神字の勉強を始めて、数日が過ぎた。
朝はいつも通り身体を鍛え、母さんとの修行で念の基礎を磨く。午後は神字の資料を読み、覚えた文字を紙に書き写す。
そんな生活を繰り返していた。
「……うーん」
机に向かった俺は、目の前の紙を見つめながら唸った。
そこには、何度も練習した神字が並んでいる。
文字の形は少しずつ覚えられてきた。意味についても、基本的な部分なら理解できるようになっている。
けれど。
「やっぱり、これだけじゃ何も起きないか」
俺は紙の上に指を置いた。
念を込めてみる。
ほんのわずかにオーラを流し、神字を意識する。けれど、紙には何の変化もなかった。
当然といえば当然だ。
文字を覚えたからといって、すぐに念の力を引き出せるわけではない。母さんも、神字は念を補助するためのものだと言っていた。
大切なのは、文字の形だけじゃない。
その意味を理解し、念をどう扱い、どんな仕組みを作るのか。
結局、そこに行き着く。
「レオン。何をしているの?」
振り返ると、母さんが扉のところに立っていた。
「神字に念を込めてみたんだけど、何も起きなくてさ」
「ふふ。ずいぶん気が早いわね」
母さんは俺の隣に座り、紙を覗き込んだ。
「神字は便利な道具だけれど、書けば何でもできる魔法の文字じゃないの。どんな効果を持たせたいのか、そのためにどんな念を使うのか。そこを考えなくちゃ」
「効果……か」
「そう。あなたは、神字を使って何をしたいの?」
その問いに、俺は少しだけ言葉を詰まらせた。
何をしたいのか。
答えなら、ずっと前から決まっている。
「……もっと速く動けるようになりたい。それと、離れた場所にいる人のところへ、すぐに行けるようになりたい」
母さんはすぐには答えなかった。
俺の顔をじっと見て、それから柔らかく微笑んだ。
「あなたらしいわね」
「そうかな?」
「ええ。小さい頃から、誰かを助けることばかり考えているんだもの」
少し恥ずかしくなり、俺は頬をかいた。
「でも、どうやったらできるのかは、まだ全然わからないんだ」
「なら、まずは今できることを増やしましょう」
母さんは紙を片づけると、俺の手を取った。
「今日は神字の勉強はおしまい。修行場へ行くわよ」
「えっ、今から?」
「もちろん。念の修行も忘れちゃ駄目でしょう?」
……ですよね。
俺は苦笑しながら立ち上がった。
◇
修行場に着くと、母さんは俺から少し距離を取った。
「今日は放出系の練習をするわ。まずはオーラを身体から離してみて」
「身体から離す?」
「そう。ただし、無理に遠くへ飛ばそうとしないこと。最初は手のひらから少し離すだけでいいわ」
俺は右手を前に出し、ゆっくりとオーラを集めた。
纏で身体を覆うときとは違い、今回はそのオーラを自分の身体の外へ押し出すように意識する。
手のひらに集まったオーラが、指先からふわりと浮かび上がった。
だが、次の瞬間には形が崩れ、空気に溶けるように消えてしまった。
「うーん……」
「悪くないわ。もう一度」
俺は何度も繰り返した。
最初は一瞬で消えていたオーラも、少しずつ手のひらから離れた状態を保てるようになっていく。
けれど、距離を伸ばそうとすると急激に不安定になる。
逆に、安定させようとすれば、今度はほとんど動かせなくなる。
放出系の念能力者にとっては基礎的な練習なのだろう。
しかし、実際にやってみると簡単ではなかった。
「レオン。オーラを遠くへ飛ばすことだけを考えないで」
母さんが声をかける。
「念を身体から離した状態で、どれだけ安定させられるか。それを意識して。距離を伸ばすのは、そのあとよ」
「わかった」
俺は一度深呼吸し、意識を切り替えた。
遠くへ飛ばすのではなく、手のひらから離れたオーラを維持する。
力を入れすぎない。
かといって、弱めすぎない。
自分のオーラがどう動き、どこで不安定になるのかを感じ取る。
何度も失敗を繰り返すうち、ようやく小さな球状のオーラが、手のひらから数センチ離れた位置に留まった。
「……できた!」
思わず声が出た。
「ええ。よくできたわね」
母さんが嬉しそうに笑う。
その声を聞きながら、俺はオーラの球をじっと見つめた。
自分の身体から離れた念。
今は、ほんのわずかな距離でしか維持できない。
けれど、これをもっと遠くまで飛ばせるようになったら?
離れた場所でも維持できるようになったら?
そこに神字の仕組みを組み合わせれば、何か新しいことができるかもしれない。
――いや、まだ決めつけるのは早い。
今の俺にあるのは、ぼんやりとした可能性だけだ。
まずは、できることを一つずつ増やしていこう。
そう考えた瞬間、維持していたオーラの球が弾けて消えた。
「あっ……」
「集中が切れたわね」
「せっかくできたのに」
「だからこそ、何度も練習するのよ。できた一回と、いつでもできることは違うでしょう?」
母さんの言葉に、俺は素直に頷いた。
「うん。もう一回やるよ」
「その意気!」
◇
夕方、修行を終えて家に戻った俺は、再び机に向かった。
今度は神字を書き写すためではない。
紙の中央に、今日の修行で気づいたことを記していく。
念を身体から離すこと。離した念を維持すること。離れた場所まで念を届けること。
それぞれは似ているようで、きっと違う技術だ。
俺が望む力を実現するためには、どれも欠かせないのかもしれない。
そして、神字はその仕組みを補助するために使える可能性がある。
「……焦るな、俺」
小さく呟いて、鉛筆を置いた。
前世で知っていた物語の知識は、確かに俺の中にある。
けれど、知識があることと、それをこの世界で実現できることは別だ。
この世界には、この世界の理屈がある。
念の仕組みを理解し、自分の力で確かめていかなければならない。
いつか、誰よりも速く大切な人のもとへ駆けつけられるように。
そして、守りたいものを守り抜けるように。
俺は新しい紙を取り出し、もう一度、神字の練習を始めた。
今はまだ、文字の意味を覚えることしかできない。
念を離して維持することさえ、ようやく始めたばかりだ。
それでも、一歩は進んだ。
――焦らず、着実に。
俺の目指す力は、まだ形にならない。
だからこそ、今日も修行を続けるのだ。