1.最初の記憶
最初に覚えているのは、血の匂いだった。
いや、正確には違う。
生まれて四か月しか経っていなかった俺に、そんな記憶があるはずもない。
俺が覚えているのは、今世で初めて目を開けたときに見た、見知らぬ天井と、俺を抱き上げて笑っていた男女の顔だ。
父さんと母さん。
前世では二十五年生きた日本人だった俺が、今度こそ家族に恵まれたのだと思った。
その幸せは、長く続かなかった。
ある日、町に犯罪者集団が押し入った。
悲鳴。怒号。燃え上がる家々。
そして、両親の血に染まった服。
俺は何もできなかった。
当然だ。生後四か月の赤ん坊に何ができる?
前世の記憶があろうと、体は赤ん坊だ。立つこともできず、言葉を発することもできない。
ただ泣くことしかできなかった。
誰も助けてくれなかった。
町の人々は殺され、俺は壊れた家の隅で、冷たくなっていく両親のそばに取り残された。
腹が減った。
喉が渇いた。
眠くなった。
それでも、眠るのが怖かった。
目を閉じたら、二度と開けられない気がしたから。
――ああ、俺はここで死ぬんだ。
そう思ったときだった。
「……ひどい有様ね」
女性の声が聞こえた。
誰だろう。
薄れゆく意識の中、俺は必死に目を開いた。
金色の髪。
整った顔立ち。
そして、俺を見つめる大きな瞳。
……あれ?
この人、どこかで見たことがあるような。
「まあ……こんなところに赤ちゃんが」
女性は俺を抱き上げた。
温かい。
久しぶりに感じる人の温もりだった。
俺は無意識に、その指を握った。
「……っ」
女性の表情が変わった。
驚いたような、困ったような、それでいて、どこか泣きそうな顔。
「困ったわね……。あたし、子育てなんてしたことないのよ?」
知らない。
そんなことは知らない。
俺はこの人の指を握りしめた。
お願いだ。
置いていかないでくれ。
もう、一人は嫌だ。
「……そうよね。こんな小さな子を、一人にできるわけないじゃない」
女性は俺を胸元へ抱き寄せた。
「大丈夫。もう大丈夫よ」
その声を聞きながら、俺は意識を手放した。
最後に見たのは、優しく微笑む女性の顔だった。
――この人が、俺のお母さんになってくれたらいいな。
それが、俺とビスケット=クルーガーの出会いだった。
2.お母さん
目を覚ましたとき、俺はベッドの上にいた。
ふかふかの布団。
清潔なシーツ。
そして、隣にはあの女性が座っていた。
「おはよう。気分はどう?」
……言葉が分かる。
いや、当然だ。俺は日本人だったんだから。
問題は、目の前の女性が誰なのかということだ。
俺は必死に記憶を探った。
金色の髪。整った顔立ち。可愛らしい雰囲気。
そして、この世界。
まさか……。
まさか、そんなことがあるのか?
俺は心の中で叫んだ。
ビスケット=クルーガー!?
ハンターハンターに登場する、あのビスケ!?
嘘だろ。
いや、待て。
落ち着け。
俺は今、赤ん坊だ。
状況を整理しよう。
前世の俺は日本人で、漫画とアニメが大好きだった。特に好きだったのはナルトの四代目火影、波風ミナト。そして次点でハンターハンター。
そのハンターハンターの世界に転生した。
そして目の前には、ビスケがいる。
……うん。
間違いない。
俺、ハンターハンターの世界に転生してるわ。
「ん? どうしたの? そんなにあたしの顔を見つめて」
ビスケが俺の頬をつついた。
「可愛いわねぇ」
……あれ?
原作では、こんなに優しい声だったっけ?
いや、そもそも俺はビスケの過去を詳しく知らない。
彼女がどんな人生を送ってきたのか、何を経験してきたのか。
分かるのは、彼女が凄腕の念能力者で、心源流の師範代を務めるほどの実力者だということ。
それから、見た目に反して、とんでもない年齢だということくらいだ。
俺がそんなことを考えていると、ビスケは小さくため息をついた。
「本当はね、あなたを施設に預けようと思っていたの」
……え?
「だって、あたしはハンターよ。仕事であちこち飛び回るし、危険な場所にも行くわ。赤ちゃんを育てるには向いていないもの」
ビスケは俺の手を取った。
「でもね……」
その指を、俺はぎゅっと握った。
彼女は一瞬、言葉を失った。
「……あなた、ずるいわね」
ビスケは困ったように笑った。
「そんな顔をされたら、置いていけないじゃない」
彼女は俺を抱き上げた。
「決めたわ」
声に、迷いがなくなった。
「あたしが育てる。あなたを、あたしの息子にするわ」
……息子。
俺が?
ビスケの?
いや、ちょっと待って。
これは嬉しいとか、そんなレベルの話じゃない。
この世界で生きていくための安全が確保されたどころか、世界屈指の念能力者が母親になってくれるということだ。
最高じゃないか。
俺は思わず笑った。
赤ん坊らしい、何も知らない無邪気な笑顔で。
「ふふっ。やっと笑ったわね」
ビスケは俺の頬に、自分の頬を寄せた。
「名前は……レオン、ね」
俺の服には、小さな刺繍があった。
LEON
それが、実の両親が俺につけてくれた名前なのだろう。
「レオン・クルーガー。今日からあなたは、あたしの息子よ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
前世では普通の日本人だった俺にとって、家族という存在は当たり前のものだった。
けれど、今世では違う。
失って初めて分かった。
家族がいることが、どれほど幸せなのか。
俺はビスケの胸に顔を埋めた。
「……あぅ」
まだ言葉にはならない。
でも、いつか必ず伝えよう。
この人に。
俺を拾ってくれた、この世界で最初の家族に。
――ありがとう、と。
3.ビスケット=クルーガーの決意
レオンが眠ったあと、あたしは窓の外を眺めていた。
あの町は、ひどい有様だった。
生存者はほとんどいない。
犯罪者集団はすでに姿を消していた。痕跡を追うことも考えたけれど、まずは赤ん坊を安全な場所へ連れていく必要があった。
それにしても。
「……あの子、どうしてあんな目をするのかしら」
生後四か月の赤ん坊。
普通なら、何も分からないはずだ。
けれど、あの子は違った。
まるで、自分が置いていかれることを理解しているかのように、あたしの指を必死に握ってきた。
あの瞬間。
あたしは負けたのだ。
長い人生の中で、こんなにも簡単に決意を変えたことはなかった。
「レオン……」
眠る息子の顔を見る。
小さな手。
柔らかな頬。
無防備な寝顔。
守らなければ。
そう思った。
ハンターとしてではなく、一人の人間として。
母親として。
「安心しなさい。あなたは、あたしが守ってあげる」
そして、心の中で付け加える。
――いつかあなたが自分の足で歩けるようになったら、世界の広さを教えてあげる。
そのためなら、あたしは何だってする。
たとえ、この子が将来、あたしよりも強くなったとしても。
いや。
むしろ、その日が来るのを楽しみにしている自分がいた。
この子は、どんな人間に育つのだろう。
どんな夢を持ち、どんな道を歩むのだろう。
その未来を想像すると、自然と笑みがこぼれた。
「ふふっ。楽しみね、レオン」
こうして、ビスケット=クルーガーは一人の少年の母親になった。
そして、この日から。
ハンターの世界に、後に五本の指に入ると評される念能力者が育ち始めたのである。