理想を抱いて溺死した七星剣王 作:いーと
黒鉄一輝は、東雲希という少女を知っていた。
――知っていた、はずだった。少なくとも、同じ学年で過ごしていた頃は。
彼女は決して目立つ生徒ではなかった。授業では真面目、訓練では熱心、人付き合いも悪くない。話しかければ笑顔で応じ、困っている人がいれば自然と手を差し伸べる。
けれど、特別に親しい友人がいるわけでも、いつも誰かと一緒にいるわけでもなかった。昼休みには一人で本を読み、放課後には誰よりも早く教室を出ていく。
そんな彼女が、決まって向かう場所があった。
訓練場だ。
朝も、昼も、放課後も。時には消灯時間が近づくまで。
雨の日も、体調が悪そうな日も、彼女はひたすら剣を振っていた。誰かに頼まれたわけでも、見せつけるためでもなく。ただ、愚直に。
一輝も何度か声をかけ、剣術の話をし、互いの戦い方について意見を交わした。模擬戦をしたことだってある。そのたびに希は笑っていた。
『黒鉄くんは、すごいですね』
『どうして、そんなに頑張れるんですか?』
『私も、もっと強くならないと』
当時の一輝は、それをただの向上心だと思っていた。強くなりたい、昨日の自分を超えたい、誰にも負けない騎士になりたい。剣を志す者なら誰もが抱く願い。希もまたその一人なのだと。
だからこそ、覚えている。
彼女が誰よりも努力していたことを。誰よりも強さを求めていたことを。
そして――自分が、彼女に負けたことを。
*
一年生の頃の話だ。
破軍学園において、実技試験の成績は騎士としての適性を示し、在籍の可否すら左右する。
Fランク。魔力が極端に少なく、固有能力も実戦向きとは言えない一輝は、周囲から「落第騎士」と呼ばれていた。努力で埋められない差がある、才能がなければ限界があると、何度も聞かされてきた。
それでも諦めず、自分にできる戦術を練り、勝利の道を模索し続けた末に迎えた進退を懸けた決闘。
その相手が、東雲希だった。
当時はまだ「七星剣王」の称号こそなかったものの、一輝は彼女の強さを知っていた。頭一つ抜けた実力を持つ努力家。だが、一輝にも勝算はあった。
彼女の剣筋を観察し、癖を分析し、間合いを計る。踏み込むタイミング、反応する攻撃、選択のパターン。勝利に必要な一手を頭の中で何度も組み立てた。相手の優位を覆す術を探す――それが一輝の戦い方だった。
対する希は、張り詰めた空気の中で妙に落ち着いた様子で刀を構えていた。
試合開始の直前、彼女がポツリと漏らす。
『……黒鉄くん。私、あなたに勝たなきゃいけないんです』
『……どうしてだ?』
『分かりません。でも、勝たなきゃいけない気がするんです』
希は困ったように笑った。
「勝ちたい」ではない。「勝たなければならない」。
そこには意志を持つ人間特有の熱がなく、まるでそう運命づけられているかのような口ぶりだった。
一輝が小さな違和感を覚えた瞬間、開始の合図が鳴り響いた。
戦闘が始まった瞬間、疑問を抱く余裕は消し飛んだ。
希の剣は、異様なほど正確だった。仕掛けは受けられ、フェイントは見破られ、誘いは逆に利用される。用意した戦術が一つずつ潰され、彼女の切っ先が急所へ迫る。
――こちらの動きが読まれている。
いや、それだけではない。何を考え、何を選び、どんな結末へ向かうのか、そのすべてを『あらかじめ知っている』かのような立ち回りだった。
初見のはずの手にも、寸分の狂いもなく最適解を返してくる。戦いながら学習しているのではない。すでに知っている答えを、ただ確かめているようだった。
決着は一瞬だった。一輝の刀が弾かれ、喉元に切っ先を突きつけられる。身動き一つできなかった。
『勝者、東雲希!』
宣告を聞き、一輝は息を吐いた。敗北の悔しさと同時に、自分の力が届かなかった現実を突きつけられた。
だが、勝者であるはずの希は、何度も一輝に頭を下げていた。
『ごめんなさい』
『……なぜ謝るんだ?』
『分かりません。でも、なんだか……ごめんなさい』
勝ったことを少しも喜ばず、申し訳なさそうに佇む少女。
そのとき一輝は初めて気づいた。彼女の頬を涙が伝っていることに。
『……東雲⋯きみ、、泣いてるよ』
『え……?』
希は不思議そうに頬に触れ、指先の涙を見つめた。
『……あれ?』と小さく呟いた顔には、どうして泣いているのか自分でも分からないという困惑だけが浮かんでいた。
一輝は何も言えなかった。
彼女は強い。剣士として自分より遥かに優れている。けれど、どこか危うい。勝利すること以外のすべてを、どこかに置き忘れてきてしまったかのような危うさ。
だが、敗北した一輝にも次の戦いが待っていた。やがてステラ・ヴァーミリオンとの出会いがあり、学園生活が慌ただしくなるにつれ、希と話す機会は減っていった。
それでも、彼女の正確すぎる剣、勝利の直後の涙、理由もなく謝っていた表情は忘れられなかった。
その後、東雲希は七星剣武祭で優勝し、「七星剣王」となった。
誰もがその才能と努力を讃えた。一輝もまた、あの努力が報われたのだと、あの涙と違和感は勝利を重ねるうちに消えたのだろうと、そう願っていた。
*
現在。
訓練場の入り口で、一輝は希の背中を見つめていた。
後輩に笑顔で手を振り、穏やかな声で接する彼女は、どこからどう見ても普通の少女だ。
だが、一人になった瞬間――誰に見られているとも知らず、彼女の笑顔が消えた。
表情が、すとん、と落ちた。
喜びも、悲しみも、怒りもない。空っぽの顔。まるで「表情」という概念そのものを忘れてしまったかのように。
そして次の瞬間には、誰に話しかけられたわけでもないのに、また自然な笑顔を作っていた。
「……東雲」
一輝の呟きに、希は振り返らない。
同じ教室にいて、決闘をし、敗れた。それなのに、自分は彼女のことを何も知らない。彼女が何を考え、何を望み、なぜあんな顔をするのか。
――いや。
あの決闘の直後から、彼女の剣の冴えと判断力は一気に跳ね上がった。圧倒的な実力を見せつけ、七星剣王まで駆け上がった。
今ならわかる。彼女はあの時から変わっていないのではない。
強くなったのではない。強くなること『しか』できなくなったのだ。
「……」
一輝は静かに拳を握りしめた。
胸の奥が痛む。それが同情なのか、敗北の記憶なのか、あのとき踏み込めなかった後悔なのかは分からない。
「……今度、話してみようかな」
呟いた言葉の意味を、一輝自身もまだ掴みきれてはいなかった。
ただ一つ確かなのは――もう二度と、彼女の笑顔を以前と同じようには見られないということだけだった。