翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。
理由は単純だ。
昨日、ビスケが使っていた神字。
あれを見た瞬間、俺の中で何かがつながった。
前世で読んだ『HUNTER×HUNTER』。その知識は、今でも俺の中に残っている。けれど、何もかもを完璧に覚えているわけではない。
主要な登場人物や、大きな事件の流れは覚えている。
だが、細かな設定や、一度しか出てこなかった情報は曖昧だ。
神字についても、詳しい仕組みまでは思い出せない。
それでも、念を補助するための文字だということは、昨日のビスケの説明で理解できた。
ならば、学ぶ価値は十分にある。
「よし……!」
俺はベッドから起き上がり、顔を洗ってから居間へ向かった。
◇
「お母さん、神字を教えて!」
朝食を食べ終わるなり、俺はそう切り出した。
ビスケは紅茶のカップを置き、目をぱちくりさせる。
「ずいぶん熱心ねえ。昨日、ちょっと見ただけでしょう?」
「うん。でも、念の修行に役立ちそうだから!」
「それは間違いないわね。ただし、神字は便利な道具じゃないわ。正しく理解せずに使えば、思ったような効果が得られないこともある」
「ちゃんと勉強するよ」
俺が真剣に答えると、ビスケはしばらく俺の顔を見つめた。
やがて、ふっと笑う。
「いいわ。じゃあ、今日の修行は神字の勉強から始めましょうか」
「ありがとう、お母さん!」
「その代わり、いつもの基礎訓練もちゃんとやること。神字ばかりに夢中になって、纏や絶を忘れたら承知しないわよ」
「はーい!」
こうして俺は、念の修行と並行して神字を学ぶことになった。
◇
「まず、神字というのは、文字や図形に念を組み合わせて、特定の働きを補助する技術よ」
修行場の机に、ビスケが何枚かの紙を並べた。
それぞれに、見慣れない文字や図形が描かれている。
「ただ文字を書けばいいというものじゃないわ。文字の意味を理解し、正確に書き、そこに念を込める。どれか一つでも不十分なら、期待した効果は得られない」
「文字の意味を理解することが大事なんだね」
「そうよ。形だけ真似しても駄目。まずは、基本の文字を覚えるところからね」
ビスケは紙の一枚を俺の前に置いた。
「これを書いてみなさい」
俺は筆を手に取った。
線の向き、角度、間隔。
一つひとつを確認しながら、紙に文字を写していく。
「……はい、できた」
ビスケは俺の書いたものと手本を見比べた。
「最初にしては悪くないわね。でも、ここが少し曲がっているわ」
彼女は筆先で、文字の一部を示した。
「神字は、細かい違いが結果に影響することもあるの。丁寧に書く癖をつけなさい」
「わかった」
俺は新しい紙を取り、もう一度書き始めた。
何度も繰り返す。
書いて、比べて、直す。
思っていた以上に地道な作業だった。
だが、嫌いではない。
むしろ、少しずつ形が整っていくのが面白かった。
そして何より、これが将来自分の能力を作る手がかりになるかもしれないと思うと、自然と集中できた。
「レオン、ずいぶん集中しているわね」
「うん。こういうの、嫌いじゃないよ」
「それならよかったわ。技術を身につけるには、根気が必要だから」
ビスケは満足そうにうなずいた。
その後も、俺は基本的な文字の書き方や、念を込めるときの注意点を教わった。
ただし、今日の段階でできるのは、文字を正確に書き、わずかな念を込めるところまでだ。
神字を使って複雑な効果を生み出すには、まだまだ知識も経験も足りない。
それは、俺自身が一番よくわかっていた。
◇
数日後。
俺は、神字の練習を続けながら、あることを試していた。
紙に書いた文字へ、ごく少量のオーラを込める。
そして、どの程度のオーラを維持できるのかを確かめる。
ビスケから教わった範囲を超えないようにしながら、少しずつ試行錯誤していた。
今のところ、特別な効果は確認できていない。
だが、それでいい。
俺はまだ、神字を学び始めたばかりなのだから。
「……うーん」
紙を見つめながら、俺は考え込んだ。
将来的には、神字を利用して、マーキングの条件や仕組みを補助できないだろうか。
例えば、あらかじめ決めた場所に目印を残す。
その目印を、念によって識別できるようにする。
そして、目印を利用して移動する。
言葉にすれば簡単だが、実際には問題だらけだ。
そもそも、離れた場所にある目印をどうやって認識するのか。
移動先の位置をどうやって正確に把握するのか。
どれだけのオーラが必要なのか。
遠くへ移動するとき、どんな条件を設けるべきなのか。
考えれば考えるほど、課題が増えていく。
けれど、不思議と嫌な気分にはならなかった。
前世で憧れた技を、今度は自分の手で作り上げようとしている。
それだけで、胸が躍った。
「レオン、また難しい顔をしているわね」
顔を上げると、ビスケがこちらを見ていた。
「ちょっと考え事」
「神字のこと?」
「うん。どうすれば、もっと念をうまく使えるのかなって」
嘘ではない。
ただし、考えている内容のすべてを話しているわけでもない。
ビスケは俺の隣に座り、紙を一枚手に取った。
「考えることは大事よ。でも、頭の中だけで完成させようとしないこと。実際に試してみると、想像とは違う結果になることも多いんだから」
「そうだね」
「それに、今は基礎を学んでいる段階よ。できることを一つずつ増やしていけば、いずれ道が見えてくるわ」
彼女は紙を机に戻した。
「焦らないこと。これも修行のうちよ」
「……うん。ありがとう、お母さん」
俺は素直にうなずいた。
そうだ。
俺はまだ十歳。
今から完成形だけを追い求めても、うまくいくはずがない。
まずは神字を覚える。
念の制御を磨く。
そのうえで、少しずつ自分の能力に必要な仕組みを考えていけばいい。
◇
その日の夕方。
俺は修行を終え、家の庭で体をほぐしていた。
そこへ、買い物から戻ってきたビスケが声をかけてくる。
「レオン、明日は少し遠出するわよ」
「遠出?」
「ええ。神字に関する資料を見に行くの。あたしが持っているものだけじゃ、教えられることにも限りがあるからね」
「本当!?」
思わず声が弾んだ。
ビスケはくすくすと笑う。
「そんなに嬉しい?」
「うん! もっと知りたいから!」
「いい心がけね。でも、資料を読むのと、実際に使えるようになるのは別よ。そこは忘れないこと」
「わかってるよ、師匠!」
「よろしい!」
ビスケは満足そうにうなずいた。
俺は空を見上げた。
夕日が、森の向こうへ沈みかけている。
まだまだ知らないことが多い。
念についても、神字についても、この世界についても。
俺が知っているのは、前世で読んだ物語の一部にすぎない。
この世界は漫画のページの中ではない。
そこに生きる人たちには、それぞれの人生がある。
俺自身も、その一人だ。
だからこそ、知識だけに頼るつもりはない。
自分で学び、自分で考え、自分の手で力を身につける。
そしていつか――。
瞬時に戦場を駆け抜け、大切な人を守れる力を手に入れる。
そのための第一歩を、俺は今、踏み出していた。
四代目への憧れを、いつか自分だけの現実に変えるために