翌朝、僕は修行場に着くなり、ビスケに釘を刺された。
「レオン。昨日のことだけど、勝手に再現しようとしたら本気で怒るわよ」
「……まだ何もしてないよ?」
「その顔は、もう頭の中で何度も試してる顔よ」
「うっ」
さすがお母さん。鋭すぎる。
僕は観念して、両手を上げた。
「分かった。ちゃんと指示に従うよ」
「よろしい。じゃあ、今日は実験の準備から始めるわ」
ビスケは修行場の地面に、白い石でいくつか印をつけた。
僕が昨日までいた場所。木片を置いていた場所。そして、空間跳躍の後に僕が現れた場所。
それぞれの位置を記録し、距離を測る。
昨日の移動距離は、およそ十メートル。
移動先は、木片を置いていた場所とほぼ一致していた。
「まず確認することは三つ。ひとつ目、あなたが本当に移動したのか。ふたつ目、移動が何によって起きたのか。みっつ目、再現できるのか」
「うん」
「ただし、今日はあなた自身を移動させないわ」
「えっ?」
「当たり前でしょう。原因も分からない現象を、何度も自分の身体で試すなんて危険すぎるわ」
ビスケは僕の額を指でつついた。
「まずは、あなたが使ったオーラと木片の関係を調べる。移動が起きた条件を絞り込むのよ」
僕は少し残念に思いながらも、頷いた。
確かに、昨日の現象を再現できる保証はない。
それに、もし移動に失敗したらどうなるのかも分からない。
地面に埋まったり、身体の一部だけが移動したり……なんてことは、さすがに考えたくもない。
漫画ならともかく、現実に起きたら笑い事では済まない。
「じゃあ、最初は木片ね」
ビスケは木片を僕の前に置いた。
「昨日と同じようにオーラを残して。ただし、移動しようとは考えないこと。今日は感知だけに集中しなさい」
「分かった」
僕は木片に触れ、少量のオーラを流し込んだ。
そして、数メートル離れた場所に移動する。
目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませた。
――あった。
かすかな気配が、確かに感じられる。
「感じ取れるよ」
「じゃあ、次。木片にオーラを残さずに、同じように試してみて」
僕は頷き、今度は何もせずに同じ場所へ移動した。
目を閉じる。
感覚を探る。
当然ながら、さっきの気配はない。
「感じない」
「そう。では、木片にオーラを残した状態で、今度はその木片を別の場所に動かすわ」
ビスケが木片を持ち上げ、五メートルほど横にずらした。
「さあ、どう?」
僕は目を閉じたまま、意識を集中させた。
……分からない。
いや、正確には、気配は感じるのだが、それが木片の現在位置なのか、元の位置なのかが曖昧だった。
「気配はある。でも、どこにあるのか、はっきりしない」
「なるほどね」
ビスケは木片を元の位置へ戻した。
「今の結果だけでは、何も断定できないわ。でも、少なくともあなたは、残したオーラの存在を感じ取れている。そこは間違いなさそうね」
僕は木片を見つめた。
昨日、僕が移動したのは、木片のあった場所だった。
だが、木片そのものを目印にしていたのか。
そこに残したオーラを目印にしていたのか。
あるいは、移動先を決める別の仕組みが働いたのか。
まだ分からない。
けれど、ひとつずつ確かめていけば、いつか答えに近づけるはずだ。
◇
午前中の実験は、思った以上に地味だった。
木片に残すオーラの量を変える。
木片を移動させる。
僕と木片の距離を変える。
それぞれの条件で、感知のしやすさを記録する。
だが、昨日の空間跳躍は起きなかった。
何度試しても、僕はただ木片の気配を感じ取るだけだった。
「……駄目か」
僕は額の汗を拭った。
「何が駄目なの?」
「昨日と同じことをしてるつもりなのに、何も起きない」
「同じことをしているつもり、でしょう?」
ビスケの言葉に、僕は顔を上げた。
「念の修行では、自分が同じことをしていると思っていても、実際には細かな違いがあるものよ。オーラの量、集中の仕方、感情、呼吸……。昨日のあなたが何をしていたのか、全部正確に覚えている?」
「……いや」
「なら、再現できなくても不思議じゃないわ」
僕は唇を噛んだ。
そうだ。
昨日の僕は、何かにつながったような感覚に引っ張られた。
あの瞬間、意識していたことは覚えている。
けれど、オーラをどう動かしたのか、どんな順序で何をしたのか、細部までは覚えていない。
そもそも、意図的に起こした現象ですらなかった。
「レオン。ひとつ、覚えておきなさい」
ビスケは僕の前にしゃがみ、目線を合わせた。
「珍しい現象が起きたからといって、それを自分の実力だと思い込んでは駄目。でも、再現できないからといって、無意味だったと決めつける必要もないわ」
「……うん」
「昨日のことは、あなたが実際に経験した事実よ。今日の実験で分かったことも、同じように事実。両方を大切にしなさい」
僕はゆっくりと息を吐いた。
焦っていたのかもしれない。
四代目の術に近づけたかもしれない。
その期待が大きすぎて、すぐに同じことを起こしたいと思っていた。
でも、僕が欲しいのは、一度だけ起きる奇跡じゃない。
必要なときに、必要な場所へ移動できる能力だ。
なら、今やるべきことは明確だった。
「ありがとう、お母さん。もう少し、条件を整理してみる」
「ええ。そうしなさい」
ビスケは満足そうに笑った。
◇
昼食の後、僕は実験記録を広げた。
これまでの記録を読み返し、昨日の出来事と照らし合わせる。
昨日と今日の違いは何か。
まず、昨日は木片にオーラを残していた。
これは今日も同じだ。
昨日は木片の位置を強く意識していた。
これも、今日の実験で試した。
昨日は、何かにつながったような感覚があった。
しかし、今日はその感覚が一度も起きていない。
ならば、違いはそこにあるのだろうか。
僕は記録帳に書き込んだ。
「残留したオーラの感知」と「空間跳躍の発生」は、現時点では別の現象として扱う。
この二つが関係している可能性はある。
だが、関係があると証明できたわけではない。
僕はその下に、もうひとつ書き加えた。
「空間跳躍が起きた直前の感覚を、次回は可能な限り細かく記録する」
これなら、次に同じような現象が起きたとき、手掛かりを残せる。
もっとも、次があるかどうかも分からないのだが。
「よし……」
僕は記録帳を閉じた。
昨日は、何も分からないまま移動した。
今日は、移動を再現できなかった。
成果だけを見れば、あまり進展がなかったようにも思える。
けれど、昨日の現象をそのまま能力の完成だと考えるより、ずっと確かな一歩を踏み出せた気がした。
今の僕には、まだ空間を自由に移動する力はない。
あるのは、正体不明の現象を一度経験したという事実と、それを解き明かすための手掛かりだけだ。
それでも十分だった。
僕はもう、何もないところから能力を想像しているわけではないのだから。
◇
その日の夕方。
修行を終えた僕は、庭先でビスケと一緒にお茶を飲んでいた。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「僕、いつか本当に、自由に空間を移動できるようになると思う?」
ビスケはカップを置き、少しだけ考えた。
「可能性はあると思うわ」
「本当?」
「ええ。でも、必ずできるとは言わないわよ。念能力は、本人の資質や発想、修行の積み重ねによって変わるものだから」
彼女は僕の頭を優しく撫でた。
「ただ、あなたには考える力がある。それに、失敗したときに原因を探ろうとする姿勢もある。そういうものは、きっとあなたの助けになるわ」
僕は少し照れくさくなった。
「……ありがとう」
「ふふっ。どういたしまして」
しばらく、二人で夕日を眺めた。
温かな風が吹き、庭の木々が揺れる。
僕は、この時間が好きだった。
強くなりたい。
もっと多くのことを知りたい。
いつか、誰かを守れる力を手に入れたい。
その願いは、今も変わらない。
でも、強くなることだけが人生のすべてではない。
こうして大切な人と過ごせる時間も、同じくらい大事なのだ。
「レオン」
「ん?」
「今日はよく頑張ったわね」
ビスケが微笑んだ。
「明日も修行はあるけど、今夜はゆっくり休みなさい」
「うん!」
僕は笑顔で頷いた。
空間跳躍の謎は、まだ解けていない。
それでも、焦る必要はない。
いつか必ず、その仕組みを理解してみせる。
そして、あの瞬間を自分の意志で再現できるようにする。
それが、僕の次の目標だった。
◇
同じ夜。
遠く離れた心源流総本山では、ネテロが一通の報告に目を通していた。
ビスケから届いた、レオンの修行に関する簡単な手紙だった。
その中には、彼が一瞬で十メートルほど離れた場所へ移動したらしい、という内容が記されていた。
「ほう……?」
ネテロは、面白そうに目を細めた。
「まだ十歳じゃというのに、妙なことを始めおったな」
もちろん、手紙だけでは何が起きたのか分からない。
偶然なのか、念能力の片鱗なのか、それとも別の現象なのか。
ネテロにも判断はつかなかった。
だが、彼が興味を抱いたのは、移動そのものだけではなかった。
ビスケの手紙には、レオンがその現象を再現できず、原因を調べるために実験を続けていることも書かれていた。
「ふむ……。すぐに答えを求めず、まずは現象を見極めようとしておるか」
ネテロは手紙を机に置き、窓の外を見た。
あの少年は、強くなりたい理由を「大切な人を守るため」だと語った。
その気持ちは今も変わっていないのだろう。
そして、そのために自分なりの道を探している。
「さてさて……どこまで伸びるかのう」
ネテロは楽しそうに笑った。
今はまだ、手を出す必要はない。
レオンには、ビスケという優れた師がいる。
それに、彼自身が答えを探す時間も必要だ。
いつか、本人が壁にぶつかり、助言を求めてきたなら、そのときは力を貸してやればいい。
「楽しみにしておるぞ、レオン」
静かな夜の中、ネテロの笑い声が小さく響いた。
少年が初めて経験した、謎の空間跳躍。
それが何を意味するのか。
答えは、まだ誰にも分からなかった。