希。
今や、破軍学園のみならず、魔導騎士を志す者なら誰もが知る名前だった。
そして。
その会話を、当の本人は廊下の向こうで聞いていた。
盗み聞くつもりはなかった。通りかかった拍子に自分の名前が聞こえ、なんとなく足を止めただけだ。
「……私の話?」
希は小さく呟いた。
七星剣王。その称号を耳にするたび、胸の奥に微かな熱が灯る。
嫌いではない。むしろ誇らしいとさえ思う。
誰よりも剣を振り、誰よりも鍛錬を積み、何度も倒れてようやく掴み取った栄光だから。
あの日、届かなかったものに手を伸ばした。
あの日、勝てなかった相手を超えようと誓った。
あの日――。
「……あれ?」
希は首を傾げた。
脳裏を、何かがかすめた気がした。
黒い髪。真っ直ぐな目。少し不器用な笑顔。
誰かと話していた気がする。
誰かと剣を交えた気がする。
誰かと、約束をした気がする。
とても大切な約束。忘れてはいけない何か。
「……誰、だっけ」
浮かびかけた顔が、瞬時に消えた。
水面に映った月を指先でかき乱したように。輪郭が崩れ、表情が溶け、記憶そのものが暗い水底へ沈んでいく。
希は瞬きをし、もう一度思い出そうと試みる。
黒い髪。真っ直ぐな目。不器用な笑顔。
けれど、何度繰り返しても、それ以上は何も浮かび上がらなかった。
「……困ったなあ」
言葉とは裏腹に、声は穏やかだった。
希は頬にかかる髪を払い、軽く息を吐く。
忘れてしまったものは仕方がない。必要になれば、また思い出すだろう。大事なことなら、きっと。
そういうことにしておけば、たいていのことは何とかなる。
――そう、教わった気がする。
誰かに。とても大切な誰かに。
「……あれ?」
希の笑顔が、わずかに揺らいだ。
誰に教わったのだろう。自分はいつから、そんなふうに考えるようになったのだろう。
思い出そうとすると、頭の奥がひどく静かになる。なにも聞こえない。なにも浮かばない。
ただ、ぽっかりと空いた穴の存在だけが、鮮明に意識された。
「……まあ、いいか」
希は再び歩き出した。
足取りは軽い。表情も明るい。すれ違う生徒に挨拶されれば笑顔で返し、教師に呼び止められれば丁寧に頭を下げる。
授業に出て、訓練に参加し、友人と昼食を食べながら他愛もない話に声を上げて笑う。
何一つ不自由はない。傍目には、完璧な優等生に見えたはずだ。
ただ――。
時折、何でもない瞬間に涙が零れ落ちる。
時折、昨日まで親しく話していた人の名前が消える。
時折、目の前の顔を見つめながら「誰だろう」と思っている自分がいる。
そのたびに、希は笑って誤魔化した。
「ごめんなさい。ちょっと考え事をしていました」
それだけで、誰もが納得した。
七星剣王ともなればプレッシャーも大きいだろう。まだ一年生なのだから無理もない。きっと疲れているのだろう――と。
誰も不思議に思わない。誰も疑わない。
だから、誰も気づかないのだ。
彼女が何かを『忘れている』のではなく、何かを『忘れ続けなければ』自分を保てなくなっていることに。
そして、忘却のたびに、彼女自身の輪郭までもが少しずつ削り削落されていることに。
*
教室の扉を開けると、見覚えのある姿があった。
窓際の席。朝の光が差し込む机で、一人の男子生徒が静かに教科書を開いている。
黒い髪。落ち着いた佇まい。周囲の喧騒に流されることなく、己の時間を過ごす背中。
どこかで会ったことがある。希はそう確信した。
単に知っているというレベルではない。もっと近く、もっと深く。まるで自分の人生の日常に、当たり前に存在していたかのような感覚。
「……おはようございます」
声をかけると、男子生徒が顔を上げた。
「おはよう、東雲」
気負いも遠慮もない、自然な声だった。
七星剣王への畏敬もなければ、距離を置こうとする気配もない。ただ同じ時間を共有するクラスメイトに向ける、等身大の挨拶。
それが、なぜだか胸に沁みた。
自分の名前を覚えていてくれる人がいる。
特別な称号ではなく、一人の人間として見てくれる人がいる。
それはとても、大切なことのように思えた。
「えっと……」
希は首をかしげた。
「ごめんなさい。あなたのお名前、何でしたっけ?」
男子生徒の動きが止まった。ほんの一瞬、息を止めるような短い時間。
だが、その瞳に浮かんだのは驚きだけではない。困惑、悲痛、そして――すべてを受け入れるようなかすかな諦念。
「……黒鉄一輝」
彼は、困ったように笑ってみせた。
「黒鉄一輝。前にも言ったと思うけど」
「ああ!」
希の表情がぱっと華やぐ。
「黒鉄くん! そうでした、そうでした」
黒鉄一輝。黒鉄。くろがね。
心の中で何度も名前をなぞる。忘れないように。刻みつけるように。
すると、胸の奥でギチ、と何かが軋んだ。
小さな棘が刺さったような感覚。痛みというには微かで、違和感というにはあまりに鮮烈な刺激。
知らないはずがない。忘れていいはずがない。この人は――。
「……あれ?」
突然、視界が歪んだ。ぽろりと涙が零れ、頬を伝う。
「えっ、東雲!?」
一輝が慌てて立ち上がる。
「どうした? どこか痛むのか?」
「……いえ」
目元を拭う。指先に残る水分は、間違いなく自分の涙だった。
悲しくはない。苦しくもない。ただ名前を聞いただけなのに、どうして泣いているのだろう。
「ごめんなさい、なんでもないんです」
「いや、でも……」
「本当に大丈夫ですから」
希は笑った。いつものように、自然に、何事もないかのように。
そうすれば波風は立たない。心配をかけず、余計な説明も要らず、自分自身も深く考えずに済む。
希は自分の席に腰を下ろした。
一輝は心配そうに彼女を見つめていたが、やがて静かに息を吐き、腰を下ろした。
その背中を、希はぼんやりと見つめる。
『黒鉄一輝』という名を聞くだけで、胸が痛む。
何かを思い出さなければいけない気がする。何かを謝らなければいけない気がする。何かを――返さなければいけない気がする。
答えは分からない。けれどその名前だけが、沈みゆく意識の水底で、消えずに残る小さな光のように揺れていた。
「……まあ、いいか」
今は思い出せないなら仕方がない。大切なことならいつか思い出す。
希は教科書を開いた。
授業が始まり、教師が壇上に立ち、生徒たちがペンを走らせる。教室に日常が戻ってきた。
すべてがいつも通り。ただ一人、黒鉄一輝だけが、時折切ない眼差しで彼女の横顔を見つめていた。まるで、今にも消えてしまいそうな存在を胸に焼き付けるように。
*
放課後の訓練場には、赤銅色の夕光が差し込んでいた。
日中の熱気が引き、吹き抜ける風が肌を冷やす。多くの生徒が帰路につき、残った者たちも黙々と己の鍛錬に向き合っている。
その一隅で、東雲希は木剣を振っていた。
一振り。二振り。三振り。
無駄を削ぎ落とした軌道。鋭い踏み込み。寸分の狂いもない剣筋。
空気を切り裂く乾いた音が連なり、正確な重心移動と呼吸が美しく連動する。
完成された技術。誰もが息をのむような美技だ。
けれど――。
「……違う」
希は動作を止めた。眉をひそめ、己の手元を睨みつける。
「今のじゃ、駄目」
何が駄目なのかは言葉にできない。型は乱れておらず、魔力循環も正常だ。満点を与えられる動きだった。
それでも、致命的に何かが足りない。何かを置き去りにしてきたような虚無感。
希は再び構えた。
一振り、二振り。
「……違う!」
踏み込みを深め、速度を上げ、魔力の出力を跳ね上げる。
空気を裂く音が重く激しく響く。完成度は間違いなく上がっていた。
だが、希は強く首を振る。
「まだ足りない。もっと……もっと、もっと、もっと!」
剣を振るう。振るう。振るう。
考えることを止めるために。思い出せない焦燥を塗りつぶすために。
強くなればいい。誰よりも強く、誰にも負けないくらいに。
どんな敵も打ち倒せる力を手に入れれば、何も失わずに済む。誰も傷つかずに済む。そうすれば――。
ポロリ、と木剣が手から滑り落ちた。
乾いた音を立てて転がるそれを、希は呆然と見つめる。
指先が震え、上手く力が入らない。
「……疲れてるのかな」
呟いてみるが、違うことは分かっていた。
これは肉体の疲労ではない。もっと深い場所――深海の水圧に耐えかねて、軋みを上げる船体のような悲鳴。
「……大丈夫。まだ、できる」
木剣を拾い上げ、握り直し、振りかぶった――その瞬間。
視界が、反転した。
訓練場も、夕空も、足元の床も消え去る。
代わりに広がったのは、視界を埋め尽くす暗い水だった。
冷たく、重く、底知れない深海。
制服が水を吸って身体にまとわりつく。息を吸おうにも肺に届かない。上も下も分からず、ただ無音の世界に漂う。
その遠くに、誰かがいた。
揺れる人影。黒い髪。顔は見えないが、その人物は泣いていた。叫んでいた。
「……待って」
希は手を伸ばした。だが、人影は遠ざかる。
「待ってください……待って!」
必死に水を掻き、足掻く。けれど距離は縮まらない。まるで最初から届くことが許されていないかのように。
「……どうして」
希の口から泡が漏れる。
「どうして行っちゃうんですか。私、頑張ったのに……強くなったのに……っ!」
水面のない世界が揺れる。
何を頑張ったのか。誰のために強くなったのか。自分は何を望んでいたのか。
問いが芽生えた瞬間、脳裏で記憶の破片が弾けた。
誰かの背中。夕焼けの道。差し出された手。そして、聞き覚えのある声。
『――強くなれば、何でもできると思ってんのか?』
誰の声だろう。思い出せない。なのに、胸が引きちぎれそうなほど懐かしく、悲しかった。
「あなたは……誰なんですか!?」
人影が振り返る。あと少しで顔が見える――その刹那、輪郭が水に溶けるように崩れ去った。
「……あ」
手放したくない。この人だけは忘れてはいけない。そう叫ぶ心とは裏腹に、名前が浮かばない。
――至高の騎士。
ふと、その言葉が降りてきた。
誰よりも強く、正しく、高みに立つ存在。
理不尽を打ち砕き、敗北を拒絶し、あらゆる障害を越えていく騎士。
それこそが自分の理想だった。だから戦い、傷つき、すべてを犠牲にして強さを求めたのだ。
そうだ、まだ足りない。もっと強くならなければ。
たとえ何を失おうと、誰の顔を忘れようと、自分が誰だか分からなくなろうとも。
理想に辿り着けば、すべてが報われると信じて――。
『東雲』
水面の向こうから、声が届いた。
『東雲、希』
自分の名前。そうだ、私は東雲希。七星剣王。日本最強の学生騎士。
『もういい』
声は静かに、痛むように紡がれる。
『もう、十分だ』
「……嫌です」
『もう十分なんだ』
「嫌です……っ!」
『帰ろう』
「嫌だ!!」
叫んだ瞬間、胸の中で決定的な何かが壊れた。
それでも希は拒絶する。ここで終われば、失ったものも、忘れてしまったものも、何もかもが無意味になってしまうから。
「……もっと、強くならなきゃ……」
震える唇で呟き、再び手を伸ばした瞬間――視界が白光に包まれた。
*
「――東雲!」
はっきりとした声で目が覚める。
「東雲、聞こえるか!?」
目を開けると、夕暮れの訓練場だった。赤く染まる床、転がる木剣、そして目の前に立つ男子生徒。
「……あ、黒鉄……くん?」
「そうだけど……大丈夫か? 急に動かなくなったから……」
一輝の言葉が止まる。希の頬を、涙が伝っていたからだ。
「……泣いてるぞ」
「え?」
指先で触れると、冷たい雫がついた。
「ふふ……また、ですか」
「また?」
「いえ、なんでもありません」
希は立ち上がり、ふらつく身体を誤魔化すように姿勢を正した。木剣を拾い、制服の埃を払う。いつも通りの自分に戻るために。
「心配してくれてありがとうございます。もう大丈夫です。……私、強いですから」
口にしてから、自分でも奇妙に感じた。なぜ強さを主張する必要があるのだろう。
一輝は何も言わず、ただまっすぐに希を見つめていた。その瞳が痛い。隠している歪みをすべて見抜かれているようで。
「……そっか」
やがて一輝は小さく息を吐き、それ以上は追求しなかった。深く踏み込めば、彼女が本当に崩壊してしまうと察しているかのように。
「気をつけて帰れよ」
「はい。黒鉄くんも」
一輝を残し、希は訓練場を後にした。
夕闇が迫る中、長く伸びる彼女の影。華奢な背中は、今にも世界から消えてしまいそうなほど儚かった。
「……東雲」
背後から届いた小さな呼び声に、希の足が止まりかける。
胸が痛い。喉の奥が熱い。もう少しで何かに手が届きそうなのに――やっぱり何も思い出せない。
希は振り返らず、ただ笑みを張り付けたまま歩き続けた。
――ねえ。
心の底で、誰かが問いかける。
――ねえ希、あなたはどうして、そんなに強くなりたいの?
希は答えられない。
だって、その答えを抱いていた理由さえ、彼女はとっくに失ってしまっていたのだから。
*
一番星が瞬く空の下、破軍学園には今日も灯りがともる。
誰かが笑い、誰かが競い合い、明日を信じて剣を振るう。いつもと変わらない日常。
そこには、栄光を極めた一人の少女と、彼女の名前を呼び続ける少年の姿があった。
少年は諦めていない。彼女が失ったものを取り戻すと信じている。
だが、彼はまだ知らない。
忘却とは、単に記憶が消えることではない。
思い出を失うたび、人は過去の自分を結ぶ絆を失っていく。
何を愛し、誰を大切にし、何のために生きてきたのか――その全てが潰えたとき、己という存在そのものが解けて消えてしまうことを。
それでも動く身体で、彼女は今日も笑い、明日を迎える。
だから誰も気づかない。彼女という人間が、今この瞬間も摩耗し続けていることに。
東雲希は、明日も剣を振るうだろう。
最強であり続けるために。いつか答えを思い出せると信じて。
けれど――すべてを忘れたその果てに、彼女の望んだ理想は本当に存在するのだろうか。
それとも『最強』という幻影が、彼女を深海へと誘い続けるだけなのだろうか。
――その答えを、東雲希はもう思い出せない。