「料理……するんだ?」
「ううん、全然……お母さんの手伝いをする程度だよー」
「手伝うだけ偉いじゃん。俺なんか、手伝いもしないから怒られる。よく食べるくせに、って」
「ふふっ、そうだね。日暮くん、バスケ部だけあって背も高いし、いっぱい食べるんだろうね」
そう言って笑う有紀奈は女子の平均身長くらいなので、慎二に比べると頭一つ分以上は小さい。
そんなところもやっぱりかわいいなーと思い始めた慎二の脳裏に、昨日陽葵たちと話していた時の有紀奈の言葉がよみがえる。
ほかの女子たちと同じように、友人の恋愛事に関心があり、興味津々な声でファーストキスはどんな感じか、と尋ねていた有紀奈。今はのほほんと、自分に笑顔を向けてくれている。
(野川の……)
慎二の視線は、有紀奈のやわらかそうな唇へと、無意識のうちに引き寄せられた。きちんとリップクリームを塗って保湿しているようで、光を反射して輝くその唇は、とてもやわらかそうに見える。そして心なしか、美味しそうにも。
「日暮くんは何が好き?」
「……えっ?」
「食べ物。好き嫌いとか、あまりなさそうだけど」
有紀奈は料理本を書棚に戻しながら尋ねる。慎二から、その唇を奪ってしまいたいなどと、狙われているとも知らずに。
「……い、もの」
「え?」
「やわらかい、もの……とか?」
「やわらかいもの? うーん……お豆腐とか?」
慎二のぼんやりとした答えを訝しがりながらも、有紀奈は具体例を挙げる。しかし、どうも慎二が豆腐好きであるようには見えず、不思議そうに小首をかしげた。
「お豆腐料理だと……うーん、麻婆豆腐とか」
(キスは……)
「揚げ出し豆腐とか?」
有紀奈の唇が動く。ただ言葉を紡いでいるだけだというのに、妙にその動きがなまめかしく感じる。
「もう夏は終わっちゃったけど、冷や奴もいいよね」
(ファーストキスの味は……)
「上に載せる薬味を工夫すると、結構いろんな味で楽しめるんだよね」
かわいい。とてもかわいい女の子。
ここには誰もいない。カウンターに司書が一人、テーブル席に生徒が一人、二人いたが、黙々と読書か勉強をしていたはずだ。この書庫付近にはいま、有紀奈と自分しかいない。
(知りたい……したい……)
もう一度何か別の本を取ろうとした有紀奈の腕を、慎二は無意識のうちに強く掴んで止めた。そして決壊したダムから流れ出てくるような欲望を抑えきれず、有紀奈の唇に自分の唇を重ね合わせた。突然のことで反応に遅れた小柄な有紀奈に顔を近付けることは、とても簡単だった。
「……っ」
時間が止まる。
ただ重ね合わせただけのぬくもりが、慎二の鼓動を熱くする。
一瞬とも永遠とも思える時間。それはほんの数秒にすぎなかったが、それぞれの唇が離れた時、二人の関係は大いに変化していた。
「なっ……んで?」
いきなり唇を奪われた有紀奈は驚愕して大きく目を見開き、茫然と慎二を見上げた。
「え……あ……ご……ごめんっ!」
その視線を真っ向から受け止めた慎二が口にした言葉は、心からの謝罪だった。
慎二はびしっと背筋を伸ばすと腰を直角に折り、有紀奈に頭を下げた。
「ごめんっ、その……いや、えっと……とにかく、ごめんっ!」
それは突然の出来事で、自分でも思いもしなかったハプニングだった。
しかし慎二は、自分がしてしまった行動を後悔した。
いくら有紀奈がかわいくて、誰にも見られていない二人だけという空間で都合がよかったとはいえ、相手の了承も得ずにキスをするなど、ただのセクハラである。自分の中に生まれた欲求を制御できず、その欲に素直に従って有紀奈に加害してしまったことは、ごまかそうとしてもごまかしきれない事実だ。有紀奈からしてみれば、なんとも思っていない級友にいきなりキスをされて、気持ち悪いとか気色悪いとか、とにかく不快でしかないだろう。
(好きな女子に、そんな最悪の印象を持たせてどうすんだよ、俺!)
慎二は罪悪感と後悔の念を抱くと同時に、とても残念な気持ちになった。
頭の奥でじわじわと大きくなった「キスしたい」という欲求に逆らえず、実際にキスをしてしまった。なんて身勝手な行動だろう。有紀奈の意思も確認せずに、一方的に性的な気持ちをぶつけてしまった。きっと嫌われたに違いない。
ああ、そうだ。どうせこれ以上悪く思われることはないだろうから、いっそのこと、全部ぶちまけてしまえばいいか。
「ごめん、俺……ずっと、野川のことが好きで」
「えっ?」
「それで、ほら、昨日お前が富岡たちとキスの話をしてて、それが聞こえて……それで……その……」
馬鹿正直に告白し、白状してみたが、結局何も変わらない。自分は勝手な片思いに身を任せて、欲望のままに有紀奈の唇を奪った暴漢だ。
「ほんとに……ごめん。嫌……だったよな」
でも、仕方なかったんだ。有紀奈はいつでも誰よりもかわいく見えて、有紀奈と恋人になりたいと、ずっと思っていた。カレシ、カノジョという関係になり、有紀奈を独占したいと思っていた。
けれども、告白する勇気はいつだって出せなかった。違うクラスになってしまって物理的に距離が遠くなり、めったに会話もできなくなってしまい、正直、有紀奈不足だった。その有紀奈とこんな場所で偶然二人きりになれたことが嬉しくて、自分の中の欲望をまったく抑えられなかったのだ。
「レモン味……」
「え?」
「全然レモン味じゃないね、ファーストキスって」
慎二が恐る恐る上体を起こして有紀奈を見つめると、有紀奈は人差し指で自分の唇を恥ずかしそうになでていた。
「でも、昨日友達が言っていたこと、合ってるかも」
「お……怒らないのか?」
慎二はびくびくしながら尋ねた。
てっきり、「何するのよ!」とたいそう非難されるかと思ったが、有紀奈から怒りの言葉は飛んでこない。それどころか、有紀奈はかわいらしい頬を赤くさせて、くすくすとほほ笑んでいた。
「怒らないよ。だって私も……日暮くんのこと、好きだから」
「えっ……え、えっと、えっ、マジで!?」
慎二は信じられないようで、何度も瞬きを繰り返した。
「え、ちょ、え、ほんとにっ!?」
「しーっ」
「あ……えっと……」
興奮して声のボリュームが大きくなった慎二を見上げて、有紀奈は口元の人差し指を縦に伸ばす。その何気ないしぐさもかわいくて、もういっそのこと、有紀奈をむぎゅっと抱きしめたいと慎二は思った。
「だからね、突然のことで驚いたけど……嬉しかったです」
「え、じゃあ……その……もう一回、って……許されたり……する?」
慎二は情けないほど小さな声で尋ねた。
自分よりも背の高い慎二の、あまりにも自信のなさすぎる姿がかわいらしくて、有紀奈は気恥ずかしそうに笑いながら頷いた。
慎二はもう一度かがむと、静かに目を閉じた有紀奈に二度目のキスをした。
たしかに、レモン味どころかなんの味もしなかった。それも当然だ。唇と唇は、ただやさしくふれ合っているだけなのだから。
しかし、ただふれ合わせるだけのこのキスが、途方もないほど幸せに思えた。もしも互いのこの唇を開いて舌をからめたら、何かしらの味が本当にするのかもしれない。それができたら、今以上に嬉しくて幸福な心地になれるのだろうか。
そんなキスをしてみたいとも思ったが、そんな大人のキスができるのは、まだまだ先のような気がした。
今はまず、両思いだった喜びを噛み締めたい。それから、大事なことを言わないと。
「野川、あの……好きです。俺と付き合ってください」
顔を離して背筋を伸ばした慎二は、有紀奈を見下ろした。
「はい……私も好きです。よろしくお願いします」
嬉しそうな有紀奈は、こぼれるような笑みで答える。
口角が上がったことで丸みを帯びた有紀奈の頬は、やはりかわいらしい。許してもらえるなら、その頬にキスをして、軽くかじり付いてもみたい。
慎二はそんなことを思いながら、キスの次は何が許されるのだろうかと、淡い期待をつのらせたのだった。