「レオン。最近、神字の勉強に夢中なのはいいけれど、少し気になることがあるわ」
翌朝、修行場へ向かう途中で母さんが言った。
「気になること?」
「あなた、神字を使えば自分の望む能力が作れると思い始めていない?」
俺は思わず足を止めた。
……図星だった。
神字を知り、念と組み合わせる方法を考えるうちに、俺は少しずつ期待を膨らませていた。
もしかしたら、これを使えば。
もしかしたら、あれも実現できるかもしれない。
そんな考えばかりが頭を巡っていたのだ。
「……少しは思ってる」
正直に答えると、母さんは小さく息を吐いた。
「神字は、あくまでも念の働きを補助する技術よ。神字を使えば、本来できないことまで何でもできるようになるわけじゃないの」
「うん」
「あなたが目指しているのは、離れた場所へ瞬時に移動する能力だったわね?」
「そうだよ」
「なら、まず考えるべきなのは、どうやってそれを実現するか。神字は、そのために本当に必要なのか。ほかの方法では駄目なのか。そういうことも考えなくちゃ」
俺は黙って頷いた。
母さんの言う通りだ。
神字を使うことが目的になってはいけない。
俺が欲しいのは、神字を自在に扱う力ではなく、目標を実現するための能力なのだから。
「それにね、レオン」
母さんは少しだけ声を和らげた。
「あなたには、まだ時間があるわ。十歳になったばかりなのよ? 今から何もかも完成させようとしなくていいの」
「……わかってる」
「本当に?」
「本当だってば」
母さんはくすくすと笑った。
「なら、今日は神字の勉強をお休みしましょう」
「えっ!?」
思わず声が裏返った。
「どうして!?」
「どうしてって、あなたが神字のことばかり考えているからよ。今日は念の基礎を徹底的に鍛え直すわ」
……しまった。
完全に母さんの思惑通りだった。
◇
修行場に着くと、母さんは俺に向かって手を差し出した。
「まずは纏。いつも通り、全身にオーラをまとって」
俺はすぐに纏を発動させた。
身体の表面をオーラが覆う。
以前と比べれば、ずっと自然にできるようになっている。
「いいわね。じゃあ、その状態を維持したまま歩いて」
俺は歩き始めた。
「次は走って」
走る。
「片足で立って」
片足立ち。
「目を閉じて」
……なんだか、だんだん要求が増えていないだろうか。
それでも、言われた通りに続けた。
纏を維持するだけなら、今ではそれほど難しくない。けれど、別の動作に集中すると、オーラの状態が微妙に乱れる。
母さんは、そのわずかな変化も見逃さなかった。
「今、右肩のオーラが薄くなったわ」
「えっ、そこまでわかるの?」
「もちろん。自分のオーラを扱うなら、そのくらい意識できるようにならなくちゃ」
俺は思わず苦笑した。
母さんの要求水準は高い。
けれど、その指導のおかげで、俺の念の制御が急速に上達しているのも事実だった。
「次は練よ。オーラの量を増やして、そのまま維持してみなさい」
俺は全身からオーラを引き出した。
纏のときよりも濃いオーラが身体を包み込む。
「その状態で、さっきと同じ動作をするの」
「……全部?」
「もちろん!」
母さんは満面の笑みだった。
俺は天を仰いだ。
今日の修行は、長くなりそうだ。
◇
昼を過ぎた頃。
俺は地面に座り込み、荒い息を整えていた。
「はぁ……はぁ……」
疲れた。
本当に疲れた。
纏と練を維持しながら身体を動かすだけなのに、集中力を保ち続けるのは想像以上に難しい。
まして、母さんの要求は少しずつ厳しくなっていく。
「どう? 神字のことを考える余裕はあった?」
「……ないです」
「ふふっ。なら、今日の目的は達成ね」
母さんは楽しそうに笑った。
俺は抗議する気力もなく、差し出された水を飲んだ。
けれど、休みながら考えてみると、今日の修行には確かに意味があった。
念能力を作るとき、能力の仕組みばかりに意識を向けていた。
だが、実際に能力を使うのは自分自身だ。
戦いながら能力を発動することもあるだろうし、状況に応じて細かく制御する必要もある。
そのとき、基礎が不安定では話にならない。
「母さん」
「なあに?」
「念の基礎って、どこまで鍛えれば十分なのかな?」
母さんは少し考えてから答えた。
「十分、なんて基準はないわ。どれだけ強くなっても、磨ける部分は残るもの」
「じゃあ、ずっと鍛え続けるしかない?」
「そういうことね」
母さんは俺の隣に座った。
「ただし、基礎ばかりを続ければいいというわけでもないわ。基礎を鍛えながら、自分に何ができるのかを試していく。それが大切なの」
「……なるほど」
基礎と応用。
どちらか一方だけでは駄目なのだ。
俺はその言葉を心に刻んだ。
「それと、もうひとつ」
母さんが俺の顔を覗き込んだ。
「あなた、強くなりたい理由を忘れていない?」
「忘れてないよ」
俺はすぐに答えた。
「大切な人を守りたいからだよ」
母さんの表情が柔らかくなった。
「そう。なら、覚えておきなさい。強くなることそのものが目的になってしまったら、きっと大事なものを見失うわ」
俺は母さんの目を見つめた。
彼女がどんな思いでその言葉を口にしたのか、すべてを理解できたわけではない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。
母さんは俺を強くしたいだけではない。
俺が自分を見失わずに成長できるよう、ずっと見守ってくれているのだ。
「……うん。忘れないよ」
「よろしい!」
母さんは俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「さあ、休憩はおしまい。もうひと頑張りよ!」
「ええっ、まだやるの!?」
「もちろん!」
……やっぱり、母さんは容赦がなかった。
◇
その夜。
俺はベッドに横たわりながら、今日の修行を振り返っていた。
神字の勉強を休んだことで、かえって考えが整理された気がする。
俺が目指す能力には、まだ多くの課題がある。
念を離れた場所に維持すること。
目的地をどのように指定するのか。
移動を成立させるには、どんな条件が必要なのか。
神字がどこまで役立つのか。
どれも、答えは出ていない。
それでも、焦る必要はないのだろう。
母さんが教えてくれたように、基礎を磨きながら、少しずつ可能性を探っていけばいい。
俺は目を閉じた。
前世で憧れた四代目火影のような力。
それをこの世界で再現するのは、きっと簡単ではない。
だが、簡単ではないからこそ、挑戦する意味がある。
そして、俺にはこの世界で生きていくための時間と、支えてくれる家族がいる。
今はまだ十歳。
急ぐには早すぎる。
明日も修行をして、勉強をして、少しずつ成長していこう。
いつか、自分の目指す力を手に入れるその日まで。
――俺の修行は、まだ始まったばかりなのだから。